第9話
強引に追い出されるようにして博物館を後にした東郷は、暫く寂れてしまっている駅前通りをうろつき、ふと目に留まった僅かに端っこが腐りかけている木製のベンチに腰かけて膝に置いた茶菓子を見つめる。
帰る場所はあるが、帰りたくない。まるでずっと昔に通り過ぎてきた思春期の頃の自分の感情を抱きながら、東郷は背中を背もたれに預けた。みしりみしりと今にも割れ崩れてしまいそうな軋みが響き、ほんの僅か預けただけで元の姿勢に戻る。
駅を降りたロータリーにあるベンチ。人通りも少なく腐りかけのベンチに腰かけていると、何をしてなくても目立つように思われるが目の前を通り過ぎていく人は誰一人として見ようとしない。足早に商店街の方へと走っていく。このベンチも人から忘れられてずいぶん経つのだろう、仲間のベンチは既に木製の部分が腐ってしまい、金属の骨組みしか残っていない。かろうじてこれが残っているのは駐輪の屋根が少しこちらまで伸びてきているおかげだろう。
このまま、ここに居れば自分も同じように忘れ去られていくのではないかと、ありえないことを考えてみたりもしたが、それは単なる現実逃避だと東郷は溜息を深くついた。
どちらにしても、今死ぬつもりはない。生きていくのならば自分の住処には戻らねばならない。すると、嫌でもあの煤と向き合わなければならない。
「しかし、本当にあの煤は一体何なんだ?」
膝に乗せた茶菓子の箱を見つめながら東郷は呟き、出てくる少し前の様子を思い浮かべる。
あの煤は自分の座布団に向かって進んでいる、ドアでも自分自身でもなく。だったら、自分の部屋の周囲に入らないようにして煤との対峙を避ければいいのではないか。何度となく東郷はそう思った。しかし、何故か家の中に入った途端、胸の中がざわつき、背筋がもぞもぞと蠢いてどうにも居てもたっても居られなくなり煤の様子を窺いに行ってしまう。
今、再び煤との対峙をしないと決意しても、おそらく自分は煤の様子を窺いに行くだろう、そうわかっていたからこそ、帰るに帰れなくなっていた。
「だからといって、何時までもここに居るわけにもいかないな。やつは、きっと、もう僕の座布団を占領している頃だろう」
膝に置いていた茶菓子を手に、最後の一つとなりながらも自分の存在を主張しているベンチをなるべく壊さぬよう立ち上がった東郷は大きく吸い込んだ息を一気に吐き出し、つま先を自宅の方へと向け歩き出す。道の途中、何度か足が止まったり別の方向へと向かったりしたが、そのたびに思いっきり息を吐き出して、自分の中にある何かを奮い立たせるように自宅に帰ってきた。
門扉の前に立ち、自宅を見上げるように全体を見た東郷は、自らの家がなんだか黒い雰囲気に包まれているような気がして、唾液を喉に流し込む。瞳を閉じ、数度の深呼吸の後、油が切れて軋みを上げる門扉を開き、玄関のドアノブを回した。
「ただいま」
両親や使用人達が居た時からの習慣で、誰も居ない古家なのにそう言って中に入った東郷は手に持った茶菓子を見つめる。腹の真ん中から押し上げるように湧き上がってくる不安が吐き気を呼び、ざわざわと笑い始める膝は逃げ出したい衝動を増幅させた。
「逃げてどうする、ここは僕の家だ」
自分に言い聞かせるように呟き、全てをごくりと飲み込んで東郷は自分の部屋へ向かう。じんわりと右手で開いたドアのその先には自分の座布団に綺麗に正座して机に向かっている影法師の煤の姿。
東郷が居ることに気づいているのかいないのかわからないが、微動だにせずじっと座っている。
一度ドアを閉めかけた東郷だったが、左手に持っている館長がくれた茶菓子に目をやりドアノブを握りしめた。胸を張るように鼻から息を吸い込み吐き出して瞳を閉じる。足が震えているのがよく分かったが、意を決し一歩、廊下と部屋の境界線を越えた。
もう一歩踏み出せば完全に体は部屋の中。物音も立てたし、自分の気配もしているはずだが影法師は動かない。
襲い掛かってくるわけでもなく、じっと自分のいつもの場所に腰を下ろしている影法師に少し安堵の息を吐き出した。
自分の仕事用の机とは別に、来客用にと置いてある小机に茶菓子を置き、廊下から保温ポットと湯呑、急須を持って入ってぬるめの茶を二つ用意する。
茶菓子の風呂敷を開ければ真っ白な兎の饅頭が十二個入っていた。
机の真ん中に饅頭、饅頭を挟んで対照に湯呑が置かれ、東郷はちらりと影法師の後ろ頭を眺めて声をかける。
「……少し、休憩しないか?」
一瞬、ざわりと砂が揺れ動くように動いたかに見えた影法師だったが、返事はなくこちらを向くこともない。
「いらないということか?」
影法師は一向に動きを見せない。
「まずいかもしれないが、折角茶を入れたんだ。飲める飲めないは別にして、飲む素振り位見せてもいいんじゃないのか?」
始めこそ、怖々話しかけた東郷だったが、不思議と話しかけることで恐怖感が和らいでいくのを感じ言葉を続けた。
「僕の席を占拠しておいてずいぶんな態度だな。ずっと、座っていたのか? ここで何をしている?」
相変わらず影法師は動かず返事も返してこない。
「お前が現れてから仕事は出来ないし、お前の存在が気になって仕方が無い、生活にも支障が出る。そろそろ、答えるなり、目的が何か教えるなりしたらどうだ。一体お前は何なんだ? 僕にはそれを知る権利があると思うが」
このころになれば、東郷の中にあった影法師の存在の気味悪さも消え、返事が無いことに憤りさえ感じていた。
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