第2話

「おや、もしや東郷先生ではありませんか?」

 夕刻、すでに薄暗く、ぼんやりとした灯りに照らされたその場所にやって来た青年にむかって初老の男性が声をかける。

 その言葉に小さく頷きながら「あぁ、こんばんは」と挨拶をした青年は東郷明宏という。

「いつも整われた身だしなみの東郷先生とは思えぬいでたちで、一瞬わかりませんでしたよ」

 東郷はそう言われて自分の身体にちらりと視線を落として少々苦笑をしながら頷いた。

 少しは整えてきたつもりだったが、やはりちゃんとした身なりとはいかなかった様子。

「そうか、うん、そうだろうね」

 言われて再び髪の毛を少々整え、口の端に自嘲じみた笑みを浮かべる東郷に初老の男性は首を傾げた。

「どうかされましたか?」

「あぁ、ちょっと……。ところで、館長、もう閉めるのかい?」

「今日は、曇っていますからねぇ」

 空を見上げ、館長が言えば、東郷も同じく空を見上げた。

 遥か地平は赤色で、薄い雲がその赤をじんわりと染み込ませていたが、二人の真上に来るころには薄い雲も分厚く、暗く沈んだ色に変化している。

 都心からやや離れたこの場所は未だ森が街の中に存在する田舎だったが、駅を挟んで南側に大きなショッピングモールが建設された事を期に、駅南は住宅の分譲が始まり、新たな住人が流れ込んでくるようになった。

 都心までは二回の乗り換えがあるもの電車であればそれほど時間もかからない。

 それが売り文句になって分譲された土地はあっという間に売りつくされて、駅南にはもはや畑も森も、かつての田舎の風景は消え失せる。

 しかし、少々不便としか言いようのない駅北に至ってはその影響を受けることは無かった。

 もともと、ショッピングモールが出来上がるまでは駅北の方が賑わいを見せていた。もちろん、今の駅南のような雑多な賑わいではなかったが。

 この町は駅を中央に、駅の南側には大きな川があり、昔は橋を渡っても畑があって、その奥に森がある状態。

 故に人はそちら側に行くことは無く、駅の北側に降り立ち、商店街を通り、少々古い木造の家が立ち並ぶ住宅街へと歩を進めていた。

 ただ、数年前。豪雨により川が氾濫。

 土地の低い北側は水害で大変な騒ぎとなり、さらに、南側にショッピングモールが出来たことで状況は一変。閑散とした雰囲気が駅北に漂い始めたのだ。

 かつては全ての店舗がシャッターを開き、活気あるとまでは行かずとも賑わいを見せていた商店街も、水害によりショッピングモール内の店舗に場所を移転したり、これを機会にと辞めてしまったりでわずかな店が開かれているだけとなってしまった。

 東郷はその駅北の商店街を北に向かって歩き続け、住人が少なくなった木造の住宅街のひときわ大きい屋敷に住んでいる青年で、既に親は無く、結婚もしていない。

 そのせいか、どうも人があふれかえっている場所は苦手であり、駅北に人が少なくなり静かになったことを心のどこかで喜んでもいた。

 両親が健在の時は数人の使用人が家に勤めていたが、両親が亡くなってから青年は使用人に暇を出し、時折家政婦のおばさんをお手伝い代わりに呼ぶ程度で他は自分一人でやっていた。

 自分の収入ではそんなに使用人を雇えないと言うのもあったが、なにより一人でいられるという事の方が喜ばしくそのような生活を送っていた。

 週に一、二度お手伝いに来てくれるおばさんが居るものの基本自分の衣食は自分で行っていた東郷は、自宅の冷蔵庫が空っぽになると駅北の商店街へ買い物に出かけ食料を買って自宅に戻る。

 それは両親が亡くなってからずっと続いていたが、このところその行動に一つだけ追加された行動がある。

 買い物を終え、もしくは買い物に向かう前、駅から北側にまっすぐ歩いて行き、ちょうど商店街が終わる十字路を西にずっと歩いて行けば、街中とは思えないほどに辺りは木々がうっそうと、静寂の中でそれが現れる。

「守屋自然博物館」

 この博物館が出来たのは駅南のショッピングモールが出来た一年後で、当初は人もそれなりにいたのだが今となっては閑古鳥が鳴いている。其れはこの博物館が少々異様だったからなのだが、東郷にとってはその雰囲気はそれほどでもなく、館長との語らいが楽しくて外に出た時は必ず此処によっていた。ただ、今日は館長との語らいを楽しむためにやって来たわけではなく、何故だか足が向いて此処にいる。

