第6話 居酒屋「あずさ」にて

 

 

   1

 

 二月下旬の午後七時の松本は、もうすっかり夜だった。


 涼子社長行きつけの居酒屋「あずさ」は、小唄や謡の師匠が看板を掲げる裏通りにある。土蔵造りが軒を連ねる小路の中ほどには観光客も喉を潤せる井戸が設えられているが、ペットボトル持参の地元住民の足も絶えると、早々と店仕舞いした土産品店の前を江戸時代からの血を彷彿させる黒猫がのっそり動きまわっているだけだった。


 絣の小座布団がのる縄椅子に桃瀬慎司と野花を並べて座らせた涼子社長が「ねえ、ここでいいよね。人払いした静かな座敷席って苦手なんだよね、わたし」と言うと、藍暖簾と同じ風合いの作務衣をまとった同年配の女将がにこやかにうなずく。


 客商売の奥義に通じた人らしく、久しぶりという涼子社長に、

「ずいぶんお痩せになったみたいだけど、どうかなさったの?」

 などとは訊ねず、静かに温情の籠もった視線を送っている。


 高原都市の真冬、それも平日とあって、店内に先客は見当たらない。

 涼子社長のオーダーに応えた女将が三人の前に酒器を並べてくれる。

 山奥の湖を思わせる青いガラス器に透明度の高い地酒が七分目ほど。

 涼子社長に「さあ」とうながされて手にするとひんやり冷たかった。


「こんな時節に~? と思うでしょう。まあ、ひと口飲んでみてよ、梓川水系で醸造されたお酒が香り立つから。お燗にすると、ちょっと風合いが違ってくるんだよね」

 軽く乾杯した杯を口もとに持っていくと、おお、涼子社長の言うとおりだった。


「旨い! こんな酒、初めて飲みました」

 となりの桃瀬慎司も快活な声をあげる。


 ふたりの上司に伴われた格好の野花は緊張していたが、飲み慣れない清酒が早くもまわってきたらしく、板前自慢のお通しに箸をつける頃には身体中の凝りが弛み始めていた。お通しは鰹と牛蒡の炊き合わせ。変哲もないメニューがまさに絶品だった。


「社長。まだお身体が快復されていないにも関わらず、今宵はこのような席にわたしたちをお誘いいただきまして、まことにありがとうございます。……でですね~、のっけから恐縮なんですが、酒がまわらないうちにお話しておきたいことがあります」

「遠慮は無用。なんでも忌憚なく言ってちょうだい」


「では、申し上げます……県下随一の老舗の扇谷書店が閉業を決めたそうなんです」

「え、本当? 明治以来の文化を支えてきた殿堂が、とうとうすがたを消すんだね」

 営業先で仕入れてきた桃瀬慎司の情報を、涼子社長も真正面から受け留めている。


「いまさらですが、老舗のみならず、全国各地で出店競争を繰り広げているチェーン店の行く先だって安泰ではありません。いまや日本中の書店がいつどうなってもおかしくない状況に置かれている。なのに賢者揃いのはずの業界人のだれひとりとして、この悲惨な現状から脱け出す手立てを見い出せていない。まさに出版末世ですよね」

 鬱憤を吐き出す桃瀬の舌鋒は、にわかに鋭くなった。

 目の前の涼子社長を責めているようにすら聞こえる。


 ――まさかこの人、酒乱の気あり?


 果たして、涼子社長の落ち窪んだ目に光るものが浮かんでいる。

「ごめんね。わたしが不甲斐ないばかりに、みなさんにもご苦労をかけるよね」


 桃瀬はようやく非礼に気づいたらしい。

「あ、おれが言うのはあくまで概論ですから。第一、大手版元のオエライさんが雁首を並べても思いつけない出版不況の脱出策を、そう言ってはなんですが、超零細の黒百合書房の社長に見つけられるわけがない。そう思いませんか? ふつうに考えて」


 無礼千万な追い打ちをかけながら神妙に頭を掻いてみせるアンバランスな眸の奥に一点の邪悪も潜んでいないことを横目で確かめ、野花はひとまず胸を撫でおろした。


「そうだよね。書店さんや出版社の倒産や閉業の報を耳にするたびに追い詰められ、自分の責任と思い込んでいたわたしは、笑止千万な一人相撲をとっていたのかもね」

「そうですよ。なにかにつけ必要以上の責任を背負い込む癖、この際、あらためてください。あいにく涼子社長の細腕に縋れるような日本の出版界ではありませんから」

「だよね。ふふふふ、ということは鼻持ちならない自信家だったんだよね、わたし」


 口当たりのいい美酒は、潤滑油のような効能を発揮してくれ始めたようだ。


「じつはね、こういう席でもつい愚痴をこぼして相客に窘められたことがあったの」

「ほう、どんなふうに?」

「好きなことを仕事にしているくせに、グダグダと不平を言うのは傲岸不遜だって。その人も本が好きで、活字に携わる仕事に就きかったのに家業を継いだんですって。近くにライバル店がオープンして創業以来の経営難に陥っていたとき、たまたま酒場のカウンターのとなりに座っただけの女客が際限もなく垂れ流す愚痴を聞かされて、我慢がならなくなったみたい」


