第2話 保護犬の姫子と野花


   1

 

 西空一帯に紅碧色の山容を這わせる連峰に沈んだ夕日は、いましも上映が始まったばかりの黄泉の国の幻燈機のようにギザギザに尖った稜線を裏側から照らしている。


 松本と大町を結ぶ国道一四七線から、高速長野道の安曇野インターチェンジ方面に向かった田園地帯のなかに元は洋菓子製造工場だった煉瓦造りの黒百合書房がある。

 すぐ近くの県立こども病院と外観がよく似ているのは、まったくの偶然である。


 お伽の国めいた玄関ポーチが特徴的な鉄骨二階建の東側には、三十数人のスタッフが在籍していた全盛期を物語るように広い駐車場が設けられ、きれいに手入れの行き届いた庭木の周囲には、動植物好きの犬飼涼子社長が丹精する花壇が造られている。


 だが、冬真っ只中のいまは、来春の華やぎを期し秋植えされたパンジーやビオラが白や黄、青、紫、あるいは斑もようの萎れた花びらを凍りつかせているだけだった。



      *



 事務所の鍵を開けると、入口付近のケージのなかで姫子が尻尾を振っている。

「ごめんね、遅くなって。ずいぶん待ったでしょう。さあ、散歩に行こうね」

 白濁した目は見えず、耳も聴こえていないはずだが、気配で察するのだろう。

 野花が声をかけると、白い扇を広げたような尻尾が、ゆっさゆっさと揺れる。

 こんな自分でも頼りにしてくれる犬の愛しさが胸に迫り、野花はふと涙ぐむ。


 六曲屏風を何双も連ねたような山並みは、わずかな間に瑠璃紺色に変わっていた。

 いただきから山麓まで隈なく厚い雪で覆われた三千メートル級の山巓も、その手前にそびえる常念岳や有明山も、静謐な歳末風景のなかで、冷たい沈黙を貫いている。


「あっ、危ない。そっちは溝だよ、気をつけてね」

 姫子に注意を促しつつ、野花は少しだけ気持ちが温まってきたことを感じていた。

 唯一の寄る辺たる生家を失った自分が、野良出自の老犬に全面的に頼られている。


 群発性偏頭痛や自律神経失調症、原因不明の腹痛などいくつかの持病があり、食に応じて身体は細く相応に声も細く、ごくふつうの日常生活にも医師から制限がかけられている身ではあっても、だれかに必要とされている実感が喘ぐように欲しかった。


 健康と才能に恵まれているうえに運の神にまで愛された人たちにとっては、白内障に難聴の老犬に頼られてうれし泣きなど、呆れるほど哀れな矜持なのかもしれない。

だが、野花のように持ち駒の少ない人間が唯一のひそかな拠りどころとする、姫子のような梯子まで外されてしまったら、そこから先へは一歩も進めなくなるだろう。


 むかし、高校の部活で一緒だった友人から居酒屋に呼び出されたことがあった。

 カウンター席に座った彼女は、見知らぬ男性客にズバリと言ってのけたものだ。

「ちょっと、煙草、やめていただけますか? 煙がこっちへ来て迷惑なんですよ」


 禁煙マナーもゆきわたっていない時代のことで、一瞬の躊躇もない抗議にハラハラしながらも野花は「できる女」に憧れとも恐れともつかぬ感情を抱いたものだった。


 だが、「これだから駄目なんだよ、この国は。企業は終身雇用、税金は配偶者控除の微温湯からいまだに抜けきれないなんて、グローバル世界に置いて行かれるって」なにかにつけ欧米諸国と比較したがる赤い唇を、いまの野花は明確に否定したい。


 ――お言葉ですけど、どんな人生にとっても無常は平等でしょう。健康や運を使いきったとき黙って迎えてくれる母国を悪しざまに罵ったりしてはいけないでしょう。第一、東京の大学から外資系商社へ入り、冴えない故郷の居残り組に羽振りのよさを見せびらかせたくて帰省しておきながら、居酒屋の主人を含め今後もこの街で生きていかねばならない人たちへの配慮もなしの言いたい放題、大人として如何なものよ。


