第8話 野花&青磁&慎司の星空散歩


 

   1

 

 三月最初の土曜日の午後五時半――

 野花は甥の青磁を連れ、市教育委員会が主催する星空散歩の会場に向かっていた。


 母親の智美の趣味なのか、キッズ向けファッション誌から抜け出たばかりのような小学五年生を挟んでなぜか黒百合書房の桃瀬慎司が川の字の一本を添えているのは、野花の計画を聞きつけ、半ば強引にサポート役を買って出たからだった。


「もしよかったらだけど、また青磁くんと星の観察に行きたいんだけど……」

 慎重に言葉を選んだ野花の誘いを、弟夫妻がどう思っているかわからない。


 とくに母親の智美は、息子がアラフォー独身の野花に近づくことを警戒して、

「叔母と甥と言っても、世間の目があることだし、そうしょっちゅうでは……」


 ――世間の目じゃなくて、あんたの、でしょう?


 思わず突っ込みたくなるような勘ぐりを入れてくるが、そのつど、当の青磁が、

「あ、ぼく、行きたい。プラネタリウムは理科の勉強に、すっごく役立つんだよ」

 親として駄目出しのしようがない模範解答で応援してくれたので、三十の年齢差を軽々と越えて親友同士のように気の合うふたりのデートが成立してきた経緯がある。


 今宵の星空散歩は特別イベントで天体望遠鏡をつかう星空観察が企画されている。遅く申し込んだのにキャンセルがあり四十名の定員に潜り込めたこともラッキーで。


 会場の文化センターへ向かう途次、涼子社長の許可を得て借りてある黒百合書房の営業車の車中は、同僚の男女と小坊の、奇妙な取り合わせのトリオの会話で弾んだ。


「青磁くん、クラスに好きな子、いんのかい?」

「いるよね~。風花ちゃんっていうんだよね~」

「あ、ノカリンのおしゃべり! 余計なこと言わないでいいよ」

 耳まで赤くした完青磁は全に友だちのノリで叔母を牽制する。


 ダントツの美形で成績もよく人にも動植物にもやさしい風花は、女子プロレスラーのように腕力のあるボスの女子グループから、陰湿ないじめを受けているという。


「たぶんだけどね、愛される要素をたくさん持っているから、いじめられるんだよ」

 クールに分析してみせた青磁は、下手にかばい立てするといっそう嫉妬を煽りかねないから、黙って遠くから見守っているしかないのだと、少し辛そうに打ち明けた。



      *


 

 じつは野花も中学生のとき、女子グループから徹底的に無視された時期があった。

 新卒担任教師が不慣れな学級運営を生真面目な野花に頼った、それが発端だった。


 ――贔屓している。


 かつては楽しかった教室が、一転して針のむしろに変わっていた。

 お決まりの保健室登校の期間を経て、毎朝の腹痛が常態化したとき、至って温和な性格で争いごとの苦手な母親の幸乃がだれも驚くような思いきった行動を起こした。


「このままでは、うちの娘が壊されてしまいます。たったひとりに集団で牙を剥く。人間として究極の卑怯千万を諭すこともできず、なにが学校、なにが教育ですか? そのうえ被害者にも問題があるなどと、先生から責任回避発言までされるとは……。そんな学校にはもうなにも期待しません。大事な娘は傷をひろげるだけの学校教育のシステムから脱けさせます。管轄の教育委員会にもどうぞよしなにお伝えください」


 単身で学校に乗り込んで、担任と学年主任、校長を前に大見栄をきる前、何冊もの関連書を熟読して、いざという場合の肚を決めていたことを野花はあとから知った。


 奇跡は起きた。

 幸乃の決死の覚悟が、セメントで固めた巌のような閉塞状況を徐々に溶解させた。

 なによりも、母親の不動のバックアップを支えに急にたくましく成長した野花が、教室にひとりでいる状況を恐れなくなった、その驚愕の事実が大きかったらしい。


 蔭口、いばらの視線、下駄箱汚し、運動着隠し、給食の配膳忘れ……。

 なにをされても動じない野花は、全員から一目置かれるようになった。


 奇しくも青磁が見抜いたように、人の群には粘っこい嫉妬の網が絡み付くものだ。

 子どもの力で解決できなければ、身近な大人のたすけが、どうしても必要になる。


 教室という密室地獄から、一刻も早く風花ちゃんが救われますように。

 後部座席に青磁とならんで座った野花は、きつく拳を握り締めていた。

 


