第5話 生ジュースと深度六強の地震
1
その週末、野花は駅前の大型スーパーにいた。
昨夏オープンした人気の生ジューススタンドには冬でも長い行列ができている。
バナナ、オレンジ、アップル、ピーチ、メロン、マンゴー、キウイ、緑黄色野菜など数十種類の果汁に、サイズによって三百円から五百円の値段がつけられている。
けっこうな高値だが、健康志向の女性や若いファミリーに人気らしい。
野花の前に並んでいるのは、小学校高学年の男子五人グループだった。
徐々に列が進んで、先頭の子から順に好みのジュースを注文していく。
二人目が女性店員に自分のオーダーを告げたとき、そのうしろに並んでいた少年がすっと列を離れた。エスカレーターの下の三角スペースに無理やり押しこめたようなテーブル席に向かった少年は、背中の黒いリュックからペットボトルを取り出す。
――グビッ。
痛々しいほど小さな喉仏が生き物のように動く。
仲間が移動して来る。イェロー、ピンク、オレンジ、パープル……見映えよく絞りのこした果実の粒子が浮遊する透明な容器には、極太のストローが添えられている。
――ズズーッ。
盛大な吸引音を立て、四人の少年は濃度の濃い液体をいっせいに吸い上げる。
「うんめーっ!」「さいこうっす!」「あ、おれ、そっちのほうがよかったかもな」
無色透明なミネラルウォーターを飄々と口に運ぶ少年を含め、全員で大爆笑。
――なんなの、あの子たち。無神経にもほどがあるでしょう。
怒りで全身を熱くしかけたとき、店員から声がかかった。
「お待たせしました。バナナとハチミツの栄養ジュースでございます」ひんやりしたクリーム色の透明容器を受け取った野花は、少年のグループに黙って背を向けた。
――偉そうに憤ってみせたわたしだって、あの子たちと同じ穴の狢だわ。
格差社会の象徴のような場面を目の当たりにしながら、なにもできなかった、なにもしてやれなかった自分に萎れて歩き始めたとき、ふいに背後から声をかけられた。
「よう。人混みが苦手な野花さんも、たまにはこういうところへ立ち寄るんだねえ」
*
ぎょっとして振り返ると、桃瀬慎司が立っていた。
身長一七五センチ。体重六十五キロぐらいだろうか。
いわゆる細マッチョというのだろう。涼子社長直伝の筋トレで鍛えた強靭な肢体が量販店で購入したと思われる平凡なビジネススーツを一段も二段も引き立てている。営業やけした顔も引き締まり、黒縁眼鏡の奥二重がドキッとするほどやさしい。
思いがけない場所で仕事仲間に会った照れか、それとも水を飲んでいた少年に手を差し伸べなかった自分を見られたことへの恥辱か……野花の全身を血液が駆け巡る。
激しく動揺しながら頭の隅で、いつもは木綿素材にこだわったカジュアル一辺倒なのになぜか今日に限って肌映りのいいホワイトベージュのワンピースを着用し、母の形見の真珠のネックレスとお揃いのピアスまでつけていることを確認して安堵する。
そんな野花を眩しそうに見ながら、桃瀬慎司は恬淡と告げる。
「おれね、五階の楽器店にウクレレの楽譜を買いに来たんだ」
――へえ、桃瀬主任って、ミュージシャンだったんだ~!
言葉を発せられず、心の内側だけ忙しくしている野花に、
「めったにない偶然だしさ、どう、その辺でお茶でも……っていうか、もうジュース買ったんだっけ。じゃあ、おれも買ってくるからさ、ここで待っててよ。いいね」
手早く言い置いた桃瀬は、止める間もなく生ジューススタンドに走って行く。
バナナとハチミツの栄養ジュースの冷たさも忘れた野花が呆然と立っていると、
「お待たせ~。じゃあ、その辺に座ろうか」モスグリーンの液体にキウイフルーツの黒い粒子が躍るロングカップを手にした桃瀬は、エスカレーター下の見るからに粗末な一画とはくらべものにならないほど上等なつくりの、木製の長椅子に野花を誘う。
気おくれはするが、断る理由が見つからない。
きっちりひとり分を空けて座った野花を、桃瀬は珍しいものを見るように見る。
「相変わらずだね、野花さんは」「なにがでしょうか」「そうやって緊張を解かないところ。いつもいつも四角四面に畏まっていて、疲れない?」「すみません……」
「すぐにそうやってあやまる癖、よくないよって涼子社長に言われなかった?」
図星の指摘に、野花は耳たぶまで火照らせ、もう一度あやまりそうになった。
そんな野花を可笑しそうに見ていた桃瀬は問わず語りという口調で話し出す。
「こんなところで仕事の話をするのもなんなんだけどね、SAKURAさんの手作り絵本、あのときは営業の立場でああ言ったけど、おれ、相当惹かれているんだよね」
――惹かれている?
