ミュージック

 ストーン・ローゼズの「アイ・アム・ザ・レザレクション」を思い浮かべながら、「彼は死人のうちよりよみがへりたまへり」という言葉を思い浮かべながら、私は二度寝から目覚め、寝床から這い出した。

 私は朝に弱い。眠気がまだ尾をひいていた。眼鏡をかける。靄のかかったような世界に、くっきりとした線がひかれ、輪郭が舞い戻る。私にとっては音楽と聖書も、眼鏡のようなものだった。世界を眺めるための窓。あるいは、記憶を眺めるための窓。

 身支度を整え、朝食を済まして、位牌を一瞥して、私は家を出た。空は創られたばかりのように青く晴れ晴れ。チチチ、チチチ、と木の間で鳥が鳴いていた。

 ビートルズの「アンド・ユア・バード・キャン・シング」を思い浮かべながら、「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ」という言葉を思い浮かべながら、私は生まれたときの空と死ぬときの空と、その空に遊ぶ鳥たちを想像しながら歩いた。

 学び舎は、きょうも変わらず蟻の巣のような賑わい。人、人、人。それらうら若き個人個人のすべてに、刺すような懊悩と痛みが巣くっているのかと思うと、眩暈がしそうで泣きたくなる。

 ドアーズの「ピープル・アー・ストレンジ」を思い浮かべながら、「そのみおもひの総計すべくくりはいかに多きかな、われこれをかぞへんとすれどもそのかずはすなよりもおほし」という言葉を思い浮かべながら、私は登校する学徒たちに混じって、自らの教室へ赴いた。

 席に座り、勉学に励む。あまり興味を惹かれない授業になると、私はカンニングを試みる悪童のような姿勢で、こそこそと聖書を読んだ。

 シェリル・クロウの「オール・アイ・ワナ・ドゥ」を思い浮かべながら、「すべて汝の手にふることは力をつくしてこれを為せ」という言葉を思い浮かべながら、私は何度も読んだ聖書のページに目を走らせて、喜びと眠気に包まれた。

「消しゴム貸してくれない?」

 私の前に座る女生徒が、こちらを振り返ってそう囁いた。

 彼女は以前、痴漢相手にちょっとした傷害騒ぎを起こしたことがあるそうで、それが原因なのか、それと関わりなくなのか、周りから少し浮いているような、距離を置かれているような、孤絶した雰囲気をまとっていた。とはいえ、人のことは言えない。私なんか、特に何らの騒ぎも起こしていないのに、いつでもどこでも浮いている。

 ブリーダーズの「ディヴァイン・ハンマー」を思い浮かべながら、「幸福さいはひなるかな、義に飢ゑ渇く者」という言葉を思い浮かべながら、私は彼女に消しゴムを渡して、自分の為すべき読書に戻った。

 授業もすべて終わり、放課後になった。まだ、夕暮れのまったき光は訪れない。淡い祝福は顕現していない。それでも、御手みてをかすめるような黄昏の予感は空気に満ちて、風はれを呼んでいた。日は遠からず没しようとしている。一日は老残の後半生に差し掛かろうとしている。

 ブライアン・イーノの「オールウェイズ・リターニング」を思い浮かべながら、「狐は穴あり空の鳥はねぐらあり、れど人の子は枕する所なし」という言葉を思い浮かべながら、私は待ち人でもいるかのように頬杖をついて、各々のねぐらに帰る人々をぼんやりと眺めた。

 教室から人気ひとけが薄れていく。喧噪は遠のき、がらんどうのような静けさが放課後の学舎に残響する。寂寥の気配に耳鳴りがした。私も、ずれた眼鏡をなおして、諦めるようにやがて外へ出た。

 バスに乗った。座席に座って、揺られながら、聖書を開く。熱心に読むつもりはなく、ただ漫然と言葉に触れていたいだけだった。それでも、乗り降りする乗客は視界に入る。だれもが疲弊しているように見えた。これは気のせいなのだろうか。だれもがなにかに疲れているような。それは自身を投影しているだけなのか。

 クイーンの「アンダー・プレッシャー」を思い浮かべながら、「わがくびきやすく、わが荷はかろければなり」という言葉を思い浮かべながら、私は車窓を流れていく景色に、聖句よりも慕わしいなにかを見つけ出そうとしてついに得られなかった。

 バスを降りて、私は図書館に向かった。歩く。私なりのリズムで。私なりの歩幅で。あぶくのような記憶を引き連れながら。

 図書館の扉を開けて、静けさに踏み入る。天使も踏み入るのをおそれるような静寂。知が並んでいた。言葉が眠っていた。とっくに死体になった人たちが、生きているあいだに書き遺した想い。もしも死後の世界があるならば、それは図書館に似ているのではないかと、私はつねづね願望していた。もっとも、それは私のわがままだ。死者のすべてが静けさを好むとはかぎらない。私の生まれなかった弟も。もしも死後の世界があるならば。私の生まれなかった弟の魂。