「で、けんかになったとか?」

「まさか。感謝の気持ちが足りないとか、苦労知らずとか、世間が狭いとか、酒の勢いも手伝って思いきり面罵されたときは、さすがにむっとしたけどね、たしかに指摘のとおりかもしれないと思い直してからは、かえって親しくなったよ」

「さすがです。それでこそ、わたしたちの尊敬するボスです。理性を失った右ストレートをさり気なく交わしたと思う間もなく冷静なボディを入れる。いや、さすがだ」


 百戦錬磨の書店主たちに鍛え上げられた桃瀬慎司は、上げたり下げたり忙しい。


 

 

   2

 

 そのとき、するすると引き戸が開き、ひとりの女客が遠慮がちな顔を覗かせた。

 天地に思いきり引っ張ったようなスレンダーな長身に、真っ白なダウンコート。

 背中まである黒髪は、取りつくしまもないほど、きっちりとまとめられている。


 人目を惹かずにおかない超美貌だが、純和風の卵形の顔に化粧っ気はなかった。

 女将の案内で静かに歩を進めると、長い脚の周囲に白いコートがふわふわ遊ぶ。

 清らかな艶姿は、照明を抑えた薄暗い店内に大輪の牡丹の花が咲き出たようだ。


 先客の黒一点の桃瀬慎司を意識してか、若干ぎこちない動作で脱いだコートを壁のフックに羽衣のように掛けた女客は、黒百合書房と同じカウンター席の端に座った。


 完璧な美は嫉妬の対象外なのか、騒めきがちな野花の胸は意外なほど平静だった。

 むしろ、初見の女客に好感めいた思いを抱き、地元の住人ではなさそうなのに真冬の居酒屋にひとりで入るとはどういう素性の女性なのか素朴な好奇心が湧いてくる。


 一方、となりの涼子社長と桃瀬慎司は仕事の話を再開している。


「近頃の若い世代が本と呼ぶのは単行本や文庫本ではなく、雑誌なんですってね」

「本に縁遠い人たちにとっては、紙に印刷されていれば、みんな同じなんですよ」

「そういう話を聞くとね、なんだかむかしにもどったみたいな気がするよ」

「むかしって、いつごろのことですか?」

「いまから半世紀近く前の昭和五十年代後半。黒百合書房を創業した当時はバブル期の余韻がまだ残っていてね、紙に印刷されたものならなんでも飛ぶように売れたんだよね。もっともあのころは、雑誌や冊子の類を本とは呼ばなかったけどね」

「活字全盛時代と尾羽打ち枯らした現在と、似て非なる現象とは皮肉なものですね」


 両者とも気をつかってくれ、折々に野花にも同意を求めてくる。

「律儀な校正職人にして、いまどき稀有な活字中毒患者さんとしてはどう思う?」

「ファッション誌を本と呼ぶなんて、正統な読書人としては許せないよね~」


 せっかくだが、野花は女客と女将の話のほうが気になっている。


「あら、このお通しの味、懐かしいです」

「以前にも見えましたっけ、お客さん?」

「ええ、若いころに一度だけ」

「あらやだ、いまだってお若いですよ」

「でも、もうアラフォーなんです、わたし」

「四十なんてまだまだ。わたしなんて、どっちかというとアラコキに近いですから」


 相性がいいとはこういうものだろう。

 他愛ない会話が気持ちよく弾んでいる。

 女将の聞き上手に導かれ、女客は問わず語りに話し出した。


「今日、久しぶりにこの街の空を仰いで、みごとなウルトラマリンブルーに圧倒されちゃいました。いままでいろいろな空を見てきたけど、この街の空には適わないなってね。その青い海の彼方に、とつぜん白い点が湧き出たんですよね。まるでチョークを打ちつけたみたいに。グングン近付いてきたところを見たら三羽の鳥でした。小さい鳥を真ん中にしてきれいな川の字をつくり、六本の長い脚をマッチ棒みたいに並べてね、コーコーコーと鳴きながら北のほうへ飛んで行きました。やわらかそうなお腹の質感まで肉眼ではっきり感じ取れたので、あたし、ちょっと感動しちゃいました」


「それはきっと、諏訪湖から飛んできた白鳥ね」

「え、そんなに遠くから?」

「人間には遠く思えても、鳥にはそれこそ、ふふ、ひとっ飛びでしょう」

 女将の駄洒落に、女客は鳥のように華奢な首をひょいと竦めてみせる。


「給餌のボランティアをされているお客さんにうかがったんですけど、白鳥の家族はとても仲がよくて、いつも一緒に行動するんですって」

「そうなんですか。うらやましいな」

「今日、お客さんが見た家族は、近くの白鳥湖へ向かったのね。湖といっても……」

「本物の湖ではなく、白鳥が集まる犀川の中洲付近を、そう呼んでいるんですよね」

「あら、ご存知でしたか。でも、どうですか? ちょっといいネーミングでしょう」

「理屈っぽい風土のわりにいい加減というか、ゆる~い感じのところがいいですね」

 ベクトルが同じ方向に向いている両名は、アイコンタクトで微笑み合う。


「これもお客さんからの受け売りなんですけどね、毎秋、渡り鳥は四千キロもの長旅をして日本へ渡って来るんですって。なのに春になると再びシベリアへ帰って行く。北から南、南から北へ行ったり来たりして一生を終えるんですって」

