#99 意義
「死んだ?」
沖野の発した声が室内に響いた。何人かの同僚がちらりとこちらを見た。正面で渋い顔をしていた三吉が頷いた。
24時間の勤務を終え、連休を取っての日勤。出勤前から沖野は何か嫌な予感を抱いていた。24時間勤務を終えてからモヤモヤとした気持ちが晴れず、身体を休めようにもあまり眠れなかった。身体は習慣通りに署へと向かった。道中のコンビニで買ったエナジードリンクのプルタブを起こしたところで三吉に呼び止められた。
死んだのは3か月ほど前に沖野が捕らえた被疑者だった。ちょうど、猪瀬が亡くなってすぐのころだったからよく覚えている。通り魔だった。墨田区の路上で通学途中の高校生らを襲った。フルフェイスヘルメットをかぶってバイクに乗り、歩道に乗り上げて後ろから金属バットで殴りつけた。バットが直撃した2名のうち、1名は搬送されて間もなく死亡した。
男の身元はほどなくして割れたが、確保まで2日を要した。巧妙に男は身を隠し、次の機会をうかがっていた。三吉と沖野は被害者の通っていた高校の周辺を張り、まんまと現場に戻ってきた男を確保した。
男を捕らえたその日は、亡くなった生徒の父親が学校を訪れていた。校門前に人だかりができ、騒ぎを知った父親が駆け付けて被疑者に殴りかかる場面があった。彼を制したのが沖野だった。興奮し、「殺す」「死ね」と口走る父親は自分よりも頭ひとつかふたつは大きかったが、彼と被疑者の間に立ち、なんとか制止した。何発か頬を張られ、しばらくは痣になった。父親は公務執行妨害で逮捕されたが、沖野の口添えもあり不起訴処分になった。
その被疑者が、公判開始を待たずして自殺した。支給されている衣服を使って首を吊った。沖野の連休初日の昼過ぎだったらしい。ということはマスコミにももう話は流れているはずだ。沖野は部屋の隅に置かれているテレビをつけた。朝のワイドショーでちょうどそのニュースをやっていた。見出しは「墨田区通り魔事件 被告が自死」。どう沖野に声を掛けようかと室内にいる誰もが気を張るなか、重々しいアナウンサーの声が響いた。
『
画面が変わる。あの日、沖野の制止を振り切ろうと拳を振るった被害者の父親が映しだされる。
『ずっと苦しいですよ、あの日から。捕まった日にね、僕、手の届くところにあいつがいたんですよ。あのとき殺しておけば良かったんだ』父親は涙を拭いつつ続ける。『死んだでしょ、生まれ変わってくるんでしょう。生まれ変わっても同じことをするんじゃないですか。さっさと死ぬって、そういうことでしょう。死んで全部チャラにするってことでしょう。また近いうちに生まれてきたらどうなります。また新しい被害者が出るんじゃないですか。怖いですよ。いつ生まれ変わってくるのか怖くて仕方ない。だから僕は、あのとき何としても……』
続いた言葉は音声が切られていた。放送上そぐわないものだったのだろう。息の根を止めておけばよかっただとか、そういう類の。
沖野はその場から動けずにいた。自分の起こした行動が正しかったのか自信が持てなくなってしまっていた。
被害者の父親に傷害や殺人未遂の前科をつけたくなかった。犯人を殺して気が済むとも思えなかった。だから殴られてでも止めた。けれども犯人は裁判を前にして、まるでゲームをリセットするかのようにこの世から立っていった。遺族に「生まれ変わったら復讐されるのではないか」「また同じことをしでかすのではないか」という種を植え付けたままで。
――怖いですよ。いつ生まれ変わってくるのか怖くて仕方ない。
父親の声が蘇る。自分の行動は、かえって遺族らに深い傷と恐怖を与えたのではないかとうすら寒いものが背筋を這いあがってきた。
スタジオのコメンテーターが思い思いの意見を話す。耳が滑ってきちんと聞き取れずにいると、三吉がリモコンを取り上げてテレビを切った。
「行くぞ」 肩を掴まれ、くるりと反転させられる。「今は職務に集中しろ」
言い含めるように声を掛けられ、沖野は頷くしかなかった。
