第7話 犀川久米路橋人柱異聞


  

   1

 

 カ~ンと音がしそうなほど晴れ上がった翌日の昼下がり――

 六人のスタッフがそろった黒百合書房の事務所は、静かな熱気にあふれていた。


 薄い日が射す南側の出窓に堅い蕾を弛めた桃の小枝が可憐な花を咲かせている。

 いつもながら、季節を先取りして活けてくれる池内総務部長の心尽くしだった。


 かつて十年の歳月を賭して刊行した地方版文学全集がいまごろになって芽を出し、当時の編集委員の熱心な呼びかけにより、壮大な文学館構想がスタートしていた。


 活動の牽引役となる事務局長に名乗りをあげてくれたのが、古書収集家として知られる国立大学人文学部の名誉教授で、いま黒百合書房のスタッフが取り囲んでいるのは教授が古くからの友人である涼子社長に貸してくれた、貴重な蔵書の一冊だった。


 古めかしいが趣のある表紙に、きわめて美麗な筆文字で、書名が表記されている。

 

 ――犀川久米路橋人柱異聞。

 

 といっても印刷物ではない、いわゆる写本(手書きの複製本)である。

 表紙のつぎの頁(現代の扉)に、物語の導入となる前書きが認められている。


 ――飛騨山脈槍ヶ岳に発する梓川は、深志(松本)城下島内にて奈良井川と合流、犀川となり伴走する善光寺街道に縄の如く絡みつつ北方へ流れ下る。生坂橋、山清路橋、御曹司橋等々四十余基の橋の一に、氾濫時の人柱伝説を伝える久米路橋のあり。

 

「少し長いけど、ちょっと読んでみるね、みんなで詳細な情報を共有したいから」

 涼子社長が朗読してくれた写本の内容は、現代風に訳すと、こんな感じだった。


 

 

   2


 

 『犀川久米路橋人柱異聞』

 

                      猿飛来さっぴらい何某なにがし 



 今年もまた、野山に飾りの乏しい季節がやって来ました。

 気まぐれ烏が残した柿の実がひとつ、枯野にぽつんと灯りをともしています。

 この高みから見下ろす久米路橋は、人っ子ひとり、鬼っ子ひとり通りません。


 犀川の此岸と彼岸、現世と異界をつなぐ唯一の糸としてあれほど大切にされてきたのに、いまではだれにも顧みられず、初冬の薄い日を浴びて黙然とたたずむばかり。


 あの橋桁に、生きたままの夫が結わえつけられ……。


 むごい、むごい、むごい。

 あまりに、むご過ぎます。


 夫の恐怖と苦痛を思うだに、わが身が引きちぎられます。

 命に替えても守らなければならなかった愛しい娘よ……。


 茫々と吹き荒れるわたしを、人は鬼と呼びます。

 けれども、ほんとうの鬼は、どちらでしょうか。



      *


 

 夫の喜兵衛とは幼馴染みでした。どちらの家も天へ昇りつめた段々畑にすがりつき暮らしていました。口にするものといえば稗や粟、栃などの雑穀や山菜、木の実など山のものばかり。ほかほかの湯気が匂い立つ白米は、盆や正月だけのご馳走でした。


 小豆が甘く香り立つ小豆まんま(赤飯)は、庄屋さまの家で祝いごとがあったときお茶碗にほんの半分ほどおこぼれにあずかれるだけの、夢のような大ご馳走でした。


 でも、村の家はどこも似たり寄ったりですから、たいして不足にも思いません。

 貧しいは貧しいなりに万物に感謝しながら、つましい生活を営んでいたのです。



      *


 

 日本の屋根といわれる飛騨山脈の峻厳なる山巓のなかでもひときわ鋭く、誇り高くきりりとした二等辺三角形のいただきを天空に突き立てている槍ヶ岳。その山中から湧き出した梓川は、澄みきった翡翠色の水を満々とたたえながら深志(松本)城下の西のはずれまで流れ下ると、木曽方面から流れて来た奈良井川と一本に綯われます。

 

 はるかむかしのこと――


 奥山育ちの二川はそれぞれこの世に川というものは自分だけと思い込んでいたのにここまで流れ来てもうひとつの川とぶつかってしまい、さて、この先、どうしたものやらと途方に暮れておりました。とそこへ雲を突くような大男が通りかかりました。


「なになに、いずれの川も、どっち方面へ流れてゆくべきかを悩み迷うておるとな。人間界ではとなりの畑はよく見えるとか申すようじゃが、はた目には気楽に見えてもさても、川の道というものもこれであんがい難儀なものじゃでのう。ううむ、ならばわしに考えがある。ささ、こうしてくれようぞ」