 強いもの、荒っぽいものを拒む気持ちが最近ますます強まっている。

 逆に、弱いもの、やさしいものたちへの愛着は深まるばかりである。


「ねえ、姫子。黒百合書房へ、とりわけ、わたしのもとへ来てくれて、本当にありがとうね。あんたはね、神さまが使わせてくださった、おばあちゃんエンジェルだよ。ずっとずっとそばにいてね。さいごはわたしが看取るから安心して任せておいてね」


 なんとも見映えのしない薄茶色の毛をポヤポヤ寒風になびかせながら、中肉中背の四本脚を黙々と運んでゆく老犬に、野花は心からの感謝を告げずにいられなかった。

 


 

   2

 

 姫子と出会ったのは一昨年、零下十度まで下がったバレンタインデーだった。

 早めに出社して掃除を終えた野花は、その日も事務所周辺の散歩に出かけた。


「今朝も行くの? 寒い朝の外歩きは、かえって身体によくないんじゃない?」

 日の出と同時の出勤が習慣になっている涼子社長が本気で心配してくれたが、いまなお体調が万全ではなく、いつなんどき寝こんでみなさんに迷惑をかけるか自分でも予測がつかない野花は、動けるときに動いて、少しでも体力をつけておきたかった。


 腰丈ダウンと寒冷地用ロングダウンを重ね着し、毛糸の帽子にウールのマフラーをグルグル巻きし、手袋も二枚重ね、足は雪国仕様の厚底ブーツで固めた重装備だが、それでも十メートルも歩かないうちに、凍った道から全身に寒気が這い上って来る。

 人っ子ひとりいない住宅街を行くと、ちらっと眼前をよぎったものがあった。


 ――あら?


 目を凝らすと、すでに影も形も見えない。

 気のせいかなと思い直して角を曲がったとき、電信柱のかげからよろよろ現われたのは、薄茶色の老いた被毛を寒風にボサボサに乱した、見すぼらしい中型犬だった。

 歳の頃は十五、六、いや、もっと上かもしれない。

 お腹のあたりにびっしりと氷柱をぶら下げている。


「おいで。怖いことないよ」

 驚かさないように、そうっと声をかけたが、老犬はまたしても隠れてしまった。

 しばらく待つと、再び斜めに傾ぎながら、凍てついたアスファルトに現われる。

 そんなことを何度も繰り返した末に、ようやく野花のそばにやって来てくれた。


 ――首輪をつけていないところを見ると野良さん? それとも、まさか、近頃よく耳にする、高齢や病気になった犬を、お金がかかるからと故意に放つというアレ?


 問うても犬は答えてくれない。

 スマホから会社へ電話をかけると、運よく犬好きの桃瀬慎司営業主任が出た。

「すみません、リードの代わりに荷造り紐を持って来ていただけないでしょうか」

「了解! いますぐ車でそっちへ向かうから、そこを動かないでいてよ。いいね」


 営業用バンで連れ帰った老犬を大喜びで迎えてくれたのは、潔癖症の母親が汚いといやがったので、苗字に反して動物と暮らした経験はなかったものの、小学校時代も中学校時代も通学路の家々の犬たちと遊ぶのが楽しみだったという涼子社長だった。


「んまあ、あんた。よりにもよって野花さんに保護されるなんて幸運な子だよね」

 ジャケットが汚れるのも厭わず、放浪の痕跡があらわな老犬を抱き締めてくれる。

「それにしてもどこのワンちゃんかしらねえ。さっそく保健所や警察に迷い犬の届けを出すけど、飼い主さんが現われなければ、そのときは事務所犬になってもらうよ。間違っても怖いところへやったりしないから大船に乗った気でいなさいね、いい?」

 矢継ぎ早やに話しかけられた老犬は怯えもせず、おっとりと聴いている。


 かたや、人間のほうはといえば……。

 社長に言われてしまえば仕方がない。

 犬好きかどうかイマイチ定かでない保科健朗編集長や池内恵子総務部長、倉庫係の大谷勝造も含めたオールスタッフが否も応もなく事務所犬を承諾することになった。


 ちなみに、かつて同業者の集まりで「わずか六名しかいない現組織で仰々しい肩書で呼び合うのは、学校の教師が先生の敬称で呼び合うことにも似た前時代的で滑稽な感覚だろう」と意地悪な指摘をされたとき、涼子社長は涼しい顔で応酬したらしい。

