きみは人殺し

 きみは、人を殺したね。魂を賭けたとも知らずに。殺してしまう人は、おおよそそんなものなのかもしれない。

 きみが殺したのは、身内だったね。父であったか母であったか。祖父であったか祖母であったか。兄弟であったか姉妹であったか。それは空白にしておこう。なぜそうするか、きみならわかるはずだ。きみはぼくだから。だれを殺したか、きみならわかるはずだ。きみはぼくだから。

 きみは身内を刺し殺して、家を飛び出したね。血の記憶を拭いながら、きみは往来を歩いた。死体はまだ見つかっていない。それでも、発見されるのは時間の問題だった。早晩、きみは捕まることになるだろう。それでもいまは、きみはまだ自由だった。きみはまだ囚われていなかった。きみは黄昏を歩いた。宙に浮いているような夢心地で。罪の鉄鎖など意識しないままに。

 きみは後々、色々な言葉を聞かされたね。なんといっても、きみは人殺しだから。許されない罪人だから。蔑まれ、疑問を突きつけられ、改悛をすすめられた。浴びせかけられた言葉のなかには、『歎異抄』の有名な言葉もあったね。覚えているかな?


「善人なをもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」


 きみは、悪人かな? 少なくとも善人ではなさそうだ。きみは人殺しだから。取り返しのつかない命を無情にも奪った罪人だから。『歎異抄』にはまた、こんな言葉もある。


「なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にても、かなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず、また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」


 人を殺さないのは、こころがよいからではない。親鸞はそう言いきっている。面白いことを言う人だね。そうは思わないかな?

 きみは、百人や千人を殺したわけではない。きみが殺したのはたったひとりだ。家族と呼ばれる近しい人間を、きみはその手で刺し殺した。きみは、いかなる業縁によって、人を殺したというのだろう。

 カート・ヴォネガットというアメリカの作家は、こんな言葉を残している。


「大量殺戮を語る理性的な言葉など何ひとつない」


 それは、ヴォネガット自身が体験した、ドレスデン爆撃という殺戮について語った本に出てくる言葉だ。ぼくは時々こう思う。もしかしたら、人間をひとり殺すことさえも、それを語れる理性的な言葉などないのかもしれないと。なぜそう思うのか、きみならわかるはずだ。きみはぼくだから。言葉に限界はあっても、きみならわかるはずだ。きみはぼくだから。

 ヴォネガットは、こんなふうに文章を続けている。


「今後何もいわせず何も要求させないためには、ひとり残らず死なねばならない。殺戮が終わったとき、あたりは静まりかえっていなければならない。そして殺戮とは常にそうしたものなのだ、鳥たちをのぞいては」


 この言葉を読んで、きみは二つの情景が記憶に浮かび上がるのを感じるはずだね。

 一つ目は、きみが人を殺した直後の、痛々しいほど静まった家内。目の前の死体はもうなにも語らない。毎日のように顔を合わせ、言葉を交わしていたその相手は、もう動くことはないし喋ることもない。棘を含んだ静寂が、いつも過ごしていた部屋の風景を、見慣れないものに変えてしまった。映らないテレビのような窓。割れたがっているような花瓶。喪に服しているような椅子。それは知らない風景だった。もはや自分のねぐらではなかった。死体が日常を引き裂いていた。

 二つ目は、家の外に飛び出したきみを、電線の上から見下ろしていたカラス。きみは、なぜだかひどく動揺した。人を殺したきみが最初に出会った視線は、鳥のものだった。いや、その眼は本当にきみを見つめていたのか。焦燥に脅かされたきみの、追跡妄想じみた単なる錯覚だったのかもしれない。それでも、きみはその眼を恐れた。恥に震えるような足どりで、きみはその場からとにかく離れた。

 きみは夕暮れを歩いた。人を殺してなどいないような無表情で。人を殺したと宣伝しているような鉄面皮で。なんにせよ、どうでもよかった。どうせ、だれもきみの表情など読み取ることはできない。きみの感情など問題にはされない。きみの影はのびつづけた。その影に気づくものもいない。だれもいなかった。いまもなお。だれもいなかった。これからもずっと。