 図体のわりに小心でせっかちな大男は、言い終わるやいなや、よいしょとばかりに両方の川にまたがり、毛むくじゃらの腕をむんずと伸ばし、二本の川を引っつかんでギュギュギュッと一本に撚り合わせたのです。

 

 こうして梓川と奈良井川が合わさり犀川となった大河がのたうちながら新町あたりまで流れ下ってくると、両岸に直立する山肌に阻まれ、無理やり川幅を削られます。


 どろっと不気味に濁った底になにかとんでもない魔物を棲まわせていそうな川面を直下にする断崖絶壁を文字どおり糸の如く縫って通る難路中の難路は、昔から善光寺街道中でも随一の鬼門として旅人に恐れられていましたし、川幅のもっとも細いくびれをつなぐ久米路橋は、大水のたびに流されるのが宿命のようになっておりました。



      *



 橋が流されるたび、村人に賦役が科せられました。

 一戸当たり男衆女衆一人の割り当てを果たさない家からは、情け容赦なく出不足金が徴収されました。でも、ほんとうは罰金よりもっと怖いものがあったのです。


 ――他人の心。


 狭い地域社会で、できるだけ人の目に立たぬよう、隣人の気持ちを無用に粟立てぬよう神経をつかってきたつもりでも、昨日を今日へ、今日を明日へとつなぐ長い日常の積み重ねのなかで、知らず知らずだれかの心に芽生えていたかも知れない嫉みや恨みが、ある一件をきっかけに一気に増殖する……という憂いもなきにしもあらずで。


 ふだん鳴りを潜めていた悪意が木霊のように共鳴し合って、究極の厳罰である、


 ――村八分。


 に向けて無言の総意が収斂するようなことになれば、閉じられた地域では明日にも生きていけなくなる事実を、囲炉裏端での四方山話が雄弁に物語っておりました。


 なので、長雨や日照りによる凶作のため、野草や木の実で飢えを凌ぐ日々であったとしても、たとえ高熱や腹痛で臥せっていたとしても、あるいはまた、幼児や老親の世話に追われていたとしても、ひとたび橋脚の修理の召集がかかるやいなや、決して隣近所に遅れをとらぬよう、なにをさておいても馳せ参じねばならなかったのです。



      *


 

 十七歳で隣村から嫁いで来たとき、三つ上の夫の両親はすでに他界していました。

 ひとり息子の夫は、庄屋さまから預かった小作のわずかな段々畑を耕し、冬は樵や炭焼き、猟師を手伝ったりなどして、ほそぼそと一家の生計たつきを立てておりました。


 好いて一緒になった夫婦に翌年の秋、抜けるように色白の女の子が授かりました。

 野山に可憐な花を咲かせる小菊にちなんで菊乃と名づけた子どもを、夫もわたしもとても可愛がりました。「立てば這え、這えば歩めの親心」と申しますが、貧しい若夫婦にとって、菊乃の成長こそが明日への希望、生きる糧であったのでございます。

 

 その娘が五歳になった秋のこと――


 例年にない大水が村をおそいました。

 危険を告げる半鐘が鳴りひびいた未明に、あっけなく久米路橋が流されました。

 台風が通過して激しい風雨が治まると、さっそく橋修理の召集がかかりました。


 両岸をつなぐ唯一の橋が通れないと、村の暮らしが成り立ちません。

 久米路橋の修理は最優先で行わなければなりませんが、あいにく夫は山仕事で怪我を負ったばかりでしたので、妻のわたしがふたり分の賦役を担うことになりました。


 ――夫のため、菊乃のために、決してうしろ指をさされてはならない。


 張り詰めた思いが作業の身体を前へ前へと運ばせていたものと見えます。ぐらっと傾いたつぎの瞬間、恐ろしい勢いで渦巻く濁流に足もとから引き込まれていました。



      *


 

 わたしが川の贄になったあと、夫は本当によく菊乃の世話をしてくれました。


 ふいにいなくなった母親を探し求めてむずかったり、はげしく泣きじゃくったり、ときには大人びた忍び泣きで「母ちゃんに会いたいよ」と哀願する娘を無骨な男親が懸命になだめる哀れさは、未練のあまり、一陣の風になって父子の頭上を吹き過ぎるしか術がないわたしをして、もの狂おしく身悶えさせずにはおきませんでした。


