第9話 ふたりで出版事業を承継
1
三月中旬の週明け――
涼子社長にランチに誘ってもらった野花は、駅前にオープンしたカフェにいた。
吹き抜けの天井が開放的な店内の南側スペースには二十数人が座れる大テーブルが置かれ、北側の暖炉の周囲にはカップルやグループ連れ、ひとり客のためのテーブルが配置されている。趣のあるアンティークな揺り椅子は本を読んでくつろぎたい客のためか。既存のファーストフード店とはひと味違う次世代型の店づくりが好ましい。
豆乳仕立てのラテと地物野菜のサンドイッチを食べながら、涼子社長はいろいろな話をしてくれる。政治、経済、社会、文化、教育、福祉などいつもながら幅が広い。歯に衣を着せぬというのではなくて、独自の視線で淡々と忌憚のない意見を語る。
かつては県や市などの行政に要請されるまま、各種協議会の委員や外郭団体の理事などを歴任していたが、雛壇に並んでいるだけで積極的な発言は無用、否むしろ迷惑という慣例に疑義を呈する本音発言のスタンスが煙ったがられ、部課長クラスが並ぶ席で首長から怒鳴りつけられた一件を機にいわゆる名誉職をオール辞職したらしい。
十余年つとめた地方文学賞の審査委員を降板したのも、同様な理由によるらしい。
ほんと格好いいよねえ。
野花はますます憧れる。
「ところで野花さん、以前から気になっていたんだけどね」涼子社長が口調を改めたので、野花はちょっと身構える。こういうときは個人的な用件に決まっている。上司に私生活に踏み込まれるのは鬱陶しい。たとえ尊敬する涼子社長であっても……。
「ほかでもない野花さんのお父さんのことなんだけど、きちんと話しておいたほうがいいかな~と思って」とつぜんの話題を振られた野花は、われ知らず動揺した。
ふだん、父親のことは忘れている。たまに思い出しても素早く頭から追い払うようにしている。そうしないと、母親を、家族を捨てたあの男への憎しみが、のどもとに競りあがってきて、野花の心身は真っ黒な恨みの大波に飲みこまれてしまうので。
「大丈夫? でも、真実を知ったほうが今後のためだと思うから辛くても聞いてね」
野花のようすを気づかいながらも、涼子社長は話を打ちきろうとはしなかった。
「お父さんが女性と家を出たのは事実だけど、そこにはね、長年の事情があったの」
固唾を呑むとはこういうことかと自覚できるほど、野花はのどの動きを止めた。
「お祖父さんのことは聞いているよね?」「戦時中、海軍の将校だったっていうことぐらいしか知りません」掠れ声が情けない。なにが語られるかビクビクしている。
同居していた祖父は孫の野花には取っつきにくい、馴染みの薄い存在だった。
どこか突き放したようなところがあって、幼い子どもには近寄りがたかった。
「水島上等兵といえば、なにを連想するかしら」
涼子社長の質問は、意外な方から飛んで来た。
「たしか『ビルマの竪琴』の主人公のお坊さんの名前だったのでは?」
「いまはミャンマーと呼ばれる国で太平洋戦争の最後を戦った日本兵の物語だよね。作者の竹山道雄さんの執筆意図が奈辺にあったかは、本人にしか定かでないけれど、後年、わが国のアジアに対する戦争責任の問題で論争を呼んだ作品でもあるよね」
「わたしも中学生のころに読んで、現地の僧衣をまとって肩にインコをのせた水島上等兵が、竪琴を掻き鳴らしながら仲間の兵士たちにうたう祖国の歌に感動しました」
それから野花は『埴生の宿』や『仰げば尊し』は、涙なくして歌えなくなった。
「戦後、南方から引き揚げて来た野花さんのお祖父さんの胸には、現地に残って亡き戦友の菩提を弔う水島上等兵のすがたが、強烈に刻印されていたのね。そして、たくさんの部下をむざむざ戦死させておきながら、自分だけおめおめと生き延びた卑怯な上官としての自分が、なんとしても許せなかったのよね」初めて耳にする話だった。
