第9話 ……ハハ。上等さ。オレが乙女に仕立て上げてやるよ

 我武者羅がむしゃらに駆け出したあいだ少年は、気が付くと駅近くの繁華街まで来ていた。夕焼けが空を染めている。彼は状況を理解しようと必死だった。

 仲間はオレの話を理解してくれない。幼馴染は幽霊について助言をくれたが、どういうつもりかオレを誘惑してくる(完全にお前の勘違いだがな)。一体オレはどうしたらいいんだ。


(オレ死ぬのかな)


 心の中でそんな自分の声が響いた。だったら、やらねばならない事は一つしかない。あいだ少年はネオンが光る街へと足を進めた。


※ ※ ※


 ソープ・泡ビアンナイト。

 その店は、お世辞にも活気があるとは言えないあいだ少年の住む街で唯一のソープランド。おそらくはバブル全盛期のころ、金に物を言わせて天守閣をモチーフに建築された華やかな面影は今や昔。

 現在では外壁は至る所がひび割れて、隙間にはびっしりと苔が生え、瓦造りの屋根はどこもかしこも割れて危ないから落下防止用のネットが掛けられている。


 なぜ改装工事をしないのか、といえば単純に金がないのだ。特に風俗店というのは、色んな法律の絡みがあるので改装しようものなら通常よりも金がかかるし、勝手に工事をすれば警察か消防辺りに因縁付けられて営業停止を食らう。

 まるで江戸時代の武家諸法度ぶけしょはっとだ。勝手に城の改装工事をしようものなら、徳川家から即刻、御家お取り潰しを命じられる。

 まさに繁華街の隅にポツンと立てられた、大人たちの薄汚さと苦悩の結晶。

 それがソープランドなのだ。


 大人たちの気苦労など知らない、まだ未成年の間少年は泡ビアンナイトについて聞いた噂を思い出していた。

 例えばマットプレイ中に泡姫がギックリ腰を起こして救急車で運ばれた、とか。

 しゃぶられている間にボロボロと刺し歯が抜け始め、お客がドン引きしてると愛想笑いでごまかされる、とか。

 もちろん写真の加工なんて当たり前。プロフィールは二十代のピチピチプリプリのギャルなのだが、いざ指名すると若く見積もって五十代、もしかしたら喜寿きじゅを超えてんじゃないかといぶかってしまうようなババアが出てくる。


 これらの噂を統合して考えると「この店はかなり玄人向け。攻めの姿勢の店である」と言う結論に間少年でなくともたどり着くだろう。

 だが今こうしてソープ・泡ビアンナイトの前に立つ間少年は、魔王城の前に辿り着いた勇者のように緊張は消え、崇高な程に穏やかな精神状態だった。


「ギャルを指名したのに熟女がやって来る。ハハ。上等さ。だったらオレがプロフィール通りの女に……いや、それ以上の乙女に仕立て上げてやるよ」


 その自信、一体どこから来るんだ。

 ともあれ間少年は腹をくくっていた。財布にはゴミの転売で儲けたお金がそこそこ入っている。例えどんな泡姫が来ても、そのお金で童貞を捨てるのだと。


 間少年は店内に入った。

 受付では、眉間に深い皺が入った男が漫画雑誌を読んでいた。壁には裸体の女のポスターやチラシが貼られていて、それだけで間少年の股間は膨張し、前屈みで歩かざるを得なくなる。


「あー、ご予約は?」

 受け付けの男が漫画を読みながら尋ねた。

「し、してないです」

「じゃ、指名は?」

「し、してないです」

「じゃ、フリーでご入店ね」

 そこまで言って、男はようやく漫画から目を放した。

「それじゃ、ここにお名前と……お客さん何歳ですか?」

 疑うように店員が間少年を睨む。


 間少年は迂闊だった。

 家から駆け出してきたは良いが学校の制服を着たままだったのだ。夏の時期だからブレザーこそ着ていないが、童顔な彼が仕事終わりのサラリーマンに見えるわけない。


「じゅ、十九です」

 とっさに答える間少年。

「いや、見えないな。年齢を確認できるものある?」

「も、持ってないけど、マジで十九です。どう見ても、そうでしょ」

「見えない。ま、身分所持ってないなら帰って」

 受付の男は間少年を無視して、再び漫画に目を落とした。

「ちょっと、そりゃないでしょ。せっかくここまで来たのに追い出されるなんてさ」

 食い下がる間少年。

「言ってわかんねーなら、力ずくって事になるけど構わねえんだな?」

 男は煩わしそうに、椅子からゆっくり立ち上がった。


 立ち上がって初めて分かったが、この男相当でかい。身長が百九十センチはあるだろう。途端に間少年は怖気づいた。

「すみませんうそつきましたごめんなさい何日もオナ禁してて血迷ったんです見逃してください」

 襟首を掴まれ、猫のように運ばれる間少年。

「うるせえよ。帰れ」

 出口で尻を蹴られ、路上を転がる間少年。もちろん前屈みのまま。童貞は蹴られても前屈み、再びである。


※ ※ ※


 ソープ・泡ビアンナイトから出た後、あいだ少年はどっと疲れを感じた。自ら向かったとはいえ、あまりにも慣れない場所に神経が磨り減っていた。何か飲んで気を鎮めようと、彼は自動販売機でジュースを買った。