「なんのために、そんな苦労を?」

 女客は即座にレスポンスする。

 うんうん、野花も知りたいよ。


「そう問われても、渡り鳥たち自身にも答えられないでしょうね。渡りのメカニズムはいまだに解明されておらず、わかっているのは何万年も前からの自然の摂理ということだけなんですって。諏訪湖や白鳥湖にも棲息しているカモ類やミコアイサのような留鳥とは同じ鳥でもずいぶん境遇が異なるのね。神さまもどういうつもりで……」


 言いかけたまま厨房の気配を察した女将は、影のような摺り足で移動する。

 作務衣の袖をすっと伸ばすと、涼子社長の前に木曽漆器の塗り椀がぴたと治まる。


 古風な書き文字がゆかしい、品書き代わりのグリーンボードによると、和歌山産の海老のすり身と地元産の三つ葉の吸い物で、吸い口に散らした柚子は愛媛産とある。

 一点の無駄もない所作のまま、女将は桃瀬、野花、女客の順で配膳をつづける。


 長い睫毛を伏せ加減にした女客は、自身をぽつぽつと語り始めた。

「あたし……あのとき以来なんですよね、この街へ帰って来たの」

「ずっと海外にいらっしたの? お若いのにご活躍ね。そこへ行くと、わたしなんか蝙蝠みたいに古い軒先にへばりつくだけ、外国どころか国内だって行ったことがないんですから、アンモナイトの化石みたいでしょう。世界を舞台にするキャリアウーマンと、こんな田舎町の雇われ女将とでは、拠って来たるところからして違うのよね」


「いえ、そんな。でも……できればあたしも、ずっとこの街で暮らしたかったな」

「あら、そうだったの。ごめんなさいね。これだからオバサンは……」

「いいんです。腹芸っていうんですか? 日本人のああいうの、苦手なほうなので」


 嫋々たる見かけを裏切る気風のよさに共鳴したらしい女将は、いそいそ酒を注ぐ。


「あの、井戸掘りってご存知ですか? そうです、そのむかし、加賀千代女が朝顔に釣瓶をとられたという、あの井戸を掘るお手伝いをしているんですよね、あたし」

「まあ、そんな細い身体で?」

「こう見えてけっこう力持ちなんですよ。でも、NGOですから、いつまで経っても身分は不安定なままです。主にカンボジア。よくご存知ですね。ああ、本がお好きなうえ全国紙と地元紙を購読されている。どおりでお話のセンスがいいと思いました」

「やだ、お客さん。煽ててもなにも出やしませんからね」


 意外な方向から褒められた女将は、若やいだ顔をうれしそうに広げてみせる。


「では、いっとき井戸掘りがなぜかブームになって、日本からの観光ツアーにも組み入れられたこともご存知でしょう」

「そういえば、今日の日を懸命に生きる現地の人たちの生活と、物見遊山的な観光のミスマッチに、いささか違和感を覚えたような……」

「ですよね。ブランド品の買い漁りやグルメ三昧など贅沢旅行だけでは退屈だから、ちょっと毛色の変わったアクセントとして、発展途上国の井戸掘り体験コースを添えてみたら人気が出そうだというんですから、見方によってはずいぶんな話ですよね」


 酒がまわってきたのか、女客の口説はにわかに熱を帯びてくる。


「家族総出で日に何度でも川から水を運び上げなければ生活していかれない人たちのために井戸を掘り、いつでもふんだんに使える水を提供することは、たくさんの人生を一変させるほど大きな意味を持っていると、あたし、いまでも思っています」

「はい、テレビで観ましたよ、ポンプからほとばしる水に歓声をあげる子どもたち」

「ええ、あれはあたしたちにとっても、苦労が報われる最高の瞬間なんですよね~」


 語る人と聞く人。

 親子ほどの年齢差が逆転し、いつの間にか女将のほうが押され気味になっている。

 真冬の城下町の居酒屋で繰り広げられる光景が、酒席に縁のない野花には新鮮だ。


「でもね、させていただくからやってあげるへと、知らず知らずに変化していたあたしたちのスタンスが、あるとき、とんでもない事件を引き起こしてしまったんです」


 ――えっ、どんな?


 野花も耳を尖らせる。


「その地域の地層にはもともと高濃度の砒素が含まれていたのに、井戸掘りの基本中の基本である地質調査を怠ったため、大量の中毒患者を発生させてしまったんです」

「どうしてそんな……」

「根っこに横たわっているのは、NGO間の競争意識なんですよね。こういう場合にありがちかもしれませんが、時間の経過とともに初心といいますか、本来の目的意識が薄らぎ、質より量とばかりに掘った井戸の数ばかり競うようになっていたんです」

「善意のかげに伏兵あり、というわけね」


 女客は紅の痕跡がない清潔な唇から、ふうっと細い息を吐き出す。


「これもまた一方的な押し付けだったことにこうして距離を置いてみて初めて気づくのですけど、飢えている人たちに直接の食糧としての魚を提供するのではなく、魚の獲り方から教えるべきだというのが、NGOの基本的な姿勢なんですよね。そのこと自体は間違っていなかったとしても、それより前に、魚の棲む川や海の安全を確認せねばならなかった。その掟を破ったために、間接的な殺人という取り返しのつかない罪障を負うことになってしまったんですよね、日本という外国から、わざわざ善意の押し付けに行ったあたしたちは」