 人を殺したきみは、外界のすべてが遠かったね。なにもかもが膜の向こう側だった。霧がかかったように淡かった。湖面に映る鏡像のように、他人は希薄に揺らいでいた。自分さえもが偽物のようだった。生きている実感がまるでなかった。

 賭けてもいいけど、その呪わしい非現実感は、きみが死ぬまで消えることはないだろう。もう二度ときみはきみ自身に戻れない。きみは自己から剥離する一方だ。きみは遠隔から操作するようにしか、自分自身と触れあうことができない。それがきみの人生だ。残り時間のすべてが他人事だ。だからこそ、きみであるぼくが、ぼくであるきみに、こうやって語りかけるという奇妙な事態に陥っているわけだけど。笑えるよね。そうは思わないかな?

 夕餉ゆうげの香りがどこからか漂う裏路地を抜けて、きみは駅前にたどり着いた。目的地などなかった。ねぐらを失ったきみは、迷子のようにさまようだけだった。糸の切れた凧のように墜落を待っていた。

 きみはそのとき、浮浪者を見かけた。いくつかの手荷物をかき抱くようにして、彼は道ばたに寝転がっていた。きみは幼い頃、浮浪者を無視するのが苦痛だったね。明らかに困っているようなのに、なぜ通り過ぎなければならないのかわからなかった。そしていまもなおわからない。わからないまま成長してしまった。そして人殺しになった。

 浮浪者と人殺しは、別に関係ない。これは余談だ。それとも関係あるのだろうか? きみは、大半の物事と同じように、習慣的無関心によって対処することを学んだ。都合の悪い側面は無視しろ、というのが、社会の全領域がきみに伝えるメッセージだから。きみは賢くもないし利口でもないが、それくらいの声は察することができた。その声に従って、きみは違和感を無視した。きみは苦痛を感じなくなった。傷口は広がるばかりだったのに。

 ふと気づくと、浮浪者はこちらを見ていた。訝しく思われるほどに、きみはその場に立ちつくしていたわけだ。浮浪者はきみの手許を注視していた。視線を追うように、きみも自分の手許を眺めてみた。袖口に血がついていた。手はずいぶん洗ったつもりだが、その返り血にはいままで気がつかなかった。きみは染みを隠すように袖をまくり、浮浪者を通り過ぎて駅舎へと向かった。

 適当に切符を買って、きみはプラットホームで電車を待った。とにかく死体から遠ざかりたかった。どこでもよかった。ここではないどこかなら、どこでもよかった。ここではないどこかは、どこにあるのだろう?

 人殺しのきみは、人を殺してはいない人たちを見まわした。もちろん、人を外見だけで判断してはいけない。もしかしたら、そこにはきみ以外にも人殺しがいたのかもしれない。そんなことはわからない。でも日常の力学や蓋然性から鑑みて、どうやら人殺しはきみだけのようだった。

 だれもが電車を待っていた。だれもがどこかへ行こうとしていた。どこへ行くのだろう、ときみは不思議に思った。きみ自身は、電車に乗ったところで袋小路だった。どうあがいても逃げられるわけがなかった。きみだけはどこへも行けなかった。

 電車は遅れていた。どこかで人身事故があったらしい。だれかが死んだのだろうか。死体から離れても、死体は絶えず生まれてしまう。もちろん、きみが殺した死体はたったひとりきりだ。きみと関係のない死。きみの交通を遅延させるだけの死。

 人身事故による遅れに煩わされた経験は、いままでに何度もある。都市生活にはありふれた出来事だ。それでも、人を殺したきみは、いつもとは違う感触が胸に渦巻くのを感じた。電車がようやくやって来ると、鉄道趣味とは無縁だったきみは、生涯で初めてその乗り物を真剣に観察した。電車は毎日のように人を殺している。自殺の選択肢としてもそれなりに有力だ。人殺しのきみは、疚しさに包まれるように電車に乗り込んだ。

 車内には、人間がいた。きみももちろん人間だった。でも、きみは人殺しだった。きみは座席に座ろうとせず、ポケットに手をつっこみ、壁に寄りかかって窓の外を眺めた。殺人者は座ってはならない、などという決まりはないが、座るのがはばかられるような気分だった。

