大人はいつも祈っている

 小林先生のくれた手紙を、大人になってからもう一度読み返した。今読んでもまた、私という存在を認めてくれるようで、勇気が湧いてくる。

 ただ、こうして読み返してみると、先生の言葉に今までとはまた違った一面が見えてくる。これは祈りの言葉というよりもまるで——。


 告解みたいだな、と思った。


 小林先生と私は、教師と教え子という繋がりを持っている。そこで受けた教育を「道筋」とし、それを「祈り」として「他人任せな一面」という言葉で結んでいた。

 これは遠まわしに、「あなたたちの悩みを理解していても、私は直接手を差し伸べられない」という、そんな先生の苦悩を透かしているような気がする。

 先生が言葉に込めた意味の裏面は、当時の私ではわからなかった。でも、こうして大人になった私には、どことなく感じ入るものがある……。子どもに向けて祈りの言葉を詰めたうえでなお、先生自身で解消できずにいた悩みが、きっと先生にもあったのだろう。


 ただ、それでも先生は私に言葉を投げてくれた。それでもと、私のような子どもを信じてくれた姿勢なのだと思いたい。

 先生は先生であって、親でもなければましてや本人ではない。生徒すべての悩みを引き受けて解決するなんて、そんなことは量的にも質的にもできない。

 先生にとって、教師と教え子の線引きがあることを承知のうえで、生徒たちに投げかけられるのは言葉だと、そこに心情を潜ませた言葉の群れが、この手紙だったのかもしれない。


 だけど、そんな先生の思惑はともかく、この言葉は私の“それから”にとって、ひとつの支えになってくれた。挫けそうなときに力をくれた。

 だから、私は先生に感謝をするんだ。

 先生みたいなひとたちの祈りがあったから、今の私は堂々と生きることができています、って。

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小林先生の手紙 ななくさつゆり @Tuyuri_N

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