「でも、現地のためを思ってのことなんでしょう」

「いえ、志がどうあれ、結果がすべてですから」

 通り一遍の慰めに、女客は微塵もなびかない。


「でも、責任者でもない若い人が、そこまで自分を責めなくてもいいのでは?」

「いえ、これはまぎれもなく、あたしたち隊員ひとりひとりの責任なんです。ふたつとない無辜の命をむざむざと傷つけて。うっかりしていたなんて、言い訳にもなにもなりはしません」ギリッと奥歯を噛む音が、野花の席まで聞こえてきそうだった。

 


      *



 そのとき、厨房から、かすかな気配がした。

 軽く会釈した女将は、小柄な肢体を素早く移動させる。


 向付は富山産の烏賊のお造りで、透き通った身の下に下敷の青葉が透けて見える。

 涼子社長、桃瀬慎司、野花、女客の順にそれぞれの小盆に食の芸術が並べられる。

 常連の涼子社長を放っておくのも、身内の話に口を挟まない女将のマナーだろう。


「あら、すみません、勝手にしゃべって、勝手に興奮してしまって」

「いいのよ。お客さん、真面目そうだから、自分で自分が許せないのね」

「そうなんです、なんて愚かなことに加担したんだろうと……どんな事情があろうが自分の意思で行った行動には一切の弁解無用というのが、あたしの考え方なんです」

「お若いのにご立派ね」

「立派なんかじゃありません。修正液で塗りつぶしてしまいたいような過去ばかり」

「お客さんに限らず、だれだってそうなんじゃないかしら」


 しんみりしたところで、ふたりの話はふと途切れた。


 

 

   3

 

 気づけば、涼子社長と桃瀬慎司の話題は、本を読まない世相の弊害に移っていた。


「おれ、IC関連で働く友人に言われたことがあるんです。写真や映像だって立派な文化だろう、いつまでも本にこだわっているのは出版屋の驕りだろうってね」

「それは手きびしいね。でも、よく聞く意見ではあるよね。活字を読んで想像力を働かせじっくり考える。そんなまどろっこしいツールではなく、一目瞭然のテレビやネットのほうが手っ取り早いし、短い時間に大量の情報が入手でき、断然お得だって」


「しかし、そういう易きに流れてよしとする考え方が、たとえられたロボットが当惑するほど無神経で残虐なロボット人間を量産していることは、枚挙に暇がない昨今の弱者虐めの例が明白に物語っているんですけどね」

「まったくね。それから出版屋という蔑称だけどね、わたしはホンヤ風情と吐き捨てられたことがあるよ。当社が多大なリスクのすべてを背負う企画の編集会議で版元としての率直な意見を述べたら『ホンヤ風情がそんなに偉いのか』って詰め寄られた、執筆者のひとりからね」


 ――まあ、ひどい。お金を出さずに口だけ出すエゴ人間の典型のような話だわ。


 涼子社長の屈辱=わが屈辱とする野花である。

 その憤慨をとなりの桃瀬慎司が代弁してくれた。


「自分の書いたものは売れると過剰な自信を抱いているのが大方の執筆者ですから。当たるも八卦当たらぬも八卦はモノのたとえ。大手とちがい、ごくたまに当たっても大した利益にならないのに、ひとたび転べば家が何軒も建つほどの金が逃げて行く。丁半博打が宿命の版元と、いわば他人の褌で相撲を取る執筆者は真逆ですからね」

「とくに営業担当者は、一方通行の虚しい思い、いやというほど味わっているよね」



      *


 

 一木造りのカウンターの端では、女将を聴き手にした女客の話が再開していた。


「ご存知ですか、いわゆる人道支援にも裏があるということ。たとえば国連を通じてアフリカ諸国などに送られて行く遺伝子組み換え小麦粉。あれは家畜用に栽培されたものなんです。自国民は決して口にしないものを、発展途上国の有色人種には平気で食べさせる。それが人道支援の実態なんですよね」

「まあ、ひどい」

「ですよね、あたしも信じられませんでした」


 語り手と聴き手が同時にため息をつく。


「国連で働いている友人がいるんですけど、猛勉をして熾烈な競争を勝ち抜き、誇りあるポジションを確保したはずの彼も、近頃は会うたびに元気がなくなっています」

「まあ、なぜ?」

「これを言ったら身も蓋もなくなるのでしょうけれど、だれしも結局は人の子ということでしょうか。組織で箔をつけて自国へもどり、少しでもランクの高いポジションにつきたいというのが、出身国を問わず、大方の国連職員の本音なんだそうです」

「何事もきれいごとばかりではないとはいえ、ずいぶんとがっかりな話よねえ」


「それに、当初イメージしていた難民支援の機会など滅多に与えてもらえず、来る日も来る日も東京と変わらない大都会の高層ビルで、ボスから命じられた事務作業に従事するだけの単調な毎日だそうです。これならアフリカにいる意味がないって……」

「わたしたちが想像するすがたとは、まったくちがうのね」

「それやらこれやら、自主的に道を選んだつもりのあたしたち、じつは国際社会を操る巨大な歯車に利用されているだけではないかってそんな気がしてならないんです」

 女将は黙って女客に酒器を差し出した。

 

