背面防犯カメラ
「何でベスト着てるの?」
一階のダイニングに降りた僕の制服姿を見て、母が不思議そうに言った。
「だって、この背中だよ?」
「しょうがないじゃない。それがスパイの家族に生まれた運命なんだから」
母は僕を突っぱねながら、キッチンの調理器具を片づけはじめた。食卓には、ベーコンエッグとレタスのサラダを乗せた皿が二つ向かい合っている。
「父が所属する秘密組織の決まりでね、私たちは体の中にチップを埋め込まれているのよ」
「そのチップが気に入らないんだって!」
僕は不満を押し出すように、語気を強めると、ベストを脱いで背中を見せた。
「ほら、この背中には何が見える?」
ベストの下は白いYシャツである。しかしチップを埋め込まれると、素肌か白い服を着た状態では、ランダムで半径1km以内のどこかの風景が映る仕組みなのだ。
母が僕の背中に近づく。
「ああ、これアンタが通う高校の教室じゃない? 学校が始まる前の教室ってこんなに落ち着いた雰囲気なのね」
「感心してる場合じゃないから」
僕のツッコミを無視するように、母はキッチンのIHコンロの前へ戻っていく。白いTシャツの中は白黒の映像で、コンビニの女性店員がヒマそうにお客さんを待っている。40代くらいで、どこかふくよかな印象。子持ちのパート務めなのかもしれない。
母は自分が背中で見知らぬコンビニ店員を映しているとも知らず、黙々とフライパンを取って、流しで洗い始めた。
ステンレスのフライパンに水が叩きつけられる音を聞きながら、僕は諦めの境地でベストを着なおしつつ、食卓に座る。
「とりあえず、いただきます」
そう言ってベーコンにナイフを入れた。
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この時期の教室の中は、はっきり言って、暑い。何でウチの高校に限って、冷房がないんだ。学校側は予算をケチっているのか、それとも使いどころを間違えて冷房代を調達できないのか。
天井のド真ん中では、扇風機がエンドレスにゆっくりと首を回す運動をしつつ、羽をフルスピードで回している。でも僕は窓際の列の一番前だから、扇風機の風はあまりかかってこない。だから汗も容赦なくしたたり、ベストに染み込んで余分な重みとなり、僕を地味に苦しめる。
「市村、随分汗をかいているじゃないか」
日本史の谷崎先生が、僕の異常に気づいた。
「え? いや、そんなことないですよ」
「とりあえずそのベスト、脱げ。紺色だから暑さを吸い込んじゃっているだろ」
「黒よりはマシだと思います」
「関係ないだろ」
谷崎先生のツッコミに軽く刺激され、教室でクラスメートの何人かが失笑した。
「どうした? 倒れちゃうよ?」
「いや、本当にこのままで大丈夫ですって」
なぜ先生がここまで僕にしつこくベストを脱ぐように迫るのか、理解できなかった。
「脱いだら楽になるぞ。でも脱がなかったら、熱中症になるかもな。自分の命は自分で守らないと、あとで大変なことになったら、取り返しがつかないかもしれないし」
日本史の先生の冷たい目力に、僕は押されきっていた。本当に脱がないとこの状況を抜け出せない空気を察した僕は、汗が染みこんだベストに手をかけ、泣く泣く脱いだ。
「うわ、何か映ってるぞ」
僕の真後ろに座っていた兵頭栄太郎が、早速ワケアリの背中に食いついてきた。
「ウソ、マジかよ」
「何これ、ヤバくない?」
「超異次元なんだけど、これ何? 夢じゃないよね?」
僕の背中に落ちている真実をはっきり見ようと、クラスメートのほぼ全員が群がってきた。クラスメートの群れと窓に囲まれ、僕はいたたまれない気持ちになった。
「ほらほら、みんな席に戻った、戻った。とりあえず先生に見せてみなさい」
谷崎先生が生徒の群衆をかき分けつつ、僕の背中をチェックした。
「ちょっと待て、これは……」
僕の背後で、先生は引いているようだった。何か妙なものが映っているのか。
「おい、これ松永先生じゃね?」
兵頭くんがシリアスなトーンで言った。
「きゃああああああっ!」
「いやあああああ、キモおおおい!」
数名の女子たちが、僕の背中に映った松永先生らしき姿に、悲鳴を上げた。僕はますます何事かワケが分からなくなった。先生に命じられてベストを脱いだことが、事態を思わぬ方向へ動かしてしまったようだ。