どういうわけか野花は引っかかるものを感じた。
手作り絵本ではなく、SAKURAさんという女性そのものに惹かれている。
そう打ち明けられたような気がしたのだ。
――なぜこんなに胸がザワザワするのだろう。もしかして嫉妬? まさか。好きでもない男性に女性への思いを打ち明けられたからといって焼餅などやくはずがない。
とすると、認めたくないが、自分の幸福をことごとく逃してきたアラフォーの他人の幸福に対するゆえなき憎悪? わたしもついにここまで。ああ、いやだいやだ。
「そうなんですか。実際、すてきですものね、SAKURAさん」
如才のない相槌を打ったつもりだが、たちまち反撃を食らう。
「おや、校正らしくもない。言葉は正確に使わなきゃ。手作り絵本が、でしょう?」
底意地のわるい内心を見透かされたようで、野花はますます顔に血を上らせる。
「まあ、この際、堅いことは言いっこなしで。とにかくさ、デジタル全盛時代に人間本来の手作りって、かえって価値があると思うんだよね」その点は野花も賛成だ。
失態を取りもどそうと、できるだけ深くうなずいて同意を示した。
少し落ち着きたくて、バッグからハンカチを取り出しかけたとき、
「あれ?」桃瀬が言った。「それって、もしかして手作り?」
表布をグレーの無地にし、裏布を華やかな花柄で取り合わせた巾着袋は、手縫いの魅力に目覚めた野花が初めて針を持った作品で、無骨だが愛着はひとしおだった。
「下手だから恥ずかしいです。そんなに見ないでください」
出版に携わっていながら、中学生並みの言辞しか出て来ない自分がもどかしい。
2
いかにも健康オタクが選びそうなキウイフルーツの生ジュースを、太いストローで豪快に吸いあげた桃瀬は、ひと呼吸置いてから、あらたまった口調で語り始めた。
「おれ、施設育ちなんだ。だから家庭の味っていうの? そういうのに敏感なんだ」
――えっ?
野花は息を呑んだ。
病気がちで幸福とは縁遠いアウトサイダーの自分なんかと違い、心身ともに健康で頭脳明晰、自信に満ちている桃瀬慎司が児童養護施設出身とは知らなかった。プライベートに立ち入らないのが黒百合書房の風土なのだろう。涼子社長を初め、池内総務部長も保科編集長も、倉庫の大谷勝造も、だれもそんなことを教えてくれなかった。
となりで桃瀬はさびしそうな笑窪を凹ませる。
「姫子と同じなんだけどね、推定四歳のころ、妹とふたり、駅の待合室に置き去りにされているところを保護されたんだ。真冬なのにガリガリに痩せた身体には薄汚れたティシャツと半ズボンしかつけていなかったって。髪の毛はボサボサにそそけ立ち、小さな全身からひどい悪臭を放っていたって。なにを訊いても答えず、泣きも笑いもしなかったって。これは大きくなってから職員に聞かされた話なんだ。したがって、おれはいまもって根なし草の不安に呪縛されている。だからね、さっきの生ジューススタンドの少年が他人事とは思えなくてね」うっ……野花には返せる言葉がない。
――あちゃあ! やっぱり見られていたんだ、あの場面。
「でも、結局、なにもできはしないんだけどね、おれにも。ただ、仲間の少年たちにまた彼らの健全な心を育むべき親たちに、ひと握りのやさしさを念じるぐらいしか」
桃瀬の口から洩れる呟きのひと言ひと言が、野花の胸にずぶずぶ突き刺さる。
「あ、野花さんを責めるつもりじゃないよ。どうしたらあの子の誇りを傷つけずに助けられるか、とっさには、いや、時間を与えられたとしてもむずかしい問題だよね」
そう言われて、ほっとした。
「でもさ、いやになるよね、この社会の矛盾とエゴの充満には。仲間と同じジュース一杯買えない子どもがいる一方で、新幹線のグランクラスでは女性従業員がひざまずいて高級ワインをサービスするそうだし、『ななつ星in九州』やVIP待遇のバスツアーも相変わらずの人気と聞くだろう? おれにはわからないよ、自分や家族だけいい思いをして平気なその神経がさ。こんなことで健全な社会といえるんだろうか」
桃瀬の嘆きは、ひとり分離れて座った野花にもビンビンと伝播してくる。
