第4話 『よだかの星』それから
1
黒百合書房の看板企画のひとつ『ふるさとの偉人奇人絵本シリーズ』(取り上げる人物の設定は著者の嗜好任せという半ば冗談のような企画だが、イチかバチかでスタートしてみたところ、案外な好評を博しているという嘘のような本当の話(笑))を依頼中の自称「絵本作家のピヨピヨちゃん」ことSAKURAさんが自作原稿を持ち込んできたのは、年が明けいちだんと寒さがきびしくなった一月半ばのことだった。
栗色のベリーショートに甘やかなガールズファッション。どこからどう見てもいまどきの娘だが内面は意外にシャイで古風な彼女としては、希少な仕事の発注先である黒百合書房のドアを押すのに相当な勇気を必要としたのだろう。重そうな付け睫毛のしたでいくぶん強張って見えるミルク色の頬が、足取りの重さを如実に語っている。
――できればスタッフの大方が留守で、やむを得ず(笑)原稿だけ置いて帰る。
都合のいいシチュエーションを期待してきたのに運わるく社内会議の当日で、社長の犬飼涼子、編集長の保科健朗、総務部長の池内恵子、営業主任の桃瀬慎司、倉庫係パートの大谷勝造、校正兼雑務パートの設楽野花のオールスタッフが揃っていた。
――あちゃあ……。
最悪の状況に気圧されたSAKURAがケージの姫子の大歓迎を受けながら入り口のドア付近に棒立ちになっているので、池内総務部長が気さくに声をかけてやる。
「どうしたの、SAKURAちゃん。もう作品が仕上がったの?」
「いえ、ちがいます。あの……今日は売り込みに来させていただきました!」
宣言したSAKURAの顔は、気の毒なほど見る見る朱色に染まっていく。
「はあ? 売り込みって、なんの?」
冷酷な突っ込みを入れたのは、黒百合書房の売上を一手に負う桃瀬慎司だった。
「あのう……そのう……げ、原稿です」
か細く答えるSAKURAの声はいまにも消え入りそうだ。
「原稿って、持ち込みってこと? あのねえ、きみ、出版界がいま、どんな……」
保科編集長の遠慮のない呆れ声に助け船を出したのは、社長の犬飼涼子だった。
「まあまあ、いいじゃないの。ひとまず、どんな原稿か見せてもらいましょうよ」
まだなにか言いたそうな男性陣にかまわず席を立った涼子社長は、愛用のユニクロのウルトラストレッチジーンズをさっさと大股に開いて応接コーナーに運んでゆく。
野花の席の背後を通り過ぎるとき、甘い匂いが仄かに鼻孔をかすめた。
といっても香水ではなく、愛飲するレディスプロテインの香りだった。
「涼子社長、どうもありがとうございます。お世話になっていながら厚かましいとは思ったんですけど、うちの大おばあちゃん、いつまで持つかわからないので……」
「大おばあちゃんって、以前からご病気の?」
「はい、お医者さんから半年と言われています。大おばあちゃん、ときどき意識が混濁するなかで、泣きながらあやまるんですよね、ごめんね、ごめんね、許してって」
「あやまるって、だれに?」
「七十年前、満洲の収容所に子どもを置き去りにしてきた自分を、大おばあちゃんはいまだに許せないんです。そのために、四六時中鎧をまとっているような偏屈な性格になってしまって。娘、つまりあたしの祖母との関係もギクシャクしたままで……」
いきなりの深刻な話に事務所中に緊張が走る。
「なので、わたしたちにはとうてい想像もつかない過酷な人生の最後に、当事者の曾祖母や祖母とはツークッション置くポジションのあたしが、いまなお大おばあちゃんを苛む苦悩を少しでもやわらげてあげられたらと思って。残されるおばあちゃんのためにも大おばあちゃんを安らかに旅立たせてあげたいと考えるようになったんです」
「なるほどね。で、それとあなたの持ち込み原稿と、どういう関連が?」
弱輩の打ち明け話を咎め立てもせず、涼子社長が冷静な質問を放つ。
「おこがましいんですけど、スピンオフを……つづきの物語を書いてみたんです」
そこでSAKURAはしばらく躊躇っていたが、やがて毅然とした顔を上げた。
「思いきって言います。宮沢賢治の『よだかの星』のその後を書いてみたんです」
「下界で苛められて天上へのぼり、青く光る星になったという、あのヨダカの?」
「そうです。そのヨダカに仲のいい弟たちがいたこと、覚えていらっしゃいますか? カワセミとハチスズメの……」涼子社長は、ああ、というように大きくうなずいた。
