第11話 海辺のホームに彼女は一人

「ねえ、直哉くん。私ね、時々こんな夢を見るんだ」と彼女は言った。


「夢……か」と僕は言って、そして、あることを思い出した。夢と聞いた途端に、僕はここに来るまでの電車内で居眠りをしている時に見た悪夢が蘇ってきた。後味の悪い夢だった。どうしてだろうか、僕は未だにその時のシーンを鮮明に思い出すことができる。幸せな夢は醒めてしまった途端、あっという間に消えていってしまうのに、悪夢というのはいつまでも忘れることができないものだ。


「どんな夢なの?」と僕は訊いた。


「海辺の無人駅に一人ぼっちでいる夢なの。私は、そんな夢をこれまでに何度も見てきたの。どうしようもなく寂しくて、ふと目を醒ましてもそこは夜の闇の中で、夢の中でも現実でも結局一人ぼっちなんだなって思わされた。とても哀しい気分にさせられたんだ」


 僕は少し驚いて高坂美咲の顔を見た。「海辺の無人駅?」と僕は言った。


「そう、海辺の無人駅。そこにいる私はまだ小学校の低学年くらいの年齢で、ホームの上のベンチで一人ぼっちで何かを待ち続けているの。でも、そこには誰かが迎えに来る事は決して無くて、線路はどこかへ繋がっているのにも関わらず列車が来ることもない。そんな閉じ込められた海辺の無人駅でひたすら青空と水平線を見ている。そんな夢を見るんだ」と彼女は言って、哀しそうな目をして僕を見た。


 僕はその光景を想像してみた。たぶん、それはお盆過ぎの、吹き付ける風がだんだんと秋めいて来る8月後半のとある日のことだろうと思った。太陽が燦々と降り注いでいて、ホームから目の前に広がる凪の海の水面を輝かせている。あと数時間すれば日は暮れて、夕焼けの頃には紅霞が綺麗な所なのだろう。水平線の向こうへと沈んでいく太陽を眺めていて、それから日が沈んで薄暗いホームに一人でいると言いようもない孤独を覚えて、そうして夢から醒める。そんな光景を思い浮かべると、僕はどうしようもなく切なくさせられた。


「ねえ、直哉くん」と随分時間が過ぎてから彼女は語りかけてきた。「直哉くんは一人旅が好きだったよね?だから、そんな雰囲気の駅を知らないかな?知っていたら教えてほしいの。もしかして、そこに行けば何かが分かるかもしれないから」


 なんだか、彼女の姿がずっと遠く離れたところに遠ざかって行くような感覚を味わった。でも、もしかしたら本当に彼女はどこか遠いところに存在していて、声だけがその場所から聞こえてくるのかもしれないと思わされた。目の前にいるのは幻なのだろうか、とまで思った。


「例えば、四国の下灘駅とか」と僕は言った。そして僕は、1年生の夏休みにそこへ行った時の話をしてみた。もう夏休みも終わり間際の平日で、僕はそこへ行ってずっと空と海とのコントラストを眺めていた。夏の終わりかけの薄暮の空色はどうしようもなくもの悲しくて、駅の裏手の山林から響き渡るヒグラシの声が納涼材のように身体の芯まで染み渡った。僕はそこで暗くなる空をいつまでも眺めていた。


「いいなぁ。私もどこか遠くへ、夕暮れの綺麗な海辺の駅のホームでたそがれてみたい。もし、夏休みに空いている日があったら一緒に行ってくれる?」と彼女は言った。


「いや、さすがに無理があるよ。四国の西の果てだよ。飛行機に乗るか、もしくは寝台特急に乗るか、僕が一人で行った時みたいに青春18きっぷで大阪まで行って、大阪南港から夜行フェリーで愛媛県の今治まで行くかのどれかだ。泊まりがけになる。僕が一人で行くのなら全て自己責任で済むけれども、さすがに異性を連れてそんな遠距離を移動するのは僕には荷が重すぎる」


「そっか、さすがにそうだよね……」と彼女は残念そうな顔をした。そして、ふっと身体の力が抜けていくかのように小さく笑った。そういえば、彼女もどこか遠くへと一人で旅に出ることに強い憧れを抱いていると言っていたことを今思い出した。だからこそ、同じ嗜好や感性を共有できる僕と会ったら、夢で見た海辺の駅の話がしたいと思っていたのかもしれない。