 一方、涼子社長と桃瀬慎司の話題は、ほぼ伝説化している事件に移っている。


「あのときは本当に腹立たしかったわ」

「当時、おれが在籍していたら、不道徳な著者や版元に乗り込んでいましたけどね」

「現在の出版界では、一冊の単行本が複数の版元の文庫になるのが当たり前になっているけど、こと黒百合書房がオリジナルに企画したあの作品に限ってはそんな暗黙裡の了解は通用しない、いえ、通用させてはいけない、究極の反モラルだったからね」

「みなさん、勘違いされるんでしょうね、すべては自分の実力だと」


 いまから二十数年前のこと。

 かつて市内に棲んでいた一匹の犬をめぐる逸話を聞いた涼子社長はピンと来た。


 ――地元だけでなく、全国の動物好き読者にもアピールできるにちがいない。


 さっそく当時の関係者を探し出して執筆を依頼し、同時に、事実のみを淡々と紹介するノンフィクションにこだわった企画趣旨に添い書店の平台に並べてもインパクトのある書名を考えた。


 刊行直後、旧知のジャーナリストが全国紙に読み物風のコラムを書いてくれた。

 涼子社長の予想はズバリ的中し、注文の電話やファックス、ハガキが殺到した。


 一般読者に混じって映画プロデューサーからの連絡もあり(のち実際に映画化)、本業の手がつかないほどの反響に喜んでいると、思いもしなかった伏兵が現われた。

 涼子社長に内緒で執筆者が勝手に東京の版元に同書の改訂版を打診していたのだ。


 見上げるようなガタイにいかにも高級そうな外国製スーツをまとった素人離れした社長に乗り込まれ、恫喝同然の申し入れを受けても(東京から乗って来たタクシーを黒百合書房に横付けし、交渉が決裂するまで二時間余り待たせておいたというリッチぶりだったらしい)、涼子社長は、がんとして版権譲渡に応じようとしなかった。


 

 

   4

 

 何事か言い淀んでいた女客がためらいがちに口を開く。


「ママさん。この街はね、あたしにとって、帰りたいけど帰れない街なんです」

 そこで詰まってしまい、あとは言葉にならない。

 女将はグラスにミネラルウオーターを満たし、女客に渡した。


「すみません、馴れ馴れしく。ママさんのことなんだか他人のような気がしなくて」

「ええ、ええ、おかあさんでもおばあちゃんでも、好きなように呼んでちょうだい」

「おかあさん……か。いい響きだな」

「もうひとり、娘ができたみたい」

「あら、おかあさん、娘さんがいらっしゃるの、息子さんも? 絵に描いたように恵まれた人生じゃないですか。幸せだろうな、こういうおかあさんの子どもだったら」

「ブブー。こう見えてわたし、めっぽう外面がいいのよ。お店で愛想を振りまく分、私生活は鬼胡桃みたいに頑固で偏屈だから、家族にすれば相当に鬱陶しいはずよ」


 ――あらら。一見さんにあんなことを言って。


 ふたりの仲睦まじさが野花には、ほんの少し妬ましい。


「頑固でも偏屈でも鬱陶しくっても、なんでもいいんですよ。だって、おかあさんの愛って、すごく深いんですもの。他人のあたしにすらこうなんですから、実の子どもさんたちには相当なはず。どうですか、当たっているでしょう」

「いたた、図星。そのことではね、とても人さまには言えないような失敗をいろいろと仕出かしてきたのよ」

「失敗って、どんな?」

「まあまあ、わたしのことなんかどうでもいいから……それよりあなたのおかあさんって、どんな方? きっとあなたに似た、すてきな女性なんでしょうね」


 ウィークポイントだったのだろう。

 レモンを絞ったように酸っぱい空気が立ち上る。

 つい先刻までの上機嫌が嘘のように、血の気が失せた細面を俯けた女客はむっつり黙り込んで、お造りのツマの大根と人参を、箸で一本ずつ並べるという緻密な作業に没頭し始める。


 しばらくして、白と橙の千切りを巧みに整理し終えた蒼白の顔が上がる。表面張力いっぱいに盛り上がったふたつの黒い湖から、透明なビーズがパラパラ砕け散った。

 女将が差し出した熱いおしぼりを目蓋に押し当てた女客は、掠れ声を絞り出す。


「あたしね、すごく苦手だったんですよ、集団生活っていうの。幼稚園のころから、ヤモリのように壁に張り付いてばかりいました。震えが止まらないんですよね、元気のいい子たちが勢いよく走りまわるのがビンビン身体に響いて、もう怖くて怖くて」


 女将は黙々と布巾でグラスを磨いている。


「だから、ある日、夕方になっても帰れる家がなくなったと聞かされたとき、とても混乱しました。父も母も知らない間に忽然と消えてしまって、だれひとり頼れる人がいなくて、一瞬一瞬が針で突きまわされるような緊張の連続でね、身を隠せる場所がどこにも見つからないんです。どんなになだめすかしても泣き続ける三歳児に、周囲の大人たちもさぞや困惑したでしょうね」


 相変わらず女将は口を挟まない。


「そんなある日、泣き疲れた顔を上げたら、目の前にひとりの男の子が立っていたんです。ブカブカの半ズボンから、細い脚がにゅっと突き出ていました。男の子はあたしを園庭の桜の木の下に連れて行くと地面を指差しました。木漏れ日がつくる斑模様のなかたくさんの蟻が忙しそうに右往左往していました。それを見たらあたし、なんだかおかしくなってしまったんです。そうしたら、男の子も、にこっと笑いました」


