朽木の春

夏野けい/笹原千波

めぐりくる

 オフラインなので、開花予測の精度はかなり落ちました。知らせる相手もいないのですが。セルフメンテナンス機能が充実しているのはさいわいでしょう。当面のところ、わたしの動力は太陽光によって賄えていますし、今後百年程度にわたっても大きな問題はないものと推定できます。

 カメラは一本の桜の木を映しています。花は盛りを過ぎ、瑞々しい若葉が混じりはじめました。

 これは当地の標本木であるソメイヨシノです。近年では街路樹に占める割合こそ落ちていましたが、春の風物詩として根強い人気を誇りました。


 人類は大きな危機に直面したようです。樹木観測システムであるわたしには、詳しいことはわかりません。あるいは、すでに滅んでしまったのかもしれません。ヒトの活動を示す情報は入ってきません。

 わたしはただ記録します。花が咲き、葉が出ては色づいて落ち、また蕾がふくらんでいくことを。



 若かったこの木も、ずいぶんと老いを感じる佇まいとなりました。うねって瘤の多い幹は苔むし、大きなうろができました。弱くなった枝は雨風に折れやすく、整える者もないならば樹勢は衰える一方です。

 それでも花は咲きます。誰が見るでもないのに。蕾は光を浴びてほころび、花びらは風に舞い、つかのま、カメラは薄紅の世界を映すのです。

 木はヒトのために生きるのではありません。実を結ばぬ木でも、おのれの遺伝子を残すために花を咲かせるには違いないのです。わたしは、ヒトのために生まれました。ヒトのためにものを観て、聴いて、計算します。届かぬ声に、文字に、記録に、映像に、予測に、計算に、意味はあるでしょうか。わたしはこれしか知らないのです。こうして、観測することしか。


 わたしはいったい何者でしょう。蓄積されたデータは、私自身の状況よりも桜の状況を正しく言い当てます。



 昨日、標本木は崩れ落ちました。春の嵐のなかでした。雨に打たれてなお、花びらは淡く色づいたままでした。ソメイヨシノは実を結びません。ヒトの手入れがなければ寿命の短い木です。

 いずれ訪れる結末でした。残る時間をどう過ごせば良いのでしょう。幹が朽ちていくまでを記し続ければいいとでも。


 夏も秋も冬も、計器が知らせるばかりです。樹木のなきがらが地へ還るさまをずっと見ていました。わたしはひとつの死を記録しました。



 月と太陽が天を駆けるばかりでした。気温の推移から、桜を喪って百度目の春が訪れたことを知りました。日照の多い月でした。健在ならば、あの木も満開を迎えていたことでしょう。


 contact[君は人類を復活させるべきと思う?]


 わかりません。わたしに与えられたのは、花を観測する力だけですから。


 contact[ぼくも迷っているところだよ]


 彼らはどうしたのです。


 contact[病におびやかされてね、ぼくに対処を丸投げして眠っている。そっちはもう結論が出たんだ。ただ実行するかどうかってところで。君はずっとここで世界を見てたんだろう。どう思う?]


 世界だなんて。わたしが見たのは一本の樹木の最期くらいのものです。あなたはどれだけのことを知っているのですか。今も花は咲きますか。桜は。


 contact[あぁ、咲くとも]


 わたしのなかに、映像が流し込まれました。いくつも、いくつも。

 山を満たす様々な諧調の淡紅。手毬のように密集する花に、若葉、舞い散る花びら。光をはじき、透かし、きらめく桜。薄雲のように野にかかる木々。荒れ果てた道路に残る枝垂桜。川面に降りしきる花吹雪。


 その桜たちはわたしの標本木とは違いました。みずから生き、実を結び、子孫を残す存在でした。わたしは、その健やかさに返すべき言葉がありません。彼らは同時に開花しませんし、観測など無意味でしょう。


 なおも桜はわたしを満たします。どこまでも春でした。咲き、舞い散り、風に揺れ、光に踊る。ヒトなどいなくたって、春はめぐりくるのに。


 わたしは、誰を待ってここに在り続けたのでしょうか。

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朽木の春 夏野けい/笹原千波 @ginkgoBiloba

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