シジミを学校に持っていってはいけない理由

「あ~、やっぱり味噌汁はうまいわ。この優しいコクがたまんない」

「そう? いつもありがとうね」

 僕の味噌汁に対する心からの感想に、母はいつもの調子で喜んでくれた。だって僕は、朝の味噌汁が好きで仕方ない。


 味噌汁が好きすぎるあまり、僕は今日も汁がなくなった器からひとつのシジミを取り出し、中身をかじり取る。貝殻にわずかに残った汁を吸い取ると、今日の記念とばかりにポケットに収めた。味噌汁に入ったシジミは、僕にとってのお守りだからだ。今の高校に合格したときには、受験時にシジミを両サイドのポケットに一個ずつ入れて願掛けをした。


 それほどまでに僕はシジミの味噌汁に多大な信頼を寄せていたのだ。


「じゃあ、行ってくるね」

 僕はカバンを取り、母に出かけの挨拶をする。

「気をつけてよ」

 母もいつもの上機嫌な顔で僕を見送る。僕は玄関に並んだ革靴をサッと履きこなし、マンションの自宅を後にした。


---


 この日は入学してから二日目。高校に来た僕は、相変わらず見慣れない生徒たちが行き交う姿を気にしながら、教室へ続く階段を上がろうとした。

「ひゃっ!」

 僕は踊り場の陰から現れた女子と出会いがしらにぶつかりそうになり、腰を抜かして後ろに転んでしまった。


「アイタタタタタ……」


 僕は床に打ちつけた尻を押さえながら立ち上がると、同じく痛そうな素振りを見せる女子を気づかおうとした。

「すみません、大丈夫ですか?」

「ええ、私は、大丈夫だけど……」

 そう言う彼女の表情は全く安心していなかった。むしろ、床に落ちた何かを見て青ざめた様子だった。


「ちょっと待って、それってまさか……」

「ああ、これ?」

 僕はシジミが床に落ちていたことに気づき、拾った。

「ごめん、これ僕のお守りなんだ。落としたの教えてくれてありがとう」


「ありがとうなんかじゃないわよ。この学校のしきたりを分かってるの?」

 女子は相変わらず青ざめた様子で、僕を責める口ぶりをした。

「このシジミに何かある?」

「あるに決まってるでしょ」


 当然のように答える女子に、僕の胸はざわついた。


「この学校では、シジミはケガレの証拠。『砂落としの刑』として、処刑されるのよ!」

 僕は何のことかさっぱり分からなかった。

「違うよ。僕は味噌汁が好きだから、ついでに縁起物としてシジミを制服のポケットに入れていただけだって」

「学校で好ましくない印象を他の生徒に与えた人に、シジミが手渡されるの。一度シジミを持たされたら、そいつは処刑から免れられないのよ!」


 女子はいっそうパニックになった様子でまくし立てた。


「ケガレエエエエエエエエエエ!」


 女子はこの状況に耐えられないとばかりに絶叫した。突然の金切り声に僕は震え上がり、慌てて周囲を見渡した。


「えっ、どういうこと!?」

 廊下にいた生徒たちが取りつかれたような目で僕を睨んでいた。

「いやいやいやいや、もしかして本気で僕を襲う気!?マジで勘弁だから!」

 僕は上履きのまま、校舎を飛び出した。


 運動場の反対側にある校舎まで、僕は無我夢中で走った。しかし後ろから容赦なく、生徒の大群が襲ってくる。捕まったら殺される。僕の脳裏にはその一言が強烈によぎっていた。


 僕は一心不乱に体育館の裏扉を開き、とっさにカギを閉めた。入った先は舞台袖で、スポーツの試合で使うスコアボードやら、演劇部の衣装と思われるドレスをかけたマネキンやら、いろんなものが無造差に置かれていた。