 熱くなった目頭を隠すため、野花は欲しくもない杯を口に運ぶ。


「それからのあたしはなにをするにもお兄ちゃんと一緒でした。全員がそろって万年ビタミン愛欠乏症候群ゆえ、そういうことにはとりわけ敏感な仲間たちに野卑な言葉で冷やかされても、いつもふたりでいるのはよくないと職員に諭されても、ふだんは従順な子が頑固に従わないので、だれもなにも言わなくなりました。こうしてお兄ちゃんはこの世でたったひとりのあたしの家族、絶対的な味方になってくれたんです」


 夕立ちのあとのように濡れそぼった女客の眸は、恍惚とした歓喜を湛えている。

 妖しいまでの美しさに野花が陶然としていると、厨房から気配が伝わってきた。

 


 

   5

 

 手練れの板前によって寸分のくるいもない串をぴしりと打たれ、北アルプスに源を発する清流で揉まれた俊敏な身体を美しくのけ反らせたシナノユキマスが、松代焼の皿の上で、どうだと言わんばかりの存在感を放っている。


「うわあ、美味しそう」

 女客は素直な歓声をあげた。


「このあと、石焼ステーキをご用意できますけど」

 女将の問いに、女客はごめんなさいとあやまった。

「あたし、お肉はちょっとアレなので。せっかくですが、ごはんやデザートも」

「ふふふふ、だと思っていましたよ、そこを入って来られたときからね」


 細い指先で器用に魚をほぐしながら、女客は回想にもどる。


「大好きなお兄ちゃんがいつもそばにいてくれたおかげであたし、両親の交通事故死によって収容された児童養護施設でも、大したさびしさを感じずに済んだんです」

「よかったわね、小さいお嬢ちゃんを全力でかばってくれる人がいて」


「気にはなりましたよ、遠足のお弁当とか。運動会や文化祭でにぎやかな保護者席を見るたびに、あたしには喜んでくれるおかあさんもおとうさんもいないんだってね。辛いことは共有してもらえなくても意外に平気なんですけど、うれしいことを喜んでくれる身内がいない張り合いのなさって、分かっていただけますか? おかあさん」


 女将は傷ましそうにうなずいている。


「リレーの選手に選ばれたとき、作文コンクールや児童会のボランティア活動で表彰されたとき、あたし、いつも真っ先にお兄ちゃんに報告しました。お兄ちゃんに認められたい、よくやったぞと褒められたい、その一心でがんばれたんです」


「そうよね。だれしもだれかに褒めてもらいたくてがんばるんだものね。賞状もうれしいけど、もっとうれしいのは、一緒に喜んでくれる人の気持ちだものね。かく言うオバサンだって頭を撫でてほしいとき、この歳でいまだにあるもの。ましてや身寄りのないお子さんは……」



      *


 

 涼子社長と桃瀬慎司は、黒百合書房のむかし語りに熱中している。


「あのときは本当に度肝を抜かれたよね、なんせ、いきなりの強制捜査だったから。裁判所の令状なるもの、生まれて初めて見たよ」

「まったくひどい話ですよね。当時まだ在籍していなかったおれが言うのもなんなんですけど、もしおれがその現場にいたら、その、なにさんでしたっけ? 勇気ある先輩社員と一緒に身を挺して会社を守り、公務執行妨害に問われていたと思いますよ」


 これまた伝説となっている、関西の某県警による家宅捜索の一件だろう。


 いまから十数年前のこと――

 黒百合書房の書籍から無断転載した冊子をべらぼうな値段で買えと脅されている。

 某市の行政の二トップから相談された警察が著作権侵害で告訴するように連絡してきたが、怖いからと涼子社長が断りつづけていると、ある朝とつぜん、予告もなしに五人の刑事が乗り込んで来て、黄色い現場保存テープを張って事務所を封鎖した。


 驚いた営業社員が納期が迫っているパンフレットを印刷中の簡易印刷機の前に両手を広げて立ちはだかると、刑事たちに「公務執行妨害で逮捕するぞ」と脅された。

 結局、顧問弁護士の立ち合いのもと、警察が用意した訴状に署名捺印させられた。


「あのとき証拠物件として押収された数十冊の刊行物、事件が解決してから宅配便で返送されてきたんだけど、こちらは被害者のはずなのに、何の証拠だったのかねえ。考えてみれば、おかしな話だよね」

「いやいや、社長、ことさら考えてみなくても十分にへんですって。女性社長と甘く見られたんじゃないですか? なにも唯々諾々としたがう必要はなかったんですよ」


「だって想像してみてよ。テレビドラマみたいに白手袋をした刑事たちがドヤドヤと乗り込んで来て、有無を言わせず事務所を封鎖したと思ったらガサ入れっていうの? 間髪を入れずに始めたんだよね。刑事だかその筋だかわからないような強面が五人も雁首そろえてだよ。あの物々しい雰囲気のなかで、とてもいやとは言えなかったよ」

「口惜しいなあ。おれがいたら、絶対に阻止していたのに」


 うん、桃瀬なら公務執行妨害も厭わず、断固、会社と涼子社長を守ったろう。

 野花もそう思う。


 

 

   6

 

