預言者

 ムスタファー ―彼は人々に愛され、選ばれし者でした。彼はその存在自体が夜明け(のような人)でした― は、12年もの間、オルファリーズの街で、船が戻ってくるのを心待ちにしていました。船に乗って、彼の生まれ故郷の島に帰るために。

 (待ち続けてから)12年目の9月、つまり収穫の月の7日、彼は街の城壁の背後にある丘の頂上に登りました。彼は海の方を凝視しました。霧の中に埋もれながら一隻の船が波をかき分けてこちらへやって来るのを彼は見ました。

 彼は心の底から震えました。彼の心は歓喜して海の上へと飛びましたが、彼は両目を閉じて、心静かにお祈りを捧げました。

 しかし、彼が丘を降りるとたちまち、無音の悲しみが彼に襲いかかりました。彼は心の中で言いました。

 「平穏な気持ちでこの街を去り、悲しみなく海路を進むことがどうしてできよう。できるわけがない! 私の心の傷口から血が流れきるまで、私はこの地を離れはするまい。

 この城壁のなかで、私の傷心の日々は長かった。でも孤独でひとりぼっちの夜はそれよりも長かった。一体誰が、心に痛みを感じることなく、自身の悲しみと孤独から離れることができようか。

 多い、これらの通りで私の心から離れていった欠片は。そして多い、丘と丘の間を裸で歩く、私の恋しさの子孫たちは。どうして私はそれらの子孫たちから離れることができようか、自分の背中に重荷を載せ、自分の心に圧迫を加えることなしに?

 私が引き離すものは、今日私が自分から引き剥がして明日に私がまとう衣服ではない。そうではなくて、それは私が手で引き裂く外皮なのだ。

 そしてそれ(私が引き離すもの)は、私が自分の背後に残しておく考えでもない、そうではなくて、それは飢えによって美化され、渇きを薄くして躍動するものにした心である。

 けれども、私は旅を遅らせることはできない。

 すべての物を自分の方へといざなう海が、私を呼んでいる。だから私は、船に乗って直ちに海の心へと進まなければならないのだ。

 もしも私がここで一晩過ごしたならば、たとえ夜の時間が燃えるように暑かったとしても、私は凍り付いて氷結し、大地の重いしがらみに縛られるであろう。

 もしもここにいる人々全員と一緒にいることが許されるならば、私はそうしたい。けれども、いかにして私にそれが実現するのだろうか? 舌と両唇には、声の翼が施されるけれど、声がその舌と両唇を運んでいくことはできない。だからこそ、声はひとりで宇宙のベールを貫くのだ。

 そう、鷲はね、わが友よ、自分の巣を運んでいくことはできないけれど、ただひとりで空のはてを飛ぶのだよ」

 ムスタファーは丘のふもとに着くと、もう一度海の方に向きました。彼は、船が港に近づき、この国の人々が行ったり来たりしています。

 ムスタファーは彼らに向かって心の奥底から叫びました。

「おお、はるか昔から存在するわが国の子孫らよ、波の背に乗る者たちよ、波の広がりも島々も従わせる者たちよ。

 あなた方は私の夢のなかを何回航海したことか! あなた方はやって来た。自分が覚醒しているとき―それは(同時に)私の夢の奥底でもある―私はあなた方を見た。私は船旅のための準備ができた。私の心の内奥にはとてつもない恋しさが横たわっていて、それは帆が風を受けることをしびれを切らして待ち望んでいる。

 けれども私はもう一度、この静かな空気のなかで呼吸したい。そしてひとつの親愛の眼差しを後ろに送りたい。

 そしてその時私は、船乗りのうちのひとりとして、あなた方と共に立つ。

 なんじ、大いなる海よ、静かに眠れる母よ。

 汝、大いなる海よ、大河も小川も、ただ汝のなかにのみ、平穏と自由とを見つけ出す。

 知っておくれ、この小川はただ1回しか流れることはないだろう。この日を最後に、誰もその水の流れる音を耳にすることはないだろう。その時私は汝のもとへ、流れるひとつのしずくとして、流れる大海へ行く。

 ムスタファーは歩いている途中、男たち・女たちが畑やぶどう園から離れて街の門のところへ急いで向かっているのを遠くから見ました。


 彼は心の中で言いました。

 別れの日が集いの日になるのか?