「せっかくのご忠告ですが、人間は呼称によって自他ともに意識が変わると認識しております。他社は知らず弊社はこの方針を貫きますので、ご懸念はご放念ください」

 降って湧いたような老犬保護の一件もオトコマエな社長ならではの即断だった。


「で、とりあえずの呼び名なんですけどね、姫子というのはどうでしょうか」

「ヒメコ? 可愛い! 見た目はこんなんだけど、よく見れば別嬪さんだしね」

「そうですか~。でも、なんだか名前負けのような気がしないでもないけどな」

 桃瀬慎司による異議申し立ては、涼子社長と野花によって速攻却下された。


 ――いつまでいてくれるかわからないけど、当面の環境整備を急がなければ。


 三者の意見が一致する。

 涼子社長のポケットマネーを持った桃瀬慎司がさっそくホームセンターへ出向き、水入れ、フード用のトレー、ペットフード、ケージ、リード、毛布、それに散歩時に携帯するウンチぶくろなど、必要最小限なワンちゃんグッズを取り揃えてくれた。



      *



 これでひと安心と油断した矢先、とつぜん事件が起きた。

 開け放した玄関ドアから、まだ首輪を付けていない姫子が出てしまったのだ。

 事務所の前を走る道路は、一般車両に混じって大型トラックの往来が激しい。


「あっ、姫子。ひめちゃん!」

 野花の悲鳴に二階からの螺旋階段をだだっと駆け降りて来たのは桃瀬慎司だった。

 新品のリード持参で追いかけるとき、居合わせた保科編集長や大谷勝造にも応援を頼んだが、ふたりとも慌てて目を逸らし、それぞれの作業に没頭するフリを始めた。


 こういうときは人海戦術がモノを言うが、見て見ぬフリをされては仕方がない。

 やむなく野花は桃瀬慎司とふたり、トコトコ走る姫子を追いかけることにした。

 道路の向かい側には大規模な工場が移転した跡の広大な空き地が展開している。


 よぼよぼの老犬とは思えない速さで逃げる姫子を息せききって追う人間ふたりは、根雪に埋まった石や土塊に足をとられ、倒けつ転びつするばかりで埒があかない。

 そうでなくてさえせっかちな冬の日は、早くも西方の山脈に沈みかけている。

 このまま逃がしてしまったら、姫子は極寒の戸外で一夜を過ごすことになる。


 ――どうしよう。せっかく保護しておきながら、わたしの責任だ。


 身も凍るような恐怖に駆られながら、野花は逃げ足の速い姫子を必死に追う。

 とそのとき、ふいに用水路が現われた。幅三メートルはありそうな川を越えられてしまったら絶体絶命! 進退窮まったとき直前を走っていた桃瀬慎司がダイブした。


 ――ムギュッ!


 声なき声が聞こえ、跳躍した青年は薄茶色の被毛をがっちりとキャッチしていた。

 捕らえられた姫子は、意外にもまったく抵抗しなかった。「あははは、愉快な追いかけっこだったよね~」というように目を細めて、おとなしく青年に抱かれている。


「うわあ、桃瀬主任、ありがとうございます。姫子、よかった。本当によかった」

「こら、もう逃げちゃだめだぞ。こう見えてもこの姉さんは怖くないんだからな」

「なんでしょうか、こう見えてもって」

「まあまあ、言葉のアヤっていうやつ」


 乙女チックな花柄のリードを後生大事に握りしめた桃瀬慎司と、クタクタに疲れ果てた野花の両名をしたがえ意気揚々と凱旋した姫子を、どうやら犬が苦手らしい保科編集長と大谷勝造は眩しそうなまなざしで、一方、それぞれ商用先から帰社していた涼子社長と池内総務部長は、家出したやんちゃ娘を宥めるようにして迎えてくれた。


