ぼくの時計(雨音と晴斗②)

胡桃ゆず

前編 止まった時計

 時計が、止まってしまった。

 電池で動いているものではなく、一日に一回ネジを巻けば動き出すはずなのに。ネジを巻いても、秒針は動かない。

 古い懐中時計なので、そんなことがあっても驚きはしないが。

 驚かなくても、何か取り残されてしまったような焦燥感と、喪失感が雨音あまねの心の中を這いずり回っていく。

 一日の始まりに、すべて身支度を整えて、出かける前に時計のネジを巻くのが習慣であったのに。

 きっちり毎日同じように予定通りに動かなければいけない、そんなふうに義務的に感じて行動しているわけではないが、ネジを巻く、そのことが一つ損なわれてしまっただけで、どうしていいかわからなくなってしまった。

 雨音には、この時計は自分の時間を動かしていたような感覚がずっとあった。一日の時間が、ネジを巻くことで毎日動き出す。ずっとそうして、自分の時間は動いていくのだと。


 そもそもの始まりは、大学受験も終わり、無事に合格をして、高校の卒業を控えていた頃のことだった。

 ある土曜日、祖父に頼まれて、祖父の自宅の書棚の整理を手伝っていた。

 積まれていた本を持ち上げたその時に、影に隠れてあったのを見つけたのだ。この古びた懐中時計。

 思わず、手に取ってみた。ネジを巻けばまだ動くだろうか。そうはっきり頭で考える前に、もう手はネジを巻いていた。

 カチコチ、カチコチ。チクタク、チクタク。

 時計は、動き出した。

 何故かわからないけれど、その時計の針の動きに合わせて、心臓がとくんとくんと、一緒に鼓動を打つ。まるで、一つのものみたいに。

 時計にすっかり夢中になっていた雨音を見て、祖父は、動くなら使っていいよ、と言ってくれた。

 それは、雨音がいずれ祖父が経営している古書店を継ぐことを、祖父から示唆された日でもあった。とりあえず、学生の間はアルバイトから、ということで、一気に未来への時間が動き出したのだ。

 祖父の古書店は、雨音の小さいころからの遊び場だった。両親は共働きだったので、学校の帰りは家ではなく、祖父のいるこの店に来るのが日常だったから。

 特に、どこへも行けない雨の日には、自分の名前でもある雨音を遠くの方で聞きながら、本に書かれた、この世に存在すらしない、遠くの地に思いを馳せるのは奇妙な気もするが、楽しかったのだ。

 だから、そんな古書店が自分の本当の居場所になる、そのことが純粋に嬉しい。


 あの瞬間、この時計とともに、自分の時間が動き出したような気がしていたから。


 動かないけれど、その時計をポケットに入れておかなければ、何か落ち着かなかった。

 今日も雨の日。本を売りに来る人も、買いに来る人も、客足は遠のいている。ふらっと覗いてくれる人も、ほとんどいないような状態なのは、仕方ないのか。

 だから余計に、時間が止まってしまったような気がしてしまう。この場で動いているものといえば、窓を打ち付けて流れて落ちて行く雨粒と、晴斗はるとくらいなものである。

 それにしたって、お客さんが来ないので暇そうで、欠伸などしているが。そのついでに、ふと視線を雨音の方に向けた晴斗は、少し心配そうに声をかけて来た。

「どうしたよ?」

「何が?」

「すっごいボーっとしてるな……」

 自覚がないわけじゃない。自分がここにいる感覚は確かに薄くなっていた。それでも、気づかぬふりをして惚けてみる。

「そうかな」

「そうだよ。だってさ……死んだ魚の目だよ。でも、釣りたてじゃなくて、釣られてから冷凍保存もされずもう何日も経ってるような魚の目。美味しくなさそう、っていうか、もう腐る寸前」