 ジョイ・ディヴィジョンの「デッド・ソウルズ」を思い浮かべながら、「死にたるにあらず、ねたるなり」という言葉を思い浮かべながら、私は吉本隆明の『マチウ書試論』、シモーヌ・ヴェイユの『神を待ちのぞむ』、それに『エックハルト説教集』の三冊を借りた。

 閉館の時刻が来るまで、私は座って本を読んだ。借りた本ではなく、なじみの聖書を開いて、時たまページをめくりながら、うつらうつらと舟を漕いだ。微睡まどろみのあいだに夢をみた。羊を追いかけているうちに夜が来て、迷子になってふて寝する夢。目が覚めた。鞄に本を入れた。立ち上がった。扉を開けて、外に出た。地上の天国の欠点は、閉館時間があるところだった。時が来れば、だれもが追放されてしまう。

 夕暮れだった。夜はまだ来ていなかった。空はまだ淡く輝いていた。なによりも優しく幽かな光。いつか死ぬなら、夕暮れに死にたかった。影さえも許されるような祈りの刻限に。

 ニュー・オーダーの「ブルー・マンデー」を思い浮かべながら、「わが心いたくうれひて死ぬるばかりなり」という言葉を思い浮かべながら、私は憂鬱に苛まれるように、目的のない歩行を続けていた。

 家に帰りたくなかった。そのねぐらには痛みが潜んでいた。命日が近い。母は不安定だった。父は侘しそうだった。私は夢のなかでも迷子で、目覚めてからも迷子のようだった。

 ボブ・ディランの「ジョーカーマン」を思い浮かべながら、「祈らんとてひそかに山に登り、ゆふべになりてひとりそこにゐたまふ」という言葉を思い浮かべながら、私はバカと煙は高いところへ上るとでもいうかのように、気がつけば山に登っていた。

 幼いころに、遠足で登ったことのある山だ。それほど大きな山ではない。幼なじみも一緒に登った。その頃はまだ、彼女も眼が見えていた。その頃はまだ、彼女も晴眼者だった。絵を描くことがなによりも好きだった、いたいけな私の幼なじみ。絵を描くことができなくなった、盲目の私の幼なじみ。

 ピンク・フロイドの「ウィッシュ・ユー・ワー・ヒア」を思い浮かべながら、「我なんぢの涙をおぼえ、わが歓喜よろこびの満ちん為に汝を見んことを欲す」という言葉を思い浮かべながら、私はいまも幼なじみと一緒に歩いているような心持ちで、薄明の山道を慎重に登った。

 何をやっているのやら、と私は自分に心底あきれていた。発作的に暗がりの山道を登っていく女学生。滑稽だ。不気味ですらあるだろう。私は自分が不気味だった。生きている事実が不気味だった。私が生まれたという事実。私の弟が生まれなかったという現実。

 ジョニー・マンデルの「スーサイド・イズ・ペインレス」を思い浮かべながら、「その人は生まれざりしかたよかりしものを」という言葉を思い浮かべながら、私は生まれることの善し悪しを、自らに問いかけながら歩いた。

 死産だった。弟は生まれなかった。生まれたときは死体だった。お腹のなかで死んでいた。生まれなかった弟の魂。生まれてしまった私の魂。私に魂と呼べるものはあるのか? 弟に魂と呼べるものはあったのか? それならば弟の魂はどこへいったのか?

 プリンスの「アイ・ウィッシュ・ユー・ヘブン」を思い浮かべながら、「汝らつつしみてちひさき者の一人をも侮るな」という言葉を思い浮かべながら、私は生まれなかった弟を忘れずにいられるように、かぼそく願いながら歩いた。

 家族がもうひとり増えるのよ、と母は言った。そのときは妹なのか弟なのかはわからなかった。わかったのは後々のことだ。弟は死体として生まれて、荼毘だびに付された。弟の小さな骨はほろほろと崩れて、火葬の後に遺骨は残らなかった。母の浮かべたからっぽな表情が、忘れられない。

 オインゴ・ボインゴの「ノー・ワン・リブズ・フォーエヴァー」を思い浮かべながら、「最終いやはての敵なる死もまたほろぼされん」という言葉を思い浮かべながら、私はなぜ人間は死ぬのだろうと、不思議に思いながら歩いた。

 弟は生まれなかった。弟は死んで生まれた。私は生まれた。私は死なずに生まれた。なぜだろう。

 それは運命なのだろうか。無意味な偶然なのだろうか。どちらにしても、許せない気がする。弟が生まれなかったことに意味はあるのか? 私が生まれたことに意味はあるのか? 意味とはなんだろう。どんな理由づけをされたところで、私は納得できないだろう。でも、私はたしかに、なんらかの意味を求めていた。