「ヨダカ兄さんがたったひとりで天へ昇ることを止められなかった弟たちの哀哭は、戦後の逃避行のなかで、命より大事な子どもを生き延びさせるために現地人に手渡すしかなかったSAKURAさんの大おばあちゃんの慟哭に通底するということね」
「さすがは涼子社長、お察しが速いです!」
SAKURAは小躍りせんばかりだった。
「そういうことなら心して拝見しなきゃね。みんなも一緒に見せてもらいましょう」
涼子社長の呼びかけで、まず池内総務部長が席を立ち、つづいて桃瀬主任と大谷、最後に保科編集長がなんとなくもったいぶりながら応接コーナーに近づくのをたしかめると、湯沸かし室でみんなの珈琲の用意をし終えた野花もそっと末席に加わった。
全員が見守るなか、紙袋から薄紫の縮緬の風呂敷包を取り出したSAKURAが、器用な手付きで結びを解くと、丁寧に糊付けされた一冊の手作り絵本があらわれた。
決して巧みではないけれど、見るものの胸をホットタオルのようにじんわりと心地よい安心感に包んでくれる、ヘタウマ系の絵のカラーコピーが表紙を飾っている。
川べりの樹木の梢に肩を寄せ合うようにして止まっているカワセミとハチスズメの兄弟が、はるかに遠い天の川で燦然と輝く、ひとつの青い星を一心に見詰めていた。
2
『よだかの星 それから』
SAKURA作
これはヨダカが青い星になって、しばらく経ったころのお話です。
――ゆえなくみんなに蔑まれ、ただ一瞬を生きることさえ苦痛に感じられる自分もまた、罪もない羽虫を殺生しなければ、つたない命の灯を保つこともできないのだ。
現実と内省との葛藤に苦しんだ生真面目なヨダカ兄さんが、ひとりで空にのぼってしまってから、弟のカワセミは、朝から晩まで、泣きに泣いて暮らしておりました。
「ぼくはなぜあのとき、ギリギリまで追い詰められたヨダカ兄さんを全身全霊で止めることができなかったんだろう。本来ならすがりついてでも止めるべきだったのに、情けないことにぼくの口から出たのは『ヨダカ兄さん、行っちゃいけませんよ。弟のハチスズメも海の向こうに行ったきりで音沙汰がありませんし、兄さんに行かれたらぼくはひとりぼっちになってしまうではありませんか』ただそれだけだったんだ」
思い返すたび、不甲斐ない自分への怒りがフツフツとわいてきます。
「あの底意地のわるいタカのやつに市蔵なんていう妙な名前を押しつけられたうえ、『そのみっともない首から新しい名前札をぶら下げて、森の住人の家々を一軒残らず挨拶してまわれ』とまで命じられた兄さん。そもそもヨダカなどという、憎たらしいタカのやつの影武者じみた名前だって、兄さん本人(鳥)のあずかり知らぬことじゃないか。なのに、見るものをふるえあがらせる強面の容貌と凶暴なくちばし力を笠に着たタカのやつめ、なんと理不尽な言いがかりをふっかけてきやがったのだろう」
泣きはらしたカワセミの目は、ピンセットで持ち上げたように尖がりました。
「そもそもヨダカ兄さんという鳥は、なにひとつわるい行いをなさらなかったんだ。自分のことはさておき、いつだって困っている仲間のために心を砕き、みんなの幸いのために懸命に尽くしていた。兄さんという鳥は、そういう鳥だったんだ。なのに、昼間はやすんでいて夜に活動する生態や、全身に味噌を塗ったような見映えのしない羽毛、ずんぐりむっくりの肢体、くりっと目玉の丸い剽軽な顔立ちだというだけで、あの卑怯なタカと取り巻きの腰巾着どもは、なにかにつけ辛く当たりやがったのだ」
いても立ってもいられない苛立ちがカワセミの心身をギリギリと苛んでいます。
「あのときだってそうだ。巣から落ちたメジロの子を運んでやった兄さんに当の親鳥夫婦は『チーチュルチュルチュル(余計なお世話。だれがおまえなんかに助けてくれと言った。小汚い羽に抱かれたうちの子こそ災難というものさ)』『ビーヂュルヂュルヂュ』(まったく汚らわしいったら。とっとと消え失せな)とあらん限りの罵声を浴びせたうえ、浅ましい喉をこれ見よがし気に開いて、森中にひびく高笑いまでしてみせたというではないか。いくら人(鳥)品の卑しい輩といえど、自分たちの怠慢を棚に上げ、よくも恥知らずな仕打ちができたものだ。ええい、腹が立つったら!」