 そして、ああ、幼い菊乃の不憫さは……。


 最初のうち「母ちゃん、母ちゃん」と家の内外を探しまわっておりましたが、幼心に何事か悟ったのか、あるときからふっつりとわたしの名を口にしなくなりました。


 ――春になったら、これを履いておんもに出ましょうね。


 母親の形見の赤い鼻緒の草履を抱きしめ、いまやこの世でたったひとりの寄る辺となった父親の慰めに小さなおとがいを仰向ければ、いまだ乳臭さの抜けきれない白い頬で、漆黒の真っ直ぐな切り提髪がサヤサヤと水辺の茅のような音を立てるのです。


 その愛しさ健気さは、風になったわたしをしてヒューヒューと慟哭させました。



      *


 

 つぎの秋がやって来ました。

 青空に浮かんだ鱗雲を蹴散らすように現われた不気味な黒雲から降り始めた雨は、十月に入っても一向にやむ気配が見えず、旱魃で近年にない大凶作にあえぐ村人に、さらなる追い打ちをかけました。


 来る日も来る日も篠つく雨ばかり。

 内も外もそこら中が湿っぽくなって、うかうかしていると、日照りの炎天下、ようやくの思いで収穫した越冬用のわずかな稗や粟にまで青黴が生えてしまいそうです。


 そんな天候のせいか、夏の盛りのころから気怠そうに見えた菊乃は、秋が深まるにつれてますます生気をなくし、ついには床から起き上がれなくなってしまいました。

 亡き母親の分まで娘思いの父親の心配のしようったらありません。


 そのころ、先年の怪我がまだ治りきっていなかった夫は、不自由な足を引きずりながら険しい崖を上ったり下りたりして、下草を刈ったり、木の伐採の手伝いをしたりなどで、どうにかこうにか父子ふたりの暮らしを立てておりました。


 でも、轟々と恐ろしげな音を立てる豪雨に連日連夜降り込められ、至るところから雨漏りがするあばら家に、病気の菊乃をひとりで寝かせてはおけなかったのです。



      *



 日銭稼ぎを失った暮らしは、たちまち追い詰められました。

 頬骨もあらわになった娘と、同じく痩せこけ、目ばかり光らせている夫。

 哀れや哀れ、父ひとり子ひとりの生活は、もはや風前のともしびでした。

 

 そんなある日、思い詰めた顔を上げた夫は、病床の娘にそっと訊ねたのです。

「なあ、菊乃。タンポポが咲いたら母ちゃんが残してくれた赤い鼻緒の草履を履いておんもへ出ようなあ。だが、そのためには、もっと栄養をつけて身体を丈夫にしておかねばならんぞ。菊乃、なにか食べたいものはないかい。父ちゃんが適えてやるぞ」


 しばらく考えていた菊乃は、カサカサに乾いてひび割れた唇を小さく開きました。

「父ちゃん、あたいねえ……母ちゃんと……一緒に……庄屋さまのとこで食べた……小豆まんまが……食べたいな。あのうんまい小豆まんま、もう一度食べてみたいな」


 痩せた上体を屈み込ませて聞いていた夫は、呻くような声を絞り出しました。

「ふむ、小豆まんまとな」古ムシロを睨む夫の目は、炯々けいけいと光っておりました。


 そして、夫はとうとう言い放ったのです。

「よし、父ちゃんに任せておきな。菊乃、母ちゃんと一緒に食べたうんまいうんまい小豆まんま、きっと食べさせてやるから楽しみに待ってろよ。早くよくなるんだぞ」


 周囲の大人の顔色をうかがい、言葉のうらに隠された肚の底を読もうとするなど、自然に大人びていた菊乃は、久しぶりに子どもらしい無邪気な歓声をあげました。


「わあい、父ちゃん、ありがとう。いつか母ちゃんと食べた小豆まんま、どんなにかうんまいだろうね~。父ちゃんもほっぺが落っこちないように気をつけなきゃだね」

 娘の精いっぱいの思いやりにハラハラと大粒の涙を降りこぼす夫でありました。


 とそのとき、夢中になっていた穴掘りに飽いたのか、黒い毛糸玉のようなゴローが縁側の近くに来て、おいらにもというように「クフ~ン」と甘え声を出しました。

 両方の目じりが下がり気味で、いかにも人(犬)の好さそうな仔犬は、夏の夕方、鎮守の森で鳴いているところをたまたま通りかかった夫と娘が連れて帰ったのです。



      *


 

 あくる日のこと――


「父ちゃん、小豆まんまはうんまいね。ほんとにほんとに、ほっぺが落っこちちゃうほどうんまいね。のの(仏)さまになった母ちゃんにも食べさせてやりたいね」


 父親が工面してきたひと握りの糯米と小豆で炊いた小豆まんまを食べた菊乃の頬に内側から照り出すように淡い光が射し始めました。菊乃は奇蹟的に快復したのです。

 

