六連星と黄水仙――本づくりの流儀 🍹

上月くるを

第1話 プロローグ




 心が傷んでいても ほら 笑ってごらん

 空に雲があれば きみはきっと生きていける

 悲しみを乗り越えて 笑っていれば 明日は

 きみのために輝く太陽に出会えるだろう

 たとえ すぐそばに ひと粒の涙があっても

 喜びで顔を照らし 悲しみの跡を消してごらん

 人生にはまだ価値があると きっとわかるはずだよ

 きみが笑ってさえくれればね

     (チャールズ・チャップリン『Smile』)


      *



「これって一種の職業病かしら。テレビの人たちって、ほんとに残酷ですよね」

 築三十年の木造住宅には不似合いなロココ調ソファに矯正下着のラインがあらわな背を預けた義妹の智美は、露骨な訳知り顔で二重顎をゆっくりと上下させてみせた。


 ――大丈夫ですよ、お義姉さん。わたし、すべて承知していますから。


 祝賀ムード一色に弛みきった画面から、いやな予感が押し寄せてくる。

「ご結婚おめでとうございます。お子さんは何人ぐらい欲しいですか」


 ――やっぱり!


 胃の底から苦い液が込み上げ、身体中の自律神経がチリチリと騒ぎ出す。


 いまどき信じがたい陳腐なセクハラ愚問を放ったのが若い女性記者だったこと。

 海外で活躍するアスリートが太い指を折ってチームの人数を挙げてみせたこと。

 早くも妻然とした態度の女優がすかさず華やかな笑顔を振りまいてみせたこと。

 絵に描いたような夫唱婦随を目の当たりにした記者会見場がどっと沸いたこと。

 それよりなにより、たかが私事の発表にわざわざクリスマスイブを選んだこと。

 なにもかもが道化だった。


 いやなものを見た。

 いやなものを聞いた。

 いやな匂いを嗅いだ。


 ――ハッハッハッ。


 自分のなかの不快感を意識すると、にわかに呼吸が浅くなった。

 鼓動がスタカートのように飛び跳ね、制御不能の暴走を始める。

 

 ――ツー、ツツーッ。

 

 ジグザグに背骨を這っていた脂汗がベルトの空隙から一気に臀部に滴り落ちる。

 息が、息が苦しい。



      *



「昨日は昨日で人気シンガーに第一子が生まれたとかで各局とも大騒ぎだったしね。いろいろな立場の視聴者にどうして配慮ができないのか神経を疑いますよ、ったく」

 善意の前言への返礼がないことに苛立った智美がつんつん尖った声を重ねてくる。


 出産どころか結婚の予定さえ聞かないアラフォーに気をつかってくれていることはありがたいし、歳下なのに余計な神経をつかわせて申し訳ないなあとも思う。だが、それは巧みに安全圏内に入れた人間だけに許される、ある意味、傲慢な台詞だった。


 地元の私立短大を卒業後、市会議員を務めていた父親のコネ、というかごり押しで信用金庫に入社し、異業種の合コンで知り合った雄太といわゆる授かり婚で設楽家の一員になった智美は、自分が仕切る家庭と地域、せいぜいパート勤めの職場のエリアぐらいが社会だと信じて疑わない女性にありがちな、軽薄な自慢癖の持ち主だった。


 角張ったベース版型フェイスの真ん中に、巨大な団子鼻が、でんと居座っている。

 造形の神の趣味を疑いたくなるほど野放図な広がりを見せている小鼻を、ことあるごとにピクピク動かし、自分や家族(実家を含め)の自慢をせずにいられない義妹にわずかでも精神的なものを期待する徒労を、義姉の野花はとうの昔に放棄していた。


 他者の痛みに思いを馳せられる者は、傷口に塩を擦り込むような真似をしない。

 自分がどうしてやることもできないのなら、せめては知らぬふりでやり過ごす。

 わざわざ話題に出して、切なさや辛苦を上塗りするような愚昧は絶対にしない。



      *



「ねえ、お義姉さん、そう思いませんか」

 答える代わりに野花は、膝の上で寝息を立てているハッピーの小さな頭を撫でる。


 一昨年の夏、近所のホームセンター内のペットショップで、夏休みキャンペーンの特別廉価で購入したとかいう真っ白な小犬は、ごたぶんにもれず、近ごろ人気と聞く超小型犬で、当時、小学二年生だった甥の青磁せいじがひと目惚れしたのだそうだ。


 あえて一匹だけ売れ残り、閉店間際の店内で「くふ~ん」と心細げに鳴いて自分を待っていたのだと信じている青磁に、悪辣なペット業者の金儲けのため口にするのも憚られるほど劣悪な環境で狭い檻に閉じ込められ、散歩もさせてもらえず、繁殖専門に飼育されている両親から生まれた子かもしれないとは、どうしても言えなかった。