 空を見上げながら東郷は少し瞳の傍に影を落とした表情で大きなため息を吐く。

「確かに、これだけ厚い雲に阻まれちゃ早仕舞だね。残念、少し夜空でもと思ったんだけど」

 視線を館長に戻して小さく笑った東郷に、館長は一度閉じた瞳を薄く開いた。

「東郷先生はお疲れですか?」

 人付き合いがあまり得意でなく、人見知りな東郷は友人と呼べる者=親友というほどで軽い付き合いは全くない、近頃の青年にしてはかなり堅物なイメージがある。故に知らぬ人が見れば眉間に皺を寄せ、黒縁の眼鏡をした背が高く威圧感のある風貌は怖さすら感じるだろう。

 そう、いつもの東郷であれば、疲れていると言うよりは怒っているという印象の方が先に来るのだが、黒縁の眼鏡の向こう側にある瞳はうすぼんやりとして、これでもかというほどのクマが出来、髪の毛も何処かぼさついて見える。

 外出の時は極力身なりに注意している東郷だったが、事情が事情の為今日はそうは行かず、それでも此処に訪れる直前にはそれなりに見えるように整えた。だが、館長にはすぐに見破られてしまったようで、少し情けない表情を浮かべながら口の端を少し引き上げて笑った。

「そうみえるかい? やっぱり疲れている、のかな」

「私にはかなりお疲れの様に見えますね。なにより、東郷先生が夕刻や夜に空が見たいというのは疲れている証拠のようなものでしょう」

 館長の言う通り、東郷は脳が疲労したと感じる時や、慣れない事柄をやらねばならず心労したと言う時、決まってそう言う時にこの博物館に設置されている展望台に現れる。そしてそれは必ず夕方から夜であり、昼に展望台に現れる時はそれほど疲れていない。分かりやすい行動ではあるが、東郷は自分のそんな行動を分かりやすいとは思っていないようであり、意識して訪れるのではないのだろうと館長は思っていた。

「疲れ……。そうか、うん、疲れているのかもしれないな」

 館長の言葉に深く考え込むように言葉を繰り返した東郷は自分でも気づかぬうちに何度もため息を吐き出す。その様子を黙って首を傾げてみていた館長に東郷は少々自嘲的な笑みを浮かべた。

「いやね、実はこのところ、変なものが見えるんだ」

「変なもの?」

 館長は最後のシャッターに伸ばしていた手を止めて東郷を見つめ聞き返せば、東郷は館長の表情を見て首を小さく横に振る。

「いや、言って聞いてもらっても、きっと僕の頭がおかしくなったって思うだけさ。本人でさえ、そう思っているんだから。すまない、聞かなかったことにしてくれ」

 首と共に館長に向かって掌を見せるように手を振った東郷だったが、はたとその手が止まり瞳を見開いて館長を見る。

「ほぉ、ならばなおさら聞きたくなる」

 ゆっくりと瞳に向かって引き上げられていく口角。それに伴って無表情に近かった顔に皺が刻まれ、今まで見たことのない館長の姿に東郷は少々驚いた。

「どうしました? やはり話してはいただけませんか?」

 変わっている人物だと常々思っていたが、本当に変わっていると心底感心し、本当に心躍っているような表情に変化していく館長に東郷は呆れたような瞳を向ける。

「館長も物好きだなぁ」

 思わず言ってしまった東郷の言葉に館長は小さく童話の小人が悪巧みをするような声を立てて笑い、「まぁ、当然でしょう。こんな所の館長ですからそれなりに」と自分で自分の事を言ってのけた。

 館長の言葉と態度に「確かに」と確認した二人は同時に微笑し、館長はシャッターを閉じるのを止め、東郷を館内に招き入れて入り口のガラス戸に閉館の札を下げ、慣れた足取りで館内の中央にある螺旋階段を上る東郷を追う。

 四階建ての建物の、中央を貫くように設けられた螺旋階段。

 館内、入口を入って左の壁際にはエレベーターが、館内広間の右の方にはエスカレーターがちゃんと設置されているのだが、東郷は必ずこの螺旋階段を一段一段確かめるように足を運んで上った。

 この螺旋階段。デザイン性にとんだ螺旋階段に見えるが、館長曰く「博物館のDNAを表しているんです」だそうだが、訪れる客はそんなことを誰も見ていなかっただろう。

 東郷も初めの頃はエレベーターやエスカレーターを利用していたが、館長と親しくなり館内の説明を聞いてからこの階段を使う様になった。

 展望台に近づく少し前に東郷は後ろに居る館長に向かって前方を向いて階段をのぼりながら話しかけ始めた。

「きっかけが何か、それは全く分からないんだ」

 ため息交じりに始まった東郷の語りに館長の口角はさらに引き上げられる。

「始まりから何やら面白そうな」

 調度展望台についた途端に館長から発せられた興味津々の言葉に東郷は少しの溜息をついて後ろを振り返り、気にするなという風に手を振る館長に苦い笑いを浮かべながらいつもの自分の指定席に向かい腰を下ろした。

 少し遅れてやって来た館長はゆっくりと東郷の目の前を通り、閉館の為に閉めてしまっていた展望台のブラインドを開けるボタンを押す。そしてブラインドが動きだしたのを確認してから東郷の隣の席に座った。

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