第189話 父娘の対峙

 今日は朝から白い雲が空を覆いつくしていた。

 時折ひゅうと音を立てて、風が僕たちの立つ公園を吹き抜けていった。

 葉が全て落ちて丸裸になった枝がかさかさと音を立て、時には小枝が風に耐えきれずに地面にぱらぱらと寂し気な音を立てて落ちていった。


『寒いよぉ……だれか助けてよぉ』


 苗木達の方から、力の無い声で助けを求められた。


『仕方がないよ、これが僕たちの運命なんだ。この場所からは逃げられないし、何が起きても歯を食いしばって耐えなくちゃいけないんだ』

『でも、やっぱり辛いものは辛いよぉ』

『僕だってそれは同じだよ。でも、辛いのは僕らだけじゃない。僕らと同じケヤキの木は、この時期はみんな同じ思いをしているんだ。冬の寒さと、夏の暑さ、秋の風雨に耐えてこそ、立派なケヤキになれるんだ』


 僕だってここから逃げられるなら、どこかに逃げ去ってしまいたい。人間たちのように、屋根と壁に覆われた温もりに包まれた場所に暮らしたい。そしたら暑さ寒さに悩まされることもないし、誰にもいたずらされないし、ごみや虫やムクドリに嫌な思いをしなくてもいい。

 おっと、こんなことを愚痴っているようでは、僕も苗木たちと同じでまだまだケヤキとして修行が足りない。

 僕は根っこに力を込め、吹きすさぶ風にひたすら耐えた。冷たく刺すような風は、容赦なく僕に襲い掛かってきた。でも、全身に力をみなぎらせていれば、こんな風は何と言うこともない。


『ほら、僕を見てみろ! こうして体中に力を込めて気合をいれてどっしりと腰を据えていれば、風なんか何と言うことも無いんだ!』


 僕は声に力を込めた。苗木たちは僕が言われた通り、「うーん」と唸り声を上げながら全身に力を込めていた。しかし、しばらくすると彼らは疲れ切った様子で僕を見ていた。


『力込めたら、お腹が痛くなっちゃったよ。どうしてくれるんだよ』

『言った通りやっても全然力が入らないわよ。適当なこと言わないでよ、ケビンさん』


 僕は呆れながらも、彼らの愚痴を聞いていた。


 その時、風の音に交じって、近くの家の引き戸が開く音が聞こえた。戸の向こう側からは、ジャージの上下に身を包み、竹刀を手にした樹里が姿を見せた。

 樹里は相変わらずやる気の無さそうな様子でふらふらと歩きながら公園に姿を見せると、竹刀を手にしたまま僕の前のベンチに座った。


『樹里ちゃん、今日はデートじゃないね。竹刀なんて持ってきて』

『いや、きっと竹刀で彼の頭をひっぱたくんだろ?』

『彼氏さん、きっと何かをやらかしたんだよ。不倫とか二股とかさ。樹里ちゃんは性格激しいから、きっと竹刀で彼氏さんを滅多打ちにするつもりなんだ。怖いなあ……』


 あれほど寒いと言って震えあがっていたはずの苗木達は、樹里が姿を見せるといつものようにくだらない噂話で盛り上がり始めた。


『ケビンさん、どうしたの? 冴えない顔して。今日の樹里ちゃんはミニスカートじゃないから、つまんないのかな?』

『ば、バカ言うんじゃないよ! 何を言い出すんだ、君らは』

『だって、いつもなら樹里ちゃんが来ると、じーっと目を逸らさず見てるんだもん。特に脚をね』

『いい加減にしろっ!』


 僕は呆れ果てながら苗木たちの言葉を聞いていた。

 確かに樹里は、いつもなら脚を露出する服を着てこの場所にやってくるが、今日はさすがに寒いのだろう。そして、竹刀を持っているということは、ここで剣道の練習をするつもりなのかもしれない。

