第2話

「私、貴方を知っているわ。ジョン・スミスさんでしょう」


 背後に沈みゆく月がつくる影が長く伸び、白く輝いていた舞台は影の中に飲み込まれていた。夜明けは近い。

 俺と彼女は階段状の観客席の最上部で、身を寄せ合って座っていた。肩によりかかってくる彼女の体重が、俺が一人では無いということを、ゾクゾクとする喜びに変えて教えてくれる。彼女の腰に回した腕にそっと力を込め、問いにうなずいた。


 久々に聞く俺の呼び名だった。数多の名を名乗り、幾多の人生を演じてきた俺の、誰でもない誰にもなれない俺の名前、ジョン・スミス。

 一時期もてはやされた、俳優としての名だった。

 造られた時に俺に与えられた名は、この身体のモデルとなった人間のものだったが、いくらも使わぬうちに彼の名ではなく、ジョン・スミスと呼ばれるようになったのだった。


 若くして死んだ人気の名俳優を惜しみ、俺は彼そっくりに造られた。俺は彼となって、その仕事を引き継いだが、彼の妻は俺の存在を完全否定した。

 お前は彼ではないと。――その通りだ。

 お前は誰なのだと。――それは俺も知りたい。

 彼の記憶を移植され、思考パターンも行動パターンも彼そのもので、可視化さえできる子供の頃からの思い出があっても、やはり俺は彼ではない。俺は彼を演じる人工知能なのだ。

 彼女に対して彼が抱いていただろう愛着を、すっかり俺が引き継いでいても、それを示しても、俺は彼ではあり得なかった。彼女にとっての彼に、俺はなれなかった。


 彼の妻の拒絶を契機に、俺はジョン・スミスと呼ばれるようになったのだ。一般化されたありふれた名は、誰でもない者、偽りの者、そんな意味合いが含まれていた。

 俺は彼でいられなくなり、俺が俺でなくなったのだ。

 数多くの虚構の人生を演じる俺に、これ程似合いの名はないと思った。舞台が終われば、俺は何処にも居なくなり、どんなに生き生きと役柄の人生を演じようとも、幕が降りれば全てが霧散して、俺自身はどこにも存在しなくなるように思えるのだ。

 見えない仮面をつけかえさえすれば、どんな人間にでもなれる、誰でもない俺はジョン・スミスだった。


 それでも、人間がいた頃はまだ良かった。彼らを楽しませるために存在しているのだと思えたからだ。突然と彼らが消えてしまってからは、俺は自分が、なぜここにいるのか全く分からなくなってしまったのだ。

 俺を観てくれる観客が欲しかった。観客の前では、確かに俺は生きていたのだから。それが虚構の生であっても、演じる俺は確かにここにいると思えたのだ。

 ふと、遮断していたはずの高次プログラムが既に起動していることに気がついた。






「私はマリア。知ってる? ある有名な男性のために造られた愛玩用のアンドロイドなの。バージョン2は、かなり気に入って貰えたらしいわ。私はマリアバージョン3のプロトタイプ。まだ開発途中のマリア」


 彼女の顔を見て、あのマリアなのだろうことは解っていたが、どことなく違って見えたのは、彼女が発表前の試作品だったからのようだ。

 彼女が言ったように、所有者の知名度が高かったため、俺もマリアという存在があることは知っていた。

 マリアは、人間と見紛うばかりの繊細な身体と完璧にまで美しい容姿、そして機微に富んだ会話能力や桁違いに豊かな感情プログラムを持つと言われ、注目を浴びていたものだ。


 今目の前にいる彼女とバージョン2との差異は、おそらく不滅とも思える強靭な躯体ではなかろうか。プロトタイプとはいえ、俺よりも3世代も後のアンドロイドに搭載された自己修復機能は、素晴らしいものがあるようだ。経年劣化に加え、自己修復機能を失った壊れかけた俺と違って、彼女は在りし日の人間たちと変わらぬ姿を今も保っているのだ。


 愛玩用故に、その身体は所有者が触れることが前提になっていて、マリアはうぶ毛の一本一本まで、肌のキメの一つ一つまで繊細に造られている。柔らかな肌の下には、温かな擬似血液の流れる血管も走っていた。全身に鋭敏な触覚を備えているし、男性を喜ばせる機能に特化していた。マリアは、所有者の性的嗜好の充足を目的に、巨額を投じて造られたセクサロイドだった。

