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すべてのエピソードへの応援コメント

  • 前半すっ飛ばしている上に、読むところは順番に読んでいる関係上、この先で考察されているのかもしれないのですが…

    それから私の感想がどうしても「この話を読んで別の話を思い出した…」みたいに微妙にズレるので(そういった話は著者の意図した、しないに関わらず何かを内包しているのだと思うことにしています)、想定されていたものとは違うと思うのですが…

    現代のテンプレを追う中で、それすらもやはり過去の「物語のテンプレ」からは逃れられない(のかもしれない)≒人間の考えることなんて限界がある(だから絶望しないために予め知っておくことにも意味あり)、
    ついでに、
    異世界転生が初期の俺TUEEEから苦労人系にシフトしてきたのはこのせい??
    なんて思わなくもないです。

    どんなに独創性を出せとか言われてもがいても(今時こんなこと言う創作教室とかあるのでしょうか?)、ここからは逃れられないんだよ…というのが目に見えるようです。

    作者からの返信

    コメント、ありがとうございます!
    知識や思考がリンクして某落ち物パズルもびっくりの連鎖していくの、楽しいですよね!

    そうですね、人が納得できる理由の根拠って結局普遍的な価値観に依拠するので……逆立ちして歩くのが普通になろうか、いや逆立ちしてもありえなくない? みたいな。
    それに、そもそも結論として「人間は物語から離れられない、何故ならば物語こそ異界だから」というつもりですし(唐突な結論バレをする作者)……いや、オナモミ投げ大会や、つっこまざるを得なかった話リストがあったりするので、最後まで楽しんで頂ければ幸いです。

    また、物語のテンプレって、その原型が現れた時点では結局原石の鉱脈でしかなくて、どんどんみんながそこから採掘してって、納得するように加工・研磨・変形・装飾させていくようなもんだと思うんです。ジュエリー的に考えてみれば、そりゃ流行り廃りも出ます。

    すでに○○譚みたいに分類が決まったテンプレートでさえ、未だ尽きぬ鉱脈でありつつ、最終的な加工結果が似通うのは、一般感性的に腑に落ちる形になっていると考えられるのです。ダイヤモンドならブリリアントカットしとけば間違いないだろみたいな。

    ただ、腑に落ちるための論理の特に理性の表面的な部分というのは、時代のコンテクストによっても変わる(昨今だと、良かれと思ってのいわゆるポリコレ系改変の一部が、時として「時代の要請vs物語上の必然性」となるという例がわかりやすいかも)ので、そうなってくると受容史や時代背景との絡みとか、最終的に「今」の結果まで踏まえて俯瞰して見れる地点まで進まないと詳細な分析は難しいんですよねえ……

  • 2 「異界」と「異世界」への応援コメント

    ああ…この「異界」と「異世界」の定義はよくわかります。
    (すみません、完全に趣味で空海編を飛ばしております)
    私はこの分野の出身ではないので、すごくアナログに個人的な感覚で捉えていたものが、他の人によって「こうなんだよ」と言われることによって形を得る、いわば名付けられるのを見るのは、これまた魔術っぽいものがあります(学術的見解ではなくてこれまた感覚ですが…)。

    作者からの返信

    コメント、ありがとうございます!

    必要な場合はここ見てねリンク貼ってるので、大見出し単位ならツマミ読みでも問題ないです!(きっとたぶんそのはず)

    私は「異界」が好きなんですけど、「異界と異世界って全然違うよなー、異世界は転移か転生が基本で、異界は訪問が基本だもんなー、なんだろーなー」ってしながら趣味の本(大量)をぱらぱらしてて、ハッとしたんですね、「異世界と現実世界は植物の細胞的だけど、異界と現実世界は動物の細胞的……?」と……要は絶対的隔たりを感じるかどうかという観点ですね。
    そして、「十二国記が異界っぽい異世界と感じるのはこれだー!!!」と、そのままにアウトプットしました。

    へへ、リアル友人から「どうあがいてもお前は魔術師か魔女」と私が言われてるのを看破されましたようで……へへへ……
    今後、怪談と精神分析学絡めたレポートのリライトも載せようと思ってるので、もしかするとその魔術的に思えた理由もそこでご理解いただけるかもしれません(なお、全ては私の文章力にかかっている)

  • EX1-1 抑圧と報復への応援コメント

    ハプスブルク家の顎も寓話っぽいタイトルですよね。
    内容も近親交配ゆえという多少の戒めがあるというか。

    作者からの返信

    コメント、ありがとうございます!

