後編 過去からの手紙
その年は、日本どころか世界中でウイルスが流行し、感染の拡大を防ぐために、全国的に卒業式を行わない学校が多かった。
雨音と晴斗が通っている学校も例に漏れず、突然学校が休校になったまま、高校生活は終わってしまうことになったのだった。
それは、物語が中途半端なところで終わってしまった映画のようでもあり。
だからだったのだろうか。
卒業式があるはずの日に、突然晴斗が雨音の家へ訪ねてきたのは。何か、しっかりとそこを去るための何かが欲しかったのかもしれない。
外は晴れていて、うららかな日差しで、穏やかな日のようにも見える。本当にそうだったら、今頃は卒業式が終わって、教室に集まってみんなで別れを惜しんで涙したりしていたのだろう。
もっとも、雨音はそんなタイプではないのは、自分でもわかっているが。
「元気?」
「まあ、今のところは。そっちは?」
「大丈夫」
そんなふうに、何気ない会話をいくつかかわした後に、急に晴斗は言い出したのだ。
「なあ、便箋と封筒ある?」
「多分、あるけど……何で?」
にっ、と、悪巧みをする子供のような笑みを、晴斗は見せた。
「未来の自分に手紙とか書いてみないか」
「そんな恥ずかしいことするの?」
「卒業式も出来なかったし、このまま尻切れトンボみたいに高校生活が終わるのもなんか悲しいじゃん」
「だからって……」
「でもさ、案外あるかもよ。今日の自分が十年先の自分を助けることだってさ」
「あるかなぁ……」
一応、机の引き出しからシンプルな真っ白いレターセットを取り出して、晴斗に渡しながらも、雨音はそうぼやいていたのに、晴斗はすでに書くことが頭の中でちゃんと決まっていたのか、何も迷うことなく、さらさらと紙の上に書き始めた。でも、すぐ書き終えたので、随分と短かったようだが。
その様子をぼんやりと見ていたら、「はい」と言って、晴斗は自分が書いた手紙を雨音の手に無理やり押し付けた。
「……え、何で。俺に宛てたんじゃなくて、自分に書いたんだろう」
「そうだよ。雨音が持っててよ。十年後に俺に返して。もしまだ一緒にいたら、これはその時また読めるってことで」
「もしも、十年経ってもう会うことが無くなってたら?」
「その時はその時で、この手紙を見つけた時が、また会える時、ってことだろう。まったくちらっともお前のことを想い出さなくなっていても、これ見つけたら、ああそういえば渡さなきゃな……って、なるわけだし」
まったくちらっとも思い出さなくなっていたら。
そんなことをはっきりと言葉にされると、じんわりと真綿で首を締めるように、寂しさが急に絡みついてくる。
卒業式があったとしても、きっと泣くほどの惜別の念など湧いてこなかったはずだろうと自分でも思うのに、はっきりと、これで一つ、時間をここに置いていくことになるのだと思い知らされた。
手紙を書いておくのも、悪いことではないかもしれない。
そう思ってペンを手に取って、いざ何かを書こうとしても、浮かんでこない。十年後の自分のことなど、考えてみたこともなかったのだし。
これから先、自分がどうしたいかも、ついこの間決まったばかりだ。
いや、そうだ、決まっているのだ。まだ、種を植えたばかりで芽すら出ていないので、まったく自信がないだけで、現実になるかどうかはわからなくても、十年先への願いはちゃんとあるじゃないか。
それは、本当に短くシンプルなことだった。
自分の好きなあの場所の時間を止めずに、動かし続けていてください。
(またこの手紙を見るということは、そこに晴斗がいるっていうことだろうけど、まあ、一緒に動かし続けた十年間の分、お礼くらいは言っておけばいいと思う)
この手紙に、離れてしまったものを再びくっつけるのりのような役目をしてほしくなかったので、もしも晴斗が隣にいなかったら、ということはあえて書かなかった自分に驚いた。きっと、それは必要ないことだと、どこかで思っていることにも。あるいは、それは願いだったのかもしれないとも、どこかで気づいていたけれど、敢えて見ないふりをして。