      *



 他人より冷たいと感じられることもある身内のなかで、青磁は、唯一無二の野花の味方だった。法事などの寄り合いのつど、弟夫婦と野花の関係がぎくしゃくすると、


 ――ノカリン、大丈夫? ぼく、ここにいるよ。


 声高に言い募る両親の向こうから、漆黒に澄んだ眼差しを、そっと送ってくる。

 驚くことに、物心がついたときはすでに、親の目をかいくぐる術を心得ていた。


 タレントのようで気恥ずかしいニックネームも、幼い青磁がつけてくれた。

 母親の智美がいい顔をするはずがなかったが、逆三角形の小さな顔に小鳥みたいに細い首、同じ年頃の男子としては小柄だが、突き出た手足はひょろりと長い青磁は、

「ええっ、なんで? アイドルみたいで格好いいじゃん」

 しつこい母親の小言を、どこ吹く風と聞き流していた。


 ――幼い子が、なぜそこまで?


 問われたとしても、青磁自身はもとより、野花にも答えようがない。

 本好き同志のなかに響き合うものが同質だから、というしか……。


 ――甥っ子はわたしの灯り。わたしの希望。


 野花はいつしかそう考えるようになっていた。

 青磁の心がより間近に感じられるとき、弟夫婦にうしろめたい気持ちを抱くこともあるが、大人と子ども、叔母と甥の立場をはなれれば、互いに独立したパーソナルである以上、人間としての相性に素直に従うことはごく自然な成り行きとも思われる。


 運転の桃瀬慎司と後部座席の青磁も相性がいいのか、軽快な会話を弾ませている。

「青磁くん。よかったら今度、おれんちへ来る? ウクレレを聴かせてやるぞ」

「うわあ、ぼく、音楽が大好きなんだ。本や空手と同じくらい好きかも。生演奏ならなお最高だよね~。ねえ、ノカリン、いいでしょう? 一緒に行くって約束だよ」

「もちろん。わたしもうれしいよ。でも、パパとママに許しをいただいてからね」


 ひょんなことから始まった奇妙なトライアングルの友情を、ひとりぼっちが習い性になって久しい野花は、両方の手の平で囲うようにして大切に温めていきたかった。

 


 

   2

 

 今宵のプラネタリウム講座の説明担当は、丸や三角や四角の顔に申し合わせたように野暮な黒縁眼鏡を光らせた、いかにも理系という感じの中年の研究者たちだった。


 駐車場に車を停めて、三々五々集まってくる参加者の大半は、小中学生の子どもを連れたファミリーだったが、もの好きなひとり参加のシニアの男女も混じっている。

 傍目には自分たちも家族に見えるのかもしれないなと思うと、少しくすぐったい。


 事前の説明によると、まずは室内のプラネタリウムで現在の星座の位置を確認しておいてから二手に分かれ、屋上に常設されているレンズ直系三十センチの天体望遠鏡一台、ならびに駐車場に据えた研究者個人所有の天体望遠鏡二台で観察するという。

 主催は教育委員会だが、実質的な運営は研究者団体に委ねられているらしい。


 BGMのゆったりとしたジャズの音色に包まれながらプラネタリウムのリクライニングシートを倒すと、いつもどおり満天の星々がザーザーと滝のように降ってくる。

 野花はこの瞬間がこのうえなく好きだった。


 オリオン座、大犬座、小犬座、牡牛座、双子座、御者座……冬を代表する各星座の説明がなされると、パソコンから送信されたそれぞれの名称とイラストのデータが、丸天井に大きく掲示されるので、子どもや初心者にもきわめて馴染みやすい。