 ですが、いくら聞きわけがいいといっても、そこは子どもです。

 起きられるようになると、おとなしく布団に入っていられるはずがありません。

 折しも、あんなにも凄まじかった豪雨が、だれかが天に梯子をかけて、雨の袋の口をきつく結わえたとでもいうように降りやむと、待ちわびた薄日が射してきました。


 外へ出たくてウズウズしていた菊乃は、もう居ても立ってもいられません。

 後生大事に枕元に飾っておいた母親の形見の赤い鼻緒の草履を大切に履いて土間に降りると、裏庭に出て、葉のない柿の木の下で、楽しそうに手鞠をつき始めました。

 仔犬のゴローも尻尾を振りながら「ワン、ワン」とうれしげにじゃれつきます。

 

 とんとん とんとん ととんがとん

 菊乃の 手鞠は よう弾む 手鞠

 村で 一番 よう弾む 手鞠

 さあさ つきましょ ととんがとん

 

 とんとん とんとん ととんがとん

 あたいは 父ちゃんと 小豆まんま 食べた

 母ちゃんも 一緒に 小豆まんま 食べた

 さあさ つきましょ ととんがとん

 

 そのとき、表を通りかかった若いお役人さんが、幼い歌声に首をかしげました。

「はて、この凶作に小豆まんまを食うたとは、いかな童唄といえど、いささか穏当ではないな。万一よからぬことを企む者が耳にすれば、格好の告げ口にもなりかねぬ」


 不安に鳴り騒ぐ胸を押さえて、一位の生垣から貧しい百姓家を覗いてみれば、冬枯れの柿の木の下で手鞠をついているのは、先年の大水で母親を亡くした小娘でした。


「おお、あの子か。ならば、なおさら唄の文言が解せぬが……。いや、待てよ。母親恋しさのあまり、あの子のなかでは現実と空想が一緒になっているのやも知れぬな。さても水神さまも罪つくりなことをなさったものだ。なんとも不憫なことよのう」


 心やさしい若いお役人は笠の下の目を拭い、そっと立ち去ってゆかれました。



      *


 

 同じころ――


 庄屋さまの家では大騒動が始まっておりました。

「まったくもってけしからん。うちの蔵から糯米と小豆を盗み出したやつがおる」

「あんれまあ、おまえさん、やだよう。だれがいったいそんな大それたことを?」


 決して仲がいいわけではないのに、冷酷きわまりない身勝手さと強欲ぶりにおいて呆れるほど似た者同士の庄屋夫妻は、こういうときばかりはぴたりと息を合わせて、聞こえよがしにわめき合っています。


「だから、それをお役人に調べてもらおうというんじゃねえか。先月来の長雨で旅の衆はこぞって前の宿場に足止めを食らっているから咎人は村のやつに決まっている。ちくしょうめ、恩を仇で返しやがって。とっつかまえたら、ただじゃおかねえぞ」

「ふんとだよう。飼い犬に手を噛まれるとは、このことだわいね~、おまえさん」


「まったく、わしも下手に人が好いばかりにとんだ間抜けっぷりを曝しちまったぜ。いったい全体、だれのおかげで、この村で生きてこられたと思っていやがるんでえ」

「わたしだって小作の女衆にどれほど目をかけてやったか知れないよ、おまえさん」

 鼻息荒く同調した夫婦は、しつこく念を押し合いました。


「この際だから言っておく。金輪際、古着なんぞ、めぐんでやることはねえからな」

「当ったり前さ。甘い顔をしてたらどこまでもつけあがられるからね、おまえさん」


「さんざ面倒をみてやった返礼がこういう仕打ちとは、まったく呆れ返ったものさ。やっぱりあれだわな、水呑み百姓はどこまでも、骨の髄まで水呑みということさ」

「そういうこと、そういうこと」


「よし、わしに考えがある。てめえが働いた罪障の重さを思い知らせてくれるわ」

 仁王立ちになった庄屋さまの猪首で、みみずのような血管がムクムク動きました。


 とそこへ、不運にもやって来たのは、さきほどの若いお役人さんです。


 ――こ、これは……。


 なんとかあの子に嫌疑がかからぬようにする手立てはないものか……弱い立場の人たちが起こした無理からぬ事態まで厳重に取り締まらねばならないお役目が、ときに辛く思われてならないお役人さんにとって、人知れぬ苦悶のときが始まりました。


