ストラックアウト-X
「お前、これはどういうことだ」
昇一は僕にシリアスな面持ちで詰め寄った。
彼のかたわらには、僕がそれまで借りていた自転車があった。
ただし、それまでの鮮やかなオレンジ色のパイプは、今や泥水にまみれている。
「ごめん、大通りを走っていたら、通りがかってきたトラックが思いっきり水たまりを跳ね上げてきたもんだから」
「だからこんなに汚れちまったのかよ」
「ごめん……」
空き地の前で、僕はただただ昇一に平謝りした。
「これ、1週間前に新発売されたお気に入りの品だぞ?」
昇一は怒りをこらえた様子で言った。
「いやいや、僕は悪くないよ。普通に丁寧に扱っていただけだよ。そしたらトラックが水たまりを跳ね飛ばしながら通ってきたんだ。想定外だよ想定外」
僕は戸惑いながら弁解した。
「汚したのは事実だろ。想定外もクソもあるか」
「いやいや、大体人に自転車貸すときは、ちょっとしたアクシデントの可能性も考慮するもんじゃないのか」
「ここまで汚れるなんてありえないから」
「だって昨日台風通ったんだよ?今日は晴れていても、所々に水たまりが残っていて、大きなトラックが歩道まで水を浴びせてくることぐらい、普通だろ」
「普通じゃないから。とりあえず自転車、弁償な?」
昇一が真顔で僕にお金を要求してきた。
「ちょっと待ってくれよ、お金ない」
「ダメ」
「マジでお金ないから」
「じゃあ、勝負に勝つことだな」
「勝負?」
「ストラックアウト」
昇一が間髪入れずにあのゲームの名前を口にした。
「まさか」
「縦横3枚ずつの番号札があって、遠くからボールを投げて打ち抜くゲームだ。単純に1枚でも多く抜いた奴の勝ち。負けたら罰ゲーム」
「うっ……」
昇一の一方的なゲームの提案に、僕は息を呑んだ。
「その勝負が嫌なら、今から消費者金融からお金を借りてでも弁償するんだな」
「16歳だから無理」
「じゃあを受けるか、ストラックアウト」
「……受けるよ」
「よーし、じゃあ明日11時に、またこの場所に来い」
昇一は一方的に約束を取りつけると、汚れまくった自転車を引きながら去っていった。
---
翌日。
午前10時55分に僕がグローブを手に空き地に来ると、中央の奥にストラックアウトのボードがある。番号は左上から右方向へ、1から9に書き分けられる形で、縦3列、横3列に収まっている。左のかたわらでは昇一が仁王立ちで待ち構えていた。さらに左隣にはボール用のバッグが置いてある。
「バックレないで来てくれたか」
「そりゃそうだよ。逃げたら16歳にして消費者金融のお世話だろ?」
「今からやるか?」
昇一は懐からスマートフォンをちらつかせる。
「20歳以上じゃないと申し込めないって」
僕は実際に消費者金融のサイトに書いてあるルールで突っぱねた。
「じゃあ、しょうがないね。『ストラックアウト-X』のルールを説明するか」
「ストラックアウト……エックス?」
謎の追加ワードに、僕は困惑した。
「これはただのストラックアウトじゃない。撃ちぬいた番号の裏を見るんだ。そこに書いてあるものには、絶対従わなければならない。無視したら反則負けだからな」
それを聞いた瞬間、何でもない番号の奥から、キナ臭い気配を感じた。
「じゃあ、自転車汚したお前が後攻だ」
昇一はそう告げると、バッグからボールを取り出してグローブで包みながら、トラ柄のバーの手前に立った。あのバーが番号札のボードとの規定距離を示している。どこから持ってきたのかと思ったら、空き地の隅っこにバー一本分の間隔でカラーコーンが2つ並んでいるのが見えた。昇一はあそこからバーを外してきたのか。
昇一はすでにボードを見据え、投球の構えに入りながら、僕に向かって手を押し出すサインで「下がれ」とアピールした。
僕は大人しく彼から離れる。
「ド真ん中の5番からブチ抜いてやるよ」
昇一はボードに向かって不敵に笑いながら、初級を投げた。
ボールは一直線にボードへ向かい、5番の札を情け容赦なく貫いた。
「よっしゃあ、いきなり成功!」
昇一は大げさに思えるほどにガッツポーズを決めた。
「たった一枚で何がそんなにうれしいんだ」
「5番の裏を見てみな」
昇一は余裕の態度で僕に促した。僕はおそるおそるボードの裏に行き、ボールのせいで軽くひしゃげた札の裏を確かめた。
「『泥の水たまりに背中から倒れろ』」
札の裏の手書きは、非情にもそう告げていた。
昇一の方を見ると、彼は無言で僕の背中越しの向こう側を指差した。
後ろの壁際では、確かに泥でできた水たまりがある。あの部分が地面が軽く沈み込んでいて、雨上がりのときも3日は乾ききらないことは、僕も分かっていた。
しかし、あそこに身を投じるときがくるなんて、夢に思ったこともない。
昇一がスマートフォンをちらつかせる。まさかサラ金に勝手に僕の名前で登録するわけじゃないだろうな。
得体の知れない圧力に押され、僕は水たまりの前に立ち、おそるおそる背中から倒れ込んだ。
当然だが服には容赦なく汚れきった水が染みこみ、僕の身を冷たく染めていく。服を通って入り込んでくる汚水の不快感といったらなかった。
僕はたまらず水たまりから飛び出し、汚れた背中を昇一に見せた。
「もうこれでいいだろ」