      *



 人工の星空を使っての解説が終わると、いよいよ戸外に出てリアルな生夜空を観察することになり、野花たち三人は、先に屋上の展望台へ行くグループに配属された。


 急な階段を幾重にも折れ曲がり息を弾ませて到着した天文台は茶碗を伏せたような半球形の閉ざされた空間で、狭いスペースの大半を巨大な天体望遠鏡が占めている。


 丸い天井の割れ目から、ひときわ間近に迫る夜空が漆黒の口を開けている。

「では、これから明かりを消しますので、足もとにお気をつけくださいね~」

 真っ暗になると、にわかに星の匂いが濃くなって、臨場感が高まってくる。


 順番に並んで観せてもらったのは、西の空にひときわまばゆく光る金星だった。

「いまの時節は宵の明星と呼ばれていますが、季節が移れば、ぐるっと東にまわって明けの明星になります。ちなみに、水金地火木土星は、月と同様に満ち欠けします」


 ――へぇ、そうなんだ。


 理系音痴の野花には、天文学の初歩の初歩が新鮮に聴こえる。

「天体望遠鏡で見ると金星の上部にぼうっと光る三日月型が確認できますが、実際は逆で、現在は上部が太陽のかげになっています。レンズを通すと光が反転するので」

 理科の授業で教わったような気が……むずかしい原理を考えるのはやめておこう。


 つぎに覗かせてもらったのは長い二本の角をにょっきりと伸ばした牡牛座だった。

「ひときわ明るく輝くのが一等星のアルデパラソですね。そこから右手に少し離れたところに、モヤモヤッとした星の一団が見えますでしょう。あれが某自動車メーカーのエンブレムで知られる六連星むつらぼしすばるです」


 レンズの彼方で控え目に瞬く六つの小さな星の群れは、夜空の女王のように煌びやかな一等星に抗してたとえれば、純真な乙女の襟元を飾る清楚なネックレスである。


 生まれて初めての体験に胸を高鳴らせる野花の気持ちをさらに温めるのは、参加者一同のマナーのよさだった。小学生から八十代と思われる高齢者まで、小腰を屈めて億光年の夜空に魅せられる人たちのだれひとりとして無駄口をたたく者などいない。


 自分の順番が来ると、慎重に片目をレンズに近付けて、一心不乱に観察する。

 観終わると踏み台を支えてくれている研究者に礼を述べて、つぎの人に譲る。

 だれの指示でもなく自然に出現した整然たる光景は、外国人には驚異だとテレビで報じられる被災者のマナーと通底する、やや大げさに言えば日本人の誇りだった。



      *



 あっという間に時間が過ぎ、野花たちは別の班と入れ替りに駐車場に移動する。

 天井の覆いがなくなった空一面に、おびただしい星が惜しげもなく瞬いている。

 市街地から数キロ離れただけで、ここまで鮮明な星空を仰げるなんてすてきだ。


 真っ暗な地上で解説してくれたのは、最年長の研究者だった。

「冬の星座といえば、なんといってもあのあたりの塊ですね~」

 拡声器が向かう方に燦然と光っているのは有名な冬の大三角。

「ごらんください、大犬座のシリウス、オリオン座のペテルギウス、小犬座のプロキオン、三つの一等星がつくる、きれいな正三角形が手に取るように見えますよね~」


 ――ほう。


 参加者から感嘆の声が挙がる。

「冬のダイアモンドはどれか分かりますか? はい、そうです、大犬座のシリウス、オリオン座のリゲル、牡牛座のアルデバラン、御者座のカペラ、双子座のポルックス、小犬座のプロキオンの六つの星をむすんで構成される、やや変形の六角形がそれですね。あのあたりには一等星が多いので、とりわけ華やかな一画になっています」


 ――うわあ。


 静かな歓声が再び。

 首が痛くなるほど見上げながら、ふと横を見ると、ダウンコートのフードを被った桃瀬慎司と小柄な青磁が揃って地面に寝転がり、降るような星を全身に浴びている。

 まるで南極の流氷に棲むアザラシの親子みたいで、野花はひそかに微笑んでいた。


 ――小犬の泣き濡れた眸。


 一等星プロキオンのすぐ近くに位置する三等星ゴメイサ(かすかなもの、涙ぐんでいるものという意味らしい)には、いくつかの悲しい物語が伝えられているという。


 一等星のプロキオンに比較して目立たないことを悲しんで泣いているという説。

 闘争の果てに天の川を渡った竜骨座のカノープス、大犬座のシリウスの兄たちに置いて行かれた末弟のプロキオンが身を揉んで嘆き悲しむうちに光が弱くなってアル・ゴメイサと呼ばれるようになり、やがて近くの三等星に名前が移行したという説。

 小犬座のモデルになった猟犬が帰らない主人を待ち侘びて泣いているという説。


 犬好きの野花としては、むろん最後の説を支持したい。

 お堅い科学者とは思えないソフトな口調でロマンチックな星座物語を語ってくれる研究者を興味深く観察しながら、大犬座に比べて肩身の狭そうな小犬座を見上げた。


「こうしているあいだにも星は少しずつ動きつづけているので、天体望遠鏡は目指す星座を追えるように自動的に設置してあります。東の空には早くも春の星座がすがたを見せています。そう言っているうちにも、北斗七星が少しずつ見えてきましたね」