「妙に細かく丁寧な描写をどうもありがとう。……そこまで言われると、腐り具合も立派に聞こえるよ」

 褒めたつもりはない。むしろ皮肉だ。そのはずなのだが、なぜか晴斗はちょっと得意げだった。

 直球じゃないと真意が届かない人というのは確実にいる。雨音が捻くれているだけなのか、と、頭を抱えたくなった。

「何かあったのか?」

 晴斗は心配してそう訊ねて来てくれるが、皮肉の通じないその真っ直ぐさに、雨音の方が心配になっていることには、まったく気づいていないだろう。

 頭が痛くなる。

「あるといえばあったし、しかも、本当に些細なことだけど。言うほどのことじゃないよ」

 晴斗は手近にあった結構分厚い本を咄嗟に手に取り、ばしりと雨音の頭を叩いた。けっこうな打撃である。

 何をするんだ、と、言おうと思って雨音が顔を上げると、晴斗は不満そうにふくれっ面をしていた。そして、もう一度、こつんと軽く雨音の頭を小突く。

「言えよ。大したことじゃないって頭で思ってても、そのぼんやり具合は、心にとっては大事おおごとなんじゃないの」

「……そうかもね。お前が、毒を毒とも思ってないその無頓着さに悩まされている……っていうところかな」

「ふざけないでくれるかな」

「あ、ちゃんと皮肉が通じることもあるんだ」

「わかるよ、それくらい。……で、本当は何なんだよ」

 わざわざ話す必要もないけれど、晴斗がそこまで気にかけてくれているのなら、黙ったままで心配をかける必要もない。そこから、このどうしようもなく停滞して鬱々とした気持ちが伝染していくのも如何なものかと思うのだ。

 だから、雨音は素直に話すことにした。

「時計がさ、壊れちゃったんだ。動かなくなった」

「ああ……いつも持ってるあれか。古そうだったしなぁ」

「それだけ。だから、言うほどのことじゃないって……」

「修理に出せば」

 そう、それだけでいいことなのだ。でも、古い時計だから、修理しても直るかどうかわからない。

 そうしたら、どうすればいいのだろう、などと、そんなことを考えてもしょうがない。

 それに、時計はただの時計だ。今が何時何分か知るためだけのもの。それなら、店にだって掛け時計があるから問題はない。

 だから、こんなことでこんなにふさぎ込んでいる自分に馬鹿馬鹿しさも感じる。

 外の雨音は、だいぶ静かになってきた。だから、投げ出された雨音の声をかき消すこともない。

「なんか、ごめん」

「何が?」

「たかがそれだけのことで、そんなに分かりやすいくらい、腐る寸前の魚の目になって」

「大事なことって、人それぞれあるからなぁ。そういえば、あれ、高校を卒業するちょっと前だっけか。嬉しそうにその時計を見せてくれたの」

「うん、そんなこともあったね」

 二人とも黙り込んでしまって、静寂が場を乗っ取ると、思い出してしまったあの日の光景が、サイレント映画のフィルムが回っているように、目の前で走り抜けていく。

 永遠に、そこに閉じ込められているように。

 不安を、気が付いたら口に出していた。

「このまま、時間が止まってしまったらどうしよう」

「……は?」

「いや、そんなことあるわけないってわかってるけど……でも、なんていうかさ……どこにでもある時計の時間じゃなくて、俺の時間の針が……」

 そんなことを晴斗に言ったって、どうしようもない。馬鹿みたいに自分が気にしているだけだ。

 壁にかかっている時計は、ちゃんと一秒一秒針が進んでいる。

 横目で雨音を一瞥した晴斗は、ぽそりと呟いた。

「ああ……なるほど、そういうことか」



 翌日は、雨が上がってすっきり晴れていた。

 昨日よりはお客さんはやって来るので、まだ動いている、そう思えた。それが助けになったのか、ちゃんと普通に働くことも出来ている。時計のように、壊れてしまっていない。大丈夫、今日も明日も明後日も、きっと同じようにちゃんと流れていく。

 一日、ずっと自分にそう言い聞かせていた。

 動かない時計を、ポケットに入れたままで。

 閉店の一時間前。外はすっかり暗くなって、家路を急ぐ人、あるいは、どこかへ一杯ひっかけに行く人、それぞれにみんな自分の時間を持ってこの場所を通り過ぎて行く。

 店に人が途切れた瞬間に、急に晴斗に声をかけられた。

「なあ、雨音」

「何?」

「これ」

 雨音の眼前に突き付けられているのは、何の飾りもない一通の白い封筒だった。

「これは?」

「手紙だよ。見ればわかるだろう」

「それはわかるけど。何でわざわざ?」

 不思議に思いながらも、雨音は一応受け取った。

「俺が書いたんじゃない」

「は?」

 差出人の名前でも書いていないか確かめるために封筒を裏返してみると、そこには日付が書いてあった。三月十八日。

「今日の日付だな……」

「本当に覚えてないのかよ。あんなにあの時計に拘ってるくせに」

「覚えてないって……」

「自分で書いたのに」

「……え」

 そうだった。すっかり忘れていた。十年前の今日、この手紙を書いたではないか。

 高校の卒業式の日に。いや、卒業式のはずだった日に。

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