第10話 エピローグ



 学校が春休みに入った週末――


 六年生への進級を間近にした設楽青磁は、桃瀬慎司のアパートの部屋にいた。

 黒百合書房の事務所から徒歩で五分、六畳一間にキッチンとトイレがついただけの簡単な部屋の窓から、製材所の工場越しに北アルプスの尾根がわずかに見えている。


「どうだ青磁くん、メロディの演奏はマスターできたか?」

 桃瀬に促された青磁は、とりあえず課題曲『キラキラ星』を弾いてみせる。

 一年坊主みたいで気恥ずかしかったが、ビギナーが先生に文句は言えない。


「ようし、まじめに練習したと見えるな。じゃ、つぎは『ハッピー・バースデー』といくか。けっこう音が飛んでいるから、最初は戸惑うかもしれないが、この曲を弾きこなせれば、まちがいなく女の子にモテるぞ~」「うげっ、そんなの関係ないもん」

 青磁は不愛想に言い返したが、ジュワッと耳たぶが熱くなった。


 名前どおり華やかでいながらどこかさびしげな風花の笑顔が目の前にちらつく。

 胸の鼓動を悟られたくなくて、青磁は右手の親指で第四弦の開放音を鳴らした。

 この一週間ほど、毎日十回ずつ弾いた練習の成果がきちんとあらわれてくれた。


「感心、感心。いい響きだよ。よほど女子にモテたいらしいな~」

「ちがうってば!」ムキになる青磁にかまわず、桃瀬慎司は新曲のレッスンに入る。


 左手で弦を押さえて右手の人さし指の爪で四本の弦をかき鳴らすピッキングソロ、同じく親指を滑らせるダウンストローク。ふたつの奏法を同時に教える予定らしい。


 ――急に音符の数が増えたけど、ふたつもいっしょに覚えられるかな……。


 青磁の不安を、桃瀬はどうということもなさげな口調で励ましてくれた。

「メロディだけのときよりウクレレっぽくなるから、演奏がぐんと楽しくなるぞ」

 恐る恐る鳴らしてみると意外に澄んだ音が出たので、弾いた青磁本人が驚く。


「いいぞ、その調子だ。やっぱりセンスがあるよ。さすがはノカリンの甥っ子だ」

 純粋に褒めているのか、下心があるのか分からないが、まあ、気分はいい。


 ――『キラキラ星』はさんざめき、『ハッピー・バースデー』が流れる部屋に威勢よくクラッカーが鳴りひびき、ベビーピンクのシャンパンがシュワワワッと弾ける。


 あくまでイメージだが、われながら、うっとりする。

「どうだ、いいだろう。音楽の醍醐味はやっぱり自分で演奏するところにあるよな。この調子なら、弾き語りでクリスマスソングをモノにできるぞ。この色男め!」

 桃瀬は指先で青磁の広い額をピンと弾いた。

 モテ話をしつこくリピートさせたいらしい。


 ――誤解しないでよね、ぼくの顔が上気しているのは演奏のせいなんだから。


 顎をツンと横に向けると、

「ところでさあ」あっさり話題を変えてきた。

 というより、本当はこっちのほうを早く話したかったことは見え見えだが……。


「ノカリン、このごろ、どうだ?」

 正直すぎる大人にも困ったものだ。

 隠したつもりの心が声に出ている。


「どうって?」

 青磁は意地悪に焦らせてやる。

「だからさぁ、元気にしてるかってことだよ」

「元気に決まってるじゃん。慎司さん、毎日、会社で会ってるんじゃないの?」

「だよな……それで、たまにはだれかと会ったりなんか、しているようかい?」

「だれかって?」

 卓球のカットマンのような小学生のオウムがえしに、大の男がしどろもどろだ。


「ほら、野花さんのモト彼? 例のほら、いけ好かない野郎だよ」

「知らない。ぼく、ノカリンの監視役じゃないもの。自分で訊けば?」

 早熟な小学六年生予備軍の正確なツッコミにうろたえたアラフォーの独身男子は、バツがわるそうに立ち上がると、書棚のうえのオーディオのスイッチを入れる。