「じゃあ、次はお前の番だ」
苦役に挑んだ僕を褒める気配を見せず、彼はマウンドが離れた。
昇一のドライな態度にうんざりしながら、僕はボールを取り、マウンドに立った。
「えいや!」
僕は無我夢中で初級を投げた。ところがボールは外枠にはじかれた。残り8枚の札は、1枚もびくともしない。
「残念だったな、ヘボピッチャー。代われ」
昇一がいたずらな笑みで僕をあざけっていた。
「これでどうだ!」
昇一は魂のこもった声で2球目を放った。
1番と2番の間を貫いたボールは、2枚の札を一気に持ち去ってしまった。それを見た僕は、生きた心地がしなくなった。
「1番、10秒間ズボンを下ろせ」
外で受けるにはむごすぎる命令が、昇一の声で読み上げられた。
「2番、コマネチ10回」
つまり僕は、下着をさらしたまま、1秒に1回コマネチしなければならないっていうのが。
「どうする?やらなきゃ負けだよ」
僕は昇一からの圧力に押され、ズボンを下ろした。黒いボクサーパンツがあらわになる中、僕は1秒に1回のペースで、コマネチを繰り返した。
コマネチ中に失神するんじゃないかというぐらいの屈辱が、僕の精神を支配していた。その屈辱は、あわててズボンを直したあとも、しばらくは消えなかった。
ズボンを下ろしている間、誰も空き地の外を通りがかからなかったのが、不幸中の幸いだ。仮に僕の憧れであるクラスメートの美香ちゃんが通りがかろうものなら、僕の高校生活は粉々に砕けていただろう。
僕は屈辱にまみれた怒りを次の投球にこめ、ボードにぶつけた。
「よし、7番と8番の二枚抜きだ」
初めての成功で2得点をもらっただけでなく、昇一にダブルの罰を与えられることに心が踊った。
「7番……」
その裏には、何も書いていない。
「どうした、もしかして7番は白紙? じゃあ俺は何も罰を受けなくていいってことだな」
僕をあざけるような昇一の笑い声に憤りながら、僕は8番の札を拾った。
「これはどうだ。『好きな彼女に大声で仮想告白しろ!』」
僕がそう書かれた8番の裏を昇一に見せつけると、彼の表情から余裕が消えた。
「好きな、彼女?」
「ああ、好きな彼女に大声で仮装告白するんだ!」
昇一は苦虫を噛み潰したような表情になった。
「仕方ねえな」
昇一は、苦渋の決断を受け入れるように、顔を伏せた。
「美香、お前が好きだあああああああああああっ!」
昇一が叫んだ名前は、僕を唖然とさせた。
「ちょっと待て、お前も美香が好きなのか?」
「それどういう意味だ!?」
昇一も仰天した様子だった。
「おい、僕の美香には手を出すな」
「仕方ねえだろ、これは男の本能だ。じゃあ勝った方が美香を想う権利を手に入れられる。プラス自転車代、弁償な」
昇一が取りつくろったように、負けの代償を改めた。
「分かった。それじゃあゲームを」
「ねえ、もしかして私のこと好きと言った?」
空き地の外から女子の声が飛び込んできた。
まさか美香かと思い、あせって声のする方を振り向いた。しかし、そこにいたのは、僕が想っている人ではなかった。
僕らより1つか2つぐらい下っぽい姿は、ツインテールをしていて、ふくよかな体格をしていて、ほっそりとした目でこちらを見ていた。美香はこんな体格じゃない。目鼻立ちがきりりと整っていて、体格はほっそりとしている。
ふくよかな女子は昇一の目の前にズカズカ歩み寄った。
「私、妹なんだけど」
さらっと思いがけない事実を明かす女子に、僕は驚いた。
「違うよ、里香。僕が言ったのは美香のこと。君は『里香』だろ。らりるれろの『り』だろ」
昇一は混乱した様子で妹をなだめようとした。
「ていうかそもそもこんなところで何をやっているの?」
里香はそう言いながら、ストラックアウトのボードを見つけた。
「ああ、またストラックアウト-Xやってる。前これやって警察が来たのに」
どうやら僕は、とんでもないゲームに参加させられていたようだ。里香は何のためらいもなくボードの裏を覗き込んだ。
「うわ、4番の裏、まだこのままなの?」
「ああああああっ、里香。そこは見ちゃダメだよ」
「3カ月前に4番の罰を実行した相手は、自転車こいでたおまわりさんに見られて、警察署に連れて行かれたって聞いたけど」
「こら、14歳はそんなの見ちゃいけません!」
昇一は恥ずかしげな様子で里香に喝を入れた。
「3日前に15歳になったばかりよ。もう忘れたの? ついでにR-15のDVD、さっそくネットでレンタル注文したし」
「そういう問題じゃないんだって!」
「こんな警察が絡むような危ないゲームなんて、無効よ、無効! 早く片づけて!」
里香はただでさえ大きな頬をさらに膨らませながら兄に怒った。僕は兄妹のやり取りを、ただただ戸惑いながら見ていた。
「もしかして、今度はアンタがターゲットだったの?」
僕は無言でうなずく。
「すぐに逃げて。こんなゲーム、最後までやったらロクなことないんだから。特に4番の札をお兄ちゃんが撃ち抜いちゃう前にね」
僕は困惑しながらも、駆け足で空き地を去った。
意味不明極まりないひと夏の経験である。
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