「復員軍人の多くがそうだったように自暴自棄が無気力に転化してね、日がな一日、哲学書や仏教書ばかり読んでいる。『ビルマの竪琴』もその一冊だったんだろうね。でも、たくましく復興し始めた戦後社会では、生活力のない怠惰な男にしか映らず、見合い結婚した働き者の妻や生まれた息子からも疎ましがられていた。そこへ嫁いできたのが、あなたのおかあさんの幸乃だったのね」へえ、と言うしかない話だった。
「娘のあなたに言うのも気が引けるけど、幸乃はおとなしそうに見えて、案外、芯の強いところがあったし、稀に見る文学少女だったから数多の読書経験から物事の真髄を見抜く力が備わっていたのね。夏目漱石や森鴎外より、パールバックの『大地』やサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』が好きというアウトサイダーな面も、なんとか戦後世相に馴染もうと足掻いていたお祖父さんの内面と響き合ったんだと思う」
まちがっても下衆な印象を与えないよう、細心の注意を払ってくれている涼子社長の配慮がひしひしと伝わってくる。その先は説明されなくても想像がついた。
「一軒の家の中で舅と嫁が特別に心を通わせ合ったらどうなるか、わかるでしょう。 むろん、世俗的な関係があったわけじゃないの。いってみれば本を仲介にした師匠と弟子、または同志と言ってもいいけど、精神的に繋がれ合った間柄だったんだよね」
――あいたたた。
野花は思わず胸を抑える。
修羅場は免れないだろう。
「すべてを承知だった姑さんが亡くなると、舅と若夫婦の三人の平衡が崩れた。父親とちがって本好きではない哲雄さんがしだいに追い詰められた気持ちになり、疲れた神経の安らぎを家の外に求めたとしても、ある意味無理がなかったかもしれないよ」
野花の脳裏を、大晦日に縄手通りで目撃した光景がよぎってゆく。
よぼよぼに老いぼれ痩せこけた父親と、同じく老いた相手の女性。
嫌悪の対象でしかなかった絵が、にわかに哀切な趣を帯びてくる。
「現在の哲雄さんはおだやかな老後を送っているようだから、野花さんたち子どもは心配しなくていいんじゃないかしら。依然として血の繋がりを尊ぶ人たちもいるけど社会構造がここまで多様化した現代では、血縁といっても、人と人を結ぶ縁のひとつに過ぎないんだから、お父さんの看取りなど相手の方に任せておけばいいと思うよ」
さりげない口調から、たまに父親と連絡をとってくれていることが察せられる。
「涼子社長、いつも本当にありがとうございます」
ありきたりの挨拶に、野花は万感の思いを込める。
地元紙の記者と取材の約束があるという涼子社長と分かれてバス乗り場に向かった野花は、道路の向かいのブティックに入って行く、ひとりのシニア女性を見かけた。
まばゆい春の日差しに映えるカジュアルなジャケットは、ほの暗い照明下の作務衣より十歳は若く見えるが、まちがいなく土蔵街の居酒屋「あずさ」の女将だった。
長くて細い脚にピタリと張り付くブラックジーンズに、目も覚めるように真っ青なスニーカーで颯爽と歩くすがたから、今日を生きる女性の強い意思が伝わってくる。
いつかの白鳥のような女客が帰郷するまで、かならず現役を保守するつもりだろう。
2
翌週明けの午後――
「話というのはほかでもない、当社の今後のことなんだけど」
スタッフを前に話し始めた涼子社長の声がかすかに揺らぐ。
編集長の保科健朗、総務部長の池内恵子、営業部主任の桃瀬慎司、倉庫係の大谷勝造。そして、鬼編集長の特訓のもと、だれもが驚くような短期間でインデザイン使用DTPを完全マスターし、本づくりの設計図である仕様書の作成や印刷製本会社への発注と行程管理など編集業務の全般を把握して、校正係から編集部員に昇格した設楽野花……五人が五人とも、無理やり棒を呑み込まされたような苦しげな表情をして、女らしいルージュや潤いと縁をきって久しい、色気のない口もとを見詰めている。