 北の空に特徴的な四角形の角。

「いうところの柄杓のかたちだよな」

「なにそれ? 卵焼きフライパンでしょう」

 桃瀬と青磁もそれぞれの感想を述べ合っている。



      *



 およそ二時間にわたる星空観察も終盤に入り、解説もますます熱を帯びてきた。

「それではここで北極星の見方をご案内しますね。こうして身体を北側に向けたら、右手を胸の前に伸ばします。こぶしを握った上に左手のこぶしを重ねます。さらに右、左と、四つ分のこぶしを重ねて右手の人差し指を伸ばす、その先に位置するのが北極星です。沖縄など一部の地域を除き、日本国内ならこの方法で探せるはずです」


 参加者全員が引率された小学生のように、素直に北方に腕を伸ばしている。

 ここで野花は、気になっていたことを思いきって質問してみることにした。


「カシオピア座は見えますか? 宮沢賢治の『よだかの星』の目印の……」

 迷惑がられるかもと案じていたが、老研究者は意外なほど喜んでくれた。


「いい質問ですね。カシオピア座は秋の星座に属していますが、一年中、北の空でMの字を保っている、稀有な星座なんです。現にいまもあそこに一部が見えています」

 見上げればたしかに、北極星の右側に慎み深いM(こちらから見ればW)がある。


 ――まるで北極星に守られているみたい。


 その連想は、野花の心をほのかに温めずにおかなかった。

 不動の北極星に守られたカシオピア座と、カシオピア座に守られたよだかの星。

 地上では不遇の極みにあった鳥が、天に昇ってからは穏やかな至福にあるのだ。


 夜の匂いをふりまきながら青磁がひたと寄り添ってくる。

「やったね、ノカリン。いい質問、いただけたじゃ~ん!」

「うん、だね~。これでもけっこう勇気を出したんだよ~」


「だろうね。けどさ、その気になればできる人なんだよ、ノカリンは」

「うん、ありがとう。これからもいろいろなことにがんばってみるね」

「ジョバンニの親友のカムパネルラ、きっとあそこにいるんだろうね」

 夜空を見上げるふたりを、少し離れた闇から桃瀬慎司が見つめていた。

 


 

   3

 

 青磁を送り届けたあと助手席に移動した野花は、永遠に囁き合うような星空の余韻に浸りながら、これまでだれにも言えなかった秘密をふと打ち明けてみたくなった。


 まず前振りとして「わたしってへんですか? 年端も行かない甥っ子に親友めいた思いを抱くなんて」と言ってみる。「ほんと仲がいい叔母と甥だよな。おれ、正直、ちょっと妬けたよ」前方を向いたまま、桃瀬慎司は見当ちがいな答えを返してくる。


「はぁ? まさか桃瀬主任まで、おかしな連想をしているんじゃないでしょうね」

「だって、おれが割って入るすき、みつからなかったぜ」蛸のように唇を尖らせる。


「あら、そうですか? 十分に割り込んでくださったと思いますけど」

「いやいや。青磁くんのガードが堅くてさ、暗闇をさいわい、虎視眈々とチャンスを狙っていたつもりなんだけど、アッパーもフックもかましようがなかったんだよな」

「わたしなんかにそんなこと言ってくださるなんて、どうもありがとうございます」

 じっさい、三角関係のヒロインになったみたいで、野花はちょっとうれしい。


 気まずい空気がほぐれたところで、思いきって打ち明けてみることにする。

「あの……ついでにといってはなんですけど、わたし、告白しちゃおうかしら」

 野花が呟くと、ハンドルを握る桃瀬慎司の上半身がぎょっとしたように固まる。

「ちょ、ちょっと待ってよ。そ、そんな急に……お、おれ、まだ覚悟がさあ……」


 野花はかまわず話を進める。

「わたしね、若いころに病気に罹り、お医者さんから子どもは諦めなさいと言われているんです。だから、万一これから結婚するような奇跡が起きたとしても、相手の方に申し訳なくて……。男性って本能的に自分のDNAを残したいものなんでしょう。 だから、だから、わたしには年輩の方の後妻ぐらいしかつとまらないかなって……」