    「こうして書くと、け、系譜が、系譜が明らかすぎるぅ〜……なんか現実でもあったな?」ってしたら脳裏にスライドインしてきました、ハプスブルク家。
    世界史は(主にカタカナ※と数字と地理的暗記力に欠けるので)苦手なんですけど、こういう本筋の裏側の小ネタ的なのは好きです。

    ※ヨーロッパ系言語沼の浅瀬に片足をはめているヤツの言なので信用に足りないかもしれない

  • 「花薄荷の鉢辺り」でもう頭が追い付かなかったのが、
    「知らん坊」で脳みそ砕け散りました。

    作者からの返信

    コメント、ありがとうございます!

    「知らん坊」は犬、地面ときて「砕ける(謎物理)タイプの毒かあ……」からの「今回は砕けな……暖炉砕けとるから、人は砕けんのかーい!」で噴き出しました。

    「花薄荷の鉢」はびっくりしただけなんですけど、初手で書いた類話の「メボウキの株」はマジで蕪inケツなので、死ぬほど笑いました。
    なお、「メボウキの株」はこの後からかわれた娘が紳士に「ケツに入れられた蕪はかたかったか?やわかったか?ああん?(意訳)」とからかい返した結果、紳士が結婚を決意してめでたしめでたしです。

    こういうツッコミ役の自分を頭の片隅に置いときながら読むの、楽しいですよね(結果文字数ががが)

  • 邦画界にもなんか
    「映画は高尚なモノでなければならない」
    みたいな価値観を持つ人が一定数いますよね。
    映画のアレはテレビ系に対する「自分達は違う」意識で
    醸成されてきた部分はありますが。
    それにしても芸術は答えが無いので兎角
    「価値を担保された過去」に立ち戻りたがるのやも。

    ただ、文芸の文学性、高尚さが仰る通り言葉にしようとすると
    「なんだ? 結局よく分からん」
    になるのに、文学性が高いとされる邦画は大体
    「薄暗い画面でボソボソ喋る」
    「家族関係が上手くいっていない主人公(大抵男でほぼ会話の無い妻と
     思春期で不安定な娘がいる)が」
    「泣いたり絶叫したりしながら思いの丈を吐露する相手を抱き締めて和解」
    みたいな水脈がある程度決まっているのは面白いなぁと思ったり。
    これは「任意の表現方法」の代表かも知れませんね。
    あと監督名で騒ぐので「任意の作者」のケもある。

    そういえばアーティストのKing Gnuが
    「『このアーティストの曲だから』という理由で曲を評価する人々」
    を痛烈に批判する、「任意の作者」批判のMVを作ってましたね。

    いろんな芸術のジャンルについても考えられる面白い考察だなぁと
    感心致しましたのでオナモミ食べます(?)。

    作者からの返信

    コメント、ありがとうございます!
    ラノベ・アニメ・マンガは文学ではない!と叫ぶ人、江戸期の大衆向け作品群を無視してるorタイラーの宗教観的な西洋至上主義な奴説……という八割方偏見の主語クソデカ燃料はここだけにしておきまして。

    映画関係はあまり詳しくないのが申し訳ないのですが、平原に最初に一番高い建物作るのは簡単だけど、それの高さによって、それ以降一番高い建物を作るための労力がどんどん加算式で変わるって感じですよね。
    結果として、その高さを作るための自重に耐えられる構造というのは限られるので、枠組みがテンプレート化するのやも……

    実を言えば、レッテルや権威者による評価というのが現代に生き続ける「外の権威」である(芸術のみならず食べ物とかも)と思ったりしているので、そこも踏まえた上で、「自分として」の「プレーンな評価」と「相対的な評価」を切り分けつつ、各々が大事にできると、多様化と玉石混淆化が進むと思うですよね。

    石すらないところから玉が産出するはずもなく、玉だけになれば、そも玉の価値は石も同然になる……のであれば、やはり玉石混淆をしてこそ健全な状況と評価すべきだと思うので、この玉石混淆化、進むべきなはずなんですよね。
    玉か石かの論争は多々あれど、それに迎合して石を投げ捨てることを他者が強制するのであれば、それは最早、江戸期の幕府による取締、筆禍と同じとも思うので、歴史を繰り返さぬためにも、弱い玉よりも強い石であらねばと決意する今日この頃の過疎地な私です。

    あとオナモミ、少しですが毒性あるらしいので、ごっくんせずにぺっしてください……

  • 余談という名の言い訳への応援コメント

    やはり呪詛合戦ですか。
    同意です。

    作者からの返信

    コメント、ありがとうございます!