「あっ、でも……」と僕は言った。「海辺にある駅のホームで夕暮れ時にセンチメンタルな気持ちに浸りたいのなら、何もわざわざ遠くまで行かなくても、例えばここから40分程度の場所でもできるけど……」


「そうなの?そんな近い所でも、そんな駅があるの?」と彼女は興味深そうに僕の顔を見た。


「うん。たぶん高坂さんの求めているような景色はそこには無いけど、確かにそれは海辺の駅だよ。でも、長閑な田舎町にあるような延々と彼方まで続く水平線もなければ、美しく澄んだ青空も見えないけれどね。だって、そこは工業地帯のど真ん中にある運河沿いの駅だから。イメージとは全く違うと思うよ」


 そう言って、僕は御手洗いへ行きたいと彼女に告げて席を立った。彼女はスマートフォンを操作しながら、僕の述べたその駅についてシラベているようだった。


 御手洗いを済ませ、洗面台で軽く身だしなみを整え直して自席に戻ると、高坂美咲は興奮と驚きを隠しきれない表情をしていて、僕が戻るやいなや、直ぐに話を始めた。


「ねぇ、凄い。本当にこんな駅があるの?」と彼女は言った。そして手に持ったスマートフォンの端末画面を操作し、表示されたページを見せてきた。


 画面に映し出されていたのは東京都心から程近い神奈川県、鶴見線支線の終点、海芝浦の駅だった。スマートフォンで開かれたこのページに載せられている画像は、ちょうど夕焼けの時間帯に撮影されたものだろう。手前側の空は暗がりを帯びており、画面の遠い空の色は濃い茜色に染まっている。


「こんな海のギリギリに電車が停まってるなんて信じられないなぁ。直哉くんは、行った事あるの?」


「一度だけ、あるよ」と僕は答えた。


「そうなんだ」と彼女は言って、暫くスマートフォンの画面を見つめていた。そして彼女は小さい声で、尚且つゆっくりとした口調で、語気を強めるわけでも無く、それでいて弱々しいわけでもない話し方で僕に向かって言った「ねえ。私、ここに行ってみたい」


 まあ、行ってみたいなら好きな時に行ってみるといい、と僕は思った。東京に住んでいるなら横浜くらいいつでも行けるはずだ。


「うん。いつか時間のある時にでも行ってみると良いと思うよ。」とだけ僕は言った。そして、テーブルの上に目を落とし、コーナーカップの中に浮かんでいるクリームの模様をぼんやりと眺めた。


 ただ、この返答は彼女にとって満足の行くものではなかったようだ。眼鏡の透明なレンズを通じ、彼女の瞳は僕に何かを訴えかけるかのような視線を送っていた。「ううん。そうじゃなくて」


 彼女は何かを思いつめたような表情で、僕の目を真剣な眼差しで見つめながら言ってきた。


「今から行ってみたい。直哉くんと一緒に、今すぐ。今すぐ行きたいの」


「今すぐ?どうして今すぐ行きたいの?」と僕は困惑させられた。いったい何を言い出すのだろうと思った。



 暫く無言が続いた。無言が続くと何処と無く気まずさを覚えた。誰かと2人だけでいる時に会話も無く時間が過ぎて行くのを待つ事は相手の時間を無駄にさせているようで申し訳なくなるし、自分自身のコミュニケーション能力の低さを思い知らされる。そして自己嫌悪に陥った。それから何十秒、いや何分くらい過ぎたろうか。


「私は、今の感情を忘れたくないから」と彼女は言った。


「今の感情を忘れたくないって、よく分からないな。いったい何を忘れたくないの?」


「なんだろう。自分がやりたいって思った事とか、行ってみたいって思った場所とか、そういう事ってすぐ実行に移さないと、後でやろうとか、また今度、いつか行こうとか、そうやって後回しにしているといずれ忘れ去ってしまうんだ。そして、全て記憶の中から消えてしまいそうで……私はそんな時にどうしようもなく哀しくなるの」


 一つ一つの言葉を紡ぎながら、頭の中に浮かんだぼんやりとした感覚を掴み取り言語化しようと必死である事は伝わってきた。しかし、彼女は自分でも何を言っているのか完全に理解できてはいないようだ。そして聞かされている僕もあまり理解できない。言いたい事は何と無く伝わってくるが、その言葉の意図するものが何なのか正確に読み取れなかった。


 僕は相手の感情を読み取ることができない自分の不甲斐なさから逃れたいかのように、手元にある伝票に書いてある数字に意識を集中させていた。だけれども、そんな事をしても何の意味もないと思った。視線を上げて見ると、言いたい事が伝わっているかどうか自信が無さげで、不安感という重圧に押しつぶされそうになっている高坂美咲がそこにいた。


