第4話
何の変哲もない煤。
大きな息を吹きかければ、濡れた雑巾で拭いてしまえば、ものの見事にその場所に存在したかもわからぬように消え去ってしまいそうな煤に見える。
頭ではそう思っていても何故だかわからないが、僕は煤に近づくことが出来ずにいた。本当に、初めの頃はそうでもなかったはずなのに、今では自分の視線が煤を探し当てると動悸は激しく、家の中には、僕自身の荒い息使いが秒針の音を追いかけるように響き始めるのだ。
視界に映る煤は、時折その体を餅が膨らむようにぶわっと持ち上げたかと思えば穴が開き、空気が抜けてしまったかのように沈み込む。一瞬の動きが瞳の端に映り込み僕が驚いて体全体を向けても、煤はまるで何もなかったかのように動きもせずそこに存在した。
じりじり。向かって来る先には自分がいるようで。いいや、自分に向かって煤は確実に進んでくるようで、仕事も手につかなくなってくる。
そう、自らに煤が向かってきている、それを僕が認識したのは、煤の存在を確認して四日目の事だった。
ゆるり、ゆるり。
酷く遅い煤の動きは半日、じっとその動きを見逃すことなく観察すれば微妙に前進しているのが分かる程度。
何かの生物なのだろうか? いや、そんなことありえない、形を持っていないのだ。
小さな蟻のようなものの集まり? いや、それもないだろう、いつまでたっても塊が崩れ去ることが無いのだから。
煤埃、この言葉が一番あの物体にぴったりだ。いや、本当にあれは煤埃なのではないのだろうか。だとすれば、掃除をすれば綺麗になるのでは。そう思ってみても、僕にそれが出来るはずもない。
「そういえば、今日はおばさんを頼んだ日だ。もしかしたら掃除をしてくれるかもしれない」
おばさんが適当に掃除をしているとわかっていながらも僕は変に期待をしておばさんがやってくるのを待った。いつも通りの時間に少し遅れてやってきたおばさんは無愛想な挨拶をして掃除道具を携えて家の中を歩き回る。
いつもなら、自分の部屋の掃除は頼まず、そのまま僕は部屋に籠り、おばさんが掃除を終えるのを、仕事をしながら待つのだが、今日は僕の部屋の掃除も頼み、僕自身は居間でおばさんが部屋の掃除を終えるのを待った。
いくつかの部屋の中を掃除したのち、自分の部屋から掃除道具を抱えて出てきたおばさん。僕はすぐさま部屋に入って見渡した。幾らおばさんでもあの目立つ煤埃、僕が居なくてもきちんと拭き取ってくれているだろう。そんな事を考えながら覗いた部屋の床には未だあの煤がべっとりとしみついている。
「なんだ! まだ残っているじゃないか!」
僕は大きな音を立ててドアを閉め、どすどすと普段は立てない足音を立てて廊下から玄関へと掃除場所を移し始めていたおばさんに初めて怒鳴りつけた。
「貴女ねぇ! ちゃんと掃除してないでしょう!」
僕の怒鳴り声に初めはびっくりしたように瞳を見開いてこちらを見ていたおばさんだったが、掃除をしていないだろうと言われたことに気分を慨したのか眉間に皺を寄せて僕を睨み付ける。
「……しましたけど。何か?」
不機嫌に僕に言ってくるおばさんの言い訳に僕はさらに続けた。
「僕の部屋にあるあの汚い煤跡、まだ残っているじゃないですか! あれ、綺麗にしてください、貴女の仕事でしょ!」
「煤跡ですかぁ? そんなのあったかしら。はぁ、まぁ、そういわれるならもう一度掃除して、やれるだけ綺麗にしますけど」
「やれるだけ綺麗ではなく、綺麗にしてくれと言っているんです! 良いですね!」
「はい、はい」
いつもながらやる気の無い、こんな若い男に命令されてやるものかという気配の漂う雰囲気。それがさらに僕の気分をささくれ立たせ、眉間に深い皺を刻む。
いつもなら……、おばさんのそんな態度にも慣れっこで、気にする事など一度もなかった。そもそも、掃除が出来ていないからと言って怒鳴ったこともなかったのだ。しかし、今はどんなことよりも掃除が出来ていない事を腹立たしく感じてしまう。
どうかしている、そう思ってはいるが自分でも初めて経験する苛立ちをどうすることもできない。そして、それと同じくらい、あの煤を自分で何とかする事は出来ないのだ。