その日の勤務中、何度も浮かんだ疑念を沖野は振り払った。警察官として正しい行動だったはずだ。だが遺族の気持ちには添えなかった。なぜ依田は自殺したのだろう。生まれ変わったら彼はなにを思うのだろう。もし記憶を思い出したら。通学途中、わけのわからないまま殴られて命を奪われた少年はどんな気持ちだっただろう。彼が転生したら何を思うのか。
考えは止まらず、まとまらなかった。上司や同僚が慰めの言葉を掛けてくれたが、そのどれもに曖昧な返事しか返せなかった。相棒の三吉は、目を離した隙に沖野が何か仕出かすのではないかとばかりに沖野が席を立つたびに注視してきた。大丈夫だと言う代わりに曖昧に彼に笑ってみせた。
定時後、三吉から夕食の誘いを受けたが丁重に断った。心配そうな顔をする彼に、少し身体を動かして帰るから気にしないでくれと言い置いて先に署を後にした。
電車を乗り継ぎ、目的地に着いたころには日はとっぷりと暮れていた。本来まっすぐ帰るはずだった日で、外を長時間歩くことを想定した服装ではない。寒さが上着を突き破ってくる。通りの家々には灯りがともっていた。
目当ての家は駅から10分ほどの場所にあった。何度も手をすりあわせ、猫背になって進んだ先に、鷹野原家はあった。灯りはなく、売却の看板がかかっていた。がらんとしている。熊岡の襲撃で壊された塀は中途半端に直されてはいたが、かえって物寂しさがあった。
ひっそりとした家の外観。カーテンが外されているが、こう暗くては中の様子は分からない。一家は千葉方面に越したと風の噂で聞いた。家と敷地が売りに出されたのは最近のことらしいが、四方を住宅に囲まれたこの場所は駐車場にもできず、かといって殺人事件が起こった場所とあればなかなか買い手がつかないだろう。
猪瀬の喫茶店「シンクレール」を思い出した。間もなくあそこは更地になる。子どもを支援するために猪瀬が築いた城は崩され、じきに喫茶店があったことを知る人も減るだろう。
門扉の前で立ち尽くす。鷹野原ゆかりを襲った凶事が思いだされる。彼の息子に葬儀の場で掛けられた言葉も蘇った。
不審者情報が寄せられていたのに十分な対策を取れなかった。沖野と三吉は何度も上に掛け合ったが、上司はそう気にするものではないといったふうに跳ねつけた。その上司は責任を取るかたちで閑職に追いやられた。かえって沖野の気持ちは塞いだ。自分たちがもっと強く言っていれば違ったのではないか。鷹野原ゆかりは死ぬことなく、神崎真悟も顔に一生残る傷を負わずに済んだのではないか。
三度目だ。鷹野原ゆかり、猪瀬志保、そして依田。自分がもう少し動けば行く末が変わるはずだった人々。沖野はその場にうずくまった。膝を抱え、ふうっと息をつく。
「違う、四回目だ」
細い声で否定する。今世では三度目。前世を含めれば四度目だ。身をちぢこめる。無力感と情けなさで今にも消えてしまいたいのに、自分は今も息をしている。
夢で何度も見た女生徒の顔が浮かぶ。穏やかな性格の子だった。肩より少しばかり長い髪をいつも一つに結っていた。笑うとえくぼが頬にできて、人の話を聞くときは相手の目をしっかりと見つめる子だった。
不思議なことに、前世の自分の名は思いだせなかった。入職時に受けた遡臓検査では希望があれば前世について詳細に教えられるとも言われたが、望まなかった。自分で思い出したかった。なのに、何度夢を見ても思い出しても、自分の名前が分からない。夢が鮮明になってもなお、彼女が自分の名を呼ぶときは音声が途切れる。
彼女からは、苗字ではなく名前で呼ばれていたはずだ。何という名前だったか、思い当たるものがない。今の「伊織」という名のように中性的な響きではなく、一郎や雄太といったような、男性をすぐ連想する名だったはず。何度も呼ばれていたのに、まるで記憶がわざと思いださせないようにしているかのようだった。彼女の名は漢字の表記までしっかりと覚えているというのに。
彼女は目立つ存在ではなかったが、沖野の目を引いた。いつも目で追っていて、しだいに目が合うようになった。何かのきっかけで話して、共通の話題が見つかってよく話すようになった。高校生の淡い恋愛。今となってはその一言で片づけられるが、当時は彼女の一挙一動にやきもきしていた。他のクラスの男子と話している姿を見たら付き合っているのかと疑った。他の女子と雑誌を見て流行りの俳優の端正な顔について話しているのを耳にして、自分は彼女の好みの顔立ちではないと暗い気持ちになったこともあった。