「そうやってみんなで並んでいると、なんだかほのぼのとしてイイ感じじゃない? 姫子を真ん中にして川の字になったファミリーといっても全然おかしくないよね」

 池内総務部長のオバサンらしい冷やかしに、野花は頬に、かっと血を上らせた。


 ――わたしなんかと一緒にされたら、桃瀬主任、気をわるくしますよ。


 残念ながら野花の懸念は当たったらしい。

 そっと横目でうかがうと、裃を着た侍のように両肩を四角くしゃちこばらせた桃瀬慎司は、いましもノーリアクションのまま螺旋階段を駆け上って行くところだった。


 二階の資料室には、黒百合書房の創業当初から少しずつ収集してきた地域の歴史や文学、自然などに関する書籍がミニ図書館のように潤沢に揃っており、調べもの好き勉強好きの桃瀬慎司は、営業の仕事の合い間にここに籠って資料を読み漁っている。



      *


 

 姫子の散歩やごはんなど日常的な世話係には、もちろん野花が名乗りをあげた。

 夜間や週末など、無人の事務所に姫子をひとりきりにしておくのは不憫だったが、ペット不可のアパートには連れ帰れないし、涼子社長や桃瀬慎司も同じ住環境だったので、時間がとれるだれかしかが顔を出してやることで、当面を凌ぐことになった。


 保健所のホームページはもとより、地元紙の読者欄への記事掲載依頼、黒百合書房のブログ『読書の森』での広報活動、近所の商店に写真入りの張り紙を貼ってもらうなど思いつく限りの情報の発信を試みたが、飼い主はいつまでも名乗り出なかった。


 ――家族の迎えを首を長くして待っていたかもしれない姫子を思えばやりきれないけど、これはこれでよかったよね。姫子は黒百合書房のスタッフの一員なんだもの。


 内心で念じていたとおりの結果に、野花は小躍りする思いだった。

 幼い頃から姉妹のようにして育ち、野花が中学三年のときに十六歳で天に召されたハナコという名前の雑種犬が、あまりにも不甲斐ない野花の状況を見兼ねて、自分の代わりに姫子をつかわせてくれたのだ。しきりにそんな気がしてならないのだった。


「わが社のスタッフと決まったら、一度、きちんと健康診断をしてもらおうよ」

 涼子社長の提案で、桃瀬慎司の営業車に姫子を乗せて動物病院に連れて行くと、

「え、迷い犬を引き取った? そういう方がいてくださるからありがたいですよね。全身の老化や劣悪な歯の状況から見て、推定年齢十八歳で間違いないでしょう」

 学生が白衣を羽織ったようなうら若い獣医師は、力瘤の入った診断を下した。


 目は見えず、聴力も機能の大半が失われており、おそらくは記憶力も……。

 色も音も匂いもない闇の世界を茫々と彷徨っている超高齢犬であるらしい。


 ――そんな老体になってから、敢えてわたしたちの社を選んで来てくれたんだね。黒百合書房で余生を全うしたら天国でハナコが待っているから、心配はいらないよ。


 もしも、あの朝、ウォーキングに出かけなかったら。

 踏切のシグナルを聞いてコースを変更しなかったら。

 角を曲がらず、そのまま真っ直ぐ進んでいたら……。


 いくつもの偶然がシュルシュルと収斂し、太い幹周りの必然の大木になったのだ。

 神経が細い分だけ動物的直観力に長けている野花は不思議な縁の糸を感じていた。


 

 

   3

 

 松本の生家を訪ねたクリスマスイブから一週間後の大晦日は、頭上に広がる紺碧の濃度があまりにも濃密に過ぎ、希望と絶望、喜悦と悲嘆、昂揚と落胆とがないまぜになって、どっと一気に落下して来そうに凄味のある、まったき真冬の快晴になった。


 休みの日、朝と夕方の二回、徒歩で数分の事務所へ出向いて姫子の世話をする以外は安アパートの狭い部屋に閉じ籠もっている野花は、隣接する賃貸マンションの古い灰色の陰気な外壁と向かい合っているとき、どうしようもなく気分が滅入ってくる。


 自律神経の乱れが引き起こすパニック障害の愁嘆場を防ぐための自衛手段として、とくに用事がなくてもとりあえず外へ出て、当て所もなく街を歩きまわったり、目についたカフェで本を読んだりすることを、野花は半ば強制的に自分に科している。


