第8話

 暗く静かな世界で心を静めていれば、ふと何気ない疑問が湧き上がり、館長に向かってそれを訊ねる。

「瞳が瞳になったって言ったよね? ということは、今の館長は昔の館長とは違う、別人って事になるのかい?」

 東郷の言葉に館長の瞳は細くなり、口の両端がくいっと瞳に向かって引き上げられた。

「確かに言いましたが、どうしてそのように思うのでしょう。私は私ですよ」

 ひどく穏やかな笑顔で、しかし、ざわついた空気があたりを包み、その気配を分かっていながら東郷は続ける。

「しかし、館長の話を思い出してみれば、最後には部屋を眺めていたその視線がまるで館長自身を乗っ取ったという感じに聞こえたんだけど」

「いいえ、私はそのようには一切言っていませんよ。私の思考を否定することなく、それは肯定しながら私の中に入ってきたのです。乗っ取るとはその人の何かしらを奪い取って支配下に置く事ではないですか?」

「うん、いや、その部分ではそう言っていたけれど。しかし、代って館長の瞳が瞳となったんだろう? その言い方はまるで……」

 たじろぎながらもなんだか納得のいかない自分の考えを館長にぶつけてみようと頑張っている東郷に館長は少し葉巻のヤニで黄ばんだ歯を見せ空気を漏らして笑った。

「貴方は本当に素直な方ですね。その言葉をそのように言葉通り素直に受け取ろうとするのですから。でも、その解釈は間違っています。私は別にあの視線の支配下に置かれ、それにしたがって今、ここで館長をしているわけではありません。あの瞳は無理やりに私を支配し、掌握しようなどという無礼は一切しなかった、いや、違いますね、出来なかったのです」

「出来なかった? 何故?」

「わかりませんか? 私は私、それは不変な物だからです」

 幾度と繰り返される「己」という意味の「私」という言葉。しかし繰り返されるたびにそれが一体何であるかが分からなくなっていくようで東郷は眉間に皺を寄せたまま考え込む。

「貴方は素直に難しく考え過ぎなのです。不変というのはそのままの意味で『変わらない』という事。どのような『私』でも『私』が『私』であることに変化はありません。変化したと思うのであればそれはその方の私を見る目が変わっただけの事。根本の、産まれてきたときから持っている資質、自分という人間ががらりと変わる者などそう居ませんよ。自分で変わったと思うのであればそれは表面上の事であるか、隠していた、もしくは隠れていた資質がそのまま表れたに過ぎない」

 嗤笑を浮かべて言う館長に東郷の表情はあまり晴れやかではなかった。館長の言葉に素直に納得する事が出来ず、眉間の皺をさらに深く刻んで自分の考えを頭の中にめぐらせる。

「本当に素直すぎるというのも難ありですね。とても簡単な事なのに、事柄は理解できず、表情は素直に私の言うことは納得できないと物語る。私の話はそれほどややこしい物でもないのですが、分かりませんか?」

「理解出来る、出来ないじゃない。人は不変じゃないと僕は思っているから不変といわれて少し納得できないだけだよ。人は変われる、どんなに悪人だろうと善人になりえるし、善人も悪人に落ちる。誰が見ても、本人でも人として変わったとわかるはずだ」

「あぁ、なるほど。しかし、それも私にとっては不変です。悪人が善人に、はたまた善人が悪人に、それは全て、人として善と悪の両方を根本の中に持ち合わせているということなのです。ただ、表面上に出てくる顔が善人であるか、悪人であるかの違い。表面が変わることを人は人が変わると称するだけの話。人はゼロでは生まれてこないのですよ。そこに在るという事がゼロではないことの証拠であり証明である。ありとあらゆる細胞、感情、理性、知性、全てを持ち合わせて生まれてくる。それをどう面にあらわして自己としていくかはそれぞれですが。故にたとえば自分は穢れが無くなり清らかに真っ白になったなどという人の言葉を私は信用いたしません。穢れはそれ、そこにあり、ただ白い色で埋めて見えなくしたにすぎないのですからね」

「なるほど、お得意の源流の話か。しかし、だとすれば館長が感じていた視線とは一体なんだったということになるのだろう」

「ですから、先ほどから申し上げているでしょう? あれは。私です」

 暫しの沈黙の後、館長の口からこぼれた言葉に東郷は納得したような、そして、訳がわからないような、不思議な思考で館長を眺めた。

「私が忘れてしまっていた私の源流。私が私であるために必要であったのに、切り捨てなければ生きて来られなかった断片。気付かなければならないというどこか焦りにも似た感情があのようにして浮き出てきたのでしょう」

「では、今の館長は館長があるべき姿でここに存在していると?」

「さぁ、どうでしょう? 私にもわかりません。だからこそ、こうしてこのように不思議に満ちた博物館の館長をしているのかもしれないですね」

 破顔一笑した館長はゆっくりと立ち上がり、階段を下りていく。一言も掛けられることなく下りていく館長に慌てて足をもつれさせながら後を追った東郷。一時期ミイラのようだったとは思えぬ足取りで東郷を後ろにおいていく館長が、ふと、二階で立ち止まり振り返った。

「東郷先生、帰られるのであれば良いお茶菓子がありますからお持ちください」

 是非に、そう付け加えた館長の言葉に東郷は少々戸惑う。帰られるのであればと言われたが実際の所気味の悪い自分の家には少々帰りたくないと思ってしまっていた。ただ、取る物もとりあえず出てきてしまっているからホテルなどは無理だろうし、友人も急な来訪を喜んでくれるかどうか。結論としては帰らなければならないのだろうけど、館長の言う様にお茶をという気分になるのだろうかと返事を躊躇い、代わりにため息をついた。

「お帰りにならないのですか? まぁ、その気持ちも分からないではないですが。そうですね、煤にお茶菓子をすすめて一緒にお茶を飲んでみてはいかがです? 逃げるのではなく、対峙してみるのもまた一興」

 小さく含み笑いをした館長の態度がまるで楽しんでいるように見えて東郷の機嫌は悪くなる。

「……なんとも、人の不幸を喜んでいるようだ」

 思わず呟いた東郷の言葉に館長は首を傾げて其れのどこが悪いのだろうと言わんばかりの表情を浮かべた。

「どんな事も楽しまなければ楽しくないでしょう? 怖い、苦しい、辛い……、陰の感情を陽の感情に変換できるのも人ならでは。何が楽しくて何が辛いか、それを決めるのは他人ではなく自分。でしたら折角です、陽の感情が多い方が良いとは思いませんか?」

 館長の微笑みは優しく微笑んでいるように見えてそうではなく、何処か東郷の考えを否定し、嘲笑っているよう。東郷は反論したいわけでもなかったが、何か一言言い返してやりたいような衝動に駆られて口が開いた。

 しかし、自分の脳細胞を回転させて駆使しても館長を黙らせることが出来るだろう言葉が出てくることは無く、無理やり茶菓子を持たされ、背中を軽く叩かれて博物館を後にした。


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