 絵の好きだった幼なじみは、視力を失った。絵を描くことが生き甲斐だった彼女は、光を失った。絵に興味のない私は、視力を失っていない。音楽さえ聴ければどうでもいい私は、光を失っていない。なぜだろう。

 ニルヴァーナの「オール・アポロジーズ」を思い浮かべながら、「なにとて我ははらよりしにいでざりしや、なにとてはらよりいでし時に気息いきたえざりしや」という言葉を思い浮かべながら、私は薄闇に目を凝らして、山道を転ばないように歩いた。

 私は別に利他的な人間ではないし、善良な人間でもない。ただ、時々ふと思うのだ。弟ではなく私が死ねばよかったのに、とか。幼なじみではなく私が視力を失えばよかったのに、とか。その発想はどこか病んでいるし、傲慢な考えでもあるのだろう。それは代われるという事柄ではないし、死と失明は並べるべきものでもない。ただ、気がつくとそう思っているのだ。それはたぶん、私が生きることをうまく愛せないからだろう。

 スウェードの「トラッシュ」を思い浮かべながら、「汝はちりなればちりに帰るべきなり」という言葉を思い浮かべながら、私はなぜ生きなければならないのだろうと、自らに問いかけながら歩いた。

 いつか死体になることはわかっている。だれもが死ぬ。生まれたかぎりは、死ななければならない。そして生きた痕跡も、いずれは消える。唯物的な結果だけを見るならば、生きることに意味はない。だから、過程が問題なのだ。音楽は必ず終わりを迎え、あとには静寂しか残らないが、それでも人は歌を歌う。なぜだろう。

 ビョークの「ペイガン・ポエトリー」を思い浮かべながら、「異言いげんを語る者は自らき得んことをも祈るべし」という言葉を思い浮かべながら、私は音楽がなぜこころを動かすのか、解き明かした者はいるのだろうかと考えながら歩いた。

 私は音楽を愛するようには、生きることを愛せない。生きていなければ、音楽に触れることもできないのだから、これは矛盾ともいえる話だった。それでも、それが正直な実感だ。私は音楽を素晴らしいと思うようには、生きることを素晴らしいとは思えない。生きることには毒がある。音楽だって、必ずしも無毒ではない。虐殺を目的とした収容所では、美しい音楽が奏でられていたという。その音楽は、犠牲者の魂をどんなに引き裂いたことだろう。それでも私は、音楽に触れることでしか、生きる痛みに堪えられなかった。

 マーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイン・オン」を思い浮かべながら、「しへたげらるる者の涙ながるこれを慰むる者あらざるなり」という言葉を思い浮かべながら、私はなぜこんなにも生きることは痛いのだろう、なぜこんなにも世界は痛みに満ちているのだろうと疑問に思いながら歩いた。

 私は眼の見えない幼なじみを憐れんでいるのだろうか。そして憐れみは、侮辱なのだろうか。晴眼者の見下すような感傷。他人の幸不幸を決めつける権利などだれにもない。私は彼女を侮辱したくはないし、見下したくもなかった。だからといって、彼女の抱えた痛みを無視することもできなかった。痛み。生まれてしまった痛み。生まれなかった痛み。なぜ人間は痛まなければならないのだろう。

 デヴィッド・ボウイの「ジョン、アイム・オンリー・ダンシング」を思い浮かべながら、「は胎内にておどれり」という言葉を思い浮かべながら、私は音楽を聴いていた母の記憶をなぞり、痛みを悼むように山道を登った。

 胎教なのだと、母は言った。これから生まれる赤ちゃんに、音楽を聴かせているのだと。父も隣でにこにこ笑っていた。クラシックだった。モーツァルトだった。生まれることが怖くないように、楽しい音楽を聴かせているのだと。私はなんだかバカみたいだと思った。お腹のなかの子に、音楽なんてわからないだろうと思った。いつかその子が大きくなったら、音楽をおぼえているかと訊ねて、笑い話にしてやろうと思っていた。

 生まれなかった弟に、音楽は伝わっていたのだろうか。生まれずに死んだ弟の魂は、音楽をおぼえているだろうか。生まれなかった弟が生まれていたら、どんな歌を歌い、どんな鼓動を奏でていたのだろうか。生まれなかった音楽。永遠に失われてしまった音楽。

 スマッシング・パンプキンズの「ルナ」を思い浮かべながら、「夜は月なんぢをうたじ」という言葉を思い浮かべながら、私は山頂の開けた場所にたどりついて、すっかり暗くなった空の月を眺めた。

 夜の山頂にはだれもいなかった。寂しく、静かで、街は遠く、空は近かった。私はそこにあるベンチに腰を下ろし、ぼんやりと月を見上げながら、祈るように悼むように、記憶をなおもついばんでいた。

