こんなところでリンゴのデッサンしています
机の上がまぶしい。
太陽のように暖かく輝くリンゴに、僕は心を吸い寄せられていた。
すかさずズボンのポケットに挿していたペンを取り出し、折りたたんでいた一枚の紙を開く。何か美しいものを見たら、描かずにはいられないのだ。
目の前で生命の神秘を熱く輝かせる果実が、今日のめぐり逢いだったのだ。
十字の折り目がついた紙に、早速リンゴの姿形を写し取っていく。
自然な丸み、所々に刻まれた点、何よりも果肉の中心から感じるイキイキとしたオーラ。
リンゴはその身を犠牲にしながら、人に食の喜びを分け与えようとしていたのか。
でもこんなしみったれた場所じゃ、食べられても喜べそうにないのが惜しいだろう。
だって僕が今デッサンしているこの場所は、ただの無機質な部屋の中。
自宅のリビングのような、どこか穏やかに感じられる雰囲気は、ここにはない。
ただそんなことはどうだっていい。リンゴよ、僕は君にめぐり逢えた奇跡への感謝を、この一枚の紙に示している。
ほら、こんなことを語っているうちに、デッサンができあがってきた。
堂々とした姿形だけではない、人生の光に潜んだ闇のように、リンゴの底から机にこぼれた影も、僕はありったけに描いていた。
さあリンゴよ。これが今の姿だ。
僕は惚れた果実に、デッサンを見せつけた。
「で、君は何してるんだ?」
突然僕を呼ぶ声が、リンゴとの一人と一個きりの時間を切り裂いた。声の主は、警察官だった。2人いる警察官のうちの一人である。
「野村、お前は本当に絵が好きなんだな。でも今はスーパーの仕事中だぞ」
僕の勤め先の先輩である野村さんが呆れたように言った。
「健一くん、アンタすごいわ。高校でも授業に集中しないで、黒板消しとか教科書とかノートの角っこにデッサンしてるとは聞いたけど」
僕のクラスメイトでスーパーの同僚だった里奈は、唖然とした表情だった。事務室にいたあと2人の女性の店員も、僕を見て言葉を失ったような感じでいた。
「あとそれ、何か分かってる?」
野村さんが意味深に僕に問いかける。
「リンゴですよね?」
「それだけじゃないよ」
野村さんは僕の意識の甘さを諭すトーンで言った。
「お前の目の前にいる女性が万引きしたリンゴだよ」
僕は思い出した。
ここはスーパーの事務室。僕の目の前では、金髪のギャル風だがどこかやつれた顔をした女性が、自らの罪を悔いていたのだ。
そんなことも知らずに、机に乗ったリンゴひとつだけに惚れて、僕は無我夢中でデッサンをしていた。
「もう分かっているよな。この店だけで4度目だ。今度という今度は、窃盗の罪で逮捕だから」
「すみません。もう勘弁してください」
「ダメだ。もう観念するんだ。自分は万引きがやめられないんだから、これ以上野放しにしたら迷惑になるだけ。話は署でしか聞かないから」
「ごめんなさい!もうしませんから!」
「ダメだ!」
二人の警察官は女性の両腕をつかみ、喧騒を立てながら事務室を出た。静けさが戻った部屋の中で、僕はリンゴに同情していた。悪い人にその果肉を捧げそうになっていたという事の重大さを知り、絵にしたことが申し訳なくなった。
だから僕は、デッサンをたたみ、事務室の角にあったゴミ箱に捨てた。
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