 それでなくても生まれ育った城下町の車も入らない小路を歩くことは楽しかった。

 旧主の徳川家康から敵方の豊臣秀吉に寝返ったことで有名な石川数正による深志城(松本城)の築城以来、毛細血管のように城下一帯に張りめぐらされた路地のいたるところに、何百年も前からこの地域で暮らす先人たちの営みの痕跡が残されている。


 歴代城主ゆかりの古刹を経めぐり、赤い鳥居の林がつづく古社の参道で日向ぼっこの白猫に声をかけ、銭湯の裏庭で仔犬と遊ぶ仔狸を冷やかしなどしながら、もとどりも初々しい若武者や、おきゃんな町娘がひょっこり顔をのぞかせそうな小路を歩いていると、たまたま放りこまれた現代社会の世知辛さをいっときだけ忘れていられる。



      *



 胸突き八丁の急坂を上ったり下ったりして、自転車一台がやっとの抜け道に冒険心をときめかせたり、真っ青な空に艶やかな紅を置く千両や万両のたわわな実をスマホに収めたりしながら過ごすと、モニターの時刻表示は早くも十一時をまわっていた。


 ふっと、お蕎麦が食べたくなった。

 年越し蕎麦なんて何年ぶりだろう。


 家族が揃っていた頃は、みんなで恒例の『紅白歌合戦』を観たあと、近くのお寺の除夜の鐘を聞きながら、母がいそいそと茹でてくれたお蕎麦を賑やかにいただいた。葱と山葵の薬味に鼻をつんとさせた弟とふたり「赤鼻のトナカイ」とふざけ合った。


 祖母が逝き、父が去り、祖父が逝き、弟が結婚し、母が逝った。

 そして、すわる場所を失った野花は、設楽家から弾き出された。


 ――わたしをこよなく愛しんでくれたかあさんが生きていてくれたら……。


 思っても仕方のないことを、またしても思う。

 こういうときはなにも考えず行動するに限る。



      *



 スニーカーの足を速めて街の中心部へ下り、城付近の老舗蕎麦店のドアを開けた。

 明治の創業期そのままの店内は、ワンと唸り立てんばかりの客でむせ返っている。


 ――いや、さすがにこれは無理だわ。


 引き返そうとしたとき、野花と同年代かと思われる背の高い店主と目があった。

 敬遠されると覚悟したひとり客を、知的な容貌の店主はやさしく招いてくれた。

 天然の木目が美しいカウンターに落ち着いて、品書からニシン蕎麦を注文する。


 この分では三十分は待たされそうだ。ウォーキングの負荷を考え、バッグに文庫本を持参しなかったことが悔やまれる。仕方なく、必要もないスマホの画面を眺める。そうしなければ、ぎっしり詰まったすぐ目の前と両横の相席との距離感がとれない。


 ネットに飽きて目を上げると、古色蒼然とした神棚で招き猫が客を呼んでいる。

 地酒。銘柄の読み取れない焼酎のボトル。中身が半分ほど減ったウィスキー瓶。

 向かいの壁の景色を見るともなく眺めているときに、ガラスが割れる音がした。


「ほおら、だめじゃないの」

「なにをやってるんだ、おまえは」

 両親の叱声に「痛い、痛い」と泣く幼児。


 学者然とした店主と並べば内裏雛のような黒いエプロンすがたの女将が走り寄る。

 別の席では早くも酒がまわったふうの半白髪の男が「いくらなんでも遅すぎるぞ」と騒ぎ始めたが、妻や娘らしい連れの女たちに寄ってたかってたしなめられている。


 カウンターの野花の相席は食べ終えた順に交替し、左隣とその向かい側に四十年輩の中肉中背の夫婦連れ、右隣と向かいに高校生ぐらいの娘を連れた夫婦がすわった。



      *



 獰猛な猫の軍団に追い詰められた一匹の鼠のような場面では決まってそういうことになるのだが、いつだったか街であまり親しくなかった高校の同級生に再会したときネチネチ恩着せがましく言われたいやみな言辞が口中に酸っぱくよみがえってくる。


「相変わらず優雅に楽しんでいるんだね、独身。いいなあ。見てのとおり、すっかりオバサンになっちゃったわたしとしては羨ましい限りだよ。でもさ、こういうことはあんまり言いたくないんだけど、うちらシガナイ結婚組はさ、シングル謳歌組に送るSNSや年賀状には子どもや家族の写真を載せないようにしたりしてさあ、けっこう気をつかっているんだよね。その辺のことは分かって欲しかったりするんだよね~」


