死体たち
傷ついた
少年は死体になった。
少女は死体になった。
肺に疾患を抱え酸素ボンベを持って学校に通っていた少年は、授業中に黒板に書かれた数式を眺めながらノートに落書きをしている最中、自分の落書きのなかにも精妙で緻密な数式がいたるところに伏在しているような奇妙な感覚にとらえられた。啓示を受けたような情熱にかられてノートの余白を落書きで埋めつくした少年は、ふと我にかえり、その落書きが途端に無価値でくだらないものにしか思えなくなって舌打ちし、数日後の夜に感染症によって息絶えた。
少年は死体になった。
重度のゲーマーでありもはや廃人だと自虐的に
少女は死体になった。
野球の練習にひたすら自らの日々を捧げてきた少年は、生まれて初めて激烈な恋に囚われた。その相手が同性であったという事実をうまく受け入れられなかった少年は、胸の痛みにどう対処していいのかもわからず、支離滅裂な行動に出て恥をかき、深い自己嫌悪に苛まれた。帰属していた集団から疎まれ、焦がれる相手からも軽蔑されてしまったとすっかり信じこんだ少年は、衝動的に多量の殺虫剤を吸引し、胸をかきむしって息絶えた。
少年は死体になった。
受験が嫌でたまらずいっそのことドロップアウトして大道芸人にでもなろうかなどと本気で逡巡しながら塾帰りの夜道をとぼとぼ歩いていた少女は、街灯を見上げて立ち止まり、不意に泣きたくなるような切なさをおぼえた。群がる羽虫さえもがなんだか哀れに見えてきて、勉強っていったいなんのためにするんだろう、こんなにひいひい苦しみながら学んだところでなんになるんだろうと、泣き言を心中につぶやきながらまた歩き出し、背後からとつぜん駆け寄ってきた初老の男性に背中を刺された。声も出せずによろめいた少女は、狂気なのか性的渇望なのか憎悪なのかなんなのか、とにかくなにかに憑かれたとおぼしき初老の男性に組み敷かれ、駄目押しのように喉を刺されて息絶えた。
少女は死体になった。
気絶遊びと称する胸部を強く圧迫して意識を飛ばす遊戯に耽っていた少年は、なにもかもが面白くなかった。この世にはとてつもないバカしかいないし、親も教師も友達もみんなバカだし、学者も作家も起業家も政治家もおしなべてバカだし、自分もそれに輪をかけてバカだと、だれもかれもを軽蔑していた。友達の胸部を数人がかりで圧迫すると、失神した友達はアスファルトに鼻を思いきり打ちつけ、顔面が血まみれになって泡を吹いた。それを見て少年はげらげら笑った。こんなに笑ったのは久しぶりだと考えた。次は自分の番だと志願し、三人がかりで胸部を圧迫してもらった少年は、肋骨がへし折れるほどの衝撃を受けて、脳に送られる酸素が不足して息絶えた。
少年は死体になった。
醜貌恐怖と拒食症に眠れないほど悩まされていた少女は、ある夜に単純な解決策を見出だした。なんのことはない、肉体活動を止めればいいだけの話だった。そうと決まればやることは迅速にと、少女は湯船に浸かったまま手首を深々と切った。自傷行為としてならともかく、リストカットでは致命的な傷にいたるのは稀だと巷間ではささやかれているはずなのに、異様なまでに忍耐強く執念深かった少女は、自分の肉体への嫌悪感をバネにして、こよなくひたすらにとどまることなく自らを傷つけて息絶えた。
少女は死体になった。
バイトをクビになったばかりで落ち込んでいた少年は、自転車に乗って坂道を下りながら、なぜ自分はなにをするにもとろいのだろう、なにをやっても上手くいかないのだろうと自分自身に幻滅していた。周りからいつもワンテンポ遅れてしまい、決定的にずれてしまう。ガラスのコップに閉じ込められた虫のような気分だった。自分さえもが自分から遅れているような剥離感に悩まされていた少年は、ぼんやりしたまま一生を過ごす方法はないものかと夢みながら交差点に差し掛かり、飲酒運転の車に轢かれて自転車ごと吹き飛び、電柱に頭を砕かれて息絶えた。
