第6話

 館長は語る。


 この博物館、もちろん入館料は頂いておりますが、それは作品管理のためだけで私の収入になるわけではありません。まぁ、来館者も少なくなった今となっては入館料でまかなっていけるはずもなく、個々の管理費、その他の費用などは私の個人資産から出ております。

 私がそこまでしてこの博物館を経営している理由は何だと思います? と、問われたところで分かる人はいないでしょうね。

 それは数十年前の事です。

 その頃の私は偏屈で、人が違うといえばそうだと言い、そうだといえば違うと言う、本当に嫌な爺でした。嫌われておりましたよ、本当に。私を殺したい、そう思うものも多かったでしょうね、それくらいに私は人の言うことを利かず、人を見ることもなく、声に耳を傾けるなど一切しなかった。

 本来ならば私の周りに人など寄ってこないのが当然であり、寄りたいと思うものなどいるはずがない老人です。しかし、私の周りは人にあふれていた。其れはなぜなのか、そんな事考えるまでも無い。人々が私の周りに居続けたのは、私に金があったからです。そして、その金を扱えるのは私只一人であり、それ以外の人間が触れる事は出来なかったから。人々は嫌ながらも私にへつらい、心の中では醜いほどに歪んだ表情を持ちながらも、表面上の笑顔を絶やさなかった。

 其れがわかっているからでしょう、私はより偏屈になっていきました。

 己が原因であり、己が改善されれば人々も変わっただろう、そんなことを当時の私が考えるわけもなく。私は悪く無い、悪いのは私の金に群がろうとする連中だと彼らを嘲り、罵っておりました。

 そんな時です。私は誰かに見られているような、不思議な感覚にとらわれたのです。

 仕事をしている最中も、来客中も、そして、風呂場やお手洗いでも。とにかく私を見つめ、何も言わず視線を絡ませてくる。

 まんじりと私の一挙手一投足、全てを見ている視線の力強さ、確かに存在するのに辺りを見回して探してみても、誰が見ているのかつきとめる事は出来なかった。

 初めこそ、「気のせいだ。どこの誰が、何が楽しくてこんな老人の老いぼれた体や排便排尿を覗くのか」「私は自分が思っているよりも自意識が過剰なのかもしれない」と何度も言い聞かせて虚勢を張っていたが、浴びせられる視線は日を追うごとに鋭く、痛くなってくる。

 金を払って探偵やボディーガードを雇い周囲に目を光らせてみたが、探偵は、

「どんなに調査をしても何も出てきません」

 と報告し、ボディーガードもまた、

「本日は何もありませんでした」

 と確実に私には視線という耐え難い状況が降り掛かっているのにそう報告してきました。幾人雇おうと結果は毎回同じ。

 次第に私はその存在に怯えるようになります。

 しかし、まだその段階では怯えよりも私は自身の自尊心の方が勝っていて、偏屈で頑固、怖いものなどないのではないかと言われ、そう思われている自分のままであろうと怯えの心を閉じ込めました。が、視線は私がそう思いこもうとすればするほど容赦なく私を突き刺し、怖いという思いが私から離れることはない。

 私は平静を保つために、平静を装いながら、身内、知り合い、使用人、さらには取引相手に至るまで一つの質問を投げかけました。

「何をされるでもなく、姿を見せず、ずっと見つめられる視線を感じ続けたなら、お前はどうするか?」

 それに対する答えは殆どが同じ。

「何もされず、見ているだけであるならば良いではないですか」

 そう、何もされず見ているだけ。確かにそれだけを聞けばそれでいいではないかと思ってしまう。

 しかし。

 別に何か言葉を掛けられるわけでもない。

 別に何か嫌がらせを受けているわけでもない。

 つまりそれその目的が皆目見えてこない。

 ただ、見られている。

 しかも、あちらはどんな場所居ようとも私の存在を確認しているのに、私自身は私を監視するその存在を掴む事も見ることもできずにいる。

 それがどれほどの恐怖を私に味あわせているか、貴方に分かりますか? 自らの身にそのようなことが降り掛からねば恐らくは「良い」と言った人々は理解しないでしょうね。「ただ、見られている」それがどんなに人を追い詰めていくかという事を。