暫くして、再び僕の部屋から出てきたおばさんはむっつりと僕と同じくらい機嫌悪そうに、ソファーに座っている僕を見下ろして言う。
「煤なんて見当たりませんでしたよ。それでも、いつも以上にきちんとと掃除を終えました。あれで文句があるなら誰か別の方を指名してください」
フンと鼻を鳴らして別の場所の掃除に向かうおばさんを見送り、僕はそっと部屋を覗いた。
ドア近くの床から机、そしてあの場所へ恐る恐る視線を流してみれば、そこにそれはまだあった。
「くそっ、何がきちんとしました、だ。……まだ居るじゃないか」
そう呟いて僕は僕自身の言葉にハッとする。
「そうだ、あれは在るんじゃない、居るんだ」
ちゃんと終えたというだけあって、それ以外の場所は今までとは見違えるほど埃も、塵の一つも無く綺麗になっていた。
居るんだと認識しているのに、今更その事を認め、そう考えて初めて僕は気付く。其れは自分にしか見えていないのだと。
それ以降、自分の部屋なのに入る事ができず、震える手で開いたドアの隙間から動く煤の様子を眺める日々。
煤は確実に前進し、目指しているのは僕自身ではなく、僕がいつも腰を下ろしている座布団の様。
何故、煤は入り口や僕自身ではなく、僕の座布団を目指すのか、その意味を考えなかった。いや、考える事を避けた。
そして僕は、其れは在るのではなく居るのだと認めた次の日、掃除の人を断った。
じわり、じわり。
一日に一回が、二回、三回と部屋を覗いて煤を確認する回数が増え、いつの間にか僕は廊下に私物を並べ、布団までそこに敷いて生活を始める。
徐々にその姿を近づけてくる煤。
僕がドアの外で見守るようになってから、其れの速度はわずかに速くなっているようだった。
(あれは、一体なんだ? どうして僕の座布団を欲しがる?)
疑問は尽きることなく、そして時折走る背中の悪寒が消えることもない。なのに僕はどうして隠れてまで其れがどうするのかを見守っているのだろうか。
僕の顎や頬が黒い色でおおわれるようになると、其れは幾度か見た餅が膨らむような様子を頻繁に繰り返すようになる。
(なんだ? 何か始まるのか……)
その頃になると、僕がこの場所を離れるのはお手洗いに行く時と、食べ物を調達するときだけ。風呂にも入らず、着の身着のままに近い状態で過ごしていた。
膨らんではしぼみ、それを繰り返すうちに形作るという事を覚えたのか。数日後、膨らんだ煤はしぼむことなく、ゆらりゆらりと頭を揺らすように左右に、上下に揺れ動く。
膨らんだ煤の動きに合わせるかのように、揺れれば揺れるほど、其の煤は上へじんわりと伸び育って行った。
そう、まさに植物が芽を出し、空に向かって伸びるように「育って」いる。
僕はその様子を眺めながらごくりと喉を上下させ、足元から上がってくる震えを必死でこらえていた。
(訳が分からない。いったい何なんだ、あれは。確実に伸び、育っている……。あのままにしていていいのか? いや、良いか悪いかじゃないな、どちらに結論付けても僕はこの場所から動くことはできないのだから)
自らの情けなさに呆れ、ドアの中に居る存在に怯えながらも僕はじっと、育って行く「何か」を眺め続ける。
上へと育っていたが、煤は初めの行為をやめたわけではない。ゆるりゆるりと僕の座布団へと近づき、まもなく座布団へ到着するという頃にはまさに影法師となっていた。
真っ黒で輪郭のはっきりしない霞の様な影法師の瞳は満丸で真っ白。鼻も口も見当たらない。
底が無い何処までも白い其の瞳が、近づく勇気も無いくせに好奇心に負けて覗きを働いている僕の方を向いた。
どくんと心臓が跳ねるのが分かる。全身の血が逆流し、毛穴という毛穴が開かれていく。
(駄目だ! に、逃げなくては……)
真っ白な瞳に飲み込まれていくようで、僕は震える足に必死で命令してその場を逃げ出した。
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