少年は死体になった。
宗教にのめり込み自分の子どもにまでそれを押しつけようとする両親がなによりも嫌いだった少女は、集会への参加を拒否し、激しく罵り合い、物を投げつけ合い、その後の数日間は一言も両親と口をきかなかった。怒りがどうしても収まらず寝る間も惜しんで
少女は死体になった。
久しぶりのキャンプに目が冴えて眠れなかった少年は、テントの中で横になったまま、広大な宇宙に思いを馳せた。おおよそ百三十八億年も前にビッグバンと呼ばれる現象が起きて宇宙が誕生し、二兆にもおよぶと言われる銀河が徐々に形成され、そうして紆余曲折を経た二十一世紀初頭の太陽系第三惑星の七十七億人以上と推定される世界人口の内のひとりとして、自分が存在している。なんて不思議な世界だろう、と驚異の念に打たれた少年は、テントを飛び出し、川のせせらぎを聞きながら夜空を見上げ、星の輝きに魂を奪われて魅了され、茂みから現れた熊に襲われて息絶えた。
少年は死体になった。
失恋のショックと痛みで少しばかり頭がおかしくなっていた少女は、風雨の乱れ狂う悪天候にも関わらず、着衣のまま海に浸かっていた。波に呑まれて消えたいと思いはしたが、どこまで本気なのか自分でもわからなかった。ほとんど泳げない少女にとって海は恐怖の対象であったが、なにもかもどうでもいい状態になってみると、怖いものもそれほど怖くなくなるような気がした。恐怖を乗り越えたような心境に至ってぼんやり記憶を遡ってみると、喪失も喪失ではないように思えてきて、ついでに自分のいまの姿も笑えてきた。憂鬱と憔悴と自己陶酔から醒めた少女は、荒れる海辺から立ち去ろうとして、落雷に打たれて息絶えた。
少女は死体になった。
修学旅行のバスに乗った前途洋々たる少年少女たちは、ある者はこころを躍らせ、ある者はこころを痛めていた。ある者はこころを浮わつかせ、ある者はこころを沈めていた。ある者はこころを
少年少女たちは死体になった。
「あ、め、あ、め、やん、じゃっ、た――もおーっ、と、もおーっ、と、ふってこい……もおーっ、と、もおーっ、と、ふってこい……」
いずれ溺れて死ぬ少年は、こころの赴くままに、そんな雨乞いの歌を口ずさんだ。
この世のいたるところに死が雨のように降りそそいでいたとしても、ひとりの人間が一生のうちに出会う死はわずかなものだ。いずれ溺れて死ぬ少年も、人間の死に触れたことはなかった。初めて出会う死が、自分の死だった。
「もぉーっ、と、もぉーっ、と、ふってこい……もぉーっ、と、もぉーっ、と、ふってこい……」
「降らなくていいよ、もう」
いずれ溺れて死ぬ少年の兄は、後ろについて歩きながら、弟の雨乞いに水を差した。
「もぉーっ、と、もぉーっ、と、ふってこい……もぉーっ、と、もぉーっ、と、ふってこい……」
いずれ溺れて死ぬ少年は、聞いていなかった。雨の途切れた帰り道、鏡のような水たまりの点在する路上を、踊るようにゆらゆら歩いて、焦がれるように灰色の空を見上げていた。トーテムポールのように天をさしてそそり立つ電柱。
「ずうっと、雨が降っていたらいいのに。ずうっと、雨が止まなかったらいいのに」
いずれ溺れて死ぬ少年は、そんな願いを口にした。雨が降ってさえいるならば、自分は幸福だとでも言うように。
「そんなの最悪だ。ダムは決壊するし、川は氾濫するし、農作物は台無しだし、花は枯れ放題だ。世界の終わりだよ、そんなの」
いずれ溺れて死ぬ少年の兄は、どうせ聞いていないだろうと思いながら、弟の願望を生真面目に否定した。
いずれ溺れて死ぬ少年は、その言葉を耳にして笑った。
「あの絵本みたいだね。
「洪水で皆殺しにされる話か? あんなの最低だ。クソみたいな人間のつくった、クソみたいなおとぎ話だ。なんで、舟に乗れなかっただけで、死ななくちゃならないんだ。なんで、選ばれなかっただけで、死ななくちゃならないんだ」