 泣くまいと思っていたのに、やっぱり最後は声がふるえた。

 ひと呼吸置き、運転席からとんでもない大音声が聞こえた。


「奇跡だなんて、その若さでなにを馬鹿なこと言ってんの。結婚するに決まっているじゃない。それに相手がおれと己惚れているわけじゃないけどね、少なくともおれに限っては、そのへんのくだらないやつらと一緒にしてもらっては困るよ。ひと握りの天才や秀才ならともかく、凡庸中の凡庸のDNAを継承させたいと思うほど、おれ、厚かましくないつもりだよ。第一さ、知らないの? いまどきの若い世代は血縁より地縁が主流なんだぜ。いやはや呆れたよ、意外と古い人なんだなあ、野花さんはさ」


 一気にまくし立てた桃瀬は「そうは言っても……」という野花の反論を封じた。


「お返しに、おれも告白させてもらっていいかな? 黒百合書房に入れてもらう前、日銭稼ぎを転々としたあと、やっと就職できた食品会社に好きな女の子ができてね、おれとしては、かなりいい線まで持って行けたつもりだったんだけど、まんまと振られちゃったんだ。明治時代からの老舗旅館を営む堅い家だったから、どこの馬の骨とも知れない養護施設出身者を身内にするのは困ると、親兄弟から親戚までがこぞって大反対したんだって。ま、結局はその程度の関係だったっていうことなんだけどね」


 今度は野花が励ます番だった。

「ひどい! ひど過ぎます。自分ではどうにもならないことなのに、そんな……」


 桃瀬は淡々と語りつづける。

「おれの代わりに彼女が選んだ相手は、選りにもよっておれが社内で一番親しくしていたやつだったんだ。だからおれ極度の人間不信にかかっちゃってさ。早々に会社を退職し、元の木阿弥のその日暮らしをしていたとき、たまたま居酒屋で隣り合わせた涼子社長に『あんた、うちへ来ない?』って誘ってもらったんだ。あ、そういえば、うちのスタッフって、みんな訳ありばかりだよね。あ、野花さんを除いてだけどね」


 いえ、わたしも同じよ。

 野花は無言で同意する。


「前言にもどるけど、この際はっきり言わせてもらうね。おれ、野花さんを守るよ。どんなにいやがられてもつきまとって口さがない世間の風からあんたを守り抜くよ。おれ、こうと決めたことは相当にしつこいからね。いい? 覚悟しておいてよ」


 野花は自分の頬をツツ~ッと滑り落ちる熱いしずくを感じていた。

 運転席の慎司は前を向いたまま、忠実なアッシーくんにもどった。

 


 

   4

 

 自称「絵本作家のピヨピヨちゃん」ことSAKURAが満洲帰りの曾祖母のために勇を鼓して持ち込んできた『よだかの星 それから』はさいごの詰めに入っていた。


 資金、時間、労力など諸条件に縛られ、どうしても画一的な編集にならざるを得ない昨今、久しぶりに出版の原点に返った本づくりができると勢い込むスタッフのなかにあって、いままで校正専門だった野花にとっては編集の初仕事となる格別な本だ。


 弱輩のために業界のベテランである保科編集長の手を煩わせるからには、一度教わったことはノートに記録し、それを繰り返し復習して、必ず自分のものにすること。

 そうでなければ、自分を引き立ててくれる涼子社長にも申し訳が立たない。

 本格的な編集技術を学ぶに当たり、野花は内心で悲壮な決意を固めていた。



      *



 著者になるSAKURAとの打ち合わせで、本づくりの骨子が決定しつつあった。


 四六判、上製本。表紙には曾祖母が満洲で着ていたボロボロに擦り切れた藍染めの木綿布を貼り、曾孫のSAKURA筆による夜空を目指すよだかの絵を空押しする。


 よだかの視線の先に、太めの明朝体の書名を虹色で箔押し。

 隅の方に著者と版元名をごく控え目に、スミ箔で刻印する。

 見返しはSAKURA作成の満洲の手書き地図を印刷する。

 本扉には表紙の空押しと同じ絵柄を敢えて単色で印刷する。


 その次の頁は口絵扱いのコート紙とし、SAKURA入魂のさんざめく星空のクレパス画を、黒百合書房の取引先で最もクォリティの高い製版技術を誇る富山県の印刷会社のベテラン職人さんに存分に腕を揮ってもらい、完璧な四色分解で掲載する。


 オリジナル感を出すために、本文を藍色やセピアなどで印刷する案も出たが、目にやさしく読みやすいのはやはりスミということになり、フォントも教科書体や丸ゴチックなど変わったものより、一般的な明朝体が読みやすいという総意に落ち着いた。