 静かな英語の歌が流れてくる。

「あ、この曲、ぼく知ってる。♪ フィッシャ ジャンピングって、あれだ」

 青磁が口ずさむと、桃瀬は薄赤くなった目をゆるめた。

「おや、こんな大人っぽいジャズ、どこで知ったの?」

「クラスメートの兄ちゃんのバンドのライブで」


「小坊にこんな話をするのもなんなんだけどさ、ジャズって男女の愛をうたいあげる楽曲が多いだろう? そんななかで『サマータイム』はちょっと別格なんだよ」

「知ってる。友だちは黒人の子守唄って言っていた。やさしげだけど、本当は怖い唄なんだって」


 青磁の相槌に気をよくした桃瀬は、自分のなかの思いを熱心に語り出した。


「そのとおりさ。魚は跳ね、綿花は育つ。夏の暮らしは楽ちんだ。そのうえパパは金持ちでママは美人ときている。だからぼうや、泣かないでおやすみ。だれもおまえを傷つけたりはしないからね。少なくとも成長したおまえが自分で羽を広げ、歌いながら空に飛び立つその朝まではね、パパとママが守ってあげるから、安心してお眠り」


 そこまで一気に語ると、ふいに口を閉ざす。


「おれ、しゃべり過ぎだよね。退屈だろう? こんな話」

「ううん、いいよ。もっと話して」

 叔母の野花似で、青磁は新知識を得ることに喜びを覚える性質だ。

 お、そうか、気をよくした桃瀬慎司の口調は再び熱を帯び始める。


「この世に生まれて来たことが幸せだったかどうかなど、だれにも分かりはしない。だが、とりあえず生まれて来たおまえが大人になるまでは、わたしたち両親が全力で守ると約束する。けれど、その先までは責任が持てない。それから先はだれもが自力で生きていくしかない、覚悟はいいねと言い聞かせている唄なんだよ。この曲が誕生した当時のアメリカは南北戦争の当時で、白人への隷属を強いられた黒人にとっては残酷な時代だったんだ」


「なんだかすごく怖い歌だね。友だちが言ってたとおりだ」

 未来への不安をはらみながらも表面的には何事もなく終わる子守歌のつぎに流れてきたのは、チャップリンの映画『モダン・タイムス』の主題歌『スマイル』だった。

 

 ♪ 心が傷んでいても ほら 笑ってごらん

 空に雲があれば きみはきっと生きていける

 悲しみを乗り越えて 笑っていれば 明日は

 きみのために輝く太陽に出会えるだろう

 たとえ すぐそばに ひと粒の涙があっても

 喜びで顔を照らし 悲しみの跡を消してごらん

 人生にはまだ価値があると きっとわかるはずだよ

 きみが笑ってさえくれればね

 

 英語の歌詞の意味を説明しながら、桃瀬慎司はまたしても熱弁をふるう。


「おれが『サマータイム』のあとに『スマイル』を編集したくなった理由、分かるだろう? 人生は苦しみと無縁ではないが、どんなときも笑顔さえ忘れなければ辛さを乗り越えられる、きっと未来が拓けるって、ナチスドイツが台頭する前の暗い世相のなかでチャップリンは教えているんだ。現在はどん底の出版だって、きっと……」


 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。


「野花さん!」

「ノカリン!」


 桃瀬慎司と設楽青磁、奇妙なトライアングルの二辺が、同時に叫ぶ。

 ドアを開けると、食材を買い込んだ野花がうれしそうに立っていた。

 スカイブルーのエコバッグの隅で黄水仙が清楚な花を咲かせている。

 黄色は希望の色だ。                  【完】




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六連星と黄水仙――本づくりの流儀 🍹 上月くるを @kurutan

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