「市村、その背中、巻き戻せるか?」
「あの、実は……」
僕は申し訳ない気持ちで答えようとした。
「どうした?」
「僕の背中の右側あたりに指をあてて、左側にすべらせたら、巻き戻ります」
先生は何も言葉を返さずに、僕の言ったとおりに指を動かした。
「やっぱり、女子の更衣室に段ボールを置いている。あの中にカメラがあるとしたら……!」
谷崎先生は突如僕の腕をつかみ、教室から連れ出した。先生は無我夢中で僕の腕を引きながら階段を駆け降りていく。
階段の踊り場を出ると、真っすぐに運動場へ飛び出した。谷崎先生と僕は、誰もいない砂地の運動場を突っ切りながら、向こう側にあるプールへ向かった。ちょうどこれから授業に入ると思われる女子たちの一群が、隣接する体育館に沿ってプールに近づいていた。
「マズい、間に合わないか!」
谷崎先生が焦りのあまり、ピンチを口にする。彼女たちの一部は、すでに緑色の金網でできた扉を開け、今にも更衣室に近づかんとしていた。
「おい、女子たち、待て!」
谷崎先生がフェンスの外から女子たちに叫んだ。
「更衣室に入るんじゃない、そこは危険だ!」
先生のただならぬ呼びかけに、女子たちがこちらを振り向く。見知らぬ女子達の視線を一身に受けて、僕は無駄に心臓の鼓動が早くなる感じがした。
「谷崎先生?」
「いきなりどうしたんですか?」
「とりあえず、みんなそこへ止まってろ。これは脅しじゃないからな。 おい、市村、背中を見せろ」
僕は言われるままに、彼女たちに背を向けた。
「何これ?」
女子たちが僕の背中に興味を示しながら、近づいてくる気配が分かる。
「ただ車がいっぱい通っているだけじゃない」
「これ学校近くの銀行通りじゃない?」
「違うんだ、これを見てくれ」
谷崎先生が、僕の背中に指をあて、右から左へ何度もスライドさせた。
「これだ」
僕の背後が静まり返る。そうかと思ったら、10秒ぐらいあとに、女子たちから血の気が引いたかのような悲鳴が沸き立った。
「何これ!」
「松崎先生、何してるの!」
「私たちの着替えをのぞこうとしてたの!?」
「いいから落ち着いてくれ。嫌な映像を見せて申し訳ないが、更衣室から段ボールを取り除かないといけない。その中にスマートフォンがあって、着替えている人を撮ろうとしていたんだ」
谷崎先生が申し訳なさそうな声で女子たちに説明した。
「市村、今だけはスマホを使っていい。ポケットにあるなら、119番だ」
僕はスマートフォンを取り出し、119番にかけた。
『はい、こちら警察ですが』
「すみません、東京都立高宮高校1年2組の市村なんですが、実はプールの更衣室で不審物を見つけてしまいまして……」
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「初めて見たよ。学校にパトロールカーが来るの」
昼食のサンドイッチをほおばりながら、兵頭くんが僕の後ろから話しかけてきた。
「松永先生、結局捕まったよ。あのスマートフォンにも、結局すでに女子たちの着替えの場面がたくさん収まっていた。今日、新しい映像を撮らせなかっただけでも御の字というべきなのか」
僕はこの高校の女子たちの無念を思いながら、事件のいきさつを語った。
「でもよかったじゃん。お前の防犯カメラみたいな背中、学校の平和を守る役に立ったんだから」
「本当?」
「だからもうそうやって、ベストで隠さなくていいんじゃない。学校でやましいことをしている人を、容赦なく映し出せるんだろ?」
「僕の背中はおもちゃじゃないぞ」
「分かってるよ。でも、今あらためて、お前の背中を見せてくれよ」
兵頭くんの要求にちょっとためらいながらも、僕はベストを脱いで白いシャツを見せた。
「何だこれ」
「つまんない映像だろ? 所詮防犯カメラだし」
「俺の芽衣ちゃん、何で兄貴と屋上で弁当食ってんだよ!」
兵頭くんは怒り心頭で教室を飛び出していった。僕の背中は再び一大事を暴き出したようだ。それにしても高3の兄に彼女を奪われるとは、泥沼じゃないか。
兵頭くんの無事を祈りつつ、僕は弁当からおはしでつかんだ塩むすびにかじりついた。
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