しばらく黙っていた桃瀬が再び口を開くと、冷静な語調に改まっていた。
「勉強はきらいじゃなかったから、園長先生の勧めでなんとか高校までは出してもらったんだけど、施設を出てひとり暮らしを始めてからがきつかったな。プレス工場、メッキ工場、産業廃棄物の処理工場、土木作業員、警備員と、日銭稼ぎになる仕事を転々としたよ。将来への希望など持ちようもなかったから、生活も荒れに荒れてね。涼子社長と出会ったのはそんなときだった。うちへ来ないかと誘ってもらったんだ」
「そうだったんですか」
親しくもない自分に、深刻な話を打ち明ける桃瀬の真意を推し量りかねた野花は、木で鼻を括ったように愛想のない相槌しか打てない不器用な自分を憚りながらも、
――わたしにとっても涼子社長は恩人なんです。
心のなかでそっと告げていた。
「犬や猫と同じでね、施設の子どもも幼いほど人気があってさ。入園して間もなく、妹は子どものいない夫婦に引き取られて行ったよ。別れの朝、小さな背中にわずかな身のまわり品を入れた赤いリュックを背負わされて、何度も何度もこちらを振り返り振り返りして、見たこともないおじさんとおばさんに手を引かれて行ったんだ……」
グェッと妙な音を発した桃瀬は、残り少なくなったキウイフルーツの生ジュースの透明なカップをバリッと音を立ててつぶし、マッチョな肩を小刻みに震わせている。
「だから、おれ、恩人の涼子社長のために、大事な黒百合書房のために一生を捧げるつもりなんだよ。出版を巡る状況はきびしさを増すばかりだけど、なに、隙間産業には隙間産業ならではのやり方があるはずさ。なんとしても生き延びさせて見せるよ」
――そういえば。
いつか涼子社長が苦笑混じりに述懐していたことを野花は思い出していた。
「むかしね、営業を任せていた男性スタッフから『先の見通しが立たない隙間産業でいつまでもやってられませんよ。自分にも生活がありますから』って朝一番に辞表を叩きつけられたことがあったの。半年以上かかったかな、衝撃から立ち直るまでに」
細マッチョの桃瀬はつづける。
「この業界は依然とした男社会だろう。コネがものを言う世界でもある。そんななかで女性の身で経営していくのがどんなに大変なことか、考えてみたことあるかい?」
話は意外な方向に発展しそうだ。
「なんとなく分かっているつもりではありますけど、涼子社長のように社会の矢面に立ってきたわけではありませんから、ぼんやりと想像するだけです。甘いですよね」
「下積みが長かったおれには分かるよ。微妙な言葉のニュアンス。さりげなく外される視線。含みのある頷き顔……根が真面目だから、ひとつひとつに律儀に傷つきながら営業笑顔は絶やさない。むろん、みなさん紳士だから、露骨な蔑みなどおくびにも出しはしないさ。だが、生まれついて条件に恵まれた人特有のおそらく本人も気づいていない冷酷な内面は、何気ない場面でひょっこりと顔を覗かせるんだ。歯軋りしたいほど口悔しい情景が降り積もっていると思うよ、烈女と言われる社長の奥底には」
その疎外感は、社会の外枠に追いやられてきた野花にも痛いほど理解できる。
「姫子の健診に行った動物病院でのニアミスの件、覚えているよね。着飾ったマダムと、飼い主そっくりに取り澄ました小型犬の一対がこっちを見た瞬間、打ちそろって露骨に眉をしかめやがった。あのときおれ、本気で殴りかかりそうになったんだぜ」
リニューアルし立ての動物病院待合室はホテルのロビーと見紛うゴージャスさで、伸びきった被毛をぱさつかせた雑種の老犬には、いかにも場違いなスペースだった。
目が見えないのにウロウロ歩きまわる姫子を宥めながら浅くレザー張りのソファに座っているとき、診察室のドアが開いて絵に描いたようにハイソな一対が出て来た。
完璧な化粧を施した権高な顔に浮かんだ「なぜこんな犬が?」非難と蔑みの色調。
けばけばしいマダムが連れている犬に罪はないが、坊主憎けりゃ袈裟までのたとえどおり、不自然なかたちに短く毛を刈り込まれた小型犬のすまし顔まで面憎かった。