それほど気にかけていたのに思いは伝えなかった。進級しても持ちあがりでクラス替えがないから、振られたら気まずいと思っていた。馬鹿な話だと思う。放課後に二人で話しこんで、話題が尽きぬまま並んで歩き彼女を自宅まで送り届けていたというのに、それほど心を許されていたというのに。クラスメイトからも「まだ付き合ってないの?」と言われたし、送り届けた日には近所の男が「彼氏?」とからかってきたのにもかかわらず。とうとう告白する勇気は出せなかった。ただの友達のまま、彼女を永遠に失った。
寒風が吹いた。空き家の玄関先に一人でうずくまる男。通報されるかもしれないと思い、よろよろと立ち上がる。ひどく億劫で、全身にだるさがのしかかっていた。懸命に両足を交互に出して、なんとか駅までの道を歩いていく。
その日の放課後は、体育祭の準備があった。本当は彼女と話していたかったけれど、委員の仕事があって校庭で作業をしていた。大半の生徒が下校していき、徐々に日が暮れていったさなか、彼女が声をかけてきた。
――○○くん、まだやってくの? 私、もう帰っちゃうよ。
弾かれたように顔を上げて笑った覚えがある。今日は一緒に帰ってくれないの、と拗ねているふうに聞こえて調子に乗りそうになった。何と答えたかは覚えていない。何事か言うと、彼女は手を振って校門を出て行った。その背に、暗いから気をつけて帰れよ、と言ったことは確かに覚えている。彼女が振り向いて、ひらひらと手を振ってくれたから。
通っていた高校は
その晩から彼女は行方不明になった。家に帰らず、捜索願が出された。翌日のクラスはものものしかった。担任がその事実を告げると、沖野は自分が最後に見送ったのだと申し出て、彼女が帰った方向とその時刻について警官から事情を聞かれた。通りを入っていった車の色と車種は特に入念に聞かれた。灰色のワンボックスカーで間違いないかと何度も念を押された。夕暮れで色味を勘違いしているのではないかと、同じ時間帯に同じような車種の車を同じ場所で見せられもした。不安にざわつきながら、最悪の想像をしてえづきそうになりながらも証言した。間違いないです。灰色のワンボックスカーでした。
体育祭が開催されるはずだった日、担任の女性教諭が泣きはらした目でクラスに入ってきた。その先はおぼろげにしか覚えていない。遺体で見つかった。そう話した瞬間に教諭が泣き崩れて、何人かの女生徒がわっと声をあげて泣いた。自分がどういう振る舞いをしたのか、何も思いだせない。次の瞬間の記憶は、自宅リビングでニュース映像を見ているものだった。
家に帰らなかった彼女は、近所に住む男の家で最期を遂げた。護送される男を画面ごしに見てハッとした。彼女を送った日に、「彼氏?」とからかってきた男だった。上下灰色のスウェット姿で警察車両に乗り込む男は、どこから見ても誠実そうで、優しそうだった。が、その男がネット上で彼女に対して歪んだ愛情を綴っていた。従順そうな女子高生を意のままにしたい、その肉体を食べたいといった意味のものだ。
衝動を抑えられなかった、とありきたりな理由がテレビから流れてきて、掴んだリモコンで画面を叩き割った。歪んだ音声で、アナウンサーの発した「バラバラ」という単語だけが明瞭に聞こえた。通夜でも葬儀でも、彼女の棺は開かなかった。
事件後は事情を聞きに来た警察官が訪れて、しばらく話を聞いてくれた。事情を知る彼にだけは親にも言えない気持ちを吐露できた。彼の影響で警察官の道を志し、定年まで勤めあげた。多くの者に手錠をかけてきた。許せないという一心で、何としても追い詰めるという気概で勤めてきた。
その思いは今世でも変わらない。なのにどうして、こうもむなしいのか。
改札を通る。入れ違いに改札外へ出て行った女性の髪形が彼女に似ていて、思わず沖野は振り返った。足早にロータリーへと向かう彼女が無事に自宅まで辿り着くことを願った。
万世の轍 須永 光 @sunasunaga
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