「みなさんも知ってのとおり、先日、わたし六十八回目の誕生日を迎えたでしょう。 あらためて古希が目前かと思ったら、どっとばかりに疲れが出てきちゃってね。生涯現役を目指して突っ走ってきたけど、この辺で前線を退かせてもらいたいなと……」
――ゴクン。
静まり返った空気のなか、だれかが唾を飲む音が聞こえた。
気配を察した姫子が、ケージのなかで聞き耳を立てている。
けれども、肝心の黒百合書房のこれからが、見えてこない。
「社長が引退されたら、この会社はどうなるんですか」
みんなを代表するように、若手の桃瀬慎司が訊いた。
「わたしとしては、だれかが事業を承継してくれればうれしいんだけど、残念ながらだれも名乗りを挙げてくれなければ、やむを得ず閉業するしかないと思っているの」
「え、それではもったいなさ過ぎます。それこそ雨の日も風の日も雪の日もたゆまず半世紀近くにわたって営々と築かれてきた長い歴史と、なにより五千余点の刊行物という有形無形の貴重な財産を、むざむざ無に帰してしまわれるおつもりですか?」
池内総務部長の率直な抗議に、涼子社長は気をわるくしたようすも見せなかった。
「ありがとう。そう言ってもらってうれしいわ。黒百合書房にかわってこのとおり」
「社長を責めるつもりは毛頭ありません。ただ、会社がなくなるなんて……」「ここ数年というもの、わたしもいろいろと模索してきたのよ。申し訳ないけどスタッフのみんなの適性とか意思をそれとなく観察したりたしかめたり、いっそ外部から適任者を連れて来ようかと思ったり。取引銀行には何度となくM&Aも勧められたし……」
「あら、そうなんですか。わたしはなにも聞いておりませんけど」
「ごめんなさいね。これは経営者と金融機関の秘密事項だからね」
――経営者は孤独だと聞くけど、涼子社長も例外ではなかったのか。
ふたりのやり取りを聞きながら、野花はあらためて胸を突かれる思いだった。
「いっとき五億円まで膨れ上がった負債を十年がかりで完済した事実はみなさん知ってのとおりだから、メインバンクの支店長からは『出版は不況産業とはいえ、無借金経営の御社なら引く手数多です。お望みならすぐにでもご紹介できます』とのお言葉もいただいたのよ。でも、この手で産み育ててきたわが子同然の黒百合書房を、出版の志があるとは思えない他業界人の手にわたす気には、どうしてもなれなかったの」
一介のスタッフ、それもやっと正社員にしてもらったばかりの野花にとって、会社経営の実態は理解の外だが、一般的に考えて他企業に経営の全権を譲れば涼子社長の老後の安泰は約束されるのだろうが、その安全弁をどうしても使いたくないという。
――それって、意地みたいなもの? それとも、この期に及んでの見栄なの?
われながら不埒なことを考えていると、涼子社長は思いがけないことを語った。
「わたしがもっとも警戒するのはね、出版が他産業の体裁に利用されることなの」
時代の波に乗って荒っぽい稼ぎをしているベンチャー企業が儲け過ぎの目眩ましとして文化事業を傘下に加える例をいくつも見てきたが、形だけの付け焼刃はやっぱり長つづきせず、元の社名を汚されたまま無惨な終幕を迎えることは目に見えている。
――手塩にかけた黒百合書房に、哀れな末路をたどらせるわけにはいかない。
子を守る親心にも等しい涼子社長の決意に、スタッフ一同、しんと打たれていた。
だが、社内の承継候補といっても、年齢で考えれば、桃瀬慎司と野花しかいない。
――さあ、どうする?
