第3話
東郷は語る。
それは多分、二週間ほど前。といっても、気付いたのが二週間ほど前であって、何時から其れがそこに在ったのかはわからない。
気が付けば部屋の片隅、ちょうど自分の机から真横、視界ぎりぎりの場所にそれは在った。
ことさら寒い今年の冬。
部屋には暖を取る為の火鉢が二つも置かれている。ストーブもあるにはあるが、燃料を買いに出るのが面倒だと思っている内に埃をかぶってしまった。
古い家屋だからブレーカーに余裕はなく、手っ取り早く使えるのが火鉢で、いつもは一つの所を今年の冬は二つ置くことにした。
だから僕は初め、部屋の隅に落ちてしまった煤埃かと思った。
火鉢だけじゃない、僕がいるのは何代も前に建てられた崩れかけた古屋、見た目通りの汚れも埃もある。
僕自身掃除はしない。
あまり得意でないし、汚れていることにそれほどの嫌悪感を持たないからだ。掃除は週に一、二回。家政婦のおばさんがやってきて掃除をしていく。
僕の家は僕自身だけであれば狭くて十分なのだが、やたらと無駄に広い屋敷。
狭ければ僕が我慢の限界に来れば仕方なく片づけるだろう。だがこの屋敷は狭いと言うには相当しない屋敷だ。だが、物は考えようで使わない所は使わないのだから掃除をする必要もちゃんと何かしらを保っておく必要もないわけで。なにより、やっと一人を満喫できる環境になったと言うのに、たかが掃除の為に人を雇い入れるのは嫌だった。僕自身の収入を考えても、一週間に一回、掃除のおばさんを一人雇うぐらいがちょうどいいのだ。
それもはじめの頃は必要が無いと思っていた。
しかし、あまりにも人間としての堕落した生活を目撃した友人が、
「人として恥じろ」
と言い放ち、おせっかいにも友人の知り合いが経営する家政婦事務所を紹介してくれた。
友人の紹介という手前、雇わないと言うわけにもいかなくなった僕は週に一、二回その事務所に掃除をお願いすることにした。
事務所から初めに来た人はこの屋敷の惨状に驚き、二番目に来た人は僕のいい加減さに嫌気がさし、三度目に来た人がやっと今まで継続してやってくれている。三度目のおばさんは、僕に負けずいい加減なおばさんで、元々汚れている家、綺麗にした所で……、と適当にやっているのは良くわかった。
だが、恐らくそんな人でなければ僕の家を担当するなど無理な事なのだろう。
掃除だけ、そのほかの家事などはしなくていいという契約。
しかも、僕は使っている所だけの掃除でいいと言っているから実際の所、大きな屋敷だが働く場所は狭いはずだ。とはいえ、面積が狭くても掃除をするのは面積が問題ではない。
あの惨状、きちんとした人であれば幾ら狭い面積でも嫌になって当然。散らかすだけ散らかして、僕の手で一度も片づけられていない家にやってきて掃除をするのだから誰だって嫌気がさすだろう
故に、おばさんのようにいい加減な人で、手を抜くことを悪びれない人でなければならない。そうしないと賃金とみあわないと思って僕ではなく家政婦さんの方で不満が続出するのだ。
勿論、おばさんが手抜きをしていることは分かっていたが、僕はおばさんのその行為を咎める事もしないし、怒り狂うなんてもってのほかだと思ってやったことは無い。
満足しているから怒らないのかって?