 自販機のボタンを押すと喧しいアラームが流れた。

「え? 当たり?」

 LED表示板に「もう一本」の文字が点滅している。

(最近運が良いんだか、悪いんだかわからないな)

 あいだ少年は小さく笑う。ふと、横を見ると少女の幽霊が彼を見上げてた。

「なんだ、飲みたいの?」

 少女が小さく頷く。あいだ少年は少女を抱えあげて、自販機のボタンを押させた。(へー、幽霊でも自販機使えるんだ)と変な所に感心する。


「ありがとう」

 あいだ少年がプルタブを開けて、ジュースを手渡すと少女は言った。

「喋った。初めて喋った」

 一人盛り上がるあいだ少年をよそに、少女は少しずつジュースを飲んでいる。

「あー、名前……なんて言うの?」

 間少年は少女に話しかけた。

「ミサコ」

「へー。ミサコちゃんか。歳は何歳?」

「三歳」

 ミサコは右手の指を三つ立てて答える。

「ちゃんと自分の歳がわかるんだね。偉いなー」

 間少年はミサコの頭を撫でた。内心(おお、幼女、幼女……そう言えばこの数日間、本当に辛かった。けど最高のご褒美です。ありがとう神様!)と考えていたが、そんな事に気付かないミサコは目を細めて撫でられている。ま、まあ、間少年に悪意はない訳だし、今回だけとやかく突っこまないでおこう。


「ミサコちゃんはさ、その気付いてるの?」

「気付いてるって?」

「そのー。なんつーか。ま、いいや」

 間少年はミサコに自分が死んでいると分かっているのか聞こうとして、止めた。まだ三歳の小さい子供に、そんな質問は残酷すぎる。


 言葉が出てこないままミサコの頭を撫でていると、突然、西の空が小さく光った。少し後に続いて爆発音が響く。

「花火だ。花火、花火。でもあの花火ちっちゃいね」

 ミサコは西の空を見て声を上げた。

「今日は花火大会だったのか。どこで上げてんだ?」


 ゴミ捨て場がかつて火薬工場だった名残で、この地域は花火大会が各地で盛んに行われていた。一個一個は小さな規模の大会だが街全体が一夏で上げる花火の量はかなりの量だ。

「あんなに遠くの花火じゃ、大して見えないだろ」

 間少年はミサコに言った。それでもミサコは嬉しそうに跳ね、出来るだけよく花火を見ようと頑張る。

「よし、オレに掴まりな」

 間少年はミサコを抱え、肩車をする。二人はしばらくの間、遠くで上がる小さな花火を眺めていた。


「花火、もうお終い?」

「お終いみたいだね。もっと見たかった?」

「……うん」

 ミサコは間少年の肩の上で寂しそうに答える。

「じゃあ今度、花火やろっか」

「本当? 花火、花火」

「肩の上でそんなに騒ぐなって」


 外から見れば一人でフラフラ歩きながら独り言を言っている不審者なのだが、ここ数日ささくれていた間少年は久しぶりの安らぎを感じていた。

 だが、彼を嘲笑うように車のヘッドライトが、間少年とミサコを正面から照らし出した。もちろん普通の人間にミサコの姿は見えてはいない。


 車は間少年へと突進してくる。間少年は車をかわそうとするが、間一髪のところでサイドミラーが勢いよく脇腹にぶつかり、彼は路肩に転がった。

「ミサコ! 大丈夫か? どこにいる?」

 転んだまま間少年は叫んだ。当のミサコは幽霊なので怪我ひとつしていない。だが驚いて今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「ほら、泣くなよ。オレは全然平気だから」

「お前、誰と話してんだ?」

 間少年に突っ込んできた車から数人の男が降りて来る。そのうち一人が間少年の胸倉を掴んで身体を越した。

「何かキメてんのか? 沢工のお坊ちゃん?」

 島高の藤田だった。目の焦点が合っていない。

 後ろから近づいてきた島高のチンピラが間少年を羽交い絞めにする。もがくと藤田が鳩尾にドスンと一撃パンチを入れた。息が止まる。声一つ上げられない。


「連れてくぞ」

 藤田が指示を出すと、他の島高生達は間少年を車に押し込んだ。助けを求めようにも痛みで息が出来ない。間少年はミサコに心配させまいと、痛みで引きつった頬笑みを精一杯の気持ちで向けていた。

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