重苦しい雰囲気に抵抗するように、桃瀬慎司が的外れな台詞を口にし始めた。
「でも、社長。おれの居場所はここにしかないんです。この会社はおれにとって唯一無二の大事な空間なんです。黒百合書房がなくなったら、おれ生きていけないです」
幼子が母親に甘えて訴えるような泣き言を、野花も同じ思いで聞いていた。
「分かっているよ。そんなに思ってもらって本当にありがとう。でもね、桃瀬くん。会社経営は生半可の覚悟じゃできないの。黒百合書房と心中するつもりでなければ」
――もし失敗すれば、武士の切腹に値するのだ。
さらりと告げられた言葉の重さに、事務所の空気はいっそう緊張し、沈潜する。
気配を察したのか、聴こえない耳をピクピクさせていた姫子がのっそり立ち上がると、あざやかに赤い舌をヒラヒラと泳がせながら、得意の大あくびを繰り出した。
――まあ、みんな、そう尖らないで。これだから若い衆は困るよ。
人間年齢に換算すればダントツ最高齢の姫子が結論を急ぎたがる弱輩一同を諭しているようだ。「名伯楽の姫子姐御の言うとおり、みんなの人生を左右する重要問題をそんなに簡単には決められないよね」涼子社長の締めで議題は持ち越しとなった。
3
翌日の昼、野花は桃瀬慎司にインターチェンジ近くのカフェに呼び出された。
「話はほかでもないんだけどね」案内された席に着くなり、桃瀬は切り出した。
「会社の今後のことなんだけど、野花さん、おれとやってみる気はないかなあ」
昨日の会議のときから、野花はそういう展開になるような気がしていた。
「わたしなんかがパートナーでいいのかしら」「身体のことなら大丈夫だよ。体調がわるいときは休んでもらっていいから。それより大事なのは出版への敬意、不動の志だよ。いや、それより前の大前提として、本がなくては生きていけない、本読み体質そのものなんだ」なんとしても口説き落とそうという熱意がびんびん伝わってくる。
「でも、お金のことは? わたし、そちらもまったく自信がないんですけど」
「なにを言ってんだい、野花さん。業界きっての辣腕営業マンが社長になるんだぜ。これまで以上に張りきって稼がないわけないじゃないの……。あ、いや、その前に、おれが社長でよかったのかな? 野花さんは専務兼編集長ということで、ひとつ」
役職分担まで考えてきている桃瀬に、野花は率直な疑問をぶつけた。
「ちょっと待ってください。ふたりきりで、ですか? ほかの方々は?」
「前言と矛盾するようだけどね、それはそれとして聞いてほしい。安定した経営には危機管理意識が不可欠だからね。出版不況脱出の目処が立たない現状では、最大限の営業努力を重ねても現状維持が精いっぱいで、売上の伸長は見込めないと踏んでおくべきだと思う。となると事業の継続には大幅な縮小経営が不可欠という結論が導き出される。さいわいにもというのは失礼かもしれないが、みなさん、年齢が年齢だし、申し訳ないけど、この際、リタイアしていただくしかないだろうね」
保科編集長、池内総務部長、大谷勝造の顔が次々に思い浮かぶ。
「それでみなさん、納得されるかしら」「納得するもなにも、そうしなければ、黒百合書房が存続できないんだから。大丈夫さ、聡明にして心やさしい先輩諸姉諸兄は、きっとわかってくださるよ」「そうでしょうか」「それにほら、他人の懐勘定をするようで気が引けるけどさ、年金という基本的な支えがあることを考えれば、きびしい出版界に残されるおれたちよりは経済基盤が安定しているんだぜ、実際のところ」
――まあ、たしかに。
シビアな話になってきたので、野花は最大の気懸りを確認してみることにした。
「もしもの話ですけど、もし経営が上手くいかずに、涼子社長がせっかくゼロにしてくださった負債を再び増やすような事態を招いたとしたら、あるいは、さらに経営が悪化して倒産という顛末になったとしたら、わたしたち、どうなりますか?」「そのときは自己破産だろうね」桃瀬慎司はあっさり言いきった。
