まだ大人の階段なんて登ってないのに、他人の水子に憑りつかれて今夜も禁欲生活です。

D・Ghost works

第1話 矛盾の裏にこそ真理が隠れている。

 時は西暦2008年。

 紙媒体、磁気媒体、光学式記録媒体……地上に散りばめられた無数の情報が電子化され、クラウド上への放流が加速度的に進む情報化の大航海時代。


 少年は憂いていた。

 戦争、貧困、暴力。理不尽だ。世界はどこまでも理不尽なのだと。


 あいだすすむと言う名のこの少年は、理不尽な世界が許せなかった。

 なぜ弱い者が苦しまなくてはいけない?

 なぜ貧しいものが虐げられなければならない?

 特に耐えられないのは女、子供が暴力的に扱われる光景だ。許しがたい……俺に、俺にもっと力があれば……


 あいだ少年はやるせない怒りを抱きながら溜息を一つついて、リモコンのディスク取り出しボタンを押した。停止したDVDデッキから、半裸の女が印刷された一枚のDVDが出てくる。


『痴漢魔の触手~快楽の片道切符~』


 さて、まず特筆しなければいけない点がある。

 あいだ少年は十七歳の高校生だ。

 そのような年頃の少年がパンツを脱ぎ捨てて、しごきあげた暴れん棒(まぁ、今やすっかりポケットモンスターだけど)をグシャグシャになった塵紙で包みながら、世の儚さを憂いる。こういう一見すると矛盾した姿は実のところ珍しい状態ではない。

 ましてや、そのような己の姿に浅ましさや罪悪感を覚えることもほとんどないわけだが、そりゃそーだ。たかだかオナニーの度に苦しみを感じていたら思春期の少年達は生きていけない。

 正確に言えば、過去にはあいだ少年にだって自分の行為に浅ましさを覚えることはあった。だが、そのような苦痛や後悔など生まれて初めて神社の裏で見つけたエロ本を持ち帰ったあの夜を皮切りに日々薄れていき、今や罪悪感など微塵も感じない夜のルーチンにまで昇華されていた。


 このように一見すると現実とは常に矛盾だらけである。だが矛盾の裏に道理を超えた真理が隠れている場合があるのだ。


 彼は長い時間、椅子に座ったまま動かなかった。放心と無意味な思考の交錯が共存する……なんて形容するとなんかカッコいい言い回しだが、要するにマスターベーションを終えて賢者モードに陥り、疲れて何も考えたくない面倒くさい状況なのである。

 もはやこのまま寝てしまいたかった。夏のこの時期なら下半身丸出しで寝ても、風邪を引く事はなかろうて。しだいに目蓋が重くなっていき、頭がカクンと下がった時、あいだ少年は足元からの視線に気づいた。

 いや、視線に気づいたどころではない。はっきりと、しっかりと、目があった。


 年齢は二、三歳だろうか。眼の大きな少女が自分の勉強机の下にいた。ズボンもパンツも脱ぎ捨てたあいだ少年の足の隙間でチョコンと体育座りをしている。


(え? ヤバい! 見られた!)


 あいだ少年が真っ先に思った事がこれだ。わりと悠長な感想である。

だが、さすがのあいだ少年もすぐに事の異常さに気が付いた。


(あれ? こんな所に幼女? なんで? なんで?なんで?なんで?

 お客さん……の訳あるか! 今夜中の二時だぞ。

 となると、もしかしてこの少女、何らかのトラブルに巻き込まれた……例えば、例えばだ、不埒な悪漢に誘拐されたとか? 

 許せん! 決して許せんぞ! 幼女は見て愛でる物であって、決して手を出してはいけない不文律を犯す不貞な輩め!

 ……あー、でも、ここオレん家なんだよな。しかも、俺の部屋なんだよね。って事は誘拐犯って……オレ?

 まさか、積りに積もった性欲が暴走したあげく第二の人格が生まれ、そいつの魔の手によりこの部屋に誘われたのか!

 なんてこったぁ……あぁ、なんたることかぁ。

 こんな悲劇を起こさないために俺は三六五日、毎日欠かすことなく、少なくとも一日一回……そして常に己の限界を決めずにストイックに生きてきたのに。

 いやいやいや、決めつけるのは良くないぞ。ちょっと落ち着け、そもそも幼女のちいさな身体でも机の下の狭いスペースに入りなんて無理なんじゃ……)


 間少年はクソ長い思考の末、ようやく冷静な観察を始めた。

 よくよく見ればこの少女、体の一部が机や椅子、そして自分の足を通り抜けているじゃないか。体育座りした少女の足が通り抜けている自身の脛の辺りは、ひんやりした空気に覆われているようだった。それに生きている人間なら呼吸の度に体が動いてもいいはずなのに、この少女全く持って微動だにしない。


 そうやって観察しているうち間少年の首筋には鳥肌が走り、頭皮からは冷たい汗が滲んできた。くしゃくしゃのティッシュに包まれて萎びていたあいだ少年の粗末なモノはさらに加速度的に縮まっていく。


(もしかしてこの幼女、人間じゃない?)


