彼女を殺してしまいたくない。
結論から言えば、彼女のバグは修正されなかった。
その上で世界はループを続けた。
そして彼女も空しい奇行を続けた。
いつかこの世界が正常になると信じて。
彼女の8月も僕の現実も、いつも通り。世はこともなし。
僕のバグ報告に対しての会社からの返答はこうだ。
――とてもユニークなバグだね。今後の思考エンジンの研究に使えそうだ。そのテストプレイ環境はそのままにしてすべてを記録し、プレイ時間を倍速で経過させ、観察を続けてレポートしてくれ――
思わず、ウェアコンを腕から外して自室の壁に投げつけるところだった。
ここが自宅じゃなくてカリフォルニアの本社だったらこのメッセージを投げてきたやつを探しだし、社内の便所まで引きずり込んで思う存分殴り付けていただろう。
会社は彼女を研究対象のモルモットとして時の牢獄に閉じ込め続けることを決めた。
僕のSOSは無視された。最悪の形で。
彼女は狂ったまま、時間だけが加速した。
ゲームの制作チームから外された僕は狂った彼女を眺め続ける監視員になった。
その仕事が今までとどう違うのか僕にはわからない。
僕の罪も彼女の苦しみも消えない。今まで通りだ。
狂ってしまった、しかし本当の意味で正気を失うことはできない彼女はこの世界の真実に触れようと必死に奇行を繰り返す。
しかしその芽はすべて僕が摘んでしまっている。
彼女は僕のせいでまた無為な一ヶ月を繰り返す。
何度も。
何度も。
何度も。
おそらく彼女はもう、このゲームの中の誰よりも、下手をしたら開発チームの誰よりもこのゲームの世界について詳しくなっている。
それでも彼女が核心の部分に触れることはない。
彼女はこのゲームの多くのキャラクタと同じように無力で無知で、ただひとつ、ループに気が付いているという点においてだけ彼女は特別で……特別に、狂っている。
絶対に出られない、外界も見えない檻に入れられ、しかしここが檻の中だということだけ気が付いている。
狂って当然だ。
だけど彼女は決定的に狂うことができない。無駄に一ヶ月を浪費したという記憶だけが彼女の中に堆積していく。
彼女の8月はもうおそらく百回を超えて繰り返されている。
十年以上を彼女はこの無為な繰り返しの中で過ごしたのだと思い知る度、僕は自分を殴りたくなる。
その破壊衝動のまま、いっそこのゲームの世界をすべてぶち壊してしまうことこそが彼女への救いなのではないかと思いもする。
でも僕にはそのどちらも行動にうつす勇気はない。
この環境設定を一度すべてリセットすれば、彼女のバグも消えるかもしれない。
しかし、それは会社からの命令に反するし、何より……。
僕はそこでやっと自覚する。諦めて、認める。
僕はもう彼女のことをただのプログラムだと思えなくなっている。
僕は彼女を殺してしまいたくない。
それは矛盾した気持ちだった。
彼女を解放してやりたいと思ってはいるが、彼女の十年を無かったことにしたくはないと思っている。
彼女を元に戻してやりたいが、消してやりたいわけじゃない。
ただ救いたいんだ。
実際この世界を修正することは簡単で、一度すべてを終わらせてまた新しく最初からプログラムを起動させればいいだけなのはわかっている。だけどそれは彼女が十年間なんとかして正常に戻そうとした世界とは違う。
僕が救いたいのはこの世界と、この世界で抗い続ける彼女なんだ。
そんな僕の迷いとはもちろん関係なく、彼女は奇行……いや試行を続ける。
僕はただ見守ることしかできない。
この不完全な世界から完璧な世界の彼女を眺め続ける。
ゆるやかな絶望と、かすかな謝罪を繰り返しながら。
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