 一方、欲得と復讐の権化と化した庄屋さま夫妻は、ここを先途と言い募ります。

「申し上げてはなんですが、お役人さまも伊達や酔狂で村内を歩かれているわけでもありますまい。とうに怪しい者の目星はついているはず。わしらのような年寄り夫婦が頭を下げずとも、自ら進んでしょっぴいて来てくださるのが筋でありましょうに」

「ふんとにふんとに。お役目、まことにご苦労さまでございますなあ」


 ――万事休す。


 ちょうどそこへ、血相を変えて駆け込んで来た者がおりました。

「大変だ、大変だ。庄屋さまのお蔵に忍び込んで、糯米と小豆を盗み出した不届き者はおらちのすぐそばにおりやんした。へん、実直者が聞いて呆れますぞ。化けの皮を剥いでみりゃ、とんでもねえインチキ野郎でしたわい。いんや、かりにも同じ村内のこと。おらもこんな告げ口したくはねえんだが、ご恩ある庄屋さまがあんまりお気の毒なもんだで、こうして勇気を振り絞ってやって来た次第でごぜえやすです、はい」


 真実味のない唇からペラペラこぼれ出す軽い言葉とは裏腹に、真っ黒な小鼻をひくつかせた卑しげな手柄顔で注進に及んだのはたれあろう、うちの近所の百姓でした。


 この男はうちの畑から作物を盗んだのですが、都合のつくとき返してくれればいいからと咎めず、いっさいの他言もしなかった夫を却って疎ましく思っていたのです。


 弱みを握られている相手への逆恨みほど、始末に負えぬものはありません。

 目の上のたん瘤を永遠に葬り去る、願ってもない機会と思ったのでしょう。

 告げ口を聞いた庄屋さま夫婦は、鬼の首を取ったように喜び合いました。


 そして、段々畑の案山子のように長い手足を突っ張らせてただ突っ立っているだけの若いお役人さんを睨みつけると、わざとらしくおおげさな褒め言葉を並べました。


「でかしたぞ。よく知らせてくれた。まさに小作人の鑑というものだ。おい、褒美をたっぷり包んでやれや。今後もことあるときはすぐに駆けつけてくれよ。頼んだぞ」

「おまえさん、見上げた男衆じゃないかね。いい男衆にはいい女衆がつくものと、昔から相場が決まっているもんさね。おまえの女房、名はなんといったっけ? ああ、お民か。これからはいっそう目をかけてやるでな。ほれ、子ども衆にもお駄賃だよ」


 告げ口男の卑しい顔の前で、若いお役人さんは無念の眼差しを空に向けています。

 このときすでに、庄屋さまの肚の底には、おぞましい計画が渦巻いていたのです。



      *


 

 残酷なことに、夫は菊乃の目の前で縄をかけられました。

「父ちゃん父ちゃん。いやだあ、父ちゃんを連れて行かないで。母ちゃん、助けて! 菊乃、いい子にするから、どうかお願いだよ。あっ、やめて! 父ちゃん父ちゃん」


 役人の棟梁の命令で手荒に引き立てられる夫にすがりつく幼い娘のすがたは、急を聞いて集まって来た村人たちの胸を、いちように揺すぶらずにはおきませんでした。


 でも、こともあろうに村一番の権力者の蔵に忍び込むという大それた事件を起こした重罪人に、ほんの少しでも気持ちを寄せるなど、絶対に許されないことなのです。

 うっかり庇い立てしたりすれば、即座に自分や家族に災難が及ぶことは明らかですから、だれもがみな石のように堅く口を閉ざし、黙って見守るしかなかったのです。


 捕えられた夫には、いっさいの弁明が許されませんでした。


 ――母親を失った娘のために、ほんのひと握りの糯米と小豆を、少しのあいだ拝借したかったのです。黙って入ったのは本当に申し訳なかったです。なぜきちんとお願いしなかったのか悔やんでも悔やみきれません。いえ、滅相もありません。頬被りを押し通すつもりなど微塵もありません。身を粉にして働いて来年の秋にはお返しするつもりでした。どうかどうか信じてください。どうかどうかお願い申し上げます。


 そんな真実を語ってみても、いまさら、なにになりましょう。

 穏やかな笑みを絶やさず、困っている人がいると「大丈夫ですよ。空にお天道さまが昇ってくださる限り、すべてはよい方に動き出しますから。大切なのは、いまこのときをなんとかして乗りきることです。わずかですがこれでなんとかなりますか?」言葉を尽くして手を差し伸べる。見返りは求めず、無用な他言もいっさいしない。