 本文の紙質は、目にやさしいクリーム系。

 タレ(栞紐)はあざやかなマリンブルー。

 花布はなぎれ(背の天地の飾り布)は彩りの美しいパステルカラー。


「いっそ、むかしの本づくりにもどって、美麗箱入り豪華保存版としたらどうかな」

 この際、むかし取った杵柄の腕前を存分に発揮したいらしい保科編集長の提案は、

「ううん、どうだろう。神棚に飾っておくのではなく、いつでも好きなときに開けるところに置いておけるスタンスが、この本には合っているような気がするけどね~」

 涼子社長によって、あっさり却下された。

 

 SAKURAの話によると、自分のために奔走する曾孫の一所懸命なすがたを見ているうちに、理解し合えるときは永遠に来ないと思われていた曾祖母と祖母、つまりは母と娘のあいだに、少しずつ温かな空気が通うようになってきたという。


 ――だれにも話したくない。


 話してもわかってもらえないと、七十余年間かたくなに心を閉ざしていた曾祖母が、身をきるように辛い記憶を少しずつ語り始めたのは、つい最近のことだった。


 敗戦時、民間人を置き去りにしてわれ先に逃げ出す軍人たちを遠目に、成人男性は徴兵され老人や女子どもばかり残された開拓村では、どうすることもできなかった。


 政府の甘言に騙されたとはいえ、他国を侵略、土地を搾取した事実に変わりない。

 内心で疑問を抱きながらも、ずるずると支配下に置いてきた現地人の報復を恐れ、着の身着のままで始まった逃避行の先に待ち受けていたのは、凄絶な地獄絵だった。


 食糧も雨露を凌ぐ術もなく、裸足は血を噴き、行く先は大河に阻まれた。赤子を負い幼児の手を引き、老人を介抱しながらの逃走は女性たちから常軌を奪っていった。


 獣のひそむ山中に幼いわが子を置き去りにする母親。

 急流で立ち往生し自ら幼子を濁水に投げ入れる母親。

 豆腐一丁と引換えに現地人に子どもを売り渡す母親。


 すがれるものをなにひとつ持たず生きる亡霊と化した女性たちの群れが、何十人もの村人が集団自決した日本人の開拓村を、いくつもいくつも、無感動に通り過ぎた。


「そうしてやっとの思いでたどり着いた哈爾浜ハルビン収容所で、わたしは疫痢に罹ってしまった。高熱と下痢で骨と皮に痩せこけ、世話をしてくれる人もいない寒い床に横たわったまま、なんとか子どもだけは助けたくて、たまたま訪問してくれた中国人夫婦に託すことを泣く泣く決意したの。まさか自分が快復するとは夢にも思わなかったから素性も確かめないままで。なぜあんな酷いことができたのか……。だからね、戦後、腑抜けになって帰国したとき、引揚者と蔑まれたのがむしろありがたかった。もっともっと、こっぴどく罵ってほしかったんだよ、わたしのような悪鬼を……」


 はげしく泣き崩れる曾祖母を、しっかりと抱き締めたのは娘に当たる祖母だった。


「母さん。もういいの。だれも母さんを責めたりしないよ。責められるべきは侵略の事実を開拓の名で隠蔽するため、王道楽土だの五族協和だの空々しい惹句で釣った、国策として満洲へ送り込んでおきながら、戦争に負けたとたん侵攻してくるソ連兵の前にボロ雑巾のように打ち棄て軍人とその家族だけが逃げ出した、この国なんだよ、この日本なんだよ。罪を問われるべきは母さんたちではなく、偉い人たちなんだよ」


 命からがら引き揚げて来てから、厄介者扱いする親戚の勧めで再婚して、生まれたのがSAKURAの母親だったが、心ならず満洲に残してきた長女への悔恨に苛まれつづける曾祖母は、一般の母親のように素直に次女を可愛がることができなかった。

 かと言って、だれにも事実を打ち明けられずに……。


 じつの親子でありながら他人よりも遠い存在になっていた曾祖母と祖母は、曾孫の仲介によって初めて間近に寄り添い、一個の人間同士としてのなみだを共有できた。いまは家族全員が『よだかの星 それから』の刊行を心待ちにしているという。



      *


 

 海のものとも山のものとも知れなかった原稿に、たくさんの熱意が注入され、少しずつ本のかたちが見えてくるにつれ、いつの間にか大きな灯りに成長していた。そこには即物的な喜悦にはおよびもつかない、まさに本物の至福があるように思われる。