 扉の外側で強烈な衝撃がぶつかってくるや否や、僕を追う群衆の激しい喧騒がうなる。舞台袖の雑多な光景を味わう余裕はない。僕は階段を駆け上がり、舞台へ飛び出した。

 舞台の上から見えたのは、バレーボールとバスケットボール部の朝練だった。


「すみません! ちょっといいですか!?」

 僕は部活中の生徒たちに大声で訴えかけた。

「助けてください! 何か生徒の対応に追われてるんですけど!」

 窮状を聞いた生徒たちが、何事かとお互いに確認する。


「追われてるって何なの?」

「何か悪いことしたんじゃないかな?」

「いや、ヤンキーに目をつけられただけかもな」


 運動部員たちが口々に僕の事態を推測しているようだ。僕は事情を明かすため、ポケットから再びシジミを取り出した。

「何か、これを見せたら、みんな怒り出したんだけど!」


「あれ、シジミじゃない?」

「おい、シジミはケガレの象徴だぞ!」

「よし、処刑タ~イム!」


「ええええええええええっ!!」

 バレーボール部とバスケットボール部の生徒たちが、一斉に舞台に踏み込んできた。気がつけば僕は舞台の壁際で、汗臭くなった生徒たちに囲まれてしまった。

 バスケットボール部の男子たちが、バレーボール部の女子たちをかき分けながら現れると、悪意に満ちた笑みを浮かべながら僕を捕まえてしまった。そのまま僕は神輿のように担がれる。


「はいはい、どいてね~」

「今からコイツをここから落としま~す!」

「やめて!ケガするから!」


 僕を担ぐ連中が人混みをかき分けると、再び体育館の全域が見えた。しかしもはやそこは、冥界への入り口のように感じた。

「何で? 何で? 何でシジミ一個持ってきただけでこんなことになるんだよ!」


「3、2……」

「カウントダウンしてる!? リアルにやめて! 僕は本気で、アサリの味噌汁が好きなだけ! このシジミはケガレの象徴じゃない! お守りなの!」

 しかし僕がこう訴えても、男子たちは下ろす気配さえ見せない。むしろ舞台上から落とす決心が、完璧に決まっているようだった。


「この学校にとってシジミにどんな悪い思い出があったのか知らないけど、僕はピュアに、純粋に、生まれたころからシジミの味噌汁が好きなだけですから~!」

 僕は叫びながらの、男子たちの手が舞台の外へ僕をはじき出すのを感じてしまった。下半身が強制的に跳ね上がり、振り子のように体が反転しながら、舞台の下へ真っ逆さまに落ちていく。


 僕、死んだんだ……。


 そう感じながら、雲のように柔らかな領域へ、全身がはまり込んでいくのを感じた。

「……痛い」

 自分でそう呟いたとき、僕は命を落とすどころか、ケガひとつさえしていないことに気づいた。僕を受け止めたのは天界の雲ではなく、ただのマットレスだった。いつの間にこんなものがあったんだ。


「大丈夫?」

「はい?」

 マットレスの外側に、一人の女子生徒が立っていた。制服を身にまとっていた彼女の髪は、センター分けながらも、先が首元のところできれいに外側に跳ねていた。ツンとした目や、うっすらとした唇、シャープに整った鼻。顔全体が神々しく整っていて、まるで聖人のようなオーラが僕に向いていた。


「毎日部活を頑張る生徒たちのために、我が父の会社の特製スポーツドリンクを差し入れようとしたら、こんな事態とめぐり逢うなんてね」

 神々しいオーラの女子は、取り乱す様子もなくそう語った。

「あの、誰ですか?」

 僕は圧倒的なオーラにどぎまぎしながら聞いた。


「医王寺さやか。この学校の生徒会長よ」

「えっ、えっ、せ、生徒会長?」

「そう」

 うろたえる僕と対照的に、さやかは威風堂々のたたずまいだった。彼女はマットレスにひざまずき、僕と目線を合わせる。


「あなた、シジミについて何と言っていたの? 喧騒でよく聞こえなかったから、もう一度教えてほしいな」

「僕、味噌汁がとても好きで、朝に願掛けとしていつも飲んでいるんです。そのあと、お守りにシジミをポケットに入れていました。幼稚園のころから、毎日欠かさずそれをやっています」


