第肆拾陸話:後の祀り  四

 聞いた二人は示し合わせたように、自分のグラスを眺めた。かたや浮かんでは落ちる雪景色を。かたや琥珀の海に湧き続ける泡沫うたかたを。

 沈黙が数拍も続いて、不安に問う。


「良くない、かね?」


 竜弥は人との交渉がうまいわけでなく、あやかしに対する術に長けてもいない。だから言うほど簡単な役割りにならないと、予想はしている。

 しかし絶賛されないまでも、まあやってみろくらいの反応はあると思った。


「例えば止めようとしたあやかしが、お前を食っちまうぞって。そう来たらどうする?」


 やはり。竜弥も懸念したことを馳大は提示する。


「他にもあやかしの棲み処を壊そうとする人間が、大きな工事業者さんだったら?」


 とは彩芽。仕事として請け負った行為を、竜弥が説得などできるのか。これも難しい。不可能というのに限りなく近い。


 ――やっぱり無理なんかな。


「それに今の仕事はどうするの? たぶん辞めるってことよね。そうなったら、生活できるの?」

「うん、警察官は向いとらんかなって」


 竜弥は放火魔の男を殴った。それはどんな事情があれ、暴行の罪に問われる。怪我をしていたようだから、傷害かもしれない。

 だがそこまでのあれこれを考えると、自分が悪いとは思えなかった。

 かといって開き直り、誰かを同じ罪状で捕まえたり出来るほど器用な性格もしていない。


 ――やめとけ、言うとるんよね。これ。

 安定した公務員の職を捨て、収入の当てもない役目を背負い込む。

 無謀なのは百も承知。していたつもりだった。けれども信頼する彩芽と馳大に言われれば、また揺らいでしまう。


「それでもやるのか?」

「つらいと思うわ」


 勧めに従って、やはりやめたと言うべきか。だからと言い出したことを、そうも容易く引っ込めて良いものか。

 悩むうち、視界にあるのは食べかけのお膳だけになる。


 ――駄目じゃ。ちゃんと二人の顔を見んと。

 この一、二分の間に、首の錆び付いた心地がする。硬く重い関節を動かし、彩芽を正面から見据えた。


 ――わろうとる。

 目を合わせても、柔らかな微笑みは変わらない。竜弥をどう説得しようか、難しい表情をしているとばかり思ったのに。

 驚いて、馳大はと隣を見た。


 ――こっちも。

 ニヒルを気取った、口角の片方だけを上げた笑み。恥ずかしくなったのか、途中でビールを飲み始めたが。


「そうじゃね――」


 ああ、そうか。と気付いた。

 勧めに従うか、すぐに引くのはどうか。などとそれは、竜弥の気持ちではない。彩芽と馳大は、明確にその想いを持っているかと聞いているのだ。


「僕は警察官をやめよう思う。ほとんど買い物もせんかったけえ、貯金もちょっとはあるんよ。とりあえずそれがなくなるまで、何が出来るんかやってみるけえ」


 DR以外に高価な物は買っていない。官舎の家賃などタダも同然。缶詰めにされる警察学校時代と合わせ、通帳の残高は四百万円近い。

 まずは数年。武者修行ではないが、そのようなことをやると宣言した。


 ――あれ?

 はっきり言ったにも関わらず、二つの笑みが曇る。

 読み違えたのか。するとやはり、やめろと言っているのか。だとしてももう、引き返すことはない。竜弥はより堅く、決意したのだ。


「そうじゃなくて……」

「うん」


 珍しく、彩芽が言い淀む。聞き返しても、拗ねて頬を膨らませるだけだ。


「そうじゃなくて、だ」

「うん?」


 引き継いだ馳大も、同じく口をもごもごとさせた。

 そうして彼は突然、白飯にみそ汁をかけた。まだ残っていた鯖も載せ、乱雑に掻き混ぜる。


「ん、んはっ。げほっ」


 一気に掻き込み、むせた。よほど言いにくいらしい。


「馳大さん、大丈夫?」

「あのなあ竜弥」


 どうにか空にした茶碗を置き、馳大は力強く言う。その割りに目を合わせないが、気にしない。


「困ったとき、俺たちを頼らないのか?」

「え?」


 質問の意味が分からない。竜弥としては勤務時間などに縛られず、会う機会が増えると思っていた。

 直接何かしてもらうのには遠慮もあるが、相談には山ほど乗ってもらうつもりだ。


 ――ええと。もしかして、僕がどっか遠いとこへでも行く思うたんかな?

 強い力を持った何でも出来る二人が、竜弥に構えなくなるのを懸念している。

 いつまでも自分が面倒を見てもらう。と思うと、それはそれで気恥ずかしいが。素直に嬉しいと想った。


「え、と。官舎を出んといけんけえ、どこに住むかは考えんといけんけど。僕だけで何でも出来るとか、そんなん思うとらんよ。しばらくは、頼りっきりになる思う。申しわけないんじゃけど」