 刷り部数を慎重に検討した結果、著者に十冊、曾祖母と家族用に十冊、版元保存用に五冊、スタッフに六冊、市立図書館、県立図書館、国会図書館、そして中国の哈爾浜図書館への寄贈用に計四冊、予備として十五冊、合計五十冊を刷ることになった。


 さきに桃瀬慎司が提案したように、一応の流通の可能性を考えて私家版とはせず、定価を税込千円に設定して、当然ながらバーコードも付けておく。


「ここまでかたまってくると、身内だけの持ち物にしておくのはもったいないような気がしますよね。これだけの作品なんですから普及版としても出版できないかしら」

 素朴な願望をさらっと口にしたのは池内総務部長だった。


 総務という仕事柄、黒百合書房のスタッフのなかでは最も本づくりに遠く、逆に、財務を守る、平たく言えばお金を出し惜しむ立場にある責任者の発言だけに、いつもの厚かましさを珍しく遠慮していた保科編集長が、大急ぎで応援演説をぶち始める。


「それはもう願ったりかなったりですよね。けっこういい線を行くかもしれないし。出版不況と闘う黒百合書房の良心としても、格好のモニュメントになりそうだよ」


 そこに無情な待ったをかけたのが、今度もやはり営業主任の桃瀬慎司だった。

「ちょっと待ってくださいよ。どうやって宣伝費を捻出するんですか。そりゃあね、おれだって矛盾と混沌が渦巻く現代社会への一石のような『よだかの星 それから』を世に出したいのは山々ですけどね、定価千円、書店への卸価七五○円の商品には、新聞広告もチラシも無理ですよね~。どう逆立ちしても元が取れませんから」


「そうだね、広告費は出せないわ。パブリシティに頼るしかないけど、むかしの知り合いは現役を退いているし、いまの若いジャーナリストは本を読まないからね、とくにこの手の文芸書は……涼子社長が言い淀んだとき遠慮がちに手を挙げ、「あのう、マスコミへの売り込みは、わたしにやらせてみていただけませんか?」外資系で働くキャリアウーマンのように名乗りを挙げたのが野花だったので、みんな目を瞠った。


「本気で言ってんの?」

「野花さん、どうしちゃったの?」

「マジで? 伝手つてあんの?」

「ことの重要性、わかってんの?」


 驚きの注視にさらされた野花は緊張で強張った頬を動かし、懸命な説得を試みる。

「わたしにも自信なんてありません。でも、とにかく行動してみないことには一歩も前に進まないではありませんか。もともと出版は、当たるも八卦当たらぬも八卦なんですから、この『よだかの星 それから』を新聞に取り上げてもらうために、わたしの一身など当たって砕けてもいいと思っています」


 一気に言い終えた野花に、まず涼子社長が盛大な拍手を贈ってくれた。

「すばらしいよ、野花さん。短期間によくぞここまで成長してくれました。身体も心も丈夫でないあなたがそこまで思い決めるには、どれほどの葛藤と勇気を必要としたことか。おみごとのひと言に尽きます。いえ、いっそ頼もしくさえあるわ」(#^.^#)


 過分な讃辞を甘んじて受け留めた野花は、さらに揺るぎない決意を固めていた。

 たとえ初恋の人から鬱陶しく思われたとしても、いまさら、どうってことない。


 ――ようし、やってやる!


 関係者の一途な思いを一冊に収斂させたこの『よだかの星 それから』を、さらにはわが愛する黒百合書房を売り込むため、全力で押して押して押しまくってやろう。

 みんなに賞賛された野花の脳裏を四半世紀前の情景がゆっくりとよぎっていった。



 

   5

 

 自律を尊び、生徒の自治に任せる校風は、高校というよりもほぼ大学だった。

 旧制中学が全身で、生徒の八割は男子、女子はいまだにお客さま扱いだった。


 中学でいじめも克服した野花は、当然のごとくその高校への進学を希望したが、

「自由過ぎるあの学校の校風は、おとなしいおまえには合わないんじゃないかなあ」三年生の担任教師が案じたとおり、よく言えば個性的、別の言い方をすれば男女ともに我の強い、自信に満ちあふれた生徒たちが市内外の各中学から集まって来ていて、何事にも控え目な性分の野花は、入学式の当日から野心家揃いの空気に圧倒された。


