応援コメント

6 新たなる疑問とそれへの一回答例という名のオナモミ投げ大会」への応援コメント

  • 邦画界にもなんか
    「映画は高尚なモノでなければならない」
    みたいな価値観を持つ人が一定数いますよね。
    映画のアレはテレビ系に対する「自分達は違う」意識で
    醸成されてきた部分はありますが。
    それにしても芸術は答えが無いので兎角
    「価値を担保された過去」に立ち戻りたがるのやも。

    ただ、文芸の文学性、高尚さが仰る通り言葉にしようとすると
    「なんだ? 結局よく分からん」
    になるのに、文学性が高いとされる邦画は大体
    「薄暗い画面でボソボソ喋る」
    「家族関係が上手くいっていない主人公(大抵男でほぼ会話の無い妻と
     思春期で不安定な娘がいる)が」
    「泣いたり絶叫したりしながら思いの丈を吐露する相手を抱き締めて和解」
    みたいな水脈がある程度決まっているのは面白いなぁと思ったり。
    これは「任意の表現方法」の代表かも知れませんね。
    あと監督名で騒ぐので「任意の作者」のケもある。

    そういえばアーティストのKing Gnuが
    「『このアーティストの曲だから』という理由で曲を評価する人々」
    を痛烈に批判する、「任意の作者」批判のMVを作ってましたね。

    いろんな芸術のジャンルについても考えられる面白い考察だなぁと
    感心致しましたのでオナモミ食べます(?)。

    作者からの返信

    コメント、ありがとうございます!
    ラノベ・アニメ・マンガは文学ではない!と叫ぶ人、江戸期の大衆向け作品群を無視してるorタイラーの宗教観的な西洋至上主義な奴説……という八割方偏見の主語クソデカ燃料はここだけにしておきまして。

    映画関係はあまり詳しくないのが申し訳ないのですが、平原に最初に一番高い建物作るのは簡単だけど、それの高さによって、それ以降一番高い建物を作るための労力がどんどん加算式で変わるって感じですよね。
    結果として、その高さを作るための自重に耐えられる構造というのは限られるので、枠組みがテンプレート化するのやも……

    実を言えば、レッテルや権威者による評価というのが現代に生き続ける「外の権威」である(芸術のみならず食べ物とかも)と思ったりしているので、そこも踏まえた上で、「自分として」の「プレーンな評価」と「相対的な評価」を切り分けつつ、各々が大事にできると、多様化と玉石混淆化が進むと思うですよね。

    石すらないところから玉が産出するはずもなく、玉だけになれば、そも玉の価値は石も同然になる……のであれば、やはり玉石混淆をしてこそ健全な状況と評価すべきだと思うので、この玉石混淆化、進むべきなはずなんですよね。
    玉か石かの論争は多々あれど、それに迎合して石を投げ捨てることを他者が強制するのであれば、それは最早、江戸期の幕府による取締、筆禍と同じとも思うので、歴史を繰り返さぬためにも、弱い玉よりも強い石であらねばと決意する今日この頃の過疎地な私です。

    あとオナモミ、少しですが毒性あるらしいので、ごっくんせずにぺっしてください……