 気づかないほどの音量で流れていた有線のジャズピアノが、ふいに高まった。

 女客の率直な告白に触発されたのか、女将の口調は少し湿り気を帯びている。


「オバサンの愚痴も聞いてもらっていい? 高校教師だった夫とこの街にやって来たのは、現代史年表の項目で確認したいほどむかしのこと。それからまあ人並みにいろいろあってね、夫は定年を待たず、教え子の女生徒とふたりでこの街を去ったの」


 今度は女客が黙り込む番だった。


「正直に言うとね、わたし、子どもには一所懸命だったけど、夫にはほとんど……。だから、その娘さんも在学中からうちに何度も遊びに来ていたのに、まるで気づかなかった。それどころか、すべての事実が曝け出されたときも、自分でも不思議なほど冷静でいられたの。嫉妬の感情が稀薄だったのが最大の欠点だったんでしょうね」

「おかあさんもご苦労なさったのね」


「その後? なにもなかったわけじゃないけど、取り立ててご披露するほど色っぽいエピソードはひとつも生まれなかったこと、ご覧の現状が物語っているわね。やがて子どもたちも巣立ってね、気づいたらぽつんと姥捨山に残されていたっていうわけ」


 ――いやいや、同性のわたしでも惚れぼれするようなオトコマエの美貌を世の男が放っておくわけないでしょう。引く手数多でも女将がなびかなかっただけでしょう。


 客商売なのに素顔に近い女将の潔さを、野花はあらためて好ましく観察する。


「この街が好きだし、こうして元気に働かせてもらっているし、現在の境遇に不満はないの。でも、ふとしたときに思ったりするわけよ、自分はどうなるんだろうって。それにさ、世の中の人たちは普通を幸福の尺度にしたがるじゃない? 十人十色の幸福があって然るべきなのに、共通項の磁石でくっつきたがる普通がグループ化し、数にモノ言わせての上から目線で『異端者はそっちへ行け』って威嚇してくるのよね」


 女客は童女のようにこくんとうなずく。細い鼻梁がうっすら赤らんでいる。

 それだけで十分に慰められたらしい女将は、ここでガラッと口調を変えた。


「わたしとしたことが辛気くさいことばかり言ってごめんなさいね。最近はね、一日一笑を心がけているの。笑いは最も有効な魔除けの手段だし、第一、タダだしね」

「たしかに。『空には雲、物には影、人には蔭があってこそ』と読んだ記憶がありますが、お話をお聞きして納得です。高校の同級生が壮行会を開いてくれた十年前に初めてこのお店に来たとき、なぜか女将さんに惹かれた理由が、これでわかりました」


 カウンターの背後に並ぶ酒瓶を目でなぞりながら、女客は静かに語りつづける。


「ある日とつぜん、お兄ちゃんが星になったと知らされたとき、あたし、どうすればいいか分からなかった。なぜひとりで旅立ったの? この辛い地球にあたしを置き去りにして、自分だけ星になるなんて狡いと、苦しんで恨んで泣いてばかりいました」


 女将はせっせと布巾でコップを磨いている。


「そんなある夜、声が聞こえたんですよ、『勝手なことをしてごめんな。弱いおれでごめん。おまえはおれの分まで生き、弱い人たちの力になる人間になってくれ』と。それで気づいたんです。お兄ちゃんはあたしを見捨てたわけじゃない。これからは絶対的な味方として、あたしのなかに、ずうっといてくれるんだ、お兄ちゃんはあたしの内臓になったんだって。それからです、英語や世界史の猛勉強を始めたのは……」



      *


 

 かたや、涼子社長と桃瀬慎司の話は、出版界の活性化策に発展している。


「本が売れなくなった原因のひとつが現代版公共貸し本屋と化した図書館にあることは否めない事実ですよね。われわれ営業も書店を通して買ってくれる図書館に一応の感謝はしますが、その分、一般のお客さんが何十倍、何百倍も減ることはたしかなんですから、鶏と卵みたいに矛盾に満ちたシステムに葛藤を深めるばかりですよね」


「ジム友のひとりに本好きを自称する女性がいるんだけど、もっぱら図書館派でね、本はただで借りるものと頭から思い込んでるの。お金を出して買おうという気はサラサラない。で、わたしにも、あなたはどこの図書館で借りるのかって訊くのよね」

「出版社の社長に、ですか?」


「わたし、社外では氏素性を明かさないから。ベストセラーにしか興味がない彼女にとっての読書は、グルメやショッピングと同列の娯楽だから、ラインマーカーを引いたり付箋をつけたりする読書の方法があるなど、思いも及ばないでしょうね」

「まんざら読まないより増しというところでしょうか。それにしても、いくら要望があるからといって、同じ本を大量に購入して無料で貸し付ける昨今の図書館のあり方には疑義を呈さざるを得ません。庶民に手が届かない本を廉価に提供した江戸時代の貸し本屋に倣い、いっそレンタル料金を取ったらどうでしょうか、公共図書館でも」


「あははは。無料の恩恵に馴れた市民から、すさまじい反撃を食らうでしょうね」

「本来なら業界の一翼を担うべき図書館が諸悪の根源に成り下がった現状をなんとかしなければ先は見えませんよ。むろん、それだけで斜陽産業を立て直せるわけではありません。読書は習慣ですから、その習慣を放棄した親に育てられた子どもが本好きになる見込みはゼロに近い。とすると、この先の出版界はもっとジリ貧になる……」


 涼子社長と桃瀬慎司は、ほぼ同時に深いため息をついた。

 