怖い言葉を聞かされた野花は、自分の顔が白くなるのを感じる。
「そのときはそのとき、法に基づいて清算したうえで新たに出直すしかないだろう。だけどね、野花さん。始める前からそんな臆病でどうするよ。いまの時代、サラリーマンだってハイリスクに曝されているんだぜ。もしを言い出したら先へ進まないよ」にわかにタメ口になりつつフォローも忘れない桃瀬は、早くも社長然としている。
「けどさ、さすがだよ、野花さん。おれって、どっちかっつうと突っ走るほうだろ? おれは外でジャンジャン稼いで、石橋を叩いても渡らない慎重居士の野花さんが社内の守りをしっかり固めてくれたら、まさに理想的な経営体制になると思うよ。よし、おれの青写真、ますます盤石になってきたぞ」桃瀬慎司はやはり桃瀬慎司だった。
――チャンスを与えられた男性とは、こういうものか。
「まあ、おれの構想を聞いてくれ」昨日の会議以来、寝る間も惜しんで考えつづけたという桃瀬慎司プロデュース次世代型黒百合書房未来図はつぎのような骨子だった。
○五千余点の出版実績と信用は、新体制への移行後も大事に継承させていただく。
○「歴史の波に埋もれた事物に光を当てる」涼子社長の出版理念も必ず受け継ぐ。
そのふたつを大前提としたうえで――活字離れが顕著な日本人だけではなく、外国人を読者に据えた新たな出版形態を模索する。まず既刊から日本文化が伝わりやすい本を選りすぐり、最低でも英語、できれば多国語の訳を付して再版する。これからの新刊本は、最初から複数か国語の表記とする。
販売面では、外国からの観光客が立ち寄る土産品や書店を新規開拓して卸す。
軌道に乗れば、国外にも販売拠点を置き、それを足がかりにして、ゆくゆくは中国や韓国、東南アジアなど近隣諸国でも、黒百合書房独自の出版事業を展開してゆく。
「それを実現するために野花さんの力がどうしても必要なんだ。同じ職場で同じ空気を吸ってきて、おれのビジネスパートナーは……あの、できればプライベートもなんだけど……まあ、それはともかくとしても、この人しかいないと思い決めたんだよ」
憑かれたように語る桃瀬慎司の真心が、いつしか野花の胸を明々と染めていた。
4
週明け――
驚くべき速さで黒百合書房の近未来が決定した。
「ふたりとも名乗りを挙げてくれて本当にありがとう。わたしにとってはわが子同然の会社を積極的かつ発展的に継いでもらえるなんてこんなにうれしいことはないよ」
老眼鏡の奥を潤ませながら頭を下げた涼子社長は、茶目っぽく指示してみせた。
「では、さっそくだけど、三代目社長としての所信表明を一席ぶってくださいね」
あらためてみんなの前に立った桃瀬慎司は、意欲満々の事業承継宣言を行った。
「わたし桃瀬慎司は、設楽野花とふたりで黒百合書房を継承することを誓います」
桃瀬に目顔で促された野花も一歩前へ進む。
「微力ながら桃瀬さんをサポートして、涼子社長の黒百合書房を守る所存です」
先輩諸姉諸兄から盛大な拍手が湧き起こった。
「いよっ、御両人。ついでに、私生活でも相棒になっちまったらどうだ、この際」
保科編集長からさっそく野次が飛んだが、野花は軽く聞き流すことに成功した。
*
承継の大元が決まると、体制移行に向け、具体的なスケジュールが検討された。
すぐになにもかも若いふたりが引き受けるわけにはいかないので、新体制が軌道に乗るまで涼子社長と保科編集長、池内総務部長には相談役の顧問をつとめてもらう。
「でも、いつまでも頼らないでね。わたしたちにも次のステージがあるんだからね」
愛情の籠もった涼子社長の駄目押しに、桃瀬慎司と野花は揃って神妙にうなずく。
リタイア後、保科編集長は大学時代の友人の山小屋を手伝う。
池内総務部長は、隣接の町に夫がオープンさせる会計事務所を手伝う。
大谷勝造は長年連れ添った古女房を相手に、本気で農業に取りむという。
姫子を含めた若手現役続行組とフェードアウト組に二分する格好になった。
野花はといえば。