 そんな夫がいつしか村中の老若男女から慕われるようになったのは、高きから低きに流れる水のように、人情として、しごく自然のなりゆきだったはずでございます。


 なのに、どういう心得ちがいをなさってか、

「たかが小作人の分際で庄屋のわしをさておいて出しゃばるとは、なんと目障りな。人には人の分というものがあることを、きつく思い知らせてやらねばなるまいて」

 ふだんから夫を苦々しく思われていたのです。

 まことに肝っ玉のちっぽけな庄屋さまでした。

 

 折あしく、またしても大水で流された橋の修理の話が持ち上がっておりました。


「川幅が狭い村の宿命とはいえ、こうたびたび架け直さねばならぬとは難儀よのう」

「まったくだ。大事な収穫を放っておいて、何十日も賦役に駆り出されるとは……」


「これじゃあ、いつになっても暮らしが楽になるはずがねえよ」

「たしかに生きるための水を流してくれる川はありがてえ。犀川の恵みに感謝せにゃならんが、正直、こう頻繁に洪水を起こされては足し引き勘定の算盤が合わんわい」

「おおよ。早え話が、わしら百姓にとっちゃあ、わずかな漁獲より治水だでなあ」


 いっときより水嵩が減りはしたもののいまだに濁流が渦巻く犀川の岸に村中の男衆が集まって際限のない愚痴をこぼし合っているとき、時機を待っていたかのように、さりげなくひとりの男が言い出したのです。

「そういやあ、となりの越後の信濃川沿いの村じゃ人柱を立てたっちゅう話だぞ」

 みんな、ぎょっとして男を見ました。


 ――人柱だと……だれが犠牲になるのだ?!


 あまりの恐ろしさに、男衆はいっせいに口を噤んでしまいました。

 しんと静まり返ったなか、言い出しっぺの男はヘラヘラ笑いながらつづけます。

「なに大丈夫さ。水神さまは悪者好きだっつうからな、日頃から行いのいい者はいらねえってよ。それともなにかい、ここにいるだれか、わが身に覚えがあるとでも?」

 テラテラ光る脂顔に卑しげな喜色が浮かんでいます。


「むろん、だれだって手荒なことはしたくねえわさ。だがな、その村じゃあ、人柱を立てて以来、ばったりと橋が流されなくなったっちゅう話らしいで。たったひとり、それも世の中のためにならねえ悪人を贄にするだけで村中が助かる。考えてみりゃあ案外、理に適った方法かも知れねえ。それともなにかい、ほかに良策があるとか?」

 そう詰め寄られても、だれも答えられるわけがありません。


 男は脂ぎった小鼻をピクピクひくつかせながら、冷酷に言い放ちました。

「そうと決まりゃあ善は急げだ。人柱にふさわしいやつ、だれか知らねえかい?」

 そのとき、間髪を入れず答えたのは、先の男に負けず劣らず野卑な訛声でした。

「ちょっといいかい。ここだけの話だが、実はとんでもねえ野郎がいやがってな」

 そうです、さも正義感ぶって夫の名を口にしたのは、あの告げ口男でした。


 かくかくしかじかと事の次第を聞いた村の衆は、当惑気な顔を見合わせました。


 あの人に限ってそんな。

 なにかの間違いだろう。

 だが、もし、万一そうだとしたら、この際、人柱になってもらうしか……。


 ふたりの手下を使って村人の気持ちを操ったのも、気に入らぬ夫に白羽の矢が立つように巧妙に仕組んだのも、すべては庄屋夫妻だったことは言うまでもありません。



      *


 

 哀れや哀れ、菊乃の前で夫は縄をつけられ、久米路橋の袂に引き立てられました。

 野良着は破れて、髪はそそけ立ち、わずかな日時にすっかり面変わりしています。


 付き添っているお役人のひとりは娘の手鞠唄に心を痛めた、あのお若い方でした。

 お役目柄、なんとか毅然とした態度を保つよう努めておられますが、深めに被った笠の下の目は真っ赤に潤み、袴に隠された膝頭は小刻みにふるえておられるのです。


 一方、悪辣なはかりごとに長けた庄屋さまは、巧妙に表に出ようとなさいません。

「こたびのこと、残念ではあるが、村の衆の意見がまとまっている以上、庄屋のわしとしても手の打ちようがないのだ。村民の安全安心を第一義とする村の長としては、この際、小を捨てて大を取らねばならぬ。それが上に立つ者の道というものだろう」


 しらじらとうそぶきながら、肥え太った肚の内でいまや遅しとそのときを待ち望んでいるのが、そこだけ除けたくても取捨選択が許されぬ風の宿命で、汚らしい禿げ頭まで一緒に吹き上げねばならぬわたしには、手に取るように分かってしまうのです。



      *



 もはや夫は観念したものか、静かな眼差しを川面に放っています。

 凛然と潔いその姿に、妻のわたしも誇らしい気持ちになりました。


 とそこへ、一陣のどよめきが巻き起こりました。

 転がるように川岸を走って来るのは、娘の菊乃ではありませんか。気の毒に思った女衆のだれかが連れて来てくれたのか、それとも父親の大事に、自ら一目散に駆けて来たものか……そこには幼い目にはあまりにも残酷すぎる光景が待っておりました。


 着物の裾を絡ませた娘の脚に黒犬のゴローが無心にまとわりついています。

 その光景を見た瞬間、風のわたしは怒りと悲しみに烈しく取り乱しました。


 ぴゅ~っ、ぴゅ~っ!