 それとも、人々が言うところでは、私の夕べは自分にとっての夜明けだったのだろうか?

 すきの刃を畝と畝の間に置いてきた農民に、ぶどう搾り機のハンドルを止めてきたぶどう農家に、私は何を差し出すべきなのだろう?

 私の心は、果物をふんだんに実らせた木々に変わり、私はその果実を摘み取り、彼らに与えるのだろうか?

 それとも、私の欲望が泉のように溢れ出し、彼らのコップを満たすのだろうか?

 私は、全能なるしゅの手が触れるギターなのだろうか、それとも主の息が通り抜けるミズマール[注1]なのだろうか?

[注1]:ミズマール mizmār 木製の管にリードを付けた縦笛。


 そうだ、いかにも、私は静寂を求めている。けれども心穏やかに分け与えようといって、その静寂の中で私が見出した宝物とはいったい何だろうか?

 もし今日という日が、私が収穫される日であるならば、それでは私はどの畑に種をまいたのだろうか? それは私には覚えがない季節のうちのいつの季節のことだったのだろう?

 もしそれが、私がランタンをともし、それを燈台の上に置く時のことだったならば、そのランタンから立ち上ってくる光は、私から上ってくる光ではない。

 なぜなら、明かりの灯っていない空っぽのランタンを私は掲げるからだ。

 けれども夜の番人がランタンに油を差し、灯をともしてくれるだろう。

 そのようなことを、ムスタファーは訥々とつとつと言いました。けれども、こういったことの多くを、彼は表明せず、心の中に留め置いていました。ムスタファー本人も、自分の奥底に秘めている秘密をはっきりさせることができなかったからです。


 ムスタファーが街に入った時、民衆は一団になって彼を迎え入れました。民衆は声をいつにして歓迎し、彼に向かって歓声を上げていました。

 街の長老たちがムスタファーを止め、このように言いました。

「どうか、こんなに急いでお別れにならないでください。

 あなたは、我々の夕暮れ時にあっても、昼(のような人)でした。

 あなたの若さは、我々の心の中に夢を灯してくれました。

 我々にとって、あなたはよそ者などではありません、断じて違います。あなたはお客さんなどではなく、我々の子ども、そして親愛なる我々の魂の仲間なのです

 我々の目に、あなたのお顔を見ることを切望させないでください」

 それから、占い師たちもムスタファーに言いました。

「海の波があなたと私たちを隔ててしまうことを許してはなりません。あなたが私たちとの間で過ごしてきた年月が忘れ去られることを許してはなりません。

 あなたは私たちに活力をもたらしてくださる魂でした。あなたの陰は、私たちの顔に射してくる光でした。

 私たちの心はあなたを恋い慕い、私たちの魂はあなたを切愛しました。

 けれども私たちの愛は、沈黙という覆いで覆われ、私たちはその愛を語ってはいませんでした。

 ですがその愛は、今やあなたに向かって声を限りに叫び、あなたに本心をはっきり示そうと、両手でその覆いを引き裂いています。

 別れの時でもなければ、愛というものは、自分自身の深さを知らないものなのです」


 それから大勢の人々が、ムスタファーのところにやって来て懇願しました。けれどもムスタファーは誰にも返事をしませんでした。彼の周りに立っている人々は、ムスタファーの涙が頬や胸にぼうと流れ落ちてゆくのを見ていました。

 ムスタファーは人々と一緒に、神殿の前に広がっているいちばん大きな広場まで歩いて行きました。

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