    呪詛合戦は本当に読んだ時に、今まで脳内にあった品行方正空海さん像をキレイに発破かけてぶち壊していったので……
    というか「何故ちょっかいかけたの? いたずらっ子か? そして呪詛合戦が小学生男子みたいなんだが〜?」みたいに、それまでの空海さん像とのギャップにやられたと言いますか……いや、まだ小野篁とかならわかるんですよ、アレは伝説的にやらかすタイプの人なんで。
    よりによって「優等生の空海さんが!?」なギャップがですね、こう「人間味〜」って感じなんですよね……(ろくろを回す時みたいな手)

  • タコ足配線いいですね!
    講義やレポートでウィットに富んだセンテンスを用いると、
    発表する側される側も乗って来ていい感じになりますよね。

    作者からの返信

    コメント、ありがとうございます。

    実はこの「権威のタコ足配線」については、ここではいろいろと引っ張り出して補強や普遍化を図ってはいるものの、中世説話とかそれに近いものをやる人には割と基本の考え方(これに近い考え方で宇治の宝蔵に触れてたのは小松和彦先生だったか、田中貴子先生だったか、小峯和明先生だったか)で、その説明を受けた講義のリアクションペーパーに、当時の私は「権威のタコ足配線」って書いたんです。
    「言葉選んでねーし、本来はWだかAだか分岐すると数字が落ちるはずだけど、つまりこういうことであってるよねー」のつもりで。

    その講義の次の回、初っ端で先生に取り上げられて目が点になりました。

    しかしながら、このタコ足 配線自体は書いた通り、別段中世説話に限定するものでもなく、むしろ権威の源泉が変わっただけで、現代でもまだ生きてそうな気配がするのですよねえ。

    編集済
  • ただちょっと、蟹満寺の蟹報恩は
    人間が身勝手過ぎて蟹も蛇も可哀想な犠牲なんですよね……。

    作者からの返信

    コメント、ありがとうございます!

    確かに現代人である我々の視点だと蛇も蟹も人にぶん回されてる状態なのですよね。

    ただ、蟹満寺縁起型、現在広く知られるもののベースは「今昔物語集」、「古今著聞集」と同じ流れのもので、これ、おそらく「本朝法華験記」なる法華経の功徳エピソードを集めたマイナー仏教説話集が(成立年代的に)オリジナルと考えられます(余りにも流れが同じすぎる)
    この「本朝法華験記」、「日本文学大系」や「新日本文学大系」を発刊してる岩波書店さんですら、「日本思想大系」というくくりで出してるものなので、平安期の仏教色がやたら強かったりします……なので、放生というものの重大性や経による功徳に対して、現代の我々の認識とは齟齬が生まれる点がそうした理不尽感に繋がるのかなあ、と思います。

    また、蟹満寺型でも水乞いではなく蛙を助けるパターン(上記オリジナルにより近い)の場合、「蛙は何してんだ」が一発目に出てくる感想かと思います。私も思いました(し、だから蛙報恩型が生まれたのかなとも)
    しかしながら、この点については、さらに蟹満寺型の原型の「日本霊異記」に収録された蟹報恩の話で、「嘘をついて救うのは戒律を破るので救ったことにならない」的な行基さんのお説教があるので、どうもこのお説教が暗黙の了解下に沈んでしまったようなのですよね〜。

    ……と、まあ、卒論の一端で調べた内容だったので(文字数)な内容を書いてしまいましたが、意外と昔の仏教の世界観って現代の我々の認識からすると違うことが多々あるので、その辺りを調べて深みに行くと、こうして沼にハマるわけです。

  • 逆に「徳がある人物のエピソード」としてお決まりのパターンを
    空海も一通り踏んでいる(話を作った人が踏ませている)
    とも考えられるなぁ、と思ったり。

    役行者やチンギスハーンが何かしら握り締めて
    生まれて来た逸話のパターンのような。

    作者からの返信

    コメント、ありがとうございます。

    実はそこについては、まさしくその通りでして……世の中の伝説・逸話って結構パターン化が容易なのです。パターン外がないとは言いませんが。
    そして、この辺り、「まとめ」で(特に権威云々として)大いに立て板に水で語っておりますので、お楽しみいただければ幸いです(なお文字数)

    役行者やチンギスハーンのような何かしら握りしめて誕生パターンは一応分類上は、異常誕生譚系列になりますかね。
    異常誕生譚も妊娠に異常が付随する場合と、誕生時に異常が付随する場合があるので、幅は広いのですが……
    ※前者は『詩経』大雅の「玄鳥」や「悪魔のロベール」などの申し子、聖母マリアの懐胎におけるガブリエルの来訪等、後者は「瓜子姫」、「一寸法師」、お釈迦様の天上天下唯我独尊等

  • 関係無い話ですが三十三間堂の迦楼羅像は本当に格好良い。

    作者からの返信

    コメント、ありがとうございます。

    びしっとした決めポーズって感じですよね。
    二十八部衆の中でも迦楼羅と阿修羅は像のイメージと結びつきやすいからか、覚えやすさのツートップな気がします。

  • 呪殺とか、ちょっと碌でもないエピソードもあるんですね。

    作者からの返信

    コメント、ありがとございます。
    仰るとおり、空海さん関係では非常に珍しく、碌でもない空海さんです。
    この一点における激しさはともかく、平均すると人間味を感じるポイントなので個人的には好きですが。

    とはいえ、そんな碌でもない空海さんでも、なんのかんのと仏教に繋げてくるというウルトラCをする辺りは、今昔物語における仏教志向の逞しさというものが滲み出ているようにも思える話です。

  • おまけの余談への応援コメント

    『むしまるQ』、母が未だに
    「私、タガメと申します」
    のモノマネをします。
    もう二十年くらいになるのでは?

    作者からの返信

    コメントありがとございます!

    そういえばタガメもいた!タガメという存在知ったのがむしむしQだった!と今思っております……おかげで田んぼとはちょっと距離がある場所だけどタガメという存在を常識の範囲として育ちました。
    フル尺覚えてるのがアリクイなほど、あの歌は強烈だったのですが、思い返してみればタヌキ以外にもオオカバマダラとかイカとタコとかキリンのキリコは眠れないとか、地味に断片を覚えてるのは多いです。幼少期の刷り込みって重要ですね。

    実のところ、見てた頃の年齢と現年齢比較すると、丁度むしまるQが始まった頃は二十五年近く前になるなあ、と思いつつ調べてみたら、最初期のむしむしQから最後のむしまるQまで1995〜2006年放送らしいです……むしまるQは1997〜2006(1997〜1998があにまるQと並行放送)とか……「計算が、計算が大体合っている……(年を自覚しとうないと目を逸らしつつ)」という気持ちになりました。

  • 4 そのほかの狐への応援コメント

    コメント失礼します。
    葛の葉や玉藻の前といい、狐(女性)の異類婚姻譚は何故か印象深い気がします。お話の数は蛇女房の方が多いらしいけど。


    >狐は人に破滅をもたらすのではなく、人の傍らで暮らす、時として超常的である存在として

    前回のコメントで、玉藻前はスケールの大きい悪事をやった印象が強いと書きましたが、
    そういえば『狐という獣のイメージ』でも名前を挙げていらした『狐の日本史』では「たまものさうし」では作中で、玉藻前は誰ひとり殺していないと書いてあったな・・・と。

    つくづく、狐って不思議な存在だなと思いました。(小並感)
    自分でも狐や狸が出る作品を書いてみたけど、こうして、他の方が書いた作品を読むと知識が浅いまま書いてしまっているなと思うことがままあります。

    狐を扱った作品と言うと、色んなものを見かけますが、
    カクヨムでは『狐の尻尾は黄金色』という中編小説や、商業漫画の方では志怪小説の捜神記を元にした『千年狐 〜干宝「捜神記」より〜』という作品が個人的なツボでした。

    作者からの返信

    コメント、ありがとうございます!

    私も当初は漠然と「説話って狐多いな〜」だったんですけど、ふと
    「昔話だと、狐といえば狸みたいな関係性だけど、説話だと狸出てこなくね? というかメインに据えようとしてる古今著聞集ぐらいでしか見かけてなくね?」
    と思って、これの原型を卒論の一部にしたんですよねえ、懐かしい。
    その諮問の時だったかに「狐って本当はめちゃくちゃ警戒心強くて、なかなか見れないはずなんだよね」みたいな事を担当教授が言ってた記憶もあります。
    だからこそ、瑞兆扱い的な側面もあったのかもしれません。

    あと、やっぱり中村先生の『狸とその世界』だったとは思うんですけど、
    「神使と家畜は対応していた(そして猫は家畜にしてはやや外れた位置にいたから、そこと対応する狸が混沌と化した)」
    という話がありまして、それで行くと、狐は犬と対応するんですが、実際には犬と対応し得るのは狐だけでなく、狼もそうなるはずなんです。
    狐と狼であれば、断然狼の方が危険とすると、自然と狐の方が親しみやすい「神の犬」だったのかもしれないです。

    ……とはいえ、あくまで全体を俯瞰してみた結果が「こんな感じ」なわけであって、大陸由来の妲己とか褒姒みたいな、「本性が化け狐とされた悪女たち」というのはどうにもインパクトが大きく、同時に物語におけるその悪辣さを納得させる装置であると思われます。
    そしてそれが引用されればされるほど、共通認識・観念としての固定化、ミームの増強みたいなものが発生し得るので、物語上では共通認識固まってる方が使いやすいかと思います(「テンプレ?テンプレはうまく利用してなんぼだよ!」の口です)
    あくまで、ここで書いてるのは物語研究としての現実的なイメージの変遷の話を、オタク特有の早口で披露してるだけなので、あえて茨の道を行く必要もないと思いますので、うまくバランス取っていけるといいかと思います。

  • 5 狐という獣のイメージへの応援コメント

    最近、狐狸・妖怪ものが好きで興味深く拝読させていただきました。

    >意味もなく致命的な悪戯を仕掛けようとはしない

    狐というと九尾の狐(玉藻の前)の印象が強いせいか、スケールの大きい悪事を働くというイメージを持っていたので、これは意外でした・・・

    作者からの返信

    コメント、ありがとうございます!

    なんなら、『日本霊異記』巻上の二のお話は、奥さんが狐とバレても「すでに夫婦の契りはした身なのだから、いつでも来て共に寝よう」と旦那さんが言ったとこから「来つ寝」→「きつね」と呼ぶんだよ、なんていう語源説話なので、もともと狐自体はそんなに悪い感じじゃないんですよねえ。晴明のお母さんの葛の葉の話もありますし。
    この後の狸の方の「その他の狸」でも言及する通り、「狐は尾の先に人の魂を乗せて化かすが、狸・むじなは舌の先で人を化かす(狐は気が済むとその人を解放するが、狸・むじなは化かした人間を食う)」なんて言葉があるぐらいなんで、総合的には狸より危険度が低い感じです。

    それでも、確かに玉藻前による印象は大きいと思います。一応日本三大妖怪としてカウントする説あるぐらいですし。
    ただ、実のところ、同じく三大妖怪カウント説のある酒呑童子もそうではあるのですが、玉藻前も通常の説話の範囲には登場しないんですよね。
    どちらも伝説・伝承と説話を踏まえた上で作成されたと思われる絵巻や草子(大体室町期の作成)での登場なので、説話文学最盛期とも言える鎌倉期中に説話文学を記録する人の手元にはその話がなかったということになります。
    また、「そのほかの狐」でも言及した通り、『源平盛衰記』では周の幽王と褒姒の話をあげて、褒姒が「狐であった」としているのに、玉藻前には言及していない(けれど玉藻前伝説上では褒姒も遍歴の一つとされることがある)という点があります。
    これと、『源平盛衰記』も含まれる大枠としての『平家物語』自体が庶民のエンタメとしての意味合いもあってどんどん拡張された物語群(諸本が多すぎる+関連伝説も多すぎる)であることを踏まえると、玉藻前伝説が成立した時点で、すでに『平家物語』には入り込む余地がなかった可能性が高いと見て取れます。
    そうなると、14世紀成立の『神明鏡』がおそらく玉藻前に言及した一番古い記述なので、鎌倉末期~南北朝末期頃に玉藻前伝説が成立したと考えられます。

    と、この流れを見る限り、室町期辺りで玉藻前伝説が生じた段階が狐への印象の一つの転換点であるとも取れますね。
    その一方で、そんな大きい悪事を働いた狐についての純日本製と言える伝説は玉藻前ぐらいしかいない感じではあるのですが……咜祇尼さんはそもそもが有名とはいえ一応邪法だし、祀る限りはセーフだし……