 部活に新聞部を選んだのは、運動は不得手、かといって他の文化系に興味の持てる分野が見当たらないという消去法からだったが、活動が始まると、すぐに後悔した。


 当然ながら、記事を書く前には素材の取材というアクティブな作業が欠かせない。

 なのに野花は、初見の人に会うというだけで、何日も前から緊張する性格だった。


 次号特集の「各界で活躍するOB・OG訪問」の担当を割り当てられたものの、「どうしよう。図書館で資料を調べるならともかく、取材なんて無理かも」ほとほと困っているのを見兼ね「じゃ、ぼくと組まない? ぼくが取材してきみが執筆する。共同作業でどう?」渡りに船の申し出をしてくれたのが、同学年の櫟原史也だった。


 最初は単なる部活の相棒だったが、何度か一緒に作業をするうちに、互いに男女として意識するようになって、そのうちに登下校も待ち合わせる仲に発展していった。


「こういうの、書いてみたんだけど……」二年生の春休みに入る直前、だれもいなくなった部室で、セピア色の升目があるコクヨの原稿用紙を見せられた。埃っぽい光線のもと、右肩上がりの癖のある青いペン字で、臆面もない恋の詩がつづられていた。

「おれね、詩人になるのが夢なんだ。記念すべき第一作を、愛するきみに捧げるよ」


 腕を伸ばして野花の肩を抱き寄せると、疎らに髭が生えかけた頬を寄せてくる。

 制服のない高校だったのに、櫟原史也はむかしながらの学生服を着用していた。

 きつそうな詰襟のあたりから、青臭いような脂臭いような獣じみた匂いがした。


 ――あれを「付き合っていた」というのだろうか。


 抱き締められ唇を求められ、野花は必死で拒んだ。

 だからといって櫟原がきらいだったわけではない。

 未知の世界に足を踏み入れるのが怖かっただけだ。


「いつか、ときが来るのを待つよ」

 濡れた眸が生々しくよみがえる。


 ときは来なかった。夏休みが明け、受験勉強に専念する三年生に代わって新部長に選ばれた史也は後輩の女子と付き合いはじめ、野花との交流はあっさりと途絶えた。


 ――早春の薄い西日が斜めに差し込み、雑然たる室内を一瞬だけ曝け出した陰気な部室であのとき、だれかが資源物置き場から運んで来た破れかけのソファに腰かけた体脂肪率十パーセント未満の櫟原史也に、もしも自分のすべてを委ねていたら……。


 新聞部の三角関係をめぐる下世話な噂はあっという間に狭い校内を駆けめぐった。

 陰気な顔をうつむけて廊下の隅を歩く野花に、クラスメイトたちも離れて行った。


 行く先々に茨が敷き詰められているとしか思えない学校へ通うのが辛くて、中学のときと同じく引き籠りになりかけたとき、今度も母親の幸乃が全面応援してくれた。

 辛うじて高校を卒業し、県内の短大へ進み、そのまま地元の製薬会社へ就職した。


 それからのち、不条理と思われる出来事に遭遇するたび、あのとき、あんな裏ぎりに遭わなかったら……詮無い思いに苛まれる習慣もここ十年ほどは忘れかけていた。


 だが、いまこそ積年の思いを晴らさせてもらうときだと、しっかりと認識する。

 惨めな野花をよそに順調な高校生活を送った櫟原は、東京の大学から大手新聞社に入社し、各地の支局で記者をつとめたあと、現在は文芸部デスクをしているらしい。


 あのときのツケ、きっちり払ってもらうからね。

 わたしはそれを、えげつなく活用させてもらう。


 相手から言い寄られたという卑怯な理由で、いとも簡単に乗り換えた後輩女子に、野花に贈ったフレーズの一部を書き換えた詩を贈った事実は、頭と腰の軽い後輩女子が自慢げに見せびらかして歩いたので、当時の新聞部の周辺では全員が知っていた。そればかりか、後輩の部員たちに「部長の元カノ」と呼ばせる屈辱まで……。


 ――人ひとりの人生を確実に狂わせたのですから。狂わされた当人が依頼した絵本を貴紙文化欄に紹介するぐらいのこと、してもらっていいですよね? 櫟原デスク。


 野花は脳裡で脅しのシミュレーションをリピートしてみることが癖になった。

 わたしが大切にしている黒百合書房の発展のためなら、なんでもやってやる。


 がむしゃらに、いっしょけんめいに。

 自分の手を汚すことも厭いはしない。




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