鉄槌
#98 予感
街を行く人々が皆、少しだけ猫背になって歩いている。吐息は白い筋になってはすぐに消える。十二月に入り、東京も本格的に寒くなってきた。
「今日は一段と寒ぃな」
横を歩く
猪瀬の店は今も店舗の形だけを残している。月命日には多くの花が手向けられているが、つい先日神崎が訪れると取り壊しが告知されていた。年が明けたころには、あの場所は更地になる。
猪瀬を拉致した主犯・
三カ月の間、自らの意思で彼女の手首を落とした行いの是非を神崎は考え続けている。処遇は変わらなかった。やむを得ない判断だったと上層部は結論づけ、ICTOに籍を残している。日々働き、非番の今日は沖野と連れ立って食事に出かけている。
だが、ふとした瞬間に風間の顔が思いだされる。あれは本当に正しかったのか。あれは本当に自分の意思だったのか。
隣の沖野が、勤務中に見かけた面白い人物の話をしている。耳はきちんと傾けつつも、心はどこかに飛んでいる気がした。
と、沖野は不意に前方へ走りだした。いったいなんだろうと自分よりも少し低いその背を追うと、視線の先にはきょろきょろと横断歩道の前で誰かを探すそぶりを見せる男児がいた。4歳か5歳くらいで、空色のリュックを背負っている。探すことに気を取られてふらふらとした足取りの男児をそれとなく歩道側に寄せると、沖野は目の前にしゃがみこんだ。
「どうした? 迷子か?」
「ママ……」
「ママと来たんだね。じゃあ、一緒に探そうか。お兄さんに名前を教えてくれる?」
職務で子どもとも接する機会が多いのだろう、沖野はあっという間に男児から情報を引き出した。彼の名前、母親の名前、どこから誰と来たか、どこに行っていたか。それらを確認すると、神崎に対し、交差点を渡った先にある大型ディスカウントストアへその情報を持っていくよう指示をした。指示通りに動くと、ディスカウントストアの店員はすぐにどこかへ連絡を取った。息子がいなくなったと女性から相談があり、店員が探していたところだという。
5分もかからぬうちに男児は母親と再会した。謝意を述べる母親へ、沖野はまず男児が自らや母親の名を話せたことを褒め、道路に面する店舗での買い物では特に子どもに注視しておくようそれとなく言い含めた。男児へのフォローも忘れなかった。その手腕に神崎は尊敬の念を覚えた。自分だったらここまでスマートに動けない。
沖野は親子を見送ると、「間に合うかな」と時計を見た。少し早めに合流していたおかげで、目当ての店には予定通りの時間に到着した。
「沖野は根っからの警察官だな」
注文を終え、神崎は改めて称賛した。お世辞はよせ、と言うかのように彼はひらひらと手を振る。
「警察にいるから警察官らしくなるだけだよ」
「見てると安心する」
「何を? 俺?」
「そう」アイスコーヒーを啜った。「正しい人を見てると、安心する」
「そういうこと言う人ほど、詐欺に引っかかるんだ」
「素直に褒めてるんだから素直に受け取れよ」
勝手に褒めておきながら沖野に注文をつけると、彼は目を細めて笑った。どこか憂いを感じるような、少し作ったような笑顔だったが深くは追及しなかった。彼の心に何が影を落としているかは理解しているつもりだ。同じ影が自分にも落ちているから。
簡単な近況報告を交えての食事は和やかな雰囲気で終始した。仕事の話はあまりしない。したとしても、互いの職場にいる愉快な人の話くらいだ。彼とも面識のある人の話をしたほうがいいだろうと気を遣うと、どうしても
互いに、似た職種に身を置く知人はいない。その点で、自分の価値観が揺らぎそうになるとそれとなく相談ができる。神崎は些細な悩み――主に、愛想のかけらもない上官への接し方について――を彼に打ち明けたし、彼は彼で優秀なバディの足を引っ張っているのではという思いを吐露したことがある。解決策を提示するわけでも、共感するわけでもない。ただ聞き役としてお互いはベストな位置にいた。とはいえ、神崎は最大の悩みは話せないでいる。善良な市民を守るために、容疑者の両手首を斬り落とした是非を彼に問えずにいる。正義感があり生まれもって警察官たりえる彼に非難されるのを恐れている。そして「じゃあまた」と、何事もなかったかのように別れるのだ。
*****
夢を見る頻度が増えた。前世の夢だ。思いを寄せていた女生徒が殺される夢。朝のホームルームで、担任が言葉を選びながら伝える。全校集会が開かれる。女子たちが教室で泣き崩れる。花が飾られている。校門を出たところに、取材らしき車が何台も停められている。
「……野、沖野っ」
はっと目が覚めた。三吉がこちらを心配そうに見ている。その顔を見、すぐさま脳が状況を理解しだす。出勤日。24時間勤務の合間の、仮眠時間。官舎の仮眠室だ。
「大丈夫か、だいぶ魘されてたぞ」
「……すみません。起こしちゃいましたか」
「別にいい」