――なによ! 何犬だか知らないけど、動物の命に貴賤はないでしょう。
野花は内心でけんかを売ったが、彼もそうだったのか。なんだかうれしい。
腕時計を覗いた桃瀬慎司が、書店との約束の時間だからと、早口に告げる。
「ところで、涼子社長から本読みのお墨付きをもらっている野花さんは、どんな本が好きなのかな。おれはね、施設の園長先生に読書の習慣をつけてもらったんだよ。『この先、ひとりで生きていかねばならないおまえたちの最強の味方が本なんだよ。本でたくさんの人生を知って、珠玉のワンフレーズに救ってもらって、そうやって逞しく生き抜く力を身につけるんだぞ』ってね」野花の涙腺が再び危うくなってくる。
「おれのマイブームは歴史小説。それも斬り合いや政争よりも登場人物の心理描写に重点を置いたものに惹かれるんだよね。今度ゆっくり本の話ができるとうれしいな」
「お休みの日までお疲れさまです。お気をつけて」
野花は平凡な社交辞令に精いっぱいの心を籠めた。
3
帰路、スクランブル交差点で信号待ちをしている親子連れに目をやった瞬間、
――あっ!
野花は自分でも驚くほど狼狽して、マクドナルドの脇道に素早く身を隠した。
数メートルの至近距離に立っているのは、どう見ても、あの本木孝一だった。
かつて細い首に白いワイシャツが清潔そうに見えた元恋人は、いまは別人のように太り、弛み、脂ぎり、老け、絵に描いたように自堕落な中年男に成り下がっていた。
プロレスラーのように肩を盛り上げた妻らしき女性と、小学高学年から低学年まで父親のマトリョーシカを並べたような三人の息子たちまで、連れている家族も揃って嵩高で、無制限な食欲に任せている一家の、日頃の生活習慣がひと目で見てとれる。
――彼が望んだ幸福が、これ?
笑い出したいような、泣き出したいような、相反する気持ちに翻弄されながら、
「わるいけど、おれ、子どもを産めない人とは結婚できない。親も孫の誕生を待っているしさ、ほら、おれ、長男だから、いろいろと期待されちゃって。わかるだろ?」
会社の廊下ですれちがいざまに、ぽいっと投げ出すように告げた孝一を思い出す。
*
県内の短大を卒業し製薬会社の総務部に入って三年目に広報に移動になった。
出入りしていた印刷会社の営業担当の本木孝一から誘われて交際が始まった。
二十八歳のとき、会社の健康診断で卵巣に腫瘍が発見された。
手術で除去してわずか一か月後の、一方的な別離通告だった。
やさしく這いまわる指。耳朶をなぶる睦言。臆病な舌を篭絡する手練れの舌……。
高校時代に部活の先輩から受けた手痛い裏ぎりがトラウマになってしまい、男を、恋愛を恐れていた野花にとってなにもかもが新鮮な遅ればせの初めての経験だった。
逢瀬を重ねるうちに関係が深まり、近い将来、籍を入れる手筈が整っていたのに、思いがけない病気がふたりで紡いできた五年の歳月を呆気なく消し去ったのだった。
――「目の前が真っ暗になる」というのは嘘だ。
真に耐えきれない衝撃を受けたとき、人の頭のなかも心のなかも真空になる。
キ~ンと電子音が耳を貫き、生き物の気配も声も色も匂いもなにひとつ存在しない異次元世界にとつぜんすごい遠心力が働き、一瞬にして宇宙の彼方へ飛ばされた。
できることなら、そのままヨダカのように空の青い星になってしまいたかった。
その後も何事もなかったかのように平気で会社に出入りする孝一と顔を合わせたくない一心で自分でも天職と思っていた広報の仕事を諦めて会社を辞した。同時に心身の不調が極まって、気圧の変化や微妙な天候不順など健康人には理解しがたい理由で寝込むので、コンビニやガソリンスタンドなどのアルバイトも長つづきしなかった。
――わたしに恨まれることを承知で、自ら悪役を買って出たはずの彼がどうしても手に入れたかったものが、目の前のあまりにも愚劣な、どこからどう見ても美しさのかけらさえ感じ取れない、このろくでもない、阿呆みたいにくっだらない情景なの? こんな無様な景色を見せられるために、わたしの十数年は存在したんじゃないから!