怒りを封じ込めた視線は、遠い葉かげに見え隠れするメジロの巣を射抜きます。
「兄さんはたしかに美しいとは言えなかった。それは身内のぼくたちも認めるしかない事実ではある。そればかりか、せっかく耳まで裂けたくちばしも、本来なら一番の武器として鋭くあるべき爪も、なぜか兄さんの場合は丸っこい造りになっていたのでタカやワシの猛禽類はおろか、小型の鳥たちにも少しも怖そうに見えやしないんだ。そこへもってきて焦れったくなるほどのお人(鳥)好しときている。大方の鳥たちはそんな兄さんを軽んじ、心ない陰口をたたき、よってたかって笑いものにしたのだ」
自分の言葉に堪らなくなったカワセミは、ギリッと音が立つほど身悶えしました。
長いくちばしの先から、苦く酸っぱい胃酸の匂いが、ふうわりと立ちのぼります。
「けれど、そういうぼくだって、よその鳥たちのことは言えやしない」
消え入りそうな声でつぶやいたカワセミは、悄然と肩をすぼめます。
「兄さんの辛さを十分に承知していながらぼくは自分のことしか考えていなかった。今生の別れを告げながらも、最後に恃む弟に一縷の望みを託してやって来た兄さんに応えてやることができなかったぼくは、身勝手きわまりないエゴイストだったんだ。自分の不安ばかりを言い立てる弟を目の前にして、兄さんの孤独はさらに深まったにちがいない。ああ、ぼくは、ほんとうに取り返しのつかないことをしてしまった」
そう悔やむたびに、カワセミは呼吸ができなくなるのです。
それに、空へ上る直前、兄さんが残して行ったあのことば、
――弟よ、いいかい、ぼくは今度、遠いところへ行くことにしたからね。その前にちょっとおまえに会いに来たよ。おまえもね、どうしても取らなければならないときのほかは、いたずらにお魚を取ったりしないようにしてくれないか。ね、さよなら。
いまとなっては遺言となった一節が小骨のように引っかかっていて、おなかが空いても魚を取ることができません。無理をして取っても呑み込めないのです。吐き気をこらえてモグモグやっていても、最後には決まってもどしてしまうので、もともとがスズメほどしかなかった小柄な身体は、いっそう見すぼらしく萎んでしまいました。
翡翠の語源と言われる澄んだエメラルドグリーンの背中。対照的に胸から腹にかけてはあざやかなオレンジ色で、鈴をころがすような鳴き声を発する喉のあたりには、くっきりと白いラインが入って、極彩色を際立たせるオシャレなアクセントになっている。味噌玉に目鼻をつけたようなヨダカと兄弟であることが信じられないような容姿から「水辺の宝石」と呼ばれていたころの面影はもはやどこにも見当たりません。
自分の命を保つための殺生を恐れるあまり、尾羽打ち枯らしたカワセミは、毎日、東の空に兄さんの星が静かにまたたき始める夕暮れを迎えるのが怖くてなりません。
それで、西空に太陽がかたむき始めると、あたふたと川辺の木立ちにもぐり込み、うっそうと茂った葉っぱのかげに隠れてガタガタふるえていました。でも、そうしていながらも、金銀の砂をまき散らしたような天の川のなか、カシオピア座のとなりでひっそりとまたたいているヨダカ兄さんの青い青い星を必死に探してしまうのです。
「ああ、兄さん。あなたはどうしてそんなに遠いところへ上ってしまったのですか。もう二度とあの『キシキシ、キシキシキシ』という懐かしい声を聞くことはできないのだと思うと、ぼくは、どうにもやりきれないのです。もう、いっそのこと……」
カワセミは鳴きながら闇に辛さをころんと吐き出しました。
そんな夜々をいくつもかさねた、ある明け方のことでした。
*
「兄さん。カワセミ兄さん。ぼくですよ、起きてください」
夢と現の間をさまよっていたカワセミの耳に、聞き覚えのある声が届きました。
うっすらと目を開けてみますと、カリブ海に行っていた弟のハチスズメでした。
幸いにも、といったらあの無垢で誠実なヨダカ兄さんに気の毒かもしれませんが、実際のところ、長兄のヨダカには似ても似つかない末弟は次兄のカワセミ似でして、次兄よりもいちだんと小柄な全身が美しいみどり色の羽毛におおわれています。
長旅の疲れも見せないハチスズメは「ブンブン」と本家のハチにそっくりの羽音を立てながら、まだぼんやりしているカワセミのまわりを盛んに飛びまわりました。