 車窓を流れていく景色。それはいま、隣人よりも鮮明だったね。黄昏の街景は、この世でもっとも美しい風景だ。少なくとも、 真っ昼間が嫌いなきみにとってはね。人を殺したあの日の夕暮れを、きみは死ぬまで忘れはしないだろう。

 きみが殺した死体は、死の最中さなかにどんな記憶を反芻しただろう。きみが死ぬとき、この夕暮れはもう一度よみがえるのだろうか。きみにはわからない。ぼくにもわからない。きみはぼくだから。きみがわかるとき、ぼくにもわかるだろう。きみの死はぼくの死でもあるから。きみはぼくだから。

 座席に座った二人組の男女が、なにかを喋っていた。きみは耳を澄まして、その会話に注意を向けてみた。驚くべきことに、なにを言っているのかまるでわからなかった。二人組は、なにも外国の言葉を話していたわけではない。きみが使うのと同じ言葉だ。それでもきみは、そこからなにひとつ意味を汲み取れなかった。ただのノイズにしか思えなかった。あるいは、鳥のさえずり。鳥の言葉はきみにはわからない。きみは、他人の言葉がまったく理解できなくなっていた。自分の言葉も、もうだれにも通じないのだろうなと、きみは当然のように考えた。そう考えると、もとからそうだったようにも思えた。きみは他人から切り離されていた。その障壁は、決して消えることはなかった。人を殺したきみは、その壁を取り除きたかったのだろうか? 殺したところで、断絶は深まるばかりだというのに。

 きみは眼を閉じた。電車の揺れだけに神経を集中させた。きみは即席の闇に包まれた。五感のひとつを閉ざすことで、きみは自分を取り戻そうとした。でもダメだった。きみはもう二度ときみ自身には戻れない。眼を閉じたきみは、依然として自分が他人のようでしかなかった。

 眼を開けると、先ほど話していた二人組の男女がこちらを見ていた。きみが眼を向けると、視線を逸らした。つまり、きみが見たときは、もうこちらを見てはいなかった。でもきみは、ずっと見られていたと感じた。

 他の乗客も同じだった。杖を手にして座る老人。こちらを見ていた。きみが見ると、眼を逸らした。疲れたようにぐったりしている背広の男。こちらを見ていた。きみが見ると、眼を逸らした。一心不乱に携帯をいじっている女性。こちらを見ていた。きみが見ると、眼を逸らした。だれもがきみを見ていた。きみが眼を向けると、眼を逸らした。きみはだれの眼にも出会えなかった。一方的に視線になぶられた。きみの視線は空回りして宙に舞った。きみは監獄のように狭隘きょうあいな車両に耐えられなくなった。

 次の駅に到着すると、きみは脇目も振らずに電車から降りた。トイレに駆け込み、しばらくのあいだ吐きつづけた。きみはもう、人間が耐えられないと思った。人間のあいだにいることにも、自分が人間であることにも。人を殺したところで、人間でなくなるわけではない。いっそのこと人間でなくなりたかったと、きみは涙を浮かべて吐きながら渇望した。

 胃が軽くなると、きみは個室を出て、手洗い場の鏡を眺めた。人殺しの顔だ。きみは自分の顔に、人非人にんぴにんしるしを探してみた。なにも見つからなかった。どうしようもなく人間だった。なにも変わらなかった。ただのつまらなく無愛想な顔貌がんぼうだった。

 きみは駅を出て、よくは知らない街をふらふらと歩いた。もう夜だった。自販機の光が羽虫を誘っていた。未成年が見咎められる時間帯だ。でも、きみにはもうねぐらはなかった。あそこはもうきみの家ではなかった。きみに帰るべき場所はなかった。きみを温かく迎える他人はいなかった。いまもなお。これからもずっと。

 パトカーがきみのすぐそばをよぎった。もちろん、運転する警官はきみを見ていた。そうに違いなかった。きみは走り出した。車の入れない路地裏に駆け込んだ。きみは影から逃げるように走った。影はどこまでも追ってきた。きみ自身が影だった。どうあがこうと、きみはどこにも行けなかった。