「分からないよね……、ごめんなさい」と彼女は言った。そしてテーブルに肘をついて、窓の外の景色を見ていた。その景色の中のどこかに適当な表現を見つけることができないか、そんな僅かな期待を抱いているかのように見えた。


 そんな、なにも謝る事はないと思うよ。別に、何か悪い事を言っているわけではないのだから。僕はそう伝えようとしたが、それを遮るかのように彼女は話しを続けた。



「なんだろうな。本当に上手く言えないんだけど、景色の写真とか見てて、それが凄く綺麗な風景だったり、ノスタルジックで切なくなるような雰囲気だったり、そんな、自分の感性にすんなりと入りこんできたようで、琴線に触れたような、そんな物の存在を知ると、今すぐその存在を自分の目で確かめに、実物を見に行きたくなるの。ぼんやりと遠くから見ているだけじゃなくて、その存在を掴みに行かないと、すぐ スーッと消えちゃいそうな気がして。つかむ事のできない空気の塊を追い続けているかのような不安感って言うのかな……」


 僕は、カップに半分ほど余っているコーヒーを一口飲んだ。そして、彼女から聞いた話の内容を整理した上で、自分なりに理解しようとして黙って聞き続けた。


「例えば、映画の予告を見たり、新しく発売される小説のあらすじを読んだりするじゃない?そして、とても良さそうだな、とか思った映画や小説も、いつか見に行こう、いつか読もうって考えているうちに、次の日に起きて学校に行って部活をやったりして、そんな日常を送っているうちに、別に見に行かなくても良いかなって、もうどうでも良いかなって、心の中が洗浄液で洗い流されたように、すっかり忘れていたりすることがあるんだ。だから、その時の自分の感覚は偽りのものだったのかなって思うのが、ただ怖くて、どうしようもなく怖くて仕方が無いの」


 なるほど……と頷きながら、僕は話の続きに耳を傾けた。


「直哉くんも、昔はこんな事あったんじゃないかな?いや、絶対にあると思う。小学生の頃とか、夏休みが始まる前に、夏休みは何しようかな、とか思ったことはない?夏休みにやりたい事リストとかを作って、誰かと一緒にはしゃいでいたりして、今年はどこへ行きたいね、とか。そんな事を言っていたりして、でも、その多くの事は叶わなかったり、忘れてしまったりするわけじゃない?それで気が付けば夏休みは終わっていて、小学校は卒業していて、いつの間にか中学生になっていて、それもあっという間に通り過ぎて、気が付けばもう高校生も最後の年になっていて……」


 まあ、確かにそうだ。自分の記憶を掘り起こしてみても、そんな事は幾らでもあったように思う。そして、その多くは今ではすっかり忘れてしまったし、これから大人になるに連れてどんどん忘れ去ってしまうのだろう。まるで、古くなった建物の塗装が誰からも手入れされずに剥がれ落ちて行くかのように。


「昔憧れたり、やりたいなぁって思った事を今になって叶える事ができたとしても、それってその時に覚えた感覚と全く異なっているって、私はそう思うの。小学生の時に感じたものはその時に特有のものだし、中学生の時に感じたものは中学生の時だけの感覚。もちろん、高校生の今に抱いた感情は高校生の時だけの独特な感性だって思う。なんか、ちょっと話が纏まらなくなってきちゃった」


 話が纏まらず、言いたいことを上手く伝える事ができず、悔しがっているようだった。彼女は今にも泣きそうな目をしている。やっぱりこの子は普通の人よりも感受性が強いようで、そして情緒の振れ幅も大きいらしい。


「なんで、17歳にもなって自分の伝えたい事をしっかりと表現できないんだろう」と彼女は言った。少し震えた声だった。




 ただ、そんな事を気にする必要は無いと僕は思った。僕だって今も、そしてこれからも、自分の思っている事を他人に伝えるのは苦手なままだろう。他人から、お前は何を言いたいのか分からないと言われる事も少なくないし、今後も言われ続ける気がする。


 それでいて感受性だけは人一倍強いのだから、周りから受ける様々な刺激を他者に伝える事もできず、そしと共有する事もできずに自分の内部に溜め込んでしまう。これは生きづらさを感じる人間の典型的なパターンなのかもしれない。僕はそう自嘲した。