そんなことあるわけがないだろう。満足なんてしていないさ。あくまでこちらは相応の賃金を支払っているつもりだしね。でも、咎める事や怒る事、それはとても体力を使う事だ。僕は疲れることをわざわざ自分から起こすのは大嫌い。それに、僕ですら綺麗にした所でと思っているのを他人に求めるのもおかしいし、必要も無い事。そんな事で体力を使うのは馬鹿げている。
僕は何事にも無関心というわけでも、何かに夢中になるというタイプでもない。
ごく普通で、どちらかと言えば普通よりは少し怠けている類になるだろう存在だった。
だから目の端に少し見えている汚れなど、いつかどうしても我慢できなくなったときに自分で綺麗にすれば良いし、あまりにも汚くなって来ればおばさんが気づいて何とかしてくれるだろうと思っていた。
そう、初めはその程度のことだったんだ。
ゆらり。
瞳の端で何かが動いた気がして視線をその場所に移してみたが、何も見ることはできず、ただ、いつも通りの煤けた汚れを伴った自分の部屋の片隅があった。
「気の、せいか?」
ねずみかごきぶりか、連中は足が速いから見失ったのか、思って見られるものでもないだろう。その時、僕の頭の中では駆除用の物を家じゅうに用意する必要があるかもしれないと考えていた。
強風が吹けば家じゅうから軋みが聞こえるこの家に僕はたった一人。
テレビはあるにはあるが、自分の部屋が生活の起点となっている僕に居間に設置されているテレビはあまり意味がなく、部屋にラジオはあったがつけることはまれだった。
騒がしいのはあまり好きではない、かといって静まり返った空間が好きというわけではないが、集中するには静かな方がずっといい。時折、強風に軋みを上げる家に、常に聞こえるのは、規則正しく時を刻み続ける柱時計の秒針と揺れる振り子の音。
起き出してからどの位時間が経ったのか。集中し始めると時間を忘れてしまうのは僕の悪い癖だ。折角、柱時計が時をこれでもかと知らせてくれているのにそれすら耳に入らなくなってしまう。そう言う時の僕の時計はもっぱら自分の体頼み。腹の虫の鳴き声が時刻を決める。
少し前に弱弱しく、そして今腹の虫が強烈に鳴き始めたのでそろそろ昼飯を食べようと机にペンを置き、手を肩において首を回してから伸びをする。
瞳を閉じ、これでもかと両腕を天井へ向かって伸ばしてだらりと力を抜き、瞼を開けたその瞳の端で再び何かがゆらりと揺れ動いた。
素早く、見逃さないように動かしたはずの瞳には何も捉えられていない。
確かに動き、まだその動きが目の隅に残っている内に視線をやったはずなのにそこには何もないのだ。
首をかしげながらも、僕はやっぱり虫がいるのかと溜息をつく。ねずみならば、動いたと思った瞬間、その場に居なくとも近くに居る姿が確認できるはず。障害物も無ければ穴もない室内の片隅、見られないはずがない。それがそうではないのだから、きっと虫。恐らくすばしっこく、茶色にてかてかと光った体を持った意外にも飛ぶことのできる奴なのだろうと結論付けた。
「だとしても、どれだけ動きの速いやつなんだ。ハエ取り紙や捕獲器等で捕まるだろうか?」
僕はどうしたものかと首をひねりながら席を立ち、昼食をとろうと台所へと向かう。昼を食べ終われば再び席についてペンをとった。
いつも通りの行為であり、特別変わったことは無い。
そう、今まさに目の前で変化が起こっていたというのに、僕はそれをすっかり見逃してしまっていたんだ。
見逃してしまっていた変化に気を留めるようになったのはそれから二日が過ぎた頃。
煤汚れ等という事柄自体、僕の頭の中にはすでになかったのだが、ふと視界に入ったその景色に違和感を覚えたのだ。
「……おかしいな。確かあの煤埃は壁と床にまたがって広がっていたはずじゃなかったっけ?」
僕の記憶では確かに煤埃は部屋の片隅、床と壁の際を真ん中に円状に広がっていたはず。しかし、今見る煤埃は壁を離れ、床にじんわりと楕円状に広がりを見せていた。
記憶違い? そう思ってみるが、記憶にある光景は何やら目の端に動く物が見え、駆除をしなければと何度かその場所を眺めていた時の光景。その記憶が間違っているなど考えられなかった。
「もしかして、おばさんが掃除してくれたのか?」
ちょうど昨日、掃除のおばさんがいつも通りにやってきてそれなりの掃除をして帰った所だ。
煤埃に気づき、掃除をしてみたものの、壁の汚れは落ちたが床の汚れは落ちることなく伸びてしまった、そんなところだろうか? そんなことを考えながら暫く、じっと見つめていた煤埃が僕の瞳の中でじんわりと動いたような気がした。
それは、じっと見つめていなければわからないほどに、ひどくゆっくりした動き。乾いていく喉を潤わすように唾液を飲み込み、まんじりと煤埃を見つめたが、すぐに僕は首を横に数度振って自分の思考を否定した。
「……そんな非科学的な。疲れているんだな、ずっと目を使っているから」
煤埃が動いたなどと、なんと馬鹿なことを想像してしまったのだろう。
なにより、初めの動きのそれとはまったく似ても似つかないではないか。
そう言い訳を自身にしてみたものの、思いとは裏腹に僕の視線はちらりちらりと常にその煤埃を見つめるようになってしまっていた。
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