 しばらくすると再び引き戸が開く音がした。樹里の父親であるシュウが、同じように竹刀を手にして樹里の元へとやってきた。


「樹里、一体どうしたんだ。こんな寒い時に、剣道の練習したいとか言い出してさ……」

「わりぃな、急な話で。ちょっとだけ練習に付き合ってくれるかな?」

「剣道はもう二度とやらないって、俺たちの前で宣言したのに?」

「またやりたくなったんだよ。別にいいだろ、私が剣道を再開して、何かまずいことでもあるのかよ?」

「い、いや、そういうわけじゃ……。分かったよ。ほら、練習するから立てよ」


 シュウは極まりの悪い様子で竹刀を構えると、樹里はベンチから立ち上がり、栗色の髪を後ろで結ぶと、竹刀の先をまっすぐシュウに向けた。

 二人はまっすぐ見つめ合うと、しばらくの間お互い竹刀の先を擦り合わせた。その後シュウは竹刀を振り上げ、激しい音を立てて樹里の竹刀を叩き落とした。


「ち、ちくしょう……」

「ボケっとしてるからだ。一瞬でも隙があると、今みたいに叩き落とされるぞ」

「もう一回頼むわ。今度は負けないからね」


 樹里は顔をしかめ、鬼のような形相でシュウを睨みながら竹刀を向けた。しかしシュウはひるむことなく樹里の竹刀に自分の竹刀を重ね、樹里が先に動こうと少し竹刀を動かそうとしたその瞬間、ヒュンと空を切る音を立てて竹刀を再び大きく振り下ろした。

 ガシャン!

 シュウの竹刀は激しい音を立てて地面を叩き、勢い余ったシュウは躓いて地面に倒れ込んだ。樹里はしてやったりという感じの表情で、呆然とするシュウの背中を見つめていた。


「父さんも隙だらけじゃん。私に隙があるとか自分で言っときながら、このザマかよ。ダセェな」


 樹里は笑いながら竹刀を腰のあたりに収めると、シュウは歯ぎしりしながら立ち上がり、「今度は負けねえぞ」と言いながら樹里の方に竹刀を向けた。

 相も変わらず強い北風が吹き付ける中、二人は睨み合い、剣の先を突き付け合い、お互いに一歩たりとも譲る様子が見えなかった。

 僕たちは固唾をのんで、その様子をじっと見つめていた。


「くそっ、親を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」


 先に動いたのはシュウだった。シュウは竹刀を振り上げると、そのまま真上から樹里の持った竹刀を叩き落とそうとした。しかし樹里は真横から竹刀を振り、シュウの一撃を食い止めた。

