6 新たなる疑問とそれへの一回答例という名のオナモミ投げ大会

しかし、何故、こうした形の話が爆発的に流行り、また数多の批判に晒されながらも、それでもそれ以上に多くの誰かが書き、読んでいるのは何故だろうか。


私はそれへの明確な答えは出せない。

なんならここまで語ってきた全てが妄言だと言われれば、「推測:答え」でしかない現状、「でーすよねー」と思うところもある。これだけ材料揃えても。

ただ、逆を言えば、同じように「推測:答え」なら、出そうと思えば出せるのである。


さて、そのために、チキチキ文学とはなんだ検討会を始めます。

絶対賛否両論生まれる問題なので、投げるなら石ではなく、オナモミにしてほしい。これだけは遵守してほしい。オナモミ、痛くない。


前提として、文学研究の文学だからね。ね!(念押し)


日本の文学史を俯瞰すれば、近現代の「文学」と持てはやされるものはそれ以前と異質であることは疑いようもない。まあ、日本史上は文明開化からの価値観の転換パラダイム・シフトの発生だから、思考とか一番影響されるもんなので、それ自体は別にいい。現在使われる「文学」はもっぱらLiteratureの訳語としての「文学」だし……ちなみに『古今著聞集』の区分けの「文学」は漢詩・漢文のことである。

問題は、この近現代の作品とそれより前の作品で、立ち位置が不当に異なる場合があると思われることだ。特にとして。


これこそ、問題中の大問題だと私は思っている。


早い話が、ボブ・ディランはノーベル文学賞に値するか否かという話に同じで、として近現代の文学範疇が狭すぎるのである。

というか、大衆向けを文学と認識しないというか、文学を異常に高い位置に置いてるというか、勝手に高尚なものであるという規範を作り上げてそこから外れるものを勝手に蹴落としてるというか……あ、全部偏見込みの私見なので気に入らなければ、オナモミ投げといてください。

ちなみにくだんの話題がぶち上がった時の私の感想は「は?」の一言である。圧は込めてる。


学術的分類上、少なくともに文学と呼ばれる範疇にある黄表紙きびょうし合巻ごうかん、歌舞伎、文楽、落語は現代に当てはめれば、漫画、ラノベ、演劇・映画、お笑いである。

つまるところ、それらがニアリーイコールで結ばれるのであれば、当然文学研究における「文学」の範疇内である。

でも世間一般で言う「文学」はそれを含もうとすると、なぜか反発が発生する。純粋に「なんで?」である。疑問。学問が必ずしも高尚でないのはイグノーベル賞の存在が物語っていると思うのだが。


時が常に過ぎ去る以上、この違いに「古典だから」という理由を付与するのは、単なる思考停止の「古きを敬え」に過ぎなくなる。

本来、その時間経過でふるいにかけられて普遍的なものしか残らなかったことを敬ったための論理だとしても、近現代はこの方法を許さない。

そう、情報の収集と提供、そして保存を信条とする図書館があるからである。同年代の方なら『図書館戦争』読んだ人もいるんじゃない? そこでもあったはずだし、司書資格の講義で習うやつ。

結果として、研究範囲を図書館以降と限定すれば、文明の崩壊がない限りは散逸さんいつで泣く研究者はいなくなった(個人的にはめでたい)わけだが、先述の通り時間経過というふるいによる普遍性の洗い出しは不可能となった。


事前に断っておくと、私はここから意地の悪い論理を展開するので、そのつもりで読んでほしい。……意地悪な自覚はあるので、ここがオナモミのぶつけどころよ。


さて、文学による権威は文学自身のどこにあるべきか。

と問えば、十中八九、「文学性」とか「中身」と返ってくるかと思う。

であれば、貴方は自身の言葉で自身も一般的にも権威があるとされる文学の、その権威、文学性の根拠を書いてみてほしい。


そこに「[任意の作者]の作品だから」という理由はないだろうか。

その理由は、貴方自身ではない他者の評価を基盤とした権威に対する思考停止である可能性が高く、またそれは作者の権威であって、該当の文学の中身の権威ではない。

勿論、作者が優れていれば、その作品にも一定の品質=文学性が備わっている可能性は高いが、百パーセントではない。今一度、作者という観点を捨てて評価してみてほしい。


「[任意の時代]の文学だから」という理由であれば、ではその時代の文学は並べて権威があるのか、文学性があるのか、考えてみてほしい。

また、先述の通り、これは近世以前の文学には有効であるが、図書館の存在する近現代以降の作品に対しては単なる思考停止の古きをうやまえに過ぎなくなっていることを承知してほしい。