*
マクドナルドの看板から猛然と踊り出た野花は、摂り過ぎの動物性脂肪を滲ませる毛穴まで見えそうな嵩高家族の前にカッカッとヒールの踵を鳴らして近づいて行く。
虫が知らせたのか、今日は幸運にも滅多にしないお洒落をしてきている。イェイ!
――所帯じみた女房では比較にもならないだろう。
歩きながら頭の中で素早く計算する。
大胆にも一家のすぐ横で足を止める。
傍目には一緒に信号待ちをしている赤の他人同士と映るだろう。
事実、本木孝一もそう思ったようだが、すぐに死んだ魚のような目が見開かれた。
早くも白髪が混じる汚らしい無精髭がミミズのように蠢き、一時は愛を貪り合った唇が不細工に歪んでいく様子を野花は水槽のなかの金魚を見るように観察していた。
ハロウィンの南瓜のような顔に、甘い未練を掻き立てるものは一片も残存しない。
せつなくも可笑しくもなる冷厳な事実が、野花の完全勝利を証明してくれていた。
ひそかに凱歌を挙げて孝一を離れた野花の視線は、欠伸をかみ殺して信号を眺めている細君と、説明されなくてもそれとわかるマトリョーシカたちの頭から足の先までをできるだけ無遠慮に時間をかけて撫でまわしておいてから、再び孝一にもどった。
先ほどまでむくんで青かった顔は、気の毒なほど朱に染まりふくれあがっている。
この男の愛を取りもどしたくて、バッグに包丁を忍ばせ、当てもなく歩きまわっていただなんて……ワイドショーの主人公になるかならないかは、紙一枚の差なのだ。
――♪ 通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細道じゃ 天神さまの……
聞き慣れたメロディが流れ、停止していたスクランブル交差点が動き出す。
まずプロレス細君、次いでマトリョーシカたち、最後に孝一がついて行く。
去り際、なにか言いたげにも見えたが、もはや野花には完全用済みだった。
くるっと背を向けると、人の群れに混じり駅ビルのテナント書店へ向かう。
――♪ ちょっと通して 下しゃんせ 御用のないもの 通しゃせぬ……
ああ、いい気味だ。自分が妻だったかもしれない一家の前に堂々と立ちはだかり、両手を広げて通せんぼをしてやった。どうだ、どうだ、どうだ、イェイ、イェイ!!
――住む家を突きとめ、いやがらせをしてやるのも一興かも。
不穏な考えが脳裡を掠めかけたが、いや、そんなことはナンセンスだと思い直す。
そんな情熱は、とうの昔に消えている。いまの男は、ただの腐ったオッサンだよ。
付き合っていた当時も腰の座らない男だったが、お世辞にも文化的とは言いがたい家族の様子からして、その後も転職を繰り返し、経済事情も豊かではないと見える。そうと知っていたらむしろこっちから捨ててやったのに、一時の執着が阿呆らしい。
*
書店の小説コーナーには、華やかな装丁を着せた新刊がにぎやかに並んでいる。
いつもならさっそく好みの本探しに没頭するところだが、ついさっきのいまでは、さすがに気持ちが落ち着かなかった。ざわざわする頭と肌とを持てあまして考える。
――この先、わたしにも結婚のチャンスがめぐってくるかどうかわからないけど、ひとつだけ言えるのは「本を読まない男はノーサンキュー」ということだろうね。
孝一だって若いころはよかったが、中年以降にも体育会系の単細胞では通らない。
弟の雄太も友人の夫たちもそうだが、大人の玩具じみたスマホの普及をいいことに他力本願では成り立たない活字とさっさと絶縁して、出所も定かでない情報をまことしやかにひけらかして得意がる、無思考にして無感動の駄目男たちが大増殖中だ。
自力本願を放棄した事実がうしろめたい彼らは、口を揃えて唱えたがる。
――本だけが文化ではない。時代の変遷を反映してこその文化だ。
本読みは反論しない。
微笑んで聞き流し、いっそう自らの書物世界に没入する。
読書=深い思考習慣を放棄した人間の頭脳と心は、確実に退化していく。その冷厳な事実は、苦悩と無縁でいられない人生のあらゆる場面で顔をのぞかせるだろうね。
日常的な諸問題では残酷なほど公正な人物評価の尺度になるだろう。放っておけば安易に堕しがちな自分磨きをサボった結果は生来の容貌や年齢にまったく関係なく、年寄り臭く干からびた頑迷な風貌と哀れなほど狭量な器として正確に照り返される。
怖いのは、両者の決定的な差異が、本読みの側にしか見えないことだ。
あいにく野花には経験がないが、さまざまな人間関係のうちでも、最も影響し合う密接な関係にある結婚生活が破綻する原因のひとつはそこにこそあるにちがいない。