「……面白い」

「えっ?」

 さやかの謎のコメントに、僕は戸惑った。


「皆さん、結論は出ました。彼はケガレなんかではありません」

 さやかの言葉に、それまでいきり立っていた周囲が困惑に包まれた。

「静粛に」

 さやかが威厳に満ちた声で黙らせる。

「さあ、立ち上がりなさい」


 さやかが手を差し伸べる。僕はその強烈なオーラに操られるように、彼女の手を握り返してしまった。何とサラサラとした肌ざわりだろうか。僕は手をつないだだけで、彼女と永遠の契約を交わしてしまったみたいに感じる。


 僕が立ち上がると、彼女は控え目に僕に微笑んで見せる。

「あなたのシジミに対する愛情を、ここで示す勇気に、敬意を示します」

「はい」

 僕は何事かも分からないまま、返事をした。


「生徒会の書記担当に、この場で任命します」

 その瞬間、周囲がザワついた。それだけさやかの発言は、学内で凄まじい影響力があるのか。僕は完全に彼女のお気に入りになったのか。


「昼休みに生徒会室へ来てほしいから、お迎えに来てあげます。そのとき一緒にお昼にしましょう。まずは安全な場所まで私が連れていってあげます」

 僕はさやかに手を引かれ、体育館の出口へ向かっていく。周囲のうらやましがるような喧騒が、いつまでも飛び交っていた。


---


「こちらが生徒会室です」

 さやかが扉を開いて中に入り、部屋の奥へ手を差し向けて僕を案内した。

 その中では、他に5人の女子がいる。4台の長机が正方形に組まれていて、向こう側に3人、両側面に2人が座っていて、僕たちを待っている。彼女たちはみんなそれぞれ気品に満ちた美貌を誇っていた。


「さあ、一緒にお昼にしましょう。席はそちらです」

 さやかは扉を閉めながら宣言する。僕は戸惑いながら正面の右寄りの席に座った。少し間隔を空けた左側に彼女がつく。


「本日、新たに書記係となった長野文哉です」

「長野です、よろしくお願いします」

 僕は席から立ち上がると、全身で緊張を感じながら礼をした。

「じゃあ、座っていいわよ」

「はい」

 僕は慣れない空気を感じながら席につき直した。


「それじゃあ、お昼の会議前に、優雅なランチの時間としましょう。いただきます」

 さやかの上品な音頭に合わせて、一同が復唱する。彼女たちはそれぞれのランチバッグから、弁当箱と、スープポットらしきものを取り出した。どうしてここにいる女子たちが揃ってスープポットを準備しているのか、僕には分からない。僕のには、シジミの味噌汁が入っている。熱いままの中身をフーフーしながら、ちょっとだけ口をつけた。


 他の女子たちもスープポットのフタを開いてから、弁当にありついている。そんな中、僕から見て奥の左側にいた女子が、シジミより大きな貝の実にかじりついた。

「あの、それって何ですか?」

「アサリ」

 女子は即答した。


「私も持っているのよ、アサリの味噌汁」

「私はハマグリのお吸い物」

「そうそう、貝といえばしっかりとした大きさじゃなきゃ、食べづらいものね」

 口々に女子たちがハマグリトークに花を咲かせはじめた。


「やっぱりみんなそうなのね」

 さやかがすべて分かっているかのように言った。


「あの、皆さん、アサリとかハマグリで意気投合しすぎじゃないですか? 僕、これでも一応、シジミ派なんですけど」

「あなたがシジミを好きなのはよく分かったわ」

 さやかは何かを含んだかのようにつぶやくと、こちらを向いた。その表情は真顔だった。


「シジミって、小さいわよね?」

「はい」

 さやかの意味深な問いかけに、僕は戸惑っていた。

「この学校じゃ、男は人として立派であることが求められるの。アサリやハマグリ、ひいてはホタテのように」


「えっ?」

 彼女、何を言っているんだろう?


「あなたは男としてシジミなんですか?」

 僕は自分の下半身に一瞬目を向けると、疑うようにさやかを見つめなおした。彼女がからかうように微笑みながら言った。

「この学校でシジミがケガレの象徴である理由は、そのためよ」


 だからか。


 心の中で納得したとき、寒気がした。

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ショート×2集・午後4時10分、桃子がやってくるそうです STキャナル @stakarenga

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