第2話 オタクの魅力は外見にあらず。器用な指先と偏った知識こそが肝心。

 朝の電車内はいつも通りの混雑だ。

 あいだ少年は運よく座る事が出来たが、殆どの人々は吊革につかまって本を読んだり、器用に眠ったりしている。

 一つ、不思議な事があった。これだけ混み合っているにも関わらず、あいだ少年の右隣の席には誰も座らないのである。電車に乗っている老若男女を問わず彼の隣に空いた席を見向きもせずに立ち去っていく。当のあいだ少年は不思議にこそ思ったが


(まさか眠っていた闇の才能が突如目覚めて、人々は無意識に恐れおののいてこの俺に近づけないんじゃないか! よーし、それじゃあこのスーパーパワーで島高の不良どもを蹴散らして……)


 ってな具合に中二病全開の妄想をした直後、オナニーのし過ぎで自分の体臭が限界突破したのではないかという不安に駆られて、周囲に気づかれないように鼻をスンスンさせていたが、昨晩布団で眠らなかったせいかウトウトしてきた。


 次の駅で電車が停車した。車内の人が出て行き、新たに多くに人が入って来る。しばらくするとあいだ少年の股間付近に衝撃が走った。身の危険を感じ、慌てて眼を覚ますと

「どきな」

 目の前に立っていたのは小学校の時から同じ学校に通っている同級生、サナだった。スカートから伸びた片足が、あいだ少年の股の間の座席を踏みつけている。


「隣が空いてるから、そっちに座れば良いだろ。っていうか足どけろよ。お前にそこを踏みつけられた男の地獄の苦しみがわかるのか?」

「ミツオに月一で来る女の苦しみが分かる? 今日がその日なの。分かったらその場所どきな。それに隣には先客がいるじゃん」


 オナニーに対する知識は人一倍でも、性に関する知識が貧困なあいだ少年は気を使って、すごすごと空いている右隣の座席へ移る。


「ところでミツオさ……」


 間少年は友人たちからミツオと呼ばれていた。同名の書家から取った物らしいが、間少年は安易すぎるその呼び名が好きではない。


「何で子連れなの?」

「はぁ? 何言ってんだ? セナ」

「あんたこそ何言ってんの? あんたの右隣に子供がいたじゃん」


 間少年は自分の隣に誰も座らなかった事を思い出した。セナの言う通り、子供が座っていたのか? ……そんなはずない。だが背筋に鳥肌が立つ。夏真っ盛りの込み合った電車の中にもかかわらず。

 セナはしばらく間少年の方向を睨みつけていた。


「あー、なんだ、幽霊か。通りでよく見えないわけね。ミツオにバッチリくっ付いてるっぽいから見えてるんじゃないの?」


 青い顔をして首を横に振る間少年。ようやく、その時、昨晩見た人間ではない少女を思い出した。


「そういや、セナってさ。霊感とかあったよね。昔そんな事言ってたじゃん。その子供ってどんな感じ?」

「どんな感じって?」

「見た目とか、歳とか」


 セナはミツオ周囲をしばらく眺めた。

「……さあ、分かんない」

「分かんないってどういう事だよ! ヤバい奴なのか? 放っておけばどこかに行ってくれるのか?」

「うっさいなあー。電車の中で怒鳴るな。体調悪いんだよ。集中できないの……とりあえず分かるのは水子って事だけ」

「水子? 水子って流産とか中絶とかした子供の霊の事か?」

「ま、そういうのも含まれるけど」

「おいおい、そんな不条理な事があっていいのかよ! 勘弁してくれ、確実に他人のだぞ、これ」

「電車の中で胸を張って宣言するな。童貞」

「お前にこの気持ちがわかるかよ! 大人の階段を一段も登っていないまま、階段を転がり落ちて行くこの不条理な状況が! 畜生! 誰の水子だ。クラスメートの中に親がいるかもしれないってことか……探してみようか」

「いるわけねーだろ」


 セナは冷たくあしらう。

「機械科には変態とオタクしかいないでしょ。どいつもこいつも童貞こじらせて、三十歳過ぎてから風俗で童貞捨てて、そのくせ『あれは友達に誘われて仕方なく』って感じで言い訳してそうな連中じゃん」

「病気みたいに扱うんじゃねえよ。こじらせる物じゃないぞ。そんな物であってたまるか!」

「特にあんたと仲の良い二人組、名前なんて言ったっけ。ああ、木戸と土屋なんて、その典型的な候補だよ。あ、もちろんあんたも含めてね」

「……セナ」


 間少年は静かに幼馴染の名前を呼んだ。


「言っていい事と悪い事があるぞ」


 その静かな雰囲気にさっきまでアホ丸出しで、登ってもいない大人の階段を転がり落ちていた様子はない。


「あいつ等の事は良い……。だがこのオレを馬鹿にする事は、オレが許さん! 断じて許さん!」


 改まって言う事でもないだろう。だからお前、モテねーんだよ。


「言い忘れたけど、その水子」

 セナは間少年の怒りに対し、欠伸を噛み殺していた。

「今ミツオの膝の上に乗ってるから」

「え? セナさんマジっすか?」

「うん、マジ。下手に動いて刺激しない方が良いと思うよ」

 高校の最寄り駅まで後三十分。逃げ場はないぞ。


※ ※ ※


 間少年は予定通り学校へたどり着く事が出来た。セナが言うには、学校の最寄り駅でタイミング良く水子が膝から降りてくれたそうだ。とはいえセナが言った事だから、彼女に良いようにからかわれてたんじゃないか? と言う気もしないでもないが。


 間少年の通う沢口工業高校(通称:沢工)は、工業高校にしては成績のマシな生徒の集まる学校だった。機械科、土木科、建築科、電気科などの学科を持ち、生徒は一般的な工業高校と同様に男子が大半を占めている。少数派の女子生徒は建築科に集中し、機械科や電気科、土木科は男だけのムサ苦しい環境だった(ちなみにセナは建築科だ)。普通の工業高校と異なる点は、大量に在籍する不良達が極めて少ない所だろう。


 間少年は自分のクラス、機械科B組の教室に入り、自分の席に着くと机に頭を預け眠りについた。これがこの教室の生徒達の基本姿勢なのである。不良がいないから、間少年のような非力な生徒でも安心していられるのだ。

 しばらくしてから、後ろの席から間少年は肩を叩かれた。


「何だよマッド?」

 マッドと呼ばれた少年。本名、土屋つちや哲二てつじは間少年と同級生で一番の悪友だ。

 若いくせにたるんだ体。遠目から見てもオタク系の人間だと分かる、脂っぽいボサボサのロン毛に、瓶底のような分厚い眼鏡。そして丸っこい猫背の彼と友達になりたいと思うウェーイ系人間は極めて稀だろう。だが間少年と、もう一人の友人キドケンはマッドの器用な指先と偏った知識に一目を置いていた。


「ミツオ、ヤバい事になった」

「何だよヤバいって? こっちは昨日からヤバい事だらけなんだ。今日は寝かせてくれ」

「毎日寝てるだろ。一大事なんだよ」

「面倒事ならオレを巻き込まないで、自分で処理してくれ。そして頼むから今日だけは眠らせてくれ」

「だからいつも寝てるじゃん。そうもいかないよ。オレ達の大事な場所が使えなくなるかもしれないんだ」

「どういう事だよ」

 とマッドに話しかけた時、教室のドアから担任の教師が入って来た。

「休み時間にキドケンも呼んで、その時に詳しく話すよ」

 マッドの言葉を耳にしてから間少年は眠りについた。

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