第10話
「ずっと黙り通すつもりか。お前がそのつもりなら僕にも考えがある」
東郷は自分が入れた影法師用の湯呑と茶菓子を持って、自分の仕事用の机を挟んで影法師の真ん前に腰を下ろす。ずいぶん前に遣り掛けで放置したままだった机の上の紙切れを腕でどけ、湯呑と茶菓子を置いた。
「さぁ、これで飲まないわけにはいかないだろう」
鼻息荒くそう言って、東郷が影法師を初めて真っ直ぐ目の前から眺めれば、ただ楕円に真っ黒だった影法師の頭の、ちょうど眼の部分にみしりと切れ目が二つ現れ、じんわりと真っ白な瞳が開かれはじめる。
恐ろしい、逃げたいと言う気持ちが無くなってしまっていた東郷は、その様子を見守る様に瞳がすべて開かれるのを待った。以前見た時と変わらず、真っ白で底が無く吸い込まれるような丸い瞳。
瞳は開かれたものの、口が開くことは無く部屋は静寂に包まれる。
「これでも飲まないのか。あぁ、何か毒でも入っていると思っているんだな、ちょっと待て」
東郷は置いてきた自分の湯呑を持ってきて座り、影法師の目の前でゆっくりと口に運んで饅頭を一つ放り込んだ。影法師は東郷の一挙手一投足、全てを瞬きもせずに真っ白に見開かれた満丸の瞳で眺め、確かめているようだった。
あれほど怖かった呑み込まれそうな瞳も今はそれほどでもなく、東郷は湯呑を机に置いてその瞳を見つめる。
(ふぅ、やっとの思いで対峙してみれば黙ったまま。一体こいつは何なんだ)
東郷がそう思った時、目の前の影法師がゆらりゆらりと左右に揺れ動いた。動きを見せた影法師の瞳の下、顎の上にみしりと再び切れ目が一つ現れ、それははっきりとした動きを見せる。
「僕ハ、オ前」
恐怖感も薄れ、どちらかといえば呆れた雰囲気になっていた東郷の耳にトンネルの中で喋っている様な、近いのに遠い、そんな声が聞こえた。影法師は揺れ動き、口を半開きにしたまま瞳を更に大きくして東郷を凝視する。
「今の声はお前の声か?」
「ココニハ僕ト、オ前ダケ。他ニ何ガ居ル?」
当たり前の答えを返されたことに少々驚きながら、初めての会話に口の中が一気に乾いた気がした東郷は一口茶を含んで息を吐き出した。
「初めて喋ったのは良いが、聞き捨てならないことを言ったな。お前が僕だって」
「オ前ガ、無クシタ、僕ガオ前」
東郷はその言葉を聞いて館長の話をおぼろげに思い出す。
「じゃぁ、お前は僕の中に戻れ。お前が僕ならそれが出来るだろう」
「嫌ダ。オ前ハ僕ヲ認メテイナイ。理解シテイナイ、理解シヨウトシテイナイ」
当然だ、そう思った東郷の心を見透かすように煤の瞳は横倒しの細い下弦の月のように、にたりと歪む。不満を口にしながらも、それが肯定されると愉快だといわんばかりに笑顔を見せる。
その姿を見た東郷は「あぁ、なるほど。確かに僕だ」と妙に納得してしまった。
天邪鬼で、人の言う事を素直に聞かず反論するくせに失敗すれば相手を責め、相手が困ればそれが楽しい。嫌いな人を無視していればいいのに気になってしまい相手にして苛立ち、また、その人が失敗することを望み成功を妬む。何とも、自分で自分が嫌になると何度も思った自分自身がそこにいるのだ。
「その嫌味な瞳に嫌味な態度、あぁ、確かにお前は僕だ。理解したし、お前を僕だと認めよう。だが、僕は館長とは違う。今の僕にお前は必要ではない。僕とお前が今、一緒になる必要性は全く無い」
「……ナラ、ドウスル?」
「お前はここから離れる事は出来ない。でなければ、僕が帰ってくるまでの間にとっくに何処かに行っているはずだ。そうさ、必要なくてもお前は僕。ひねくれていて、非常に不愉快極まりない煤けた僕だが、自信家で誰にも負けないという根性も持っている。だから、きっと必要な時がやってくる。それまでお前はここに座って僕の話し相手になれば良い」
「僕ハ、トテモ愉快ダ。ソウカ、話シ相手カ」
煤はあたりに小さなクズを散らしながら揺れて笑い、東郷が入れたお茶に手を伸ばす。
「美味シソウナ菓子ダ。オ前ガ選ンダワケナイナ。オ前ハ、コンナ美味ソウナ菓子ハ選バナイ」
「全く、失礼だが的を射ているな。そうだ、これは館長にもらった」
「オ前ノ、オ気ニ入リカ。アイツハ非常ニ愉快ダ。僕モ嫌イジャナイ」
「どうやら、お前は素直な僕の気持ちの代弁者だな。そんな素直なお前に質問をしてもいいか?」
「何ダ。答エラレル事ナラ答エテヤル」
「人とは何だと思う?」
「馬鹿ダナ、ソンナ事モ分カラナイノカ? 人ハ人ダ」
「館長は『私は私、人は不変だ』と言った。でも、僕はそれに納得する事も理解する事も出来ずに帰ってきた。人とは、何だ?」
「デハ、僕ハ何ダ?」
「お前は僕だ、さっきそう言ったじゃないか」
「ツマリハ、ソウ言ウ事」
「はぁ、さすが僕だな、訳がわからん」
「ソレモ、ソウ言ウ事」
体を揺らし、煤埃をあたりに撒き散らしながらおかしく笑う自分の陰に向かって、少し眉間に皺を寄せた東郷は溜息をつく。
「自分で自分に腹がたつ。まぁ、いい、そのうち必ず答えを聞き出してやる」
「ソノ時ハ、僕ガ僕ヲ理解スル時。オ前ガ本当ニ僕ヲ理解シタトイウ事。マァ、精々ガンバリナ」
「ふん、ありがとよ」
偉そうに上から物を言ってくる煤に向かって口元を引き上げて鼻息を吹きかけながら礼を言い放った東郷の心の中にすでに恐れや不安は無い。どちらかといえば新しい同居人との生活が楽しくなるようなそんな気さえしていた。
「なるほどね……」
「ン? 何ヲ納得シテイル」
「館長がね、どうせなら楽しめって」
「楽シミカ。恐怖ガアルカラ安堵ガアル。苦シミガアルカラ、楽シサガ分カル。二ツノ相対スル事柄ハ全て一ツ」
「あぁ、そうだな。お前は散々僕を怖がらせたからね。今の楽しさはそれがあるからかねぇ?」
苦笑いして言う東郷に真っ白な底の無い瞳を向けて煤は朝日を浴びる。
「今日モマタ、陽ガ昇ッタ」
「あぁ、もうそんな時間か。どうりで眠いわけだ……。暫く、休むとしよう」
ゆっくりと床に体を横たえて、東郷が瞳を閉じかけたその時、耳元に囁く声一つ。
「当タリ前ガ、当タリ前デ無クナレバ、人ハ何ヲ思ウノカ。答エハ自分ノ中ニアル。サテ、僕ガ出ス答エ、楽シミニシテルヨ」
楽しげな笑いが響く部屋で東郷は瞼の重さに負けて深い眠りに落ちていった。
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