 その生活が繰り返されるうち、偏屈で頑固、己自身が正しく他は許さぬという傍若無人な私は消え去り、ただの視線に怯え震える私が存在するようになりました。


 そして私は、閉じこもるようになります。


 自室に閉じこもり、雨戸を閉め、窓には鍵をかけてさらに板を打ち付ける。隙間という隙間をふさぎ、スタンドライトをつけてじっとしていた。明るければ視線に自分の居場所を教えてしまっているような気がしたからです。でも、真っ暗闇も歩くのには困るでしょう? 自室には様々な家具が置いてありますから、薄明かりの中で過ごしておりました。しかしそれでも視線を感じる私は昼間、光が差し込む隙間を見つけては目張りをし、ドアも固く閉ざします。

 この時の私の思考は「見られるという状況をなくせばいい」それだけでしたから、とにかく自分のいる空間を外から見せない様にと必死になりました。実際はそんなことをしても無駄であると今現在ならばはっきり分かるのですが、当時の私には分かっておりませんでした。

 どんなに部屋の目張りをしても、どんなに暗闇に近い状況で居ても見つめられている感覚は私の中にあり、私は屋敷のある敷地の一角に、一軒の家を建てさせることにしました。それは十畳ほどのスペースの仕切りも無ければドアも何もない一部屋の空間。その仕切りの無い空間にトイレと風呂を設置させ、小さなキッチンも設けさせ大型の冷凍庫に食物を入れました。窓は無く四角い箱にある外界とのつながりは玄関の扉ただ一つ。

 周りの人間は私がおかしくなったと、狂ったのだと噂し、そして、一人また一人と私の元から去っていく。偏屈な金持ちの時は笑顔を見せた連中も、狂った金持ちは気味が悪いようで。

 金。

 何でも叶えてくれる、まるで魔法の道具のようですが、その魔法の道具は視線から私を救ってはくれませんでした。

 外界と唯一繋がれている玄関扉の隙間すら私には恐怖になり、昼の光が入り込んでくるとその隙間を埋め、現れる隙間を埋めていくほどに部屋の中の暗闇は濃くなり、薄明かりですら視線に私の居場所を教えている気がしてならず、とうとう灯りの無い生活を。自分でも自らの手がどこにあるのかわからないほどの暗闇が訪れます。しかし、それでも視線は私を解放する事はない。常に部屋の何処かからか私を見ているのです。

 見えないはずなのに……、見ている。

 布団を頭からかぶり、浴びせられる視線から少しでも逃れようと無駄な努力を行う私を嘲笑うような視線。

「いい加減にしてくれ! 私が、私が何をしたって言うんだ!」

 耐え切れず、心の奥底から自然と湧き上がってくるように叫び声を上げたのは私が箱の中に閉じこもるようになって二週間が経った時でした。

 頭がおかしくなる、いや、もう自分は頭がおかしいのかもしれない。そんな思いの中、解放されることのない苦痛から出た偽りの無い叫び。叫び声を上げて暴れる私は、私を知っている人が見れば誰だろうと首を傾げ、一向に私だとわからなかったことでしょう。

 私は、誰よりも他人から見られる自分を気にしていた。身なりを整え、髪は長すぎず短すぎず分け目もきっちりと。髭の手入れから、指先の爪まで、手入れを怠ったことは無かったのだから。

 奇声を上げて手に当たった何やらわからぬものを振り回し、軋みをあげて板切れが裂けていくような音が響けば数週間ぶりの太陽の光が暗闇に差し込んでくる。光りに照らされ鏡に映しだされた私は、もはや私の知っている私ではなかった。

 痩せ衰えた汚らしい、肩を何度も上下させて息を切らした老人が一人。

 皺が今まで以上に深く刻まれ、伸びた髪と髭は艶をなくしただ乱れていた。私は何処かを怪我しているのだろう、自分の周りは血色に染められている。妙な興奮状態の中に居るせいなのか、頭がおかしくなっているせいなのか、赤い色の中に立っているのに痛みを感じることは無く、一体どこがどのように怪我をしているのか皆目分からなかった。

 荒い息遣いの途中、自らの唾液で咳き込み、その場に座り込んでしまった私にあの視線は未だにまとわりついてくる。

 そう、視線は、私が何をしようと、私に何が起ころうとも、ただ私を見つめる。

「何故だ、何故私に未だお前は纏わりつく……。何が気に入らない」

 呟く私の質問に視線が答える事はない。

 がくりと頭を垂れて目に入ってきた私の手は深く皺が刻まれ、ミイラの様に干からびて細くそして震えている。大きな物音が響き渡ったはずであるのに、この汚らしい老人の元にやってくる人の気配は一つもない。膝をついて座り込み、体の両側にだらりと力なく腕を垂らして私自身の屋敷を眺めれば、それはまるで幽霊屋敷の様でした。

 そして、少しの物音もしない静まり返った屋敷の気配が、自分は本当に一人きりなのだということを改めて認識させた。溜息ではない、細く長く息が吐き出されれば、私の視線は何処を見るわけでもなく虚ろ。

 そう、私は「私」という魂が抜けて、私というものになった事にようやく気が付いたのです。


 じっとり、じとり。


 初めは……。

 静かにしていた。分かっている物を分かっていないと、存在しているものを存在していないと言いきかせ、気にしないようにと気にならない振りをして。その態度こそが認めているというのに、何とも滑稽な。

 暫くして……。

 やっと、その存在を認め、頭の奥底にまでそれはいるのだと通達した。しかし、片隅ではまだ存在を否定し、その存在を捕捉することで納得しようと必死になる。捕まえられる存在でないと気づいていながら、何とも愚かな。

 最後に……。

 存在を認めながらも捕らえる事のできない物を理解できず、己の滑稽さ、愚かさを棚に置き、ただ向けられてくる視線に怯え、隠れ、恐れ、半狂乱に訴える。何とも愉快で、何とも痛快な。

 分かっていたはずなのです、初めから。結局何をしても、していなくても結果は同じだという事を。

 ただ、視線は私を見つめる。そう、ただ見つめているだけなのだから。

 大声で笑いだしたいそんな気持ちが湧き上がってきましたが、若くもない体で暴れまわり、疲労感が体を支配して口の端を引き上げることもままならない。

 何を見ているのか、ちゃんと見ているのかすら分からない。

 ただ、ゆっくりと深呼吸をするように息を整え、指先ひとつ動かさない私は、初めて自分を見つめている瞳と視線を絡ませたような気がしていました。形の無い其れは私が向けている瞳の作用をじんわりと侵食していく。私は逃げることもできずに身をゆだね呑み込まれた。

 疲れ切ったのだろうか、それとも、空っぽになってしまったからか、私自身の思考は全く無い。考えようとすら思わないのに瞳は私の脳内に入ってきて私の思考ではない思考を無理やりに共用する。

 瞳の思考、それはごく当たり前に思えるが、今までの人生を覆すような思考。

 自分の生き方を否定されたわけではない、故に腹立たしさもない、かえって心地良いくらいでした。瞳は私という「私」を肯定しながら自らの思考を私に流してくる。不思議な感覚はほんのわずかのようでもあり、数十年という時を超えたようでもあり。全ての思考が交差し終わったとき、瞳の存在は部屋の中から無くなってしまいました。

 そう、部屋の中からは……。代わって、私の瞳が瞳となり、私は突き動かされるようにこの博物館を建て、運営することになったのです。

 

 静かに、館長は葉巻を大きく吸い込んで、手に持っていた携帯用の灰皿の中に放り込んで語り終る。

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