桃瀬慎司のプライベートのパートナーにもなる自信は、正直、まだなかった。
過去に被った二度の傷が、恋愛や結婚に対して、いまだに臆病にさせている。
しかし、楽観主義の桃瀬はどこまでも陽気に信じているらしい。
――温もりに溶けない氷はない。
いまどきの斜陽の最たる出版に関わっていては金銭面での恩恵は望むべくもない。
だが、国内外の資産家と呼ばれる人たちがいかに貧弱な精神生活を送っているかは顔に厚い膜がかぶさっているように透明感のない胡乱な表情が雄弁に証明している。
ベクトルの方向が同じふたりなら、幸福な未来を築けると確信しているらしい。
涼子社長はこれまで、地方文化を題材にしたシリーズ企画を次々に刊行する一方、自らペンを執って、正史という歴史の波に埋もれかけた事物の発掘にも努めてきた。
大正末期の製糸工女を劣悪な環境から救おうと救護施設を開いた女性活動家。
国策としてメキシコに移民した日本人の窮地を身を挺して守り抜いた外交官。
戦後の混乱のなかで行き場を失った子どもたちのため荒野を開拓した篤志家。
そして、全スタッフが誇りに思っているのはなんといっても人類の永遠のテーマとも言える戦争に関する創作絵本で、刊行開始から十五年間に三十数巻を重ねている。
――創作であれ実録であれ、感動を発信する側と、それに共鳴する側がいる限り、極限すれば地球上に人間がいる限り、未来永劫に出版アイデンティティは永続する。
去る方残る方に共通の信念が、新生黒百合書房の強靭な屋台骨となるだろう。
*
前祝いに池内総務部長がケーキ付きで珈琲を出してくれた。
野花もいそいそと配膳を手伝っていると、
「大丈夫かなあ。わたし、普通のおばあさんになれるかなあ」
涼子社長が気弱げに呟いたので、みんな、どっと沸いた。
――たしかに。
何十年も社長と呼ばれてきた人が、ただの涼子さんになるのだ。
呼ばれる方も呼ぶ方も相当戸惑うだろうし、照れもするだろう。
野花の心配をよそに、涼子社長はカラカラと笑ってみせる。
「なあんちゃって。こう見えて意外と変わり身は早い方だから、大丈夫だと思うよ。来年の今頃はあちこちの文化講座でカルチャー三昧かもよ。うわあ、楽しみだわ~」
横合いから保科編集長が口を挟んでくる。
「おれはさ、友だちの山小屋で使いものにならなくなったら、格安の施設にでも収容してもらうつもりだよ。どっかの老人ホームで、当たり馬券を握り締めて、ラジオに向かって大声で叫んでいるジイサンがいたら、そいつはおれだと思ってくれ」
「やだな、編集長。どこまでも競馬っすか。そろそろ足を洗ったらどうっすか?」
桃瀬の茶化しを意にも介さず、保科編集長は持ち前の皮肉な翳を頬に浮かべた。
「ま、なんとでも言ってくれ。これがおれの人生だ。それよりこう言ってはなんだがそろって高給取りのおれたちが抜けたあとの、きみたちの手腕が見ものだよなあ」
「大丈夫ですって。野花さんもおれも伊達に苦労はしてきていませんから。むしろ、今日のための前半生のいろいろだったのかと運命を感じているくらいです」
「お手並み拝見だな。もしものときは痩せ腕を頼ってくれてもいいんだぞ」
柄にもなく語尾をふるわせた保科編集長は、慌ててそっぽを向く。
「ところで、涼子社長は旅行とかなさらないんですか」
一年三六五日、経営だけで頭がいっぱいで、海外どころか国内の旅行を楽しむ余裕もなかったことを知っている野花の助け船に、涼子社長がやさしく応えてくれた。
「ありがとう。自分の給料を抑えてきたから、受給年金額が少ないという台所事情もあるにはあるんだけど、読書でいろいろな場所へ行って来たからね、いまさらリアルな旅に出たいとは思わないんだよね。それより足元の地域をもっと深く知りたいな」
「涼子社長はこれまでに何冊の本を読んでこられたのですか」
感に絶えない声を発したのは、涼子社長ファンの池内総務部長だった。