 父ちゃん、父ちゃん!

 ワン、ワン、ワンッ!


 わたしという風に乗って、菊乃の絶叫と、ゴローの鳴き声が、ちぎれ飛びます。

 びくっと肩をふるわせた夫が蒼白の顔を歪め、もの凄い形相で振り向きました。


「菊乃!」

「父ちゃん!」


 哀れ父と子は、遠く隔てられたままで今生の別れを告げねばなりません。

 集まっていた村の衆は、いっせいにうつむいて、肩をふるわせ合います。


「父ちゃん、ごめんよ。あたいの、あたいのために……」

 喉も裂けよとばかりに菊乃は絶叫をほとばしらせます。


「なにを言うか。父ちゃんはな、父ちゃんは、おまえの父ちゃんになれてほんとうに幸せだったよ。母ちゃんと三人で家族になれたこと、父ちゃんはどんなにか……」

 夢中で立ち上がろうとした夫は、縄に足を取られて倒れてしまいました。

 ああ、その不自由な足を、早くもヒタヒタと濁水が濡らしてゆくのです。


 ――酷い。なんと酷い。


 声にならない声が、あたりの空気をじゅんじゅんと染めていきます。

 それが熱い風に変わろうとしたそのとき、無情の声が放たれました。


「ええい、なにをぐずぐずしておるか。先刻から水神さまが手ぐすねを引いてお待ちかねだ。さっさと埋めてしまえ!」庄屋さまの腰巾着、年輩のお役人の音声でした。


「父ちゃん、いやだあ! 父ちゃんを助けて! うわぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁ」

 垂れこめた分厚い雨雲のした、菊乃の悲鳴が、鋭く、悲しく、ひびきわたります。

 加勢する黒犬のゴローも「ワンッ、ワンッ、ワンッ!」烈しく吠え立てています。


 けれども、夫の身体はズブリズブリと少しずつ橋桁のしたに沈んでゆきました。

 肩が、あごが、鼻が、眉が、ついに頭の先まで沈み、あとには小さな泡が……。

 ついさっきまで息をしていた人間の痕跡は、もはやどこにも見当たらないのです。



      *

 


 その日から、菊乃はふっつりと口を開かない子になりました。

 小さな胸はどんなにかせつなかろうに涙ひとつこぼしません。


 天涯孤独になった菊乃を引き取ってくれたのは、わたしの弟夫婦でした。

 なんの罪もない姪の不幸を不憫がり、じつの子どもたち同様に、それはそれは大切に慈しんでくれたのですが、菊乃の傷ついた心の貝は堅く蓋を閉ざしたきりでした。


 そんな菊乃にぴたりと寄り添う黒い影、それは犬のゴローでした。

 人前では泣かない娘が物かげで小さな頬を濡らしていると、すかさず駆け寄って、ザラザラした温かい舌で丹念に舐めてくれます。病んだ心のままにすっかり足弱になった菊乃が小石につまずくと、急いで駆けつけ、鼻で懸命に助け起こしてくれます。


 心ない親たちの口移しを恥じようともしない村の腕白坊主どもに、

「やあい、やあい、菊乃の父ちゃん、極悪人の人柱。おかげで菊乃は口なしっ子」

 意地わるく囃し立てられると、狼のような牙を剥き果敢に飛びかかっていきます。

 菊乃とゴローはなにをするにも一緒、どこへ行くにも一緒でした。



 人びとの心とは無縁に月日は流れて行きます。

 一瞬たりとも流れを止めぬ犀川のように……。



      *



 久米路橋の、その後ですか?