 あくまでも、しばらくだ。ずっと、でないようにしたい。ただしその後も可能な限り、この二人とは仲良くありたい。

 それこそ不可能であろうが、出来れば対等になりたいものだと。竜弥には密かな目標もある。


「何を言ってるの、申しわけなくなんかないわ」

「ああ、そうだ。彩芽を構ってくれる若い男なんか、竜弥しか居ないんだからな」

「そうね。腐りかけの鴉なんて、ものの数に入らないもの」


 張り詰めた空気が解ける。彩芽と馳大は互いを罵り、店の開店時間まで飲み続けた。

 いつ以来か。それとも初めてか。誰かと話す時間が、これほど速く過ぎるものと。過ぎた時間がこれほど惜しいものと。

 竜弥は強く、強く。噛み締めた。


 ◆ ◆ ◆


 一週間後。厳島の珈琲屋を、竜弥は訪れた。DRの荷台に着替えと寝袋、テントと食器類を括って。


「辞めたんだな」

「辞表は出したけど、まだ有休の消化中じゃね」


 開け放した戸口からDRを眺めて、馳大は問うた。手元は竜弥の為に、コーヒーを淹れている。


「それは何?」


 持参したレジ袋の正体を彩芽が聞く。占えば分かるだろうに、無断でそうしないのが彼女だ。


「枇杷の木を切ってきたんよ」


 調べると、枇杷は挿し木や接ぎ木に向いているようだった。木の精を封じてしまった為に枯れかけていた木を、ここに移動させられないかと考えたのだ。


「ああ、構わん。裏の空いてるとこへ、好きに植えてくれ」

「うん、そうさせてもらうけえ」


 庭があるのは知っていたが、入ったことはない。一旦、表に出て家屋の脇から奥へ向かう。やることのない彩芽も、当たり前という顔で着いてくる。


「どこがええんかな」

「そこがいいんじゃない?」


 想像した以上に広い庭だった。十畳分ほどもある黒っぽい地面に、雑草の一本さえ生えていない。小さな縁側もあって、日向ぼっこをすれば気持ちよさそうだ。

 そんな所で好きにやれと言われると、かえって迷う。しかし彩芽が、陽当たりの良い隅を指さした。

 否定する理由もなく、そこに決めた。園芸の本を読んで、既に保湿や皮の処理も済んでいる。


「これを建てるの? 小さなおうちみたいね」

「そうらしいんよ」


 農協で小型のビニールハウスキットも購入した。半畳ほどを囲う、小さなものだ。


「彩芽さん。戻してあげよう思うんじゃけど」


 ビニールハウスの地面に挿し木をする。倒れぬよう支柱も設け、準備は整った。


「いいわ。きちんと話を聞くようならね」


 ――話を聞かんかったら。

 彩芽は優しい。いざとなると、非情とも思えるほど厳しい。悪いほうの憶測は避けて、場所を譲る。

 まだ、ほんの少しの力をこめれば簡単に倒れてしまう枇杷の木。目の前に屈んだ彩芽は、「カッ」と口を開く。

 見覚えのある、草餅のような塊。ふわふわと頼りなく飛んで、挿した木に取り付いた。


「ねえ、枇杷の木の精さん? 竜弥くんが、あなたをここで生かしてあげようと言っているわ」


 言う間に草色は見えなくなった。代わりに青々とした葉が一枚、ぴょこっと飛び出す。


「きっと彼は、折あるごと会いに来てくれる。声もかけてくれるでしょうね。それで満足するなら、見逃してあげる」


 枇杷の木は答えない。その力があるのかも、竜弥には分からないが。彩芽は屈んだまま、木を見つめる。


「そう、おとなしくするのね。それならもう、私も過去を忘れたことにするわ」


 ふうっと息を吹きかけ、彩芽は立ち上がった。縁側に座り、眩しそうに太陽を見上げる。


「僕には聞こえんかったけど。ここでまた、元気に育ってや」


 ひと声かけて、蛇口の脇にあったじょうろに水を汲んだ。根元にそっとかけてやると、何か聞こえたように感じた。


「ん、何か言うた?」


 待ってみたが、やはり聞こえない。挿したばかりの身では、やはり精気が弱いようだ。


「さあ飲んでくれ」


 そこへ馳大が、縁側の掃き出し窓を開けた。足元にコーヒーカップの載ったトレーがある。

 彩芽が一番に取って、おいしそうに飲み始めた。


「竜弥も飲めよ」

「うん、手を洗うけえ」


 言われるまでもないことだ。馳大のコーヒーを無駄にするなどもったいなくて、バチが当たる。

 慌てて蛇口で手を洗う背中を、誰かが指でつついた。


【ここで待っているわ。いつも、いつまでも】


 そよ風に紛れた弱々しい声は、竜弥に届かない。


「ん?」


 思い違いか、と気にせず縁側に座る。するとコーヒーカップを両手で持った彩芽が、くすり笑う。


「どうしたん?」

「ねえ竜弥くん。お祭りをどうしてそう言うのか、知ってる?」

「ええ? それは前に教えてもろうたよね」


 また急に何の話を始めたのか。

 怪訝に思うのとは別に、聡司を思い出した。所長や剛人が逮捕されたのは知っているけれども、聡司のその後は知らない。

 木場とその妻にも、辞める前に挨拶くらいはするべきだろう。

 ――明日、豊山町へ行こう。


「待っている誰かに逢えるからよ。神社ならそこの神さまと、氏子がお互いにってことかしらね」

「待つるってことじゃね」


 脈絡はよく分からなかったが、幸福を感じさせる意味だと思った。

 だが仕返しをする為に待つ。などというのも、世の中にはある。何ごとも良い面ばかりを見ては良くない。


「僕を待つ人やらあやかしが、みんな歓迎してくれるようにならんとね」


 言って口に含んだコーヒーはとても熱く、苦み走った。けれども「ほうっ」と楽に息を吐くと、深い甘味がいつまでも残り続けた。


 ―廣島あやかし異聞【青年篇】 完結―

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廣島あやかし異聞【青年篇】 須能 雪羽 @yuki_t

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