「カワセミ兄さん、いったいどうなさったのですか。北から渡って来た風がこっそりと教えてくれたのですが、まさか、これほどとは思いませんでしたよ。このありさまではカワセミ兄さんまでヨダカ兄さんのもとへ行ってしまいそうではありませんか。もし、もしもです、そんなことにでもなったら、ぼくはこの世でたったひとりぼっちになってしまいます。そんなのいやだ。絶対にいやですから、ね、カワセミ兄さん」
兄のカワセミの半分ほどしかない身体をフル動員させ、懸命に励ましています。
でも、痩せ細ったカワセミは口を開くのも億劫な様子で、「ああ、ハチスズメか。久しぶりだな。遠いところをよく来てくれた。だが弟よ。来た早々に申し訳ないが、後生だから、ヨダカ兄さんの話はしないでくれ。ぼくはこの身がまっ二つに引き裂かれそうで、どうにも居たたまれないのだ」ゼーゼー、ハーハー、あえぎ始めました。
風から聞いていた兄の発作を間近にし、ハチスズメはあわてて言い足しました。
「兄さん。どうしてそんなに自分を追い詰めるのですか。この際ですから正直に打ち明けますけど、あのときのぼくはね、南国は南国なりのよい時節柄で、とびきり甘くなってきた花々の蜜あつめに夢中で、ちらりとでも兄さんたちの安否を考えてみる気すらなかったんです。ですから、身勝手を問われるべきは、ぼくのほうなんですよ」
ちょっと指でふれられれば、ピンッと弾けとんでしまいそうなほど脆くなっているカワセミの神経は、そんな弟の気づかいにも、過敏な反応を示さずにいられません。
「やめてくれ。そんなことを言われたらぼくはいっそう辛くなるばかりじゃないか。この世に自分のようなものが存在していていいのかと自問しつづけたヨダカ兄さん。その兄さんの大事にそばにいてやれなかった自分をそうやって冷静に分析してみせるおまえ。ふたりながらに崇高な心の兄と弟のあいだでヘドロのような自己嫌悪の海でもがきつづけるしかないぼくは、汚らわしい俗世間の代表のようなものじゃないか。そんなどうしようもない自分も、愛する家族がいるはずのお魚を食べなければこの身ひとつを生かすこともできないのだ。生きるとはなんと罪深い行為だろう。だれをも傷つけずに命を保つことができるおまえがぼくは心底からうらやましくてならない」
自分の内部の汚らわしいものを一気に吐き出してしまおうとするかのような悲痛な叫びを黙って聞いていたハチスズメの目に、一瞬だけ、南の海のように青い波が盛り上がりましたが、深く首を垂れているカワセミには気づかれずにすんだようです。
「お気持ちは分かりますがね、兄さん。そんなことばかり考えているのは心が参っている証拠ですよ。生真面目もいいですが、たまには力を抜いてみたらいかがですか」
そう言われてもカワセミの表情は変わりません。
「あのね、兄さん。弱輩者がこんなことを言うのもアレなんですけどね、ぼくはね、この世に生を享けたときから、それぞれの鳥には、個体別に役割が定められているのではないかと思っているんです。ヨダカ兄さんにはヨダカ兄さんの、カワセミ兄さんにはカワセミ兄さんの、ぼくにはぼくの、ね。すべての生きとし生けるものはたったひとつの例外もなく、いずれヨダカ兄さんのように天に召されるのですが、前もってその時期は、役割を成し遂げたときに設定されているんだろうと思っているのです」
ここでハチスズメの語り口は、いくぶん皮肉っぽいものに変わりました。
「それに、羽虫でもお魚でも花蜜でも、だれかを生かすための手段に変わりはないのですし、その羽虫や魚や花蜜にしたって、それぞれの命を養う糧に支えられているのですからね。みんながみんな、輪っかになっているんですよ、グルグルグルッとね」
弟の真心が通じないのか、兄のカワセミはおし黙ったままです。
そんな兄にかまわずに、ハチスズメは淡々と語りつづけました。
「そうしてみると、ぼくたち生き物はひとり残らず偉大な自然界のシステムに組み込まれている億万のパーツのひとつに過ぎないわけですよ。そのたかが一片のパーツが与えられた命を輝かせるために必要やむを得ない殺生について、あれこれ思い悩む。そのこと自体がすでに僭越なことなのではないかなと、そんなふうに思っちゃったりなんかもするわけですよ。あ、ずいぶんと生意気でしたね。どうもすみません」