ベッドから這い出て、サイドテーブルに置いていた水のボトルを取って一息に飲んだ。ひどく汗をかいている。三吉は自分のベッドに戻る気配がない。早く戻ってくれないかと、自分のせいで起こしておきながら身勝手な気持ちが湧きあがる。
「最近、元気ないな」
三吉は向かいのベッドに腰かけて何ともないように言った。ボトルを元の位置に戻し、沖野は目を閉じて答えた。
「少し、思いだしてきたんです」
「いつからだ」
「……9月に入ってすぐ」
「あの事件のせいか」
「そうかもしれません。そうじゃないかもしれない」
「関係があるのか」
「……かなり」
短くやり取りを交わす。三吉には前世も警官だとは話していた。知人が事件に巻き込まれたとも。その詳細は語っていない。思いを寄せていたクラスメイトが殺されたとはなかなか話すのに勇気が要る。その勇気を彼に対して出せずにいる。
このところ、その出来事が、本当に少しずつではあるが思いだされていく。夢を見て魘されるたびに、刺激されたかのように、ぽろぽろと断片を落としていく。
どんな子だったか。自分はクラスでどういう立ち位置だったか。その出来事が起きた季節。学校の外装。よく話していたクラスメイトの顔。そういったものが不意に脳をちらついていく。その子の名も、自分の名も思いだせないというのに。
動悸がおさまらず、胸のあたりをぎゅうと掴む。何か嫌な事実を思い出しそうな気配がする。気配がするというのはつまり、自分には心当たりがある。思い出すと何か自分にとって都合の悪い事実がある。まだ
「思い出したくないんです」
細い声が出た。思い出せば自分を責めるかもしれない。また自分の無力さを知ってしまう。
猪瀬を気にかけていたのに救えなかった。
考えるごとに感情は膨らんで理性の蓋を押しのけてゆく。小さく息をつく。
三吉が足を組んだのか、衣擦れの音がした。
「焦るな」三吉は諭すように言った。「思い出したらどうにかなるほど、お前はヤワな奴じゃないはずだ」
「どうでしょう。案外ぽっきり折れるかもしれません」
「折れても自力で繋ぎなおす気概はあるだろう」
すんなりと言い切る彼の言葉がわずかに胸を軽くした。彼は続けた。
「助けられなかった人を忘れられないのは当たり前なんだ。助けられた人は無事に生きているわけだから。人間、どうしてもできなかったことばかり長く記憶しているもんだ。……だが、それに囚われて今できることをおろそかにするのは良くない」
顔を上げ、三吉の顔を見た。自分はひどい顔をしている自覚があった。見透かすように彼は言った。
「この先も警察官である道を選ぶなら、まずはしっかりと自分をケアしてやれ。寝るときは寝ろ。眠れないならネガティブなことを考えるな。自分でどうにもできないなら、専門機関を利用しろ。お前はこれから先も多くの人を助けられるだろう。お前自身をないがしろにしなければな」
「はい。……自己管理ができず、」
「謝るな」三吉が制した。「自己管理でどうこうできる問題じゃない。前世ってのはそういうもんだ」
「……はい」
おもむろに立ち上がり、三吉はポケットから端末を取り出して何か操作した。沖野の端末が通知を知らせる。施設の連絡先だった。
「警官専用のメンタルケアをしているところだ。口は堅い。同僚に知られることもないし、受診した事実は昇進に影響しない。自分で抱えきれなかったら行くといい」
「……ありがとうございます」
「まだ1時間ある。眠いなら寝直せ。俺も寝る」
ベッドに戻ろうとする三吉の左手に、わずかに開いた扉から漏れる光が反射してきらりと光った。結婚指輪だ。彼の妻は、結婚してすぐに妊娠したために指輪のサイズが合わなくなったらしく、結婚5年目の記念にと最近新調したばかりだという。4歳になった娘がジュエリーショップではしゃいで仕方がなかったと三吉は苦笑して話していた。
家族が大事だから、彼女らが好きなものが平和であって欲しいとも思う。昔はもっと社会全体の安寧を願っていたはずだが、家族ができるとその範囲が狭まった。一方で、治安のよい社会を作りたいという気持ちは強まった。――いつだかに三吉は話していた。彼の正義は愛する者たちが平和に暮らせる社会を守るためにある。
では自分における正義は何だろう。平和を守る。秩序ある社会を目指す。そういった、漠然としたものしか残っていないことに今さらながら沖野は気づいた。
ベッドに戻り、目を閉じる。前世の自分は、クラスメイトと同じ目に遭う人を減らしたくて、クラスメイトに手を掛けた男と同じことを仕出かす者達を野放しにしたくなかった。その一念で警察を志し、勤め上げた。
今の自分はどうだろう。俺の正義はどこにあるのだろう。何に根差しているのだろう。身命を賭してでも守りたい正義とは何だろう。
考え続けてもついに答えは出ないまま、沖野はまた眠りの世界に落ちていった。
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