夫または妻が向上心を持ち他方が持たないと、歯車の軋みは決定的になるだろう。
生きている限りは前向きな進化をつづけたいと願う気持ちを持つほうは、持たないほうを、持たないほうは持つほうを疎み、やがて互いに毛ぎらいするようになる。
アラフォー独身の身でおこがましいけど、かつての孝一のように様子がいいだけで頭と心が空っぽの男には、金輪際、引っかからないつもりだし、その自信もある。
妙な男と無駄な関わりを持つくらいなら、生涯シングルを通したほうが増しだ。
そこまで考えを詰めると、野花はようやく安心して、小説選びに専念し始めた。
4
週明けの朝、午前八時半――
お洒落な縁なし眼鏡を光らせた池内恵子総務部長が「おはようございます。では、いつもどおりの立位で今週の打ち合わせを……」司会当番の口上を述べかけたとき、事務所のフロアが、いきなり真下からズッシ~ン、ものすごい力で突き上げられた。
涼子社長、保科編集長、桃瀬営業主任、大谷勝造、池内総務部長、それに野花を加えた黒百合書房の総勢六名は、全員が立っていられず、近くの壁にすがったり、床にしゃがみこんだりした。地底に張り巡らされた巨人の国の大男たちがいっせいに怒りに任せて渾身の力で揺すぶりをかけているような激しい揺れが何十秒間かつづいた。
そのわずかな時間に、相当な重量があるスタッフのデスクは、あろうことか一列になってずずっと横に移動し、丈低く幅広いがゆえに安定感があるはずのカウンターは積み木細工のように引っくり返り、四囲の壁をびっしり覆う資料棚は強烈な足蹴りを食らったように倒され、おびただしいファイル類が白い羽を広げて床中に散乱した。
湯沸かし室の食器棚からは陶器やガラス器が転げ出し、棚から落下したプランターから観葉植物と土が、割れた花瓶からは池内総務部長が活けてくれたばかりの花々が惜しげもなく撒き散らされた。
吊紐が切れた壁の額絵は危うく傾きかけ、天井板に埋め込まれた照明の一部は、
――いまだから申し上げますけど、じつはわたくし、ずっと以前から、われとわが身の重さに耐え兼ねて、日々、難儀していたのでございます。願ってもないチャンスですから、この際、身に余るおつとめを放棄させていただきますがゆえ悪しからず。
とでも言いたげに易々と暴力に屈し、一瞬にして舞台裏を曝け出していた。
自然が仕出かした乱暴狼藉のかずかずは眇々たる人為の枠をはるかに超えていた。
永遠につづくかと思われた激しい揺れがようやく治まり、ひとまずは恐怖から解放された野花は、入り口のドア付近のケージのなかにいる姫子のもとに走り寄った。
姫子は意外におとなしく、鳴きも騒ぎもせず、静かに沈黙している。
だが、ほっとした野花の鼻孔を、濃厚なアンモニアの匂いが襲った。
「もう大丈夫よ、怖かったね」再びズシーンと激震が突き上げてきた。
本震とほとんど変わらない激しい揺れに、悲鳴をあげて姫子にしがみ付く。
「むふうっ!」と呻いた姫子も、尿まみれになった身体を野花に寄せてくる。
*
さいわいにも余震はすぐに治まった。
「みんな、怪我はない? つぎの揺れが来ないうちに急いで外へ出ましょう」
涼子社長のリードで事務所を脱出しようとしたときに、桃瀬慎司が叫んだ。
「そうだ! まずはパソコンの安全を確保しなきゃ」
たしかに! 財務、経理、編集、営業などの全データが入っているパソコンが稼働しなければたちまち業務がストップしてしまい、経営の破綻にもつながりかねない。
各員、あたふたとノート型パソコンを抱える。持ち出しのできないデスクトップ型はどうしようもないが、停電に備え、日頃からこまめにバックアップを取っておいた習慣がこういうときこそしっかりモノを言ってくれるだろう。ひとりだけパソコンを持っていない野花は、パソコンと同様に大事な姫子の安全を確保することにした。
倒壊や落下物が危ぶまれる建物の附近を避け、広い駐車場のど真ん中にパソコンや貴重品を置いて、あらためて周囲を見まわすと、近くの事務所や住宅から飛び出してきた人たちが一様に不安そうな顔を歪め、キョロキョロとあたりを見まわしている。
そうしているうちにも頻々と余震が発生する。本震ほどではないが、いつまたあのクラスの激震に見舞われるともかぎらない。「そうだ、カーラジオで情報を得よう」桃瀬慎司が営業車のキーをまわすと、緊迫したアナウンサーの声が流れ出た。
――安曇野市東部に直下型地震発生。市役所付近の震度計では震度四を観測。引きつづき余震に注意してください。繰り返します。安曇野市東部に直下型地震……。
――はあっ?