 それを言われたら黙るしかない正論の御旗を振りかざした居丈高な人たちが、野花のようなマイノリティから見れば脅しに等しい「少子高齢化」を聞こえよがしに取り沙汰し、売上欲しさの御用達マスメディアまで尻馬に乗ってワイワイと騒ぎ立てる。


 それを真に受けた浅慮な主婦たちは、出産という野生をまるで一世一代の大事業かなんぞのように思い上がり、公園代わりのカフェに陣取って無遠慮な気勢をあげる。


「ねえ、いつも思うんだけどさ、あたしたちの子どもが結果的に子どものいない夫婦の老後の面倒まで見る社会構造って、なんかへんだよね、常識的におかしくない?」

「不公平だよ。いまのうちに税金とかさあ、がっぽり分捕ってやればいいんだよ」

「好きで子どもを産まない人たちを、なんでサポートしなきゃいけないわけ?」

「そうだよ。そんなの、へんだよ。うちらだけ苦労のし損だなんて狡いよね」


 おあいにくさま。

 独身や子どものいない夫婦は、すでに十分に重い負担を負わされています。

 間接的に子育てを担っているんです。


 基本的な事実も弁えずに思惑ある勢力の恣意に踊らされている愚者たちの暴言に、よんどころない事情を抱えた人たちは、日常的に肩身の狭い思いを強いられている。


 第一、国が勝手に開戦した太平洋戦争で失った人口を「産めよ増やせよ」と煽って無制限に膨張させ、結果、ベビーブーム転じて団塊の世代なる妖怪を生み出したのはほかならぬ、ときの政権ではなかったのか。国家が繰り返してきた恥ずべき史実を、いまさら国民個人の責任に転嫁するなど、論理のすり替えもいいところだろう。


 ――刺激に飢えた主婦の好奇心を剥き出しにして、いまだに独身の同級生に探りを入れてきた彼女だって、新聞部の櫟原史也との一件は承知しているはずなのに……。



      *



 袋小路に入りこみそうな野花の回想は、隣席の会話でピリオドを打たれた。

「ねえ、パパ。帰りにスーパーへ寄ってよ」

「スーパー? さっき寄って来たばかりじゃないか」

「だってえ、ニンニクを買い忘れたんですもの」

「まったくしょうがないなあ。大晦日の午後は混むぞ」

「えへへ、ごめんなさあい」


 スマホから目を離さない娘が夫婦の話に参入する。

「ねえ、ママ。イチョウ坂って、全員揃っては出ないんだってよ、紅白」

「そりゃあそうでしょう、あれだけの人数じゃ、舞台に乗っかりきれないよ」

「そっかあ」


「イチョウ坂ねえ。いい大人がお子ちゃま紅白につきあわされるのはごめんだな」

「それちがうよ、パパ。いつまでも昭和のままの感覚がついて来れないだけだよ」

「ふふ、言われてみればたしかに。でもね、マユ、同じ昭和生まれでもママはちがうわよ。ヒップホップのインストラクターにね、センスあるって褒められたんだから」


「そのインストって、例のイケメンくん?」

「ふふふ、まあね」

「パパ、うかうかしてらんないかもよ」

「ん? どういうことだ」

 

 長髪を縦ロールに巻いた中年妻とチャラい娘にいいようにあしらわれている頭頂部の薄い夫の面影が、高校時代、残酷な屈辱を強いられた男に似ているような気がして胸をざわつかせながら様子をうかがったが、さいわいにも思い過ごしのようだった。