 二本の竹刀は空中で交わったまま、再び動かなくなった。

 シュウも樹里も、歯を食いしばって相手の竹刀の動きを食い止めていた。


「隙ありっ!」


 シュウの野太い叫び声とともに、竹刀が激しく炸裂する音が公園中に響き渡った。

 そして、一本の竹刀が地面に叩き落とされた。


『シュウさん!』


 苗木たちは声を上げた。シュウは地面に落ちた竹刀を拾いあげると、その場でうずくまった。


「くそっ、剣道なんか辞めてやるとかほざいてる世の中を舐め切った奴に、インターハイまで行ったこの俺が負けるだなんて……」


 シュウは全身を振るわせながら、鬼気迫る表情で悔しい気持ちを露わにしていた。


「何ブツブツ言ってるんだよ。ほら、立って」


 樹里は前髪をかき分けると、シュウを真上から見下ろし、そっと片手を差し伸べた。


「ふざけるな! 何でお前にそんなことをされなくちゃいけないんだ?」


 シュウは立ち上がると、竹刀を手にし、足を前後に動かしながら何度も何度も上下に振り下ろした。


「お前には、ここで毎日手取り足取り剣道を教えていたんだ。そのお前に俺が負けるなんて、そんなことは絶対に認められんぞ!」


 シュウは白い息を吐きながら、空を切る音を立てながら何度も何度も竹刀を振り下ろした。


「だったら練習すればいいじゃん。私だけじゃなく、父さんだって最近ずーっとさぼってただろ?」


 寒い中額に汗をにじませながら必死に素振りを続けるシュウを横目に、樹里は冷静に言い返した。


「う、うるさい! 俺だって仕事があるし、おふくろのことがあったし、それに……」

「それに?」

「年を取るうちに、暑い日や寒い日は、練習するのが嫌になってきて……」

「へえ。そりゃ私に負けて当然だわ」

「でもお前はもっと練習してねえだろ? 中学以来、ずーっとサボってたお前よりは練習してきたつもりだぞ」

「そうか、だったら今日からまた一緒に練習しようか?」

「え……?」


 樹里は竹刀を目の前で一回転させると、シュウを試すかのように言葉を投げかけた。

 その言葉に、シュウも、そして僕たちもあっけにとられた。


「お前、今何て言った?」

「だーかーらー、練習だよ。れ・ん・し・ゅ・う」


 樹里はポケットから一枚のチラシを取り出し、シュウの目の前にかざした。


「高校剣道……選手権?」

「ああ。何というか、久しぶりに試合したくなったんだ」

「お前……マジなのか?」

「ああ、マジだよ。こないだ建佑と出かけた時、習い事の話になってさ。私が昔剣道していたことを話したら、カッコイイ樹里を見てみたいって背中を押してくれたんだ。試合も見に来るって言ってたから、負けるわけにはいけないよ」


 そう言うと、樹里は照れくさそうな顔をしてチラシを仕舞い込み、再び竹刀を構えてシュウと肩を並べて素振りを始めた。

 こんなに寒いにも関わらず、二人は額から汗を流し、竹刀を振り続けていた。


「よし、今度は胴打ちの練習だ」

「どうやるの? 防具付けてやるのか?」

「いや、あそこにがあるよ」


 シュウは不敵な笑みを浮かべながら、僕を指さした。

 シュウの指先を見ながら、僕の顔面は一気に引きつった。

 二人は一歩ずつ僕の方に近づくと、まずはシュウが竹刀を斜め上から一気に振り下ろしてきた。


『ギャアアアアア!』


 竹刀が激しく炸裂する音を立て、僕の全身に衝撃が走った。


「ああ、そう言えば小さい頃、この木で良く練習したよね」

「思い出したか? 胴打ちでこの木ほど良い練習台はないんだぞ。俺も子どもの頃からここの木を相手に練習したんだ」


 樹里は僕の目の前で竹刀を構え、一気に駆け込むと、空を切る音を立てながら真横から竹刀を振り下ろした。


『ウギャアアアア!』


 樹里は竹刀を収めると、「うん、いい感触じゃん」と言いながら僕を見て何度も頷いていた。

 二人は代わる代わる僕の幹に次々と竹刀を打ち付けた。


『ギェエエエエ!』

『ギャアアアア!』

『ウォォォォォ!』


 竹刀の激しい炸裂音とともに、僕は全身に痛みが走り、公園中に響き渡るほどの叫び声を上げた。


『かわいそう、ケビンさん……』

『ルークさんは以前よく練習台にされていたけど、ケビンさんがやられたのは初めて見たな』


 苗木たちは憐みながら、容赦なく竹刀を打ちつけられる僕の姿を見続けていた。

 一方でシュウと樹里は、お互いに爽やかな笑顔を浮かべながら、感想を述べあっていた。


『あの二人、ここまで本格的に練習したのは久しぶりじゃない?』

『ここでまた剣道の練習が始まるんだね。でも、そうなるとケビンさんが……』


 苗木達は不気味な言葉を投げかけ、僕は急に寒気がしてきた。

 二人の白熱する対峙と、剣道を通して親子の絆が深まる様子を見ているうちに、寒さを忘れる程全身が温まってきたのに……。

 大会が終わるまで、しばらくは痛みに耐える日々が続くと思うと、全身がゾクゾクしてきた。

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2024年11月17日 18:00

大きなケヤキの樹の下で Youlife @youlifebaby

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