ピョコンと剽軽にあやまってみせながら、ハチスズメは思いました。
――カワセミ兄さんはきっと「魂の底まで枯葉が降り積むような秋のさびしさや、少しでも気を抜けばたちまち生命を奪われる冬の怖さも知らない常夏の国で華やかなドレスをまとった花たちとあそび暮らしたやつの戯言さ」と思っているんだろうな。
*
ところが、どうでしょう。
カワセミ兄さんの目の奥に一点の灯りがともったではありませんか。
希望の種子を見つけたハチスズメは心ひそかに快哉を叫びました。そして、ここを先途とばかりにブンブンとにぎやかに飛びまわってみせながら、カリブ海からの長い旅路にずうっと考えつづけてきたことを、率直に打ち明けてみることにしました。
「ねえ、兄さん。星になる直前、ヨダカ兄さんのお顔には、安らかなほほえみがひろがっていたそうではありませんか。そこにぼくはかすかな救いを見出したいのです」
果たして、カワセミの瞳の奥の灯りは、さらに輝きを増したようです。
「タカとその子分どもに、こっぴどくいたぶられた(あいつら、地獄行きですよ!)ヨダカ兄さんは、聖なる宇宙に救いを求めたものの、天空の王者と恃む太陽には『夜の鳥のおまえが頼るべきは、昼を仕切るわしではない』体よく追い払われた。次いですがった星たちにも『たかが鳥が星になるなど思いあがったことを言ってはならん。星になるにはこれで相応の身分と、よほどの金がいるのだ』などとかりそめにも崇められる立場の口から出た言葉とは思えない通俗なもの言いで拒絶されたのですよね」
怒りに掠れる声を悟られないよう、ハチスズメは「コホン」と咳払いをしました。
「すべての望みを断たれたヨダカ兄さんは、もはやこれまでと覚悟を決めると、自らの羽を堅くすぼめ、ついさっき旅立ってきたばかりの地上に向けて一直線に落下していった。そして、いまこそピシャッと地面にたたきつけられようかというその瞬間、ぼくらの勇敢なるヨダカ兄さんは、くるっと格好よく身をひるがえすと、まるで山城の隠し砦から上がった狼煙のように、シュルシュルシュルッと、高く高く、どこまでも高く舞いあがったんだ。やがて、億年兆年億兆年の異次元の高みにまで達すると、ブルルッと大きく身体を揺すり、無限の受容で迎えてくれるほんものの宇宙に向かい『キシキシキシッ、キシキシキシッ』と気高く叫んだんだ! なんとすばらしい!」
いつの間にかハチスズメの頬はグショグショになっていました。
「地上でも天上でも、ことごとく拒まれたヨダカ兄さんが、最後の最後に手に入れたもの、それは満ち足りたほほえみだった。たしかに、すさまじい奮闘を示すように、血のついたくちばしは無惨にねじ曲がり、首は使い古しのゴムのように投げ出されてはいたが、そんな状態でありながら、あの善良なうえにも善良すぎる口もとを、にっこりとゆるめさせずにおかなかったもの……。それは一途な思いを貫いたものだけに許される誇り高い達成感であるとともに、生前、あんなに望んでいた燐になって夜空の隅を青く照らし、見上げるだれかの心をほんの少しでも慰めることができるというひそやかにしてたしかな手応えでもあったにちがいないんだ。うん、間違いないよ」
ここでハチスズメは口をつぐみ、はにかみながら言い添えました。
「それにね、これはぼくのひそかな、そして心からの願いでもあるんだけど、性根の腐りきったタカや子分どもに見つからないように、かげでこっそり労わり、勇気づけてくれたフクロウやヨシキリ、ミソサザイなど、数の少ない、それだけにほんものの盟友たち……そして、これを口にするのは、なんだかとても恥ずかしいんだけどね、いま言わなかったらきっと後悔すると思うから、思いきって言ってしまうね……ぼくたち兄弟もまた最後の最後にヨダカ兄さんの胸をよぎった走馬燈に登場したのだとしたら、ヨダカ兄さんを敬愛する弟としてどんなにか誇らしくうれしいことだろうね」
あんまり小さい声なので、終わりの部分はよく聞き取れませんでした。
「ぼく、思うんだけど、最後の瞬間のヨダカ兄さんの心持ちは喜びに満たされていたんじゃないかな。いいえ、きっとそうにちがいありませんよ。ね、カワセミ兄さん」
語り終えたハチスズメは、幼子のように「エッエッ」と泣きじゃくりました。