 

   7

 

 一方、野花の耳は別の方向にも忙しく動く。


「お兄ちゃんがあたしに残してくれた最高の形見って、分かりますか、おかあさん。それは本の世界の楽しさなんです。お兄ちゃんは宮沢賢治が好きでしたから、あたしも自然に親しむようになりました。施設の図書室にあった『よだかの星』とか『風の又三郎』とか『注文の多い料理店』とか何度も読みました。悲しい場面には互いの身の上をオーバーラップさせて。あの温かな涙にどれだけ慰められたかわかりません」


「あら、偶然ね。こう見えて、わたしも長年の賢治ファンなの。イチオシはなんといっても代表作の『銀河鉄道の夜』だけど、超短編の『やまなし』も捨てがたいわね」

「あ、それ、よく覚えています、『小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です』で始まる、詩みたいに美しい小さな物語ですよね」

「そう。『クラムボンはわらったよ。かぷかぷわらったよ』って、アレ」


「でも、そのうちに怖いことが起きこるんですよね。ええっと、たしか、つうと銀のいろの腹をひるがえして一疋の魚が頭の上を過ぎて行き、『クラムボンは死んだよ』『クラムボンは殺されたよ』。平和な蟹の兄弟にリアルな現実が迫って来る……」

「『こわいよ』と怯える蟹の兄弟におとうさん蟹は『いいいい、大丈夫だ。心配するな。そら、樺の花が流れて来た。ごらん、きれいだろう』と言って安心させてやる」

「『泡と一緒に白い樺の花びらが天井をたくさんすべって来ました。光の網はゆらゆら、伸びたり縮んだり、花びらの影は静かに砂をすべりました』なんて美しい描写」


 ――やっぱりすごいな、宮沢賢治は。


 親子ほどの歳の差を楽々と越え代わる代わるの暗誦に野花もうっとり聞き惚れる。


「やがて川は冬になって、上流からやまなしの実が流れて来る」

「『なるほど、そこらの月あかりの水の中はやまなしのいい匂いでいっぱいでした。三疋はぼかぼか流れて行くやまなしのあとを追いました。その横歩きと底の黒い三つの影法師が合わせて六つ、踊るようにしてやまなしの円い影を追いました』すてき」


「で、やまなしの実が完全に熟するまで楽しみに待とうと決めた親子の蟹は、仲良く三つの肩を横に並べて、自分たちの巣穴に帰って行くのよね」

「そして『わたしの幻燈は、これでおしまいであります』で、いきなりディエンド。幼い子どもには正直、愉快なのか怖いのか分からない、なんとも不思議な物語だったし、とりあえずハッピーエンドと言えそうなラストにも不穏な黒い影を感じながら、お兄ちゃんのうしろに隠れて読んでもらった記憶があります」


「賢治の創作は『やまなし』に限らず、子どもはもちろん、大人にも簡単には理解できないものばかり。でも、それだけに汲めども尽きぬ魅力があるし、知らず知らずに物事を深く追求する習慣をつけてくれるのよね」

「お兄ちゃんのおかげで賢治好きになったあたしが、大人になったら海外で奉仕活動をしようと考え始めたのも、弱者の絶対的な味方である賢治作品の影響なんです」


 すっかり意気投合した女将と女客は、それ以上話す必要がない間柄になったことを示すように、満ち足りた微笑みを浮かべながら、ふたり打ちそろって沈黙する。

 


      *



 気づけば、目の前に地物の野沢菜、赤株、大根、胡瓜、人参の彩りが美しい香の物が置かれ、渋い湯飲みに注がれたほうじ茶が香ばしい湯気を立てている。

 仕事の話と、女客の話の終幕は、奇妙な一致を見せたらしい。


「このつぎ、日本に帰って来たら、真っ先にこのお店に寄らせてもらいますからね、それまできっと元気でいてくださいね。約束ですよ、おかあさん」

 壁のコートを外しながら甘えた口調で告げる女客に、女将が朗らかに返す。

「もちろんですよ。憎まれっ子世に憚るだの、渋柿の長持ちだの、不死身の山姥だのって口のわるい常連さんたちからさんざんな言われようですからね。こうなったら、本当にアンモナイトの化石になってでも、とことん居座ってやりますよ、ふふふふ」


 相客のこちらにも感じのいい笑顔を向けて立ち去った女客につづいて黒百合書房の一行も店を出ると、だれからともなく振り仰いだ冬の夜空に無数の星が瞬いている。


 煌びやかな人工照明があふれるこの場所からは、南の空に一等星のシリウスとアルデパラソ、西の空にひときわ明るい宵の明星ぐらいしか確認できないが……。


「さぶっ。これぞ松本の冬って感じっすね。星々が痛いほどさんざめいている」

「でも、もう半月もすれば冬も終わり。じきに春の星座があらわれるだろうね」

 急速に距離が縮まった涼子社長と桃瀬慎司の会話を、野花はうれしく聞いた。


 ――コトン。


 間合いを図ったように、城下の湧水を引き入れた筧がひそやかな音を立てる。

 青い牡丹雪のような星の群れに浸る、ファンタジックな感覚がよみがえった。


 ――週末、甥の青磁を連れて、久しぶりにプラネタリウムに行ってみようかな。


 地下水を湛える筧の水面で、切り紙細工のような三日月が、ハラリと揺らいだ。




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