「兄ちゃん、なに怒ってんの?」
「むかつくからだよ」
いずれ溺れて死ぬ少年の兄は、やりきれない怒りを抱えたまま歩いていた。きょうも学校は痛みの巣だった。揉め事を起こしたばかりだった。
おまえとおまえの弟には、
「あいつらが死ねばいいんだ」
いずれ溺れて死ぬ少年の兄は、うつむいて歩きながら、ぼそりと呟いた。
「あいつらが」
伏せた顔が、水たまりに映る。ひどい顔つきだった。暗く、歪んで、みじめだった。どうしようもなく虚しくて、どうしようもなく哀しかった。
「兄ちゃん、泣いてるの?」
いずれ溺れて死ぬ少年は、兄を振り返ってそう訊ねた。
「泣いてないよ」
いずれ溺れて死ぬ少年の兄は、弟と目を合わせずにそう答えた。
二人はしばらくのあいだ、黙ったまま歩いた。空気が濡れていて、空の灰色が
「兄ちゃん、お墓をつくった鳥のこと、おぼえてる?」
いずれ溺れて死ぬ少年は、急に思い出したように、そんなことを訊ねた。
「おぼえてるよ」
いずれ溺れて死ぬ少年の兄は、ふと懐かしむように、そう答えた。
「あの
「カラスと、ハトだろ」
「あの鳥たちって、どうなったのかな? 窓から放されて、結局、いなくなっちゃったけど。あの鳥たち、どこへ行ったんだろう?」
「さあ。でも、死んだんだろ。どこに行こうが、死ぬものは死ぬんだから。それだけだよ」
いずれ溺れて死ぬ少年の兄は、ひどく投げやりにそう断じた。いずれ溺れて死ぬ少年は、なおも不思議がるように、宙を見つめた。
「あのお墓に埋めた鳥、なんの鳥だったんだろう」
「さあ」
「カラスか、ハトだったのかな?」
「違うだろ、たぶん」
いずれ溺れて死ぬ少年と、いずれ溺れて死ぬ少年の兄は、鳥の記憶を語りながら、水に浸された帰り道を歩いた。次から次へと疑問を口にするその姿は、それ自体が、さえずる鳥のようでもあった。会話のほとんどは、記憶にも残らない、無内容なやりとりだった。時が経ってしまえば、思い出すことさえ困難だろう。それでも、言葉を交わし、なにかを伝えあうという行為は、それ自体が、記憶に値する音楽だった。いずれ溺れて死ぬ少年と、いずれ溺れて死ぬ少年の兄は、どれだけの日々を一緒に歩き、どれだけの言葉を交わしたことだろう。やがて記憶が死に呑み込まれても、その語らいは、どこかに残りつづけているのだろうか。言葉が意味を失い、音が地上から
「兄ちゃん、猫だ!」
いずれ溺れて死ぬ少年は、帰り道の途上で、そんな喜びの声をあげた。
ステージに立つ歌手のように、マンホールの上に猫がふんぞり返っていた。二人が近づいても、逃げもせずに佇んでいた。
「怖くないのかな?」
「人に慣れてるみたいだ。もしかして、飼い猫とかなのかな。まあ、わかんないけど」
いずれ溺れて死ぬ少年は、慎重に猫の背中を撫でてみた。猫は嫌がりもせず、悠々と尻尾を揺らしていた。いずれ溺れて死ぬ少年は、猫の温もりを手に感じているだけで、幸せな気分になれた。雨の途切れた灰色の空の下、人を怖れない猫と触れあう。悪くないひとときだった。他にはなにも望まないような、かけがえのない午後の帰り道。
「兄ちゃん、生まれ変わったら何になりたい?」
「生まれ変わりなんて、ない」
「もしもの話」
「そんなのは死んでから考えるよ」
いずれ溺れて死ぬ少年の兄は、ぽつりと
「ぼくは、猫になりたいな」
いずれ溺れて死ぬ少年は、永遠に死体にならないような屈託のない明るさで、雨の予感と猫の感触に守られながら、痛みも涙も忘れながら、すでに葬られた後のように、死後の夢をみているように笑った。
死体になれなかった少年少女たち koumoto @koumoto
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