「その時に感じたものはその時に特有の感情だから、月日が過ぎてからだと全く異なる別なものに変質しちゃってると思うの。後で、いつかやろうなんて思っていると、気が付けば全て忘れ去っていたり、実行に移しても、その時に感じたものは違っていたり、直哉くんなら分かってくれると思うんだけどな……」


 ここまで聞いてみて、完全に理解はできないけれども、少しだけ分かり合えたような気がした。自分も小学生の頃や中学生の頃、そして高校生になってからも興味を抱いた物事に対してそんな感情をくすぶらせた事は数え切れない。やりたいと思いながらも実行に移せないまま時間だけが過ぎ、今となっては興味が消え失せて 「あの頃の自分は、なんであんなものに興味を持っていたのだろう」と、すっかり冷めた目で見てしまうこともあった。


 きっと彼女は、感情を永久に保存することのできる“何か”を追い求めているのかもしれない。永遠に変化をすることのない何かを。そしてそれは『終わらない日常』の退屈さにうんざりとしながら生きている僕とはまた違った種の生きづらさであるように思う。だけれども、僕は彼女の気持ちがなんとなく分かるような気がした。いつでも変化や刺激を渇望している僕でも、決して変わってほしくはないと強く願っている物事だってあるのだから。



 常に変わり続けていかなければならないという無言の圧力を受け続ける中で焦りを感じ、常に変わり続けてしまう自分に対しても苛立ち、変わることを拒否できず、ありのままの自分でいる事ができない不安や苛立ちをも抱えて生きている。そして、自分の心を落ち着かせるために、「変わり続けてしまう自分」とは絶対に相反する「決して変わる事のない自分」を追い求めようと、彼女はそう思っているのかもしれない。


「何かが消え去るようで、喪ってしまいそうで怖い…」と言ったような感情は、思春期に特有の喪失感や焦燥感に起因しているものだと僕は思った。多かれ少なかれ、僕たちの年代ではこの手の悩みを抱えた人も少なくはない。そして、通り過ぎてしまい過去のものとなってしまった大人たちからは忌み嫌われるものだ。「青臭い」とか「中二病」などと揶揄される。そして、早く大人になれよ、と諭される。そんな事を言ってしまう大人たちはとても愚かで救いようがない。でも、いずれは僕も、そして彼女も、そんな大人になってしまうのかもしれない。


「思春期にありがちな、焦りとか不安が原因なのかもしれないね。それは」と僕は言った。


「そうなのかなぁ。やっぱり。でも、こんな焦りとか苛立ちとか、忘れたくない思いとか、そんな感情は大人になっても決して喪いたくないな」


「残念だけど、大人になったら忘れちゃうんだよ。時の流れって残酷なもので、大人になるって事は更にそうだ。そうしていつか、こんな思春期にありがちな感情を"青臭い"とか"痛々しい"なんて言いながら揶揄するんだ。それは僕もそうだし、高坂さんもそうなる。なんだっていつかは消えてしまう。思春期的感性をバカにしたり、見下したり、そうしないと大人にはなれない」


「えーっ。私は絶対そんな風にはならないよ。絶対に、絶対になりたくない」と彼女は強い口調で言い切った。


「なるよ。大人になる事は……少なくともそれまでに死ななければ、確実に訪れる未来なのだから」


「でも、それって、直哉くんが勝手にそう思っているだけじゃないの?」と彼女は言った。口元を歪め、乾いた声をしていた。今までに見たことも無いような、とても不機嫌そうな顔をしていた。


「まあ、その可能性もありうるね」と僕は曖昧に濁した。


「ねぇ、そんな言い回しで誤魔化さないで」と彼女は苦笑いしながら言った。


 僕も彼女に調子を合わせて少しだけ笑ってみせると、「さて、そろそろ行くか」と言って立ち上がり、中には部活動で使う楽譜の束と制服のブレザーが入っていて少しだけ重みを感じるリュックを背負った。そして左腕に目を下ろした。左腕に巻かれた安物のシンプルな腕時計の針は16時25分を指していた。


 僕はざっと時間を計算してみた。彼女との話の合間にスマートフォンで調べてみたが、今日の日没時刻は18時32分だそうだ。まだ2時間以上の余裕はある。今から行けば、ゆっくりと向かっても日が出ている時間には辿り着けるだろう。そう思いながら僕たちは店を出て、ゆっくりと歩きながら東京駅へと歩いて行った。

 

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空白な日常、その遙か彼方へ 岡崎順平 @riho372

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