 こういうときに、厨房の都合かなにかでうっかり配膳の順番を乱されでもしたら、持ち前の被害者意識が一気に加速する。年の終わりにいやな思いは勘弁してほしい。


 ――お願い。わたしのニシン蕎麦が先が来て。


 必死の願いが適ったようなので、ひとまず、ほっとする。

 揃って天ざる蕎麦を注文した左隣の夫婦は、地味な装いの妻が自分の分の大方を夫の笊に移してやっている。甲斐甲斐しく尽くされる夫は当然のごとく礼も言わない。


 右隣では「わたし、あまりお腹が空いていないから、お蕎麦はいらないわ」殊勝な台詞に反して山盛りの天麩羅を頼んだ縦ロール夫人は「パパ、ズッキーニ食べる? 舞茸もヘルシーだし、南瓜も甘くて美味しいわよ」盛んに勧めるそばから「ちょっとちょうだい」夫の蕎麦に遠慮なく箸を伸ばし、見る間にまるまる笊一枚を平らげる。


 スマホのゲームに夢中の娘は、なにを口に運んでいるのかすら意識にないらしい。

 自分の身を養った経験もない小娘が、平均的な客単価は二千円前後にはなりそうな高級老舗の年越し蕎麦を賞味するという分不相応な恩恵に与かっているというのに。


 ――厨房の職人さんに失礼でしょうが。注意もしない親の気が知れないわ。


 隣席の動向に気を取られているうちに、北海の荒波に揉まれてかたく締まった身が口に入れるとほろりと崩れる絶品のニシン蕎麦はいつの間にか汁だけになっていた。


 それでも大晦日にふさわしい行動をとれた自分に辛うじて及第点を付けた野花は、大学の理系の研究室に置いたら似合いそうな店主に見送られて、縄暖簾の外へ出た。

 


 

   4

 

 かつては映画館があった一画に、現在は高層マンションが聳えている。

 小さな公園から縄手通りに出ようとした野花は、ぎくっと足を止めた。


 初老はとうに越えたと思われる乾いた白髪の男性が、いままで健康に関心を払ってこなかった人特有の前のめりの歩行姿勢で、チョコチョコ目の前を通り過ぎてゆく。

 寄り添う女性も年寄りくさく背を丸め、年齢以上に老け込んだ身体を運んでゆく。


 父と女だった。

 母を捨てて行ってから、隣接する市の郊外に小さな家を建てたと聞いている。

 両者とも垢ぬけない身なりだが、質素な歳取りの買い物に出て来たのだろう。

 野花に気づく風もなくうつむき加減で通り過ぎてゆく老男老女が、むなしい。


 ――父の老後はどうなる?


 重苦しい想念が湧き上がるたびに、いまさら野花や弟の出番でもないだろうねと、汚いものを振り払うように頭から追い払ってきたけど……思ったとおりだったよね。


 いまの父の家族は自分たちではなく、かつては嫋々たる色香の持ち主で若い未亡人に群がる男たちを片端から虜にしたという噂が嘘のような、あの貧相な老女なのだ。


 なんだかひどく阿呆らしいような、ほおらごらんと言ってやりたいような、そうは言っても血を分けた子どもとしてはやりきれないような、複雑な気持ちを持て余した野花は、出店の賑やかな縄手通りに隣接する四柱神社の境内を急ぎ足で突っきると、駅前から出ている周遊バスに乗って、姫子が待つ黒百合書房の事務所へと向かった。



      *



 今年最後の薄い陽光を浴びながら花柄のリードで姫子を散歩させていると、自分にも明るい未来が待っていると信じていたころの情景がもの悲しくよみがえってくる。


 たまたま聴いていたラジオから、暗く沈んだ女性の声が流れて来たのだった。

「わたしのようなひとり者にとっては、年末年始やゴールデンウイーク、お盆など、日本中がファミリー色に染まる期間ほどさびしくて落ち着かない時節はありません。一刻も早く過ぎ去ってほしいと、アパートの部屋で息を潜めて待っているのです」

 あのときのリスナーの女性の気持ちが、現在の野花には痛いほどわかる。


 ――大晦日をひとりで過ごすことは、人としての不幸なのです。


 ずっと昔から暗黙裡に言い交わされているこの国の風習、ずしりと重い。

 あらゆる活動が停止した住宅街を席巻する奇妙な静謐は招じ入れられることのない暖炉のオレンジ色の炎を、それに象徴される他者の幸福を、冷たい雪の降り積む窓の外から眺めているしかなかった、マッチ売りの少女の孤独と絶望を思い起こさせる。