 少女は足元でニコリと笑うと、あいだ少年は椅子に座った姿勢で白目を剥いた。そのまま意識が遠のいて行く……


 ※ ※ ※


「ほら、進! 起きなさいって。学校に遅れるよ!」


 翌朝、階下からの母親の声で間少年は意識を取り戻した。気だるさのあまり動く気どころか、返事をする気にもなれないが。

 結局、あいだ少年は下半身丸出しの無様な格好で一晩を過ごしたようだ。彼は眠ってしまう前にとんでもない物を見たような気がしていた。

 だが思い出せない。

 先っぽに張り付いたガビガビのティッシュを無理やり剥がそうとしたが痛かったので諦めると、パンツを穿く事すら忘れたまま、こめかみに手を当てて昨夜の事を思い出そうとした。


 すると勢いよく階段を駆け上がる音が聞こえてきた。母親だ。

「ほら! 起きなさい!」

「ちょ、待てって! もう起きてるから。こっち来ん…‥」


 時すでに遅し。あいだ少年の母が勢いよく部屋のドアを開け放つ。

 蛇足だと思うが、この状況にバックミュージックを付けるならモーツァルトのレクイエム第三曲「怒りの日」を選曲したい。ほんと蛇足だと思うけれど。


 さてドアの開いた瞬間、全ての時間は超自然的な流れに移り変わった。まさに最後の審判を描写した「怒りの日」の詩そのものの母親の視線は、ダビデとシビラの予言通りに現れた審判者の裁きと言っても過言ではなかろう。この冷酷な、嫌悪感の籠った眼差しを向けられれば、普通だったら「生きててごめんなさい」くらいは口走ってしまいたくなる。


 だが、対したあいだ少年も負けていない。

「つーかさ、勝手に人の部屋に入んなよ」


 慣れた物である。

 今日のように、事後の姿を見られたのが計五回。現行犯で捕まった事が計四回。そろそろばれないように事を済ませよ。

 だが度重なる失敗が彼の心を強くしていた。ゆえにあいだ少年は既に己を省みるような女々しい真似はしない。

「ノックすらしないとか恥ずかしくないわけ?」

 そう言ってあえてオナニーの事には触れず、ただただ開き直るのだった。


「偉そうに言ってんじゃないよ! さっさと起きて、学校行きな!」

 しかしながら、この母親、流石である。もはや母親にとって息子の粗相など、忙しない朝の準備に比べれば構う必要のない小事なのである。だからと言って、不愉快なものは不愉快なんだろうけれど。


※ ※ ※


 朝食。

 それは一日を乗り越えるための最も重要な儀式である。この二十分程の団欒が崩れ去る事があろうものなら一大事だ。

 あいだ少年の父、歳三としぞうは常々そう考えていた。今の日本では珍しい、昔堅気のいぶし銀な考え方の持ち主である。


「あ……あのー。ママ? 醤油を取ってもらえるかなぁ?」

 冷酷な審判者ことママは、歳三の前にカン! と醤油を叩きつけた。完全に八つ当たりである。

 当の歳三は冷酷な審判者に何も言えず、ただただ(怖いよ。今日のママ怖いよ)と心の中で嘆くのだった。

 前言を撤回しなければならない。歳三、お前はいぶし銀でも何でもない。ただのヘタレだ。


「どうした、進? 全然箸が進んでないぞ? 何だ? 恋煩いか?」


 歳三に対してあいだ少年はフン! とつまらなそうに鼻を鳴らした。場を和ませようと必死だが、歳三の立つ瀬はない。仕方なく彼は朝食を食べながら新聞を広げ、

「おぉ! 日本人メージャーリーガーの立花がノーヒット・ノーラン達成だってよ。すごいなー」


 沈黙。歳三の声以外、食器の擦れる音しか聞こえない。


「へぇ、タレントのココミと芸人の田所おさむが五カ月のスピード離婚。芸能人は結婚したかと思うとすぐに離婚するよなぁ」


 沈黙。以下同文。


「ふーん。アイドルユニット・エイティーンドロップスの新曲がミリオンヒット。聴いた事あるか進? どんな曲なんだ?」


 沈黙。以下同文。もう止めてくれ、歳三。なんだか辛くなってくる。


「佐々木一家死亡事件、時効を向かえる。同事件は殺人と心中両方の可能性を考慮して捜査が勧められたが……ってこれ家の近所じゃないか。こんな田舎で殺人事件なんて怖いなあ。犯人許せないよな。何としてでも捕まえて欲しかったなあ」


 やはり沈黙は変わらない。

 結局、朝の団欒を立て直す事の出来ないまま、歳三も審判者も間少年も職場や学校へ向かうのであった。

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