「[任意の表現方法]を用いた作品だから」という理由であれば、ようやく一利ある。

あるのだが、結局その権威も文学性もその中身それ自体ではなく、「表現方法」である。


「[任意のジャンル]だから」という理由は、他者の貼付したレッテルで判定してるだけの思考停止である。個人的には一番疑問を呈したいし、唾棄に値すると思うほど、嫌いな理由だ。あくまで個人的にはなので、これに対しては、「そうかそうか君はそういうやつなんだな(生ぬるい目)」としか私は言えない。


「[任意の感想]だから」は、それは確かに貴方の言葉だろう。

貴方の言葉であって、貴方の感想であるが、しかし、それによって貴方の中にしかない。美醜も個人の物差しなら、あらゆる感想は個人の物差しである。それに普遍性はなく、権威がそれに依拠するというなら、その権威にもまた普遍性はない。

同じ感想を言う人間がいたとして、それは本当に、貴方の感想と寸分違わぬ感想なのだろうか。


とまあ、もぐら叩きのようにして理詰めの意地悪をしてみたわけで、たぶん反論もあるだろうし、「引っかからなかったぞ、へい論破」という人もいるだろうけど、そもそもこれらを踏まえて問いたいのは「文学による権威及び文学性は文学自身のどこにあるのか」ということである。

べき論ではなく、純粋なWhere。


いや、ほんとどこにあるんだろうね。


いや、そもそもないんじゃない?


勝手に権威とか文学性なんて不確かなものを「ある」としてるだけで、実のところ、それは幽霊同じく枯尾花では?


というわけで、私個人の見解としては、「権威も文学性も、我々自身が勝手に付与した幻想」であり、そもそもの「権威がある」という暗黙の前提、コンテクストが繰り返され、そのコンテクストが強化されることで「文学を権威、文学性のあるもの、権威に相応ふさわしい文学性のあるべきもの」としているのではないか、というところだ。異論は認めるけど、私の中ではそういうことです。さあ、オナモミを投げろ。


学術的分類上、明確に文学と呼ばれる範疇にある黄表紙きびょうし合巻ごうかん、歌舞伎を文学として崇高と扱い、一方で漫画、ラノベ、シナリオを基準とするゲームを文学の内に入れずに、その媒体に貼られたレッテルで卑下する。

江戸の筆禍ひっかわらえど、現代の表現規制に迎合する。

俯瞰して見れば、一体何が変わろうかということで、個人的には腹立たしいし、嘆かわしいので、文学至上主義派の方には筋を通して、黄表紙きびょうし合巻ごうかんや歌舞伎もまとめて否定してほしいぐらいだ。

レッテル貼るなら、世間様に迎合せずに自身で定義を明確にして、最低限の筋を通した理論武装ぐらいすべき。それぐらい徹底してくれれば、意地悪はしない。押し付けられたら全面戦争するために理論武装引っ張り出すのが私の方針。今回のは固定観念をぶち壊す破城槌はじょうつい

同時に、これだから私は物の良し悪しを言う批評家ではなく、背景・文化とかのその周囲を俯瞰して悦に入る研究者気質なんだなあとも思うし、これからどんな媒体が出るかわからない以上、文学という定義は必然的に混沌としてあるべき、と個人的には思う。


というわけで、そもそも文学それ自体に権威も文学性などもなかろうと思う私の中での文学に向き合う基準は、「おもしろさ」、「興味深さ」と「惹かれるか」である。

英語にするなら、fun、interesting、enchanted ってとこ?