 きみは疲労して立ち止まり、膝に手をついた。荒い息をつきながら、後ろを振り返った。パトカーはもう追ってきてはいないようだった。そもそも最初から追ってきていたのかも怪しかった。だがどちらでもよかった。いったいきみは何がしたいのだろう。逃げたところでどうなるものでもない。きみは人殺しだった。その事実は消えることはない。きみは人殺しだった。その罪はあがなえるものではない。

 きみは公園に差し掛かった。夜の公園は静かだった。遊ぶものはだれもいない。遊ばれない遊具は死物だった。ブランコもシーソーもジャングルジムも、すべて死んでいた。ベンチだけが生きていた。そこにはだれかが眠っていた。浮浪者だった。最近のベンチには、浮浪者への対策としてなのか、横たわったりくつろいだりできないように仕切りが付いているタイプも多いが、この公園のベンチはそうではなかった。

 街灯に照らされて立ちつくしながら、きみは浮浪者をぼんやりと眺めた。考えてみると、自分もいまは浮浪者だった。ただ、きみは人殺しだった。幼い頃から視界の片隅に浮かんでは消えていった浮浪者たち。社会から外れ、社会から無視され、社会から消えていく人たち。彼らはまるで泡のようで、そしてもちろん泡ではなかった。きみの見ていないところで生きて、きみの見ていないところで死んでいるだけだった。彼らは別に人殺しではなかった。人殺しもいたのかもしれないが、親しみを感じることも憐れむことも、いまのきみに許されるとは思えなかった。

 公園で夜を過ごそうかとも思ったが、浮浪者の眠りを邪魔したくなかったので、きみはその場を立ち去った。きみは足が棒になるまで歩き、大きな橋の下にたどり着き、そこにうずくまった。もう動きたくなかった。どこにも行きたくはなかった。どこにも行けるわけがなかった。

 目の前には暗い水面みなもが広がっていた。どの程度の深さだろう。きみは手近な石を投げてみた。波紋が震えて、そして消えた。溺れるには十分な深さだろうか。きみは死の誘惑を感じた。

 きみのポケットにはナイフがあった。それは結局、人殺しには使わなかったが、お守りのようにずっと持ち歩いていた。他人の視線を感じるたびに、きみはナイフを意識していたが、自分を殺すのに使うのも悪くはなかった。

 ある意味では、きみは自由だった。きみは入水することも出来るし、自刃することも出来るし、線路に飛び込むことも出来るし、高所から飛び降りることも出来る。日常の桎梏しっこくから束の間ながら解き放たれたきみには、ここではないどこかへ旅立つのを妨げる理由はなにもなかった。

 夜は更けて、夜は明けようとしていた。長い夜も、いつかは終わる。残念なことに、明けない夜はない。きみの罪を覆ってくれる闇は、遠からず光に駆逐されてしまう。だがきみの人生はこれからもずっと夜だ。人を殺したきみは、その影から永遠に逃れられはしないだろう。

 その夜のきみは、死を選ばなかった。なぜだろう。疲れていたからかな。怖かったからかな。それとも、死ではないなにかを、ずっと待ち望んでいるのかな。それがなんなのか、自分でもわからないままに。

 そのなにかは、いまだにきみを訪れないね。きみは自分の人生を終わったものだと見なしているし、こころを完璧に閉じてしまっている。きみにはもうどんな言葉も届かないし、どんな言葉も響かないだろう。それでもぼくは、きみに語りかけるのをやめはしない。なぜそうするか、きみならわかるはずだ。きみはぼくだから。なぜ死を選ばなかったか、きみならわかるはずだ。きみはぼくだから。

 たとえその夜に死ななくとも、夜はふたたびやってくる。そのたびにきみは死の誘惑を感じるだろう。きみはこれから捕らえられるし、有形無形のさまざまな罰にさらされる。きみはだれとも理解しあえないし、生になにひとつ期待できない。必ずやってくる死を遅延させることに、どれほどの意味があるのかもわからない。きみにとって死は福音で、それ以外の光はない。

 それでも、ぼくはきみに死を選んでほしくはない。きみがぼくであることを考えると、これは遠まわしな命乞いにすぎないのかな。でも、ぼくはこころの底から本気で信じているんだ。死はほろ苦い賜物たまものであり、求めるべき罰ではないのだと。ぼくであるきみなら、わかるはずだ。

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