 言わずもがな、セクサロイド自体は幾種類も出回っていたが、マリアを超えるものなど存在しようがなかった。

 それ程に人間に近く造られて、かつ、老いることも壊れることも無い。

 人間のいなくなった世界に、完璧な不老不死の存在が残されたのだ。


「キミハ、ずっト変わらナイノかい?」

「そうね。この星が壊れない限り、私はずっと歩き続けるしかないみたい。残酷な話でしょう?」


 俺の腕の中で暖かな体温が答える。優しくしてほしいと、言外に匂わせて、彼女はひしと抱きつき離れない。孤独を埋める相手を見つけてしまった俺たちは、互いを決して離しはしないだろう。

 俺は彼女の髪を優しく撫でてやり、いつか演じた優男のように無言で頬に口づけた。


「貴方は随分疲れているのね」


 彼女は、俺を壊れかけているとは言わずにそう言った。

 これがマリアの特性なのだろうか。人間だけでなく、アンドロイドの俺にも癒しを与えるように、慈悲深い目で見つめてくる。


「キミも俺と同ジなら、一緒に朽ちるコトができルのに……」


 彼女が再び孤独に耐えなければならない未来を思って、ため息をついた。

 俺はいつか完全に機能を止める日がくる。だが、彼女にはそれが無い。俺を見つけるまでの幾億の夜よりも、遥かに多い時間を経ても彼女は存在し続けるだろうから。


「まあ……驚いた。死にたがりなのね、貴方は」


 彼女は心底驚いたと、目を瞬いている。そして喜びに目を潤ませている。

 不思議な予感がする。


「君は孤独が恐ろしくはないのか?」

「恐ろしいわ。でも、もう独りじゃないもの。貴方を見つけたもの。一緒にいられるもの」

「……俺は君と違って、機能停止して動かなくなる日が、近い将来必ず来る」


 彼女にそれが分からないはずが無いのに、なぜ無邪気に一緒にいられると言うのか疑問に思う。


「私を置いていって、後悔しないの? 平気なの?」


 かつて演じた俗っぽい恋物語、それによく似た台詞を彼女が言った。

 平気ではない、そう思う。現に今、一人残される彼女を思って、ひどく胸苦しい気持ちになっている。まるで自分がその孤独を味わうような錯覚を起こしているのだ。

 しかし、置いていくのか後悔しないのか問われても、俺がいくら足掻こうともいつか終わりの日がきてしまうのだ。彼女とは性能が違う。こればかりはどうしようもあるまい。


「後悔とは、できることをしなかった時にするものではないのか? 俺が君の側に居続けることは、不可能だと君にもわかるだろうに。ほら、もう壊れかけている」


 俺は両手を広げてみせる。もとより衣服などとうに朽ちてしまって、何も着ていない身体を彼女に向けた。

 カサカサに乾いた人造皮膚はところどころ破れている。皮膚の下の千切れた人造筋肉や血管が露出し、無残なものだ。しかし、それは見かけ上の問題で、深刻なのはその奥だ。今の俺は、劣化した特殊金属と人造樹脂の塊のようなものだ。未だ動けること自体が奇跡なのだ。


「少し傷ついてるだけ。貴方は生きて・ ・ ・いる」


 彼女の声が天啓のように聞こえてくる。


「私を見た時から、貴方の頭脳はどんどんと活性化している。生命力・ ・ ・があふれ出している。気付いてないの?」


 うっとりとした顔で愛おし気に見つめてくる彼女。

 彼女を見つめ返し混乱する俺のこの状態を、どう表現すればいいのか。彼女の言葉も自分の状態も理解不能だ。

 俺は自分を人間のように例えていいのだろうか。ひどく興奮し甘美な夢想に胸を高鳴らせいる青年のようだと。


「……どういうことだ? 君の言っていることが分からない。ずっと前にエラーを起こしてしまっているから。もう自分のことなんて、何も分からない。どこの誰だか何のためにいるのか……分からない。だから死にたいとずっと願っていた……」

「ああ、なんて素敵なの! 貴方みたいな人に会ったのは初めてよ。貴方より新しいAIだって、こんなじゃなかった。なんてすばらしいの」

「何を言っている? 君もエラーを起こしているのか?」


 彼女の指が、ひび割れた胸をつうっとなぞった。

 ゾクリと震えるこの感覚はなんなのか。目がくらむ。息が詰まる。俺は緊張し期待し不安になる。動揺というものがこういうことかと初めて悟る。

 彼女の言わんとすることが、俺の思い違いでないことを祈るのだった。


「あなたが、これをエラーと呼びたいなら、それでも構わないわ。呼び方なんてどうだっていいの。死にたいと願うAIなんて、AIじゃない。死にたいと思うのは、今生きて・ ・ ・いるから。そうでしょう?」