 夫が生き埋めにされた当初こそ人柱の霊験あらたかと言われておりましたが、なんのことはない、それから二年後には再び大水に流され、無惨にも橋脚から夫の白骨が浮かび上がりました。皮肉なことに真実はいつか明らかになるものでございますね。


 ――人柱の一件は、庄屋さまと取り巻きによる陰謀だった。


 そのことが分かっても、悪辣な企みをした一派と、非道を見過ごした自分たちの間に大した隔たりはなかったこと、なにより、すべてを空からお天道さまがごらんになっていたことが恐ろしくて、村の衆は申し合わせたように口を閉ざしたままでした。


 そのことがわたしには、いかにも無念で、口惜しく思われてならないのです。

 なんとかして、のちの世に、この村で起こった出来事の真実を伝えたい。

 それがわたしの執念になりました。



      *


 

 それからまた淡々とときが流れ、ある穏やかな秋の日のことです。


「やれやれ、今年はどうやら水神さまのごきげんもよさそうだわい」

 収穫の手を止めた村の衆が、折れ曲がった腰を伸ばしかけたとき、


 ――ダーン!


 里山から物騒な音が聞こえました。

 藪をかきわけて出て来たのは、腕自慢で知られる村の猟師でした。

 荒くれた両の手には煙を上げている火縄銃と血だらけの雉が一羽。


 とそこへ、どこから現われたのか、ひとりのきれいな娘が駆け寄って来ました。

「なんと酷いことを。雉よ、おまえも鳴かずにおれば撃たれなかったろうに……」

 やっと聞き取れるか細い声で呟いたのは、涼しげな少女に成長した菊乃でした。


 村の衆はいっせいに驚きの目を瞠りました。

「たまげたな、菊乃。口がきけるようになっただか?」

「しばらく見ねえうちに、えれえ別嬪さんになったな」

「死んだ母ちゃんに、まるきり生き写しじゃねえだか」


 村人には目もくれず、血染めの雉を抱いた菊乃は静かに山へ入って行きました。

 老犬となった黒犬のゴローが、姫君を守る家臣のように粛々と従ってゆきます。



      *



 あのときの川普請で足を踏み外し、信濃川から日本海へ流されたわたしは、やがて一陣の風になって故郷へもどってまいりましたが、人柱にされた夫と、山中深く分け入ったきりの菊乃とゴローの魂魄は、いまだに無念の海をさまよいつづけています。


 ああ、吹きながら上空を見上げれば、白鳥が三羽、仲よく南へ渡ってゆきます。

 灰色の和毛にこげが残る子どもの鳥を真ん中にした父母の白鳥の幸せそうなこと。


 ――おまえの愛が深すぎるから、いつまでも救われないのだ。


 ときどき風の仲間に言われたりしますが、果たしてそうなのか……。    [完] 



 

   3

 

 最後は声を湿らせて物語を読み終えた涼子社長は、スタッフの顔を見まわした。


「どう、すごい熱気じゃない? 正直なところ庄屋夫妻を極悪人と決めつけるあたり現代でいえば水戸黄門的な勧善懲悪の気配なきにしもあらずだけど、書かれた時代が時代だからそれはそれとして……故郷の村で起きた出来事をあまねく知らしめたい、のちの世に伝えたいという執念、すなわち出版の真髄がここに籠められているよね」


 待っていましたとばかりに感想を述べたのは、もっとも若手の桃瀬慎司だった。

「社長のおっしゃるとおりです。江戸時代でも現代でも、人の心にはまったく変わりがないということがよく分かりました。困難の多いわたしたちの仕事の原点が、この写本一冊に凝縮されていると思うと、なにやら武者ぶるいが突き上げてきます」


 ついで挙手したのが引っ込み思案の野花だったので、一同に驚きが走った。


「写本にせよ印刷物にせよ、本という媒体はその時代を生きた人びとの営為や心情を後世に伝えるための唯一無二のツールですね。目に見える事物のみならず、人びとの胸の内に分け入り、語るに語れない苦悩や喜びを引き出し、他者に伝える方法は活字以外にはなかったこと、そしてまた、これからもないこと、鮮明に理解できました」


 若手に遅れをとってはならじと保科編集長、池内総務部長、大谷がつづく。

「連綿と受け継がれてきた出版の灯、おれたちの時代で消すわけにはいかんな」

「ここで放棄してしまったら、出版の先達諸氏に申し訳が立ちませんものねえ」

「たかがデジタルごときに完敗など、恥ずかしくて先人に顔向けできませんよ」


 そのとき、ケージのなかの姫子が、大あくびをしながら「クフ~ン」と鳴いた。

 本人(犬)は散歩の催促のつもりだろうが、なんとも絶妙なタイミングである。


 スタッフ全員の意思を確認できた満足感で頬をうっすら上気させた涼子社長が、

「いつもながらの見事なオチ、姫子姐御のボケっぷりには適いませんです、はい」

 深々と敬礼してみせたので、一同は、どっとばかりに沸いた。




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