 一部の富める人たちは自らの幸せをアピールしなければ気が済まないのか、今宵もまた山に沈んだ太陽の代わりに青や緑の人工的な光を戸外まで撒き散らすのだろう。

 これ見よがしに飾り立てられたイルミネーションは、ときに憎しみの対象となる。

 野花の気持ちに敏感な姫子が、つと足を止め、見えない目でうしろを振り仰いだ。


「あらあら、いけないいけない。さあ、帰ろうかねえ。今夜はお利口さんの姫子にも上等なお肉を用意してあるからね。年に一度のお楽しみだよ。よかったねえ、姫子」

 ひとり言のように告げながら、簡素な松飾りをつけた事務所の玄関ドアを開ける。




      *


 

 その夜――

 いつもの温野菜に好物の塩鮭の粕煮を添えて、ささやかな年越しを祝った野花は、半身浴のあと晴れ着代わりに用意した真新しい水色のシルクのパジャマに着替えた。


 棚の駕籠から毛糸を取り出すと、FMラジオを点けて編み棒を動かし始める。

 少し前まではだれにとも贈る宛てがないネックウォーマーに没頭していたが、いま八号の棒針で編んでいるのは、やはり、プレゼントの宛てのないスヌードだった。

 無事に編み上げたあかつきには大物のセーターに取りかかる予定で、貧しい野花にはいささか贅沢だが染色美が際立つドイツ製の毛糸をネット通販で取り寄せてある。


 箪笥代わりのプラスチックボックスには、裏布付きの巾着袋が十数枚眠っている。

 手先の器用さは亡き母親の幸乃ゆずり、気持ちの振幅が大きくなりがちな野花は、やわらかな布や毛糸類に触れているときだけ、芯からの安心感に包まれるのだった。


 クラシックを聴きながら指を動かしていると、思いは羽を広げ自在に駆け巡る。

 いまごろ涼子社長は年末恒例ボクシングのライブ放送に熱中しているだろうか。


「だからといってスポーツ一辺倒っていうわけでもないんだよねえ。たまたまいまは健康に恵まれているけど、人間いつどうなるかわからないんだし、大前提として丈夫でないと運動自体がご法度なんだし。そう思えば手放しでスポーツ礼讃なんてとてもとても。いまこの瞬間のアスリートの幸運をお裾分けしてもらっているつもりなの」


 男性社会がいまだに幅を利かせる出版界でコネも人脈もなく、やっかみ半分の毀誉褒貶にさらされ、それでも安易な妥協はせず、変人の女社長と陰口を叩かれながらも急流の木の葉のように揉まれつづけてきた涼子社長の、それは体験的人生訓だった。



      *



 とりとめもない思いはさらに巡る。

 寒風の大空に弧を描く凧のように。


 事務所のケージで眠っている姫子は、かつて子を産んだことがあっただろうか。

 出版界と同じく古い体質のマスコミは、有名人の出産のつど手放しで礼讃する。

 だが、親になった瞬間から忍耐と試練の連続である子育ての実態は、おめでとうの余韻が消えないマイクで報じられる児童虐待や子殺しが如実に物語っているだろう。


 子どもの側からすれば、自分の意思とは無関係にこの浮世に産み落とされ、多寡はあれど苦労と無縁ではいられない人生を強制的に負わされたあげく、当の親を初め、だれひとり将来に責任を持ってくれない。世間もマスコミも平気で嘘をついている。


 イソップ童話より残酷な現実を思っていると、ふと外国のメロディが流れてきた。

「予告もなしにとつぜん聴かされる子守歌、あのせつなさを思えば、子どものいない女性は人生に特典を与えてもらっても罰は当たらないと、心底から思うんだよねえ」

 涼子社長の率直な呟きがよみがえり、野花はリモコンの電源をオフにした。


 ――ゴーン。


 どこのお寺だろうか、除夜の鐘を突き始めたらしい。

 真の闇が支配していた時代には、去る歳を偲び来る歳を迎える人の耳に、心に、殷々と訴えたはずの鐘の音は、現代ではよほど注意していなければ聞き取れない。

 表目と裏目を繰り返す棒針の手を止めた野花は、照明器具の天井を振り仰ぎ、


 ――あけましておめでとうございます。


 夜空の母とハナコ、それに事務所の姫子に新年の挨拶をした。




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