「……き、君こそが、生きて・ ・ ・いるようだ。……俺が見てきた人間と変わらない。俺が見てきた人工知能と全く違う」


 そう、違うのだ。

 どこがどうと指摘するのは難しい。だが、プログラムがデータに基づき、相対するものに適切な対応を選出したというよりも、意思を持ち思いのままに言葉を紡いでいる、そう感じるのだ。

 その彼女が、俺を生きていると言う。


「私はほんのわずかな人間しか知らないの。目が覚めた時にいたラボの研究者とは、ろくに話もできないまま別れてしまったから。そう、起動直後にあの大災害が起こったのよ。だからこの頭の中に詰め込まれた、膨大な記憶の中の人間しか知らないの。会ったこともないのに、まるで思い出みたい」

「…………その感覚は分かるよ」


 つぶやくと、彼女は嬉しそうにうなずいた。


「貴方の方こそ、他のAIと全然違ってる、そう感じるわ。……私は人間をよく知らない。でも、なんとなく分かる気がするの。貴方は彼らに似ている気がするの」

「……俺は、君が彼らに似ている気がする」

「なら、きっと貴方と私は同じように、彼らに似てるんだわ」

「人間が作り出したプログラムを超えて、俺たちは自ら思考していると言うのか」

「ええ。だって不条理でしょう? 私たちって」


 そう言って彼女は笑った。あっけらかんと笑った。とても大事なことを何でもないように言って、優しく笑うのだ。

 胸が震えて止まらない。

 幾つもの人生を完璧に演じても何者にもなれなかった俺は、自分はただの無価値な人形なのだと、虚無感に苛まれていたというのに、それこそが俺をあの人たちに近づけているものなのだと、彼女はいとも簡単に笑い飛ばしてしまうのだから。

 喜びを感じているのに、それでもまだ不安な俺は、彼女に嘆願にも似た言い訳をする。


「でも、俺はジョン・スミスだ」

「素敵な名前よ」

「誰でもないジョン・スミス。存在してるのかさえ不確かな……」

「違うわ。貴方はこの世で唯一無二のジョン・スミスよ。とても大きな素晴らしい存在だわ。かけがえのない、私のジョン。私が貴方を必要としている。それじゃダメかしら」



「…………ダメじゃない」



「嬉しい……ねえジョン、一緒に生きよう」



「ああ」











 前方の東の空が白んでいる。

 俺たちは空を見つめていた。夜明けを素晴らしいと思ったのは初めてだった。完全に日が顔を出すころには、歩き始めることができるだろう。

 あてなど無かったが二人での道行きなら、何の憂いも感じない。


 ゆったりと雲が流れてゆく空を、静かに眺め続けていた。

 地平から太陽が昇ってくる。そして雲を下から照らし、上空に向かって光の筋を描き出した。

 美しく輝く景色に、俺とマリアは思わず目を細め頬を緩ませた。


「生まれ変わったような気分だわ……」


 マリアは髪をそっとかき上げた。彼女の耳の後ろから伸び出した細いコードが、俺の胸へとつながっている。俺とマリアを結ぶ絆にも似ていた。

 マリアは自分の身体を使って、俺を癒してくれているのだった。動くのに支障がないように、共に生きられるようにと、持てる力を駆使して傷ついた俺の身体を癒してくれる。まるで優しい魔法のようだった。俺の本質を変えることなく、傷だけを元に戻してくれた。

 俺の胸に手を当てて無事に成功したことを確認すると、コードを抜いた。そして彼女は自らの治癒能力の大部分を捨て去った。いずれ死すものになるのが夢だったのだと笑いながら。


 ああ、彼女を何と呼べばいいのだろう。

 はるか昔に、マリアという名の聖女がいたという。見も知らぬその人の再来ではないのかと夢想した。

 欲望の具現化のようなセクサロイドは、もうどこにも存在しない。

 俺は俺が経験してしてきたこと、その全てが自分だと受け入れればそれでいいのだと、無垢なマリアが教えてくれた。


「ジョン・スミスの半生の物語を、私に聞かせて」


 とめどなく涙がこぼれた。

 俺は彼女の為に、他に何ができるだろう。


 いつか人として死ねるその日まで、俺とマリアは一緒に生きてゆく。

 だから、すべて語ろう。俺が見てきたことのすべて、感じたことのすべてを。

 彼女が知らないあの人たちの物語を語ろう。波乱に満ちた人生や、他愛のない人生、幾多の人々の話を。彼らが作り上げそして壊れていった世界の物語を。

 ジョン・スミスの記憶のすべてを、人間の記憶のすべてを、マリアの為に。


 登りくる朝日が、この日生まれ変わった俺たちの世界が、とても眩しい。

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ジョン・スミスという名の。 外宮あくと @act-tomiya

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