六人は揃って社屋を振り返る。
――これで本当に震度四?
テレビで報じられる同程度の地震とは、あきらかに被災状況が異なっている。
釈然としない顔を見合わせながらも、頻発する余震に成す術もなく立っていると、町内会の腕章を巻いた役員が、ブルーシートの配布を知らせにまわって来てくれた。
桃瀬慎司と大谷勝造が線路向こうの公民館まで走って行って、見たこともないほど大きなブルーシートを数枚もらってくると、にわかに被災者の実感が高まってくる。
いつもどおり平穏に迎えた朝が、あの時刻を境に一変してしまった。
いままでは他人事だった被災者に、あっという間になってしまった。
惨めな気持ちに駆られ、とりあえずは運び出したパソコン類にシートを掛ける。
垂れ込めた雲の間から太陽が滲む曇天だが、雪が舞っていないだけましだろう。
従来の被災地の例に漏れず、時間が経つごとに余震は間遠になっていく。いつまでもこうしてはいられない。片付けを始めるべく、恐る恐る事務所に足を踏み入れた。
――本当に震度四?
全員の口から再び不満げな呟きが漏れ出る。震度を競うつもりはないが、なんだかここだけ不当に低く評価されているような、理不尽で不公正な感じがしてならない。
*
それより心配なのは涼子社長だった。地震の発生当初こそトップらしく陣頭指揮を執っていたのに、わずかな時間に一気に十歳も老けたように頬が痩けて老けて見え、ものを言う気にもならないのか石のように口を噤んで、がっくりと肩を落している。
――涼子社長、大丈夫?
不安が広がるなか、桃瀬慎司が突拍子もなく明るい声をあげた。「さあ、みんなで一気にやっつけちゃいましょう。なあに、わが黒百合書房の強者どもが一致団結してとりかかれば、今日中とはいかないまでも、明日中には元通りに復旧できますよ」
「そうね。こんなことに負けていられないね。さあ、みんなでがんばりましょう」
「地道に身体を動かせばいいだけ。このくらいの被害、どうということありません」
打てば響いて池内部長と大谷が賛同したので、沈んでいた空気は少し軽くなった。
一方、いざというときに頼りにならないのは、やっぱり保科編集長だった。
――東京の大手版元で文芸部のデスクをつとめていたが、反りの合わない上司と揉めたあげく競馬狂いに愛想を尽かした妻子にも捨てられ、破れかぶれになって退職。単身で帰郷して黒百合書房に入社したものの、十数年後の現在もなにかにつけ古巣のエリート意識をちらつかせてけむったがられている、いい歳して幼児性キャラを捨てきれない初老の男性。編集技術面はともかく、人生の先輩としてはちょっと……。
ひそかな野花の人物評が、突発的な場面で図らずも証明されることになった。
重い物を動かしたくないと、へっぴり腰で逃げまわる態度が、まず見苦しい。
こんなときに男女を言うわけではないが、重労働の出番はやっぱり男性だろう。
最高齢の大谷ですら、桃瀬を助け、率先して動きまわっているのに、自分だけ楽をしようという姑息な態度を見せつけられると、いくら上司でも、正直、鼻白む。
その点、乱れた髪の先にまで疲労を滲ませた涼子社長も、懸命に補佐する池内総務部長も見事なオトコマエで、重いとも辛いともこぼさず、クルクル立ち働いている。
「こういうときだからって、野花さんまで重労働をしなくていいんだよ。校正係に休まれたら本の発行が遅れるでしょう。そうすればたちまち資金繰りにひびいて結果的に会社が困るんだからね。地震の片付けと本業とどっちが大事か考えて行動してね」姫子を連れて床に降り積もったファイルを拾い集めている野花に、そっと耳打ちしてくれた池内総務部長は涼子社長の右腕として、黒百合書房になくてはならない人だ。
税理士の夫がうつ病で働けなくなったとき、ハローワークで紹介された黒百合書房に応募した。似た気性の涼子社長とたちまち意気投合し、一年後に快復した夫が職場復帰を果たしたのちも在籍して自転車操業が倣いの財務を支えてくれている。社長の代理として銀行交渉までこなすやり手だったので、野花の目には当初眩しく映った。