そんな弟の羽毛を愛しそうに撫でながら、カワセミは静かにうなずきました。
「そうだね、ハチスズメ。おまえの言うとおりにちがいないよ。だって、気高い心の持ち主だったヨダカ兄さんがほんとうの幸福を手に入れられなかったはずないもの。おまえに言われるまでは神さまを恨んでいたけど、そうではなかったんだね」
「そうですとも、カワセミ兄さん。ヨダカ兄さんほど幸福な鳥はいませんよ」
*
よく似た羽毛を光らせた兄弟の鳥は、一本の梢に並んで止まりました。
そして、よく似た小さな頭を反らして遠い空のかなたを見やりました。
「ねえ、カワセミ兄さん。兄さんもぼくも、生きとし生けるものはだれもがみんな、それぞれの役割を成し遂げたとき、あの空にのぼってヨダカ兄さんのところに行くんでしょう。ぼくたち兄弟がそろってのぼり終えるときまで、天の川に浮かんだ一艘の小舟のようなヨダカ兄さんの星は、ああして青い青い光を放って、ぼくたちの目標になっていてくださるんですよね。そう思うとぼく、とても幸福になってくるんだな」
カワセミは答える代わりに、「ツゥーピーチッチッチッ」と小声で鳴きました。
兄弟の上で太陽は照り、雲は流れ、風はやさしくゆるやかに吹き渡っています。
それから何年かして――
カシオピア座のとなりの青い星に、よく似た星がふたつ、寄り添っています。[完]
3
「いいねえ、うん、なかなかいい。文も絵も、じつにいいおもむきだ」
真っ先に感に堪えない感想を述べたのは、意外にも保科編集長だった。
東京時代、競馬に熱中して妻子に愛想を尽かされた、にも関わらず、本人の曰く、「都落ちしてからも、依然として場外馬券売場と縁がきれないんだわ」という伝説のギャンブラーも、こと文学に関しては曇りのない目を保持しているものと見える。
「ですよねえ。わたしもとても感動しました」
「正直、童話なんてと侮っていましたが、どうしてどうして大人にもいけますね」
池内総務部長と大谷勝造もさっそく同意したが、
「ちょっと待ってください。内容のよさと売り物になるかどうかは別ものですよ」
営業主任の桃瀬慎司は、腕組みをして渋面をつくっている。
こういう場合、野花は自分の意見を表明しないことに決めている。
――ただでさえ病欠が多いパートの校正係に一人前の意見を述べる資格などない。社会の担い手としての生産性も発揮できず、会社に十分な貢献もできず、政府の言う一億総活躍社会にとってはお荷物でしかない立場に、そんな分不相応なことは……。
皮肉な思いに沈みかけとき、
「野花さんは、どう思うの?」
とつぜん涼子社長に振られた。
「どうって……わたしにはわかりません」
「わからないことはないはずよ。日頃の校正で磨いた勘がモノを言うときでしょう」
いつになく強いまなざしを受け、野花はタジタジとなる。
「校正といっても辞書に合わせているだけ、編集の素養もありませんし……」
「素養があるかどうかは社長のわたしが判断することよ。さあ、言ってみて」
そこまで追い詰められると逃げ場がない。
生意気を承知で、言ってみることにした。
「商業出版物として売れるかどうかは、わたしには分かりません。ですが、世の中のどうしようもないことに対するSAKURAさんのやるせない思いは、痛いほど伝わってきました。少なくともわたしは、身体中の血が音を立ててざわめくほど感動しています。『よだかの星 それから』はなにかを訴える力がたしかにあると思います」
――ああ、ついに言ってしまった、取るに足らない私見を……。
後悔と羞恥に俯きかけたとき、SAKURAがぴょこんと頭を下げてくれた。
「野花さん、どうもありがとうございます。こういう場合を最初の読者っていうんでしょうか、初めて読んでくださった、しかも出版の専門の方にそう言ってもらえて、あたし、本当にうれしいです。ここへ来るまではあわよくば出版してもらえたらラッキーと大それた夢を抱いていましたが、みなさんのお心に留まっただけで十分です」
黙って若いふたりのやり取りを聞いていた涼子社長が、おもむろに口を開く。
「思っていたとおり、やっぱり野花さんの目はたしかだったようね。わたしも作者の真摯な思いがひしひしと伝わってきて、途中、何度も涙を堪えるのに苦労したもの」
大きな目を潤ませたSAKURAは、涼子社長にも深々と頭を下げた。