「さあ、とりたてて数えてみたことはないけど、文学全集の編集で目を通したのが約一万冊。そこに公私で読んできた本を加えれば、さてどれぐらいになるかしらねえ」
「すっげえ。マジで読書アドバイザーになれますね」
桃瀬の率直な賞賛を涼子社長はあっさりと交わす。
「それは無理。本はそのときの自分の器で選ぶもの。ときどきの容量に合わなければ読む意味がない。各々の器は年齢や人生経験、精神生活の多寡などで変わるんだし、まして他者の器とは異なって当然でしょう。嗜好は押しつけるものじゃないよね~」
――そういえば……。
野花はあらためて思い出した。涼子社長から本を勧められたことは、一度もない。考えてみるまでもなく半世紀近くにわたり数多の修羅場を乗り越えてきた涼子社長と、苦労も道半ばの野花が、一冊の本を読んで同じ感懐を抱けるはずがないのだ。
「涼子社長にとって、本とは何ですか?」
ズバリの質問を放ったのは、こういうとき傍観者の立場をとりがちな大谷だった。
「ううん、そうだねえ。清水の舞台から飛び降りる決意で購入した電子書籍端末の、あまりといえばあんまりな無機質ぶりに、わずか数日で音をあげて、引き出しの奥にお引き取り願った身にとっての本は、あくまで紙の本に限るんだけどね……」
明るい茶色の眸を瞬かせながら、涼子社長は言葉を選んで慎重に語る。
「微細な数値で構築されるデジタルをどこまで突き詰めても、アバウトな要素が入りこむアナログでありつづけるしかない人間。その五感を培い、アナログ集団としての混沌社会を生きていくうえで大切な人間力を養う。それが本なのではないかしらね。目と頭脳で活字を読む過程で自ずから導き出される豊かな想像力や思考力は、画像や映像など他のツールでは望めないだろうね」
いつの間にか、みんな襟を正して聞いている。
「いつも見えるところにさりげなく置いてある気に入りの本の表紙は、多くの人たちにとって読書習慣が過去のものとなりつつある時代だからこそ、敢えて言わせてもらえば、選ばれし読書人だけの、ひそかにして偉大な誇りといったところかしらね」
――黒百合書房のスタッフでいられてよかった!
全員の胸にひたひたと静かな感懐が満たされていく。
5
それから一週間後――
「あ、そういえば……」会議のあとの雑談で涼子社長が言い出した。
「不思議な縁を感じる出来事があったの」各戸に配布された市の広報に来年度のシニア大学の受講生募集の記事が載っていた。二年に一度の機会だし、年間に十回程度の受講ならやりくりできそうだ。で、県の出先機関に申し込みに出向くと「あっ、涼子社長!」思いがけず受付の女性がカウンターの向こうから駆け寄ってきた。十年前に夫の転勤で退職した経理スタッフだった。昨年、郷里へもどってきたのだという。
「池内部長の前任でね、在職当時、それはよくわたしを補佐してくれたの」
池内総務部長の頬に、一瞬、複雑な線が走ったのはやむを得ないだろう。
「市民なのに申し訳ないんだけど、これまでは広報を開いてみたこともなかったのに、目を通し始めたとたんにこれでしょう。本当に見えない糸を感じたんだよね」
よほど気の合うスタッフだったのだろう。なんだか野花まで妬けてくる。
重くなった空気の逃げ道をつくったのは、またしても、桃瀬慎司だった。
「涼子社長。シニア大学で地域の歴史をいっそう深く掘り下げられたら、郷土史家・犬飼涼子のデビュー作は黒百合書房からお願いします」「やだ、桃瀬くんったら気が早いんだから」ヒラヒラと手を振る涼子社長の頬にやわらかな笑みが広がってゆく。
「みなさん、あらためてありがとうね。わたしにとって、会社もスタッフも刊行物も、すべてが愛しいわが子なの。優秀な子どもたちに恵まれ、本当に果報者よね」
――そっか~。可愛い子どもがいっぱいか~。
未来の自分の至福を先取りした野花の胸は、キュンとする。
桃瀬慎司がちらりといたずらっぽい視線を送ってよこした。
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