だが、現代社会の吹き溜まりのような出版社で日々の哀歓を共にしているうちに、モタモタしていれば蹴飛ばされそうな猛女などではなく、むしろ他者の痛みを自分の痛みとする、慈愛と義侠心に富んだやさしい心の持ち主であることが分かってきた。
――それはそうだよね。でなければ涼子社長が全面的に信頼するわけないもの。
同性の上司に恵まれた幸運に感謝しながら、野花は妹のような姫子を見やる。
犬の加齢スピードは人間の数倍だそうだから、人間換算すれば八十か九十歳のおばあちゃん犬ということになるが、あどけない表情は、幼犬と呼びたいほど愛らしい。
5
片付けは順調に進み、その日の夕方には仕事を再開できそうな態勢が復活した。
揺れつづける室内に残しておいたデスクトップ型パソコンは業者の修理が必要で、ネット環境の復旧には一週間ほど要することになったが、ノート型で代行させるなど工夫すればなんとか乗りきれそうな目処も立った。
だが、ほっとしたのも束の間、本当の地獄はそこからだった。
二階の資料室と、吹き抜けの高い天井まで届く保存棚にぎっしりと、おびただしい物量の在庫を保管してあった別棟倉庫の散乱ぶりは一階の事務所の比ではなかった。
待ったなしの本業をこなしながら寸暇を惜しんで汚損本や資料類を外へ運び出し、予約しておいたごみ収集車に投げ入れる。すべてを人力で行わなければならない。
全スタッフが土日の休みも返上で一か月余りを肉体労働に捧げることになった。
そのときも相変わらず保科編集長の骨惜しみは目に余った。本来なら率先して涼子社長をサポートする立場にありながら、急ぎの編集にかこつけては事務所へ籠もり、何時間も帰ってこない。もどっても、すぐにまた用事にかこつけて逃げてしまう。
ときには、処理作業の最中に、以前から不適切な親密ぶりが目に余っていた外注者の女性に誘い出されてどこかへ出かけたきり、夕方までもどらないことさえあった。クセのある人が多い業界独特の垢というのか、不埒な態度が肚に据えかねた野花には尊敬する上司像からますます遠ざかる保科編集長が疎ましく思われてならなかった。
*
直下型地震の発生から一か月後、遅ればせに地元の国立大学の研究機関から、
――直下型地震の実質震度は、震源地付近では六強だったと推定される。
発表があったとき、黒百合書房の全スタッフ、並びに近隣の人びとは沈黙した。
いまさら訂正されても遅い。ズレた活断層の断面を証明するように、見事に一直線に並んだ家々の屋根のブルーシートが事実を物語っていたし、それよりなにより身をもって凄まじい激震を体感した住民の内部にこそ偽りのない真実が刻印されている。
直下型地震の発生地にたまたま震度計が設置されていなかったから、とりあえず数キロ離れた市役所付近の表示に従って震度を発表したまでと学者たちは言い訳した。
だが、その後もマスコミの後追い報道は当初に発表された震度四のままだったし、「数キロの活断層など限られた地域の直下型など、被災規模が小さすぎてニュースになりませんよ」そう言わんばかりの冷遇ぶりも、一向にあらためる気配がなかった。
まして個々の被災者の苦しみ、たとえば、ただでさえ経営がきびしい黒百合書房にとって、今回の地震で廃棄処分せざるを得なかった三千万円を超える在庫品の損失がいかに致命的であったかなど、公民問わず、だれにも気にも留めてもらえなかった。
究極のバイオレンスである地震は、形状あるものだけでなく人の心をも破壊する。
固形物はおろか一時は水すら喉を通らなかった涼子社長は幽鬼のように痩せこけ、シミのないスッピンだった事実が嘘のように、茶色い老人性色素斑を浮かべている。
――ころんと魂が抜け落ちました。
というような視線を呆然と空に放っているなど以前は考えられなかったことだ。
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