「ただね、ますます混迷を深める一方の出版界の現実を考えると、桃瀬くんの懸念も重視しなければならないの。佳い作品が必ずしも商業ベースに乗るとは限らないし、乗らないと会社の経営が成り立たない。そのあたりがむずかしいところなんだよね」
弁解めく涼子社長の口説をさえぎったのは、ほかならむSAKURA自身だった。
「もういいです。専門のみなさんに素人の作品を読んでいただけただけで、あたし、十分に幸せですから。大おばあちゃんには手づくりのままの絵本を見てもらいます。きっと分かってくれると思います。厚かましいお願いをしてすみませんでした」
元気そうな口ぶりとは裏腹に惨めに打ち萎れ、みんなの視線からかばうように縮緬風呂敷に手づくり絵本をしまい始めたSAKURAに、野花は思わず口走っていた。
「ねえ、SAKURAさん。どうしても商業出版でなくてはだめなの? 多少の費用はかかりますが、オンデマンドでオリジナルな本をつくるという方法もありますよ」
SAKURAは風呂敷を結ぶ手を止め、野花の顔を振り返った。
野花の思いつきに、即座に賛成してくれたのは涼子社長だった。
「それ、いいかも。オンデマンドだったら廉価で自由な本づくりができるよ」
どういう風の吹きまわしか、皮肉屋の保科編集長も珍しく賛同してくれた。
「どうせなら装丁も凝って、おばあちゃんの思い出の着物や帯を表紙貼りに使うのはどうだろう。紬でも絣でもいいんだけど、そこに重厚感のある箔を押すのさ。好みによって金箔または銀箔、あるいは玉虫箔でもいいし、ぐっと渋めの空押しならまた別の雰囲気が出せるよ。とにかくキレのある箔押しで格調を演出し、いまはむかしとなった美麗な本づくり芸術の復活を目指すんだよ。よし、昨今はコンピュータに取って変わられて宝の持ちぐされになっていたおれの辣腕、久しぶりに存分に鳴らせるぞ」
すると、SAKURAにとって最大の難関に思われた営業の桃瀬慎司までもが、「もし出来がよければの話ですが、まずは市内の書店さんに委託で置いてもらってもいいですよね。せっかくの作品を流通させなくてはもったいないですから。その際は着物や帯布を使った装丁というわけにはいかないでしょうから、そのあたりは編集長のさらなる腕の見せどころということで」持ち前のさっぱりした気性を発揮して驚くほど柔軟な提案をしてくれたので、それはいいとばかりに、どっと座が沸いた。
「ご存知のとおり当社は企画出版が専門なので、自費出版のご依頼はいっさいお断りしているんだけど、今回だけ例外とすることを大前提にしたうえで、『よだかの星 それから』初版の費用は著者のSAKURAさん持ち、桃瀬くんの提案どおりに書店への委託販売が軌道に乗ったら二刷以降の費用は当社持ちということでどうかしら。もちろん、お返事はご家族と相談なさってからでいいですよ」
一気に話を進めてゆく涼子社長の迫力に気圧された様子のSAKURAは、対面で目くばせする池内総務部長に応えて、格好のいい
「ただね、ひとつ勘違いしてもらっては困るんだけどね、オンデマンドで請求させてもらう費用は、あくまで印刷製本の原価のみ、当社の人件費は入れないつもりなの。民間企業としては一円の儲けもないどころかかえって持ち出し。つまりは黒百合書房一同、SAKURAさんの志を意気に感じての無報酬っていうことなんだよね。その基本をしっかり理解しておいてもらえないと、先行きで齟齬が生じかねないからね」
涼子社長の気魄の念押しに、SAKURAは緊張した顔をいっそう蒼褪めさせる。
「それから、まあ、めったにないことではあるんだけど、万が一とても好評を博し、運よく採算分岐点を越えたら、その時点で七パーセントの印税をお支払いしますよ」
最後に飴(狸の皮算用ではあるが)をもらって鞭の痛さが多少はやわらいだのか、SAKURAは上気した頬を他愛なく広げ、ひたすら感謝の言葉を繰り返している。
鷹揚に頷いた涼子社長の指示は、一転して社内スタッフに飛ぶ。
「それからね、うちみたいに小さい会社で、いつまでも校正専門でもないでしょう。いい機会だから、この際、野花さんも保科編集長から編集全般を教わるといいよ」
――はい、これにて一件落着。
ケージのなかで寝息を立てていた姫子がタイミングよく目を覚ましたらしい。