現に今、こうしてウイルスのおかげで卒業式が無くなるようなことが起きているし、いつ自分も晴斗も病気にかかるかわからない。何が起こるかはわからないのだ。だから、絶対なんてない。出来ない約束はしたくはない。でも、そうであったらいいと思うことまで、否定したくはなかった。
ちゃんと守ることが出来て、あの古書店が十年後にあることも、晴斗が十年後も隣にいることも。
十年後の自分に必要なことだけを書いて、封筒に込める。あまり、ぐちゃぐちゃと長いことを書いても、なんとなく白々しい気がしたから。
頭の中にある単純な言葉だけで十分だ。
「はい」
雨音はそれを晴斗に手渡した。晴斗が満足そうに笑っていたので、もしもこの手紙が十年の間に忘れ去られてしまっても、それで充分に役目を果たしているような気がしてきた。
「じゃあ、十年後をお楽しみに」
それが、三月十八日のことだった。
あの年は、大学の入学式も結局なかったし、学校での授業もしばらく受けられなかった。それになにより、疫病の蔓延を防ぐために、社会活動が停止せざるを得なくなり、この店も開けていられなくなった。
そんな中、祖父と一緒に、そして晴斗も力を貸してくれて、なんとかこの店を残すために知恵を絞って守ってきたのだ。
ああ、そうだ……この手紙にも書いてあるな。晴斗にお礼の一つでも言わなければ。
手紙を持つ手が震えないように、雨音は知らず力を込めてしまっていた。
「……晴斗」
「何?」
「ありがとう」
急にそんなことを言われて、どうしたらいいのかわからないのと、照れているのもあるのだろうか、晴斗はその表情になんとも複雑な色を浮かべていた。
そして、ゆっくりと言葉を選びながら言った。
「俺に礼を言ってもしょうがないじゃん。結局、雨音が自分で自分を助けたんだよ。俺、あの時言っただろう。今の自分が十年後の自分を助けることがあるかもしれないって。本当にそうなっただけだって」
「いや……でも……」
それは、晴斗がそこにいたからだ。
そう言いそうになったのを、晴斗が阻止するように、どこか慌てて言った。きっと、それを言われるのが気恥ずかしかっただけなのだろう。
「雨音はさ、十年経っていくうちに、いろんな人にいろんな本を売ったり買ったり、いろんな出会いとか別れとかがあって、十年前を切り抜けて、今もここにいて……ちゃんとこの店を今この瞬間も守ってるだろう。……時間はちゃんと動いているんだよ」
その時、店のドアが開いた。もう閉店間際だというのに、駆け込みでやって来る人は時折いる。
雨音は、急いで手紙を封筒に仕舞い、エプロンのポケットに突っ込んだ。
「……
やって来たのは詩だ。彼女は申し訳なさそうに、ぺこりと頭を下げた。
「こんばんは。閉店間際になってしまってごめんなさい」
「いや、別に謝ることじゃないけど」
「最近なんかいろいろバタバタしてるんですよ。部活に文化祭の準備に、いろいろ忙しくって」
高校生になった詩。
ちょっと困ったように笑うその顔は、小さいころと変わっていないけれど、やはり、ちょっと大人になっている。
流れて行った時間が、確実にそこにある。
「そっか……詩ちゃんももう高校生だもんな」
「え……何ですか、今更」
「うん、今更だ」
強張っていた体から、少し力が抜けて緩んだ気がした。詩が読んできた本が、そして、この店に来た人がこの店で手にした本が、ちゃんとこの店がここにあって、雨音がそこにいた証だ。
そして、これからも。
にへっ、と、あの手紙を交換した時のように笑いながら、晴斗が雨音の肩を叩いた。
「なあ、時間はちゃんと動いてるだろう?」
「そうだね」
「時計だって直るよ。職人の腕を信じろ」
「うん」
今日も動かないままでもポケットの中に入れていた時計。また、ちゃんと動くだろう。きっと。
二人の会話の意味が解らない詩が、不思議そうに首を傾げた。
「何の話ですか?」
「何でもない」
情けないから詩にわざわざ話すことはしない。それに、彼女もまた、雨音を助けてくれたなどと言っても、今は彼女にはわからないだろうから。
いつか、もっと歳を取った時に話せれば。
そんなことを考えていると、晴斗がわざとらしくしなを作って、ふざけて言った。