 人間と同じ、いや、むしろ言葉にして喜怒哀楽を訴えられないだけに、より鋭敏な心をもっているのかもしれない動物を、痛みや感情のない物品として金銭で売買する不条理は、犬に純粋な愛情を注ぐ少年にではなく、その保護者にこそ伝えるべきだ。


 だが、市内一番の規模を誇る眼鏡チェーン店に勤務する父親も、近所のコンビニで短時間パートをしている母親も、揃ってそういうことには関心が薄い性質のようだ。



      *

 

 

 テレビ画面は自然番組に替わっていた。

 風に運ばれた植物の種が着地して新たな芽を出す。

 それが成長し、そこからまた種が飛んで行き……。

 生命の連鎖を取り上げただけの、ごく平凡な内容だが、長いことそのことで病んでいる心には、たくましい繁殖の事実そのものが、びしっと食い込む靭い鞭になった。


 せっかくこの世に生命体を授けられながら、母として子孫を残してやることができない身が森羅万象から責められているような気がして、またもや心拍数が上昇する。


 まして、野生界の弱肉強食を執拗に追う番組など、もはや観るに堪えなかった。

 ついさっきまで生き生きと活動していた生命体が、ライオンやオオカミなどの力の強い猛獣に襲われたつぎの瞬間、新鮮な湯気を立てる量感ある食糧に変わっている。


 草原をひたすら逃げまわったあげく、呆気なく獰猛な肉食獣の餌食になるシマウマやシカなど草食動物の傷ましさが、人間界で異端に追いやられている自分に重なる。

 全身の自律神経が総動員で悲鳴をあげ、嵐の森のように暗鬱なざわめきを立てる。



      *



 野花はできるだけさりげない口調で告げる。

「ごめんなさい。わたし、そろそろ失礼するわね。雄太と青磁くんによろしくね」

「まだいいじゃありませんか、お義姉さん。みんなでイブをお祝いしましょうよ」

 慌てて社交辞令を唱える智美の、ぎょろっと大きな二重瞼に安堵の翳が走った。


 ――正直な人。わるい人ではないけど、ごくふつうの人。


「ありがとう。年内に母さんにお線香を供えたかっただけだから」

 静かにソファを立ち上がると、ハッピーがフレアスカートにまとわりついてくる。


 犬そのものよりも血統書付純血種の金看板のほうが弟夫婦には気になるらしいが、それにしては、見るからに人(犬)の好さそうな困り眉に愛嬌があり過ぎて困る。

 ミックス(雑種)贔屓の野花にとっては、まったく問題ないのだけれど……。


 そもそも人間自身が古来から種々雑多な血を混じり合わせてきた雑種そのものなのに、いや、であればこそと言うべきか、無意識かつ本能的なコンプレックスの裏返しのように、飼い犬の出自に血道をあげたがる、歪んだバランス感覚こそ滑稽である。


 生まれ落ちたときから不衛生な檻に閉じ込められ、外光の眩しさも風の爽やかさも鳥の鳴き声も、花の芳しさも、行き交う人びとや犬との交流の楽しさも知らず、子宮が空く間もなく孕まされたあげく、お役御免になればボロ雑巾のように捨てられる。


 闇から闇が運命の繁殖ロボット犬から生み落とされた純血種なるものより、自然な愛の営みで誕生した雑種犬のほうが、生物学的にも人(犬)道的にもより純粋の名にふさわしいのではないか。もちろん、ハッピー自身には一片の罪もないのだが……。



      *



「すみませんねえ、せっかく来ていただいたのに。雄太は店長になってから遅いし、青磁は空手道場から塾へまわるかもしれず。家族バラバラでお恥ずかしいですわ」

「忙しくて結構よ。わたしもこれから仕事なの。年末はお互いに慌ただしいわね」


 休日には缶ビールを手にソファに転がってお笑い番組を観るのが楽しみという、絵に描いたような自堕落亭主の雄太はともかく、年齢や性別を越えてなぜか相性がよく星の観測という共通の趣味まで持つ青磁には、本当は年内に会っておきたかった。


 同年代の女性同士なのにここまで? と呆れるほど呼吸が合わない智美との会話を早々に切り上げ、無邪気にあとを追いかけて来るハッピーに「またね」と手を振っておいて玄関の外へ出ると、冬至を過ぎた薄い夕日が早くも西の空に傾きかけていた。



      *



 一歩一歩遠ざかりゆく設楽家には、祖父母や両親、弟と暮らした思い出が詰まっているが、五年前、母が亡くなったときから、よそよそしい距離感のある家になった。


 隣接のまちに女性と暮らす父が、