大欠伸をしながらダウンドッグのポーズをとると「くーん」と甘え鳴きした。
4
帰宅したSAKURAから家族中が喜んで刊行を待っていると電話が入ったので、黒百合書房編集部では翌日からさっそく『よだかの星 それから』に取りかかった。
バックを持たない民間出版社がボランティアにうつつを抜かしてはいられないので自ずから本業の合間を見てのやり繰りとなるが、「昔気質の編集職人の腕が鳴る」と言ってだれよりも熱心に取り組み始めたのが保科編集長本人だったので、弟子兼サポート役を命じられた野花も釣られて本づくりの奥深さに引き込まれることになった。
熱心な文学少女だった母の影響で幼い頃から本に親しんできた野花は、大方の人が本と疎遠になったいまもなお、家でも職場でも出先でも、目の届くところに本がないと落ち着いていられない本の虫、むかしふうにいえば慢性的活字中毒患者である。
小説、エッセイ、紀行、ノンフィクション、詩集……。手当たり次第に読んできたたくさんの本のうち、この二冊だけは特別に自分のバイブルと崇めている本がある。
○宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
○J・R・ヒメーネス作 長南実訳『プラテーロとわたし』
このうち『銀河鉄道の夜』は読むだけではもの足りず、野花の財布には手痛い出費となった上等な革製のシステム手帳に、気に入ったフレーズを丁寧に書写してある。
――町の灯は、
――その小さなきれいな汽車は、空のすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や三角点の青白い微光の中を、どこまでもどこまでもと走って行くのでした。『ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ』カムパネルラが窓の外を指さして云いました。線路のへりになった短い芝草の中に、
――白い十字架。黒いかつぎをしたカトリック風の尼さん。白鳥停車場の大きな時計。銀杏の木に囲まれた小さな広場。二つの車輪の
一字一字、丹念に書き写した文章にはそれぞれの事物のイラストを添え、ピンク、オレンジ、グリーン、ブルー、パープル、セピアなどの蛍光ペンで色を塗ってある。絵がうまいとは言えないが、万感の思いの籠もった野花だけのオリジナルノート。
一方の『プラテーロとわたし』も何度も繰り返し読んだので、神経を病んだ詩人が唯一心を開いた最愛の驢馬にまつわる美しい叙事詩をすっかり暗記していた。
――プラテーロはまだ小さいが、毛並みが濃くてなめらか。外側はとてもふんわりしているので、からだ全体が綿でできていて、中に骨が入っていない、といわれそうなほど。ただ、鏡のような黒い瞳だけが二匹の黑水晶のかぶと虫みたいに固く光る。
――プラテーロは怖いのか、それともわたしが怖がっているせいか、足を速め、小川に入り、月影を踏みつけてこなごなに砕く。まるで水晶の薔薇の明るい花の一群が、驢馬の早足を引き留めようと絡みついているみたいに。そしてプラテーロは、なにものかに追いすがられるかのように、尻を小さくすぼめて、坂道を駆け上る。
――そのときの少女のあの笑顔よ! ちょうど夕日が雨雲の中へ沈むとき、黄色い水晶となって砕けるように、少女の泥まみれの涙の下を、ばら色がパッと照らしたかのようだった。うれし涙を流しながら、重くてまん丸い、上等のオレンジを二個選んで、わたしにくれた。わたしはありがたく受け取ると、その一個を甘い慰めとして、曳いていた荷車を小川のぬかるみに嵌めて動けなくなっていた弱虫の驢馬に、もう一個は、金賞としてプラテーロに与えた。
二冊の愛読書に関連する絵本(『よだかの星』と同じ作者の宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』はむろん異国詩人による『プラテーロとわたし』にも『よだかの星 その後』に通じるものが潜んでいる)の編集に携わることができる喜びは、長いこと鍵が掛けられていた野花の気持ちを、久しぶりに、本当に久しぶりに明るく開放させていた。
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