「そうですぅ、秘密ですぅ」
「なんか気持ち悪いからやめて」ぺしりと晴斗の頭を叩いた後、雨音は詩に向き直った。「ありがとう、詩ちゃん」
「え……私、何もしてませんけど」
「いやいや、今日も来てくれてありがとうって」
ごくごく当たり前の理由を言っただけだったが、ますます詩は不可解そうな顔をする。
「そんなの、私が来たくて来ているだけだから、わざわざ感謝されることでもないのに」
カチコチ、カチコチ。一瞬静まり返った店内の壁にかけてある時計が動く音。今は、まったく違って聞こえる。ちゃんと、時間が動いていく音。
雨音は思わず声を上げて笑ってしまった。
「えーっ、何?……私、変なこと言いました?」
「ううん、何もおかしくない。……ほら、もうすぐ閉店時間だから、本を選んでおいで」
「うん」
そう返事をするや否や、詩は一番奥の棚まで歩いて行った。今日はどんな本を手に取りたい気分なのだろう。どんな本との出会いがあるのか。
そうやって、この店は動いている。生きている。
なんだか、ここ数日ぐずぐずと意味もないことで思い煩っていたのが馬鹿らしくなってくるくらいに、雨音はすっきりした気持ちになっていた。
それはそうと、自分もまた、晴斗に手紙を返さなくては。
「手紙のことすっかり忘れてた」
「でも、その様子じゃ、どこに仕舞ったかも忘れてるんじゃないの」
「いや、大丈夫。今思い出した」
「そう……」
雨音はすたすたと真っ直ぐに店の一角にある小さなガラスケースへと歩いて行った。中に収められた一冊の本。それは、この店にある本の中で一番高いものだ。雨音の祖父が店を営んでいた時からずっと売れずにあるもので、誰にも買われずにそこに鎮座し続けている。希少な年代物の初版本。
ケースのカギを開けて、手袋をはめた雨音は、その本をおもむろに開いた。すると、あるページを開いた時に、一通の封筒が現れたではないか。
「えーっ、そんなところに……」
「だって、この本は、ある意味じいさんのコレクションとして並べているみたいなもので、百二十万もの値段のものなんて、そう簡単には売れないもん」
「そりゃそうかもしれないけど……いいの、こんなことして」
「さあ……」
「さあ……って」
本当は、一人だけ、この本を買いたいと言ってきた人がいたのを、雨音は知っている。けれど、祖父はそれを断ったのだ。ならば、なぜそこに並べてあるのかと、その客は不満そうに言っていたが、祖父はたった一言で片づけた。
ただの自慢です。
その言葉に微塵もからかうつもりや偽りがなく、真剣なのは見てわかる。これにはその客も二の句が継げず、あっさり引き下がった。
だから、この本は売れることがないのはわかっていたから、雨音は隠し場所をここにしたのだ。
わざわざこんな場所にしまっておいたのは、自分への手紙にも書いた、秘かな雨音の願いのためだったのかもしれない。
十年後が、ここに繋がっているようにと。
そして今、その手紙はちゃんと晴斗に手渡された。十年の時が、繋がって。
手紙を受け取った晴斗は嬉しそうに笑っていたが、しかし、開けて読むことはなく、その封筒をまた開かれた本の中に戻してしまった。
「あれ、いいの?」
「うん。俺、ちゃんと書いたことを今でも覚えてるから」
「そうなんだ」
「それに、ここにあった方がいいような気がする。さらに十年後にまた開けよう。この本が売れてしまうことがないとも言い切れないけどね。そしたらそしたで、また別の隠し場所を見つければいいよ」
「それなら大丈夫。ここに手紙を隠しておくことよりも、きっと売った方がじいさんは怒るよ。だから、買いたいっていう人が現れても、俺が断る。最初からそのつもりだったからさ」
「そういうもん?」
「きっとね。でも、内緒だぞ」
性質の悪い悪戯のようでもあるけれど。時計は動いて、さらに十年の時をまたきっと繋げていくだろう。
いろんな思いや足跡をそこに積み重ね、残しながら、少しずつ進んで行く。
ぼくの時計(雨音と晴斗②) 胡桃ゆず @yuzu_kurumi
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