 キング・クリムゾンの「スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー」を思い浮かべながら、「げに信仰と希望のぞみと愛との三つの者は限りなくのこらん」という言葉を思い浮かべながら、私は自分を生きさせているのは、音楽と言葉と記憶ではないかと考えた。

 チェット・ベイカーの「ユー・ドント・ノウ・ホワット・イズ・ラブ」を思い浮かべながら、「愛のおのづからおこるときまでは殊更に喚起よびおこし且つさますなかれ」という言葉を思い浮かべながら、私は愛とは何なのか、よくわからないと考えた。

 ベックの「イッツ・オール・イン・ユア・マインド」を思い浮かべながら、「求めよ、らば与へられん」という言葉を思い浮かべながら、私は信仰とは何なのか、よくわからないと考えた。

 月は、闇夜にひっそりと輝いていた。希望のような、柔らかで優しくほのかな光。私は隣に幼なじみがいないことを残念に思い、彼女と同じ光を見られないことを残念に思った。生まれなかった弟も。生まれなかった弟は、光を見なかった。生まれなかった弟の魂は、光に触れられたのだろうか。

 ビーチ・ボーイズの「ゴッド・オンリー・ノウズ」を思い浮かべながら、「なんぢらの父のゆるしなくば、その一羽も地に落つること無からん」という言葉を思い浮かべながら、私は生まれなかった弟の死に、いまだに納得できていないのだと考えた。

 この世界がそんなに素晴らしいものだとは、私にはどうしても思えない。生まれてきてよかったのだとは、私にはどうしても思えない。それでも、生まれなかった弟に、音楽を聴かせてあげたかった。空を見させてあげたかった。言葉を交わしたかった。一緒に遊んで笑いたかった。いつか私たちが死体になる前に。

 レッド・ツェッペリンの「アキレス・ラスト・スタンド」を思い浮かべながら、「天地は過ぎゆかん、れど我がことばは過ぎくことなし」という言葉を思い浮かべながら、私が死ぬときにたどる記憶は、いったいどんな記憶だろうと考えた。

 音楽が終わり、静けさがやってきても、その静けさはまったくの無ではない。音楽の記憶が、その静けさをかすかに震えさせる。その余韻こそが、魂と呼ばれるなにかなのだと、私は固く信じていた。生きることに意味はないが、生きることは無意味ではない。だから、死ぬべき人間などこの世にはいないのだと、私は固く信じていた。

 クラッシュの「アイム・ノット・ダウン」を思い浮かべながら、「たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害わざわいをおそれじ」という言葉を思い浮かべながら、私は記憶に痛みと温もりを感じるあいだは、どれだけ生きたくなくても生きるだろうと考えた。

 月は綺麗だった。夜は静かだった。ぼんやりと空を見つづけて、時が経った。家に帰ろう、と私は思った。たとえそこに痛みが待っていて、そこにいたるまでの道がどれだけ暗かろうとも。

 ローリング・ストーンズの「デッド・フラワーズ」を思い浮かべながら、「栄華を極めたるソロモンだに、その服装よそおいこの花の一つにもかざりき」という言葉を思い浮かべながら、私は弟の命日には、色あざやかな花を供えようと考えた。

 私はベンチから立ち上がった。夜の山など、なんの備えもなく入るものではない。間抜けもいいところだった。それでも、私のこころは、いまは安らかだった。死にたくなるほどの憂鬱は、いまは去ってくれた。私なりに、悼むことができたから。私なりに、祈ることができたから。

 フーの「ザ・キッズ・アー・オールライト」を思い浮かべながら、「幼児おさなごらを許せ」という言葉を思い浮かべながら、私は私を含む生まれてしまった人間たちすべてと、生まれなかった子どもたちすべての幸いを最後に祈った。

 眼をつぶる。まぶたを閉じたところで、眼の見えない幼なじみの闇を理解できるわけではない。彼女の痛みを理解できるわけではない。それでも、私は知りたかった。隣に存在する他人の痛みを。自分ではないだれかの痛みを。自分にもあるだれかの痛みを。私は眼を開いた。

 スミスの「ゼア・イズ・ア・ライト・ザット・ネヴァー・ゴーズ・アウト」を思い浮かべながら、「視よ、神の幕屋まくや、人とともにあり、神、人とともに住み、人、神の民となり、神みづから人とともいまして、かれらの目の涙をことごとくぬぐひ去りたまはん。今よりのち死もなく、悲歎かなしみも、号叫さけびも、苦痛くるしみもなかるべし。さきのもの既に過ぎ去りたればなり」という言葉を思い浮かべながら、私は生まれなかった弟のために母が流した涙を思い出しながら、山道を下りた。

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