だってせっかく追求するなら、楽しい方がいいじゃない。苦行の先に甘い果実が待ってるとか、苦行それ自体が好きならまだしも、苦行そのものを崇高と思い込んだり、思い込まされることの愚かしさは昨今の家電製品や時短テク、冷凍食品やスーパーお惣菜関係の論争が表してると思うんだよ。

そもそも純文学の定義からして私は疑問で、個人の中で芸術性と娯楽性が紐付いている人間の作ったものは純文学か否かという問題を孕んでいるのよな……個人に依拠する曖昧な定義のくせに、したり顔のレッテル化してるのが気に入らぬ(完全な私見、オナモミどころ)


オナモミまみれになっただろうところで、文学の定義論はこの辺にしておいて、物語に戻りたい。


昨今勘違いされがちだが、昔話・民話は何も子供のためだけのものではない。

各種民話集の中には「子供に読ませられるか、バカ!」案件がいくつかあるし、『グリム童話』の本当の名称はKinder- und Hausmärchen、『子供と家庭のメルヒェン』である。その後初版から複数回の改変を行って最終版までたどり着いたが、それでもこの名前は変わっておらず、子供に限ってなどいない。あ、でも「ラプンツェル」の初版からの改変はラプンツェルがお馬鹿にしか見えないのでやり過ぎだと思うよ?

また、『日本昔話百選』の「大歳おおとしの火」の解説には、「つい最近まで大歳の夜に横座の主人あるじが家族一同を集めて、これらの話を語り聞かす家々は少なくなかったという」とある。なお、ここで言う「横座」は囲炉裏における主人の席のことである。

「家族一同を集めて」。それは大人も子供も全てを集めて、ということである。決して子供だけを集めて、ではない。

そういうふうに、昔話・伝承は大人も聞いて耐えうる話であり、時には不倫など下世話な下ネタも含んだ。


しかし、現代において「大歳おおとしの火」の解説で述べられたような情景はすたれた。核家族化が進み大人数で集うこともなく、祖父母の昔語りを聞く事もすたれた。

それでもなお、昔話・民話のコンテクストは分解・解析・再構築を経て、あらゆる創作物として我々の周囲にあり続け、その内容を非難する声もありながら、それでも我々を魅了してやまない。

昔語りの行われた頃と現代とで、ここまで語った通り、我々自身が現実に適用する世界観テンプレートもまた変動している。それでも変わらず、このコンテクストは我々を魅了してやまない。

……今更だけど、ここで言う我々は、あくまで多数派一般人という意味なので、自分は含まれねーよ、ボケという文句の代わりに追加のオナモミをお投げください。


さて、昔語りの昔、即ち「むかし」はいにしえ、「にし」と比べて、タイムラインから分離した過去である。

古語で過去を表す言葉としては、「かた」、「にし」、「むかし」の三種類が主である。

かた」、「にし」は主体が違うだけで、どちらも時間の流れを反映した過去の概念である。

時が川の流れであれば「かた」は自分がやってきた上流=元来た方向であり、「にし」は流されるまま過ぎ去ってしまった上流の情景である。

「むかし」にはその連続性がない。

語源的には「向く」と同じ語根に時間を表す「し」をつけたもの、と言われはする。使用法からの語源推測だから未詳なところもあるんだけど、研究上での一般論としてね。

遠く離れたその点に向き合った瞬間だけの、常なる時の流れから離れた断続的な漠然とした過去の時。それが「むかし」とされる。


つまるところ、多く昔話・民話も通常ありえない世界を描いていて、その「むかし」という時間は常に我々が暮らす日常たる時間という「内」の「外」、現代の我々以前から、むかしむかしの物語自体が現実味の薄れた異界であった。

そして、かつての昔語りも異界も廃れつつある今現在、我々はそのコンテクストに飢えており、なおかつその類型はさらなる進化を進めている。


結句、人間は人間である限り、物語の基本構造の魅力からは離れられない、と私は思う。そして、だからこそ、その構造との比較を行う意味があると思うのだ。


以上をもって、新たなる疑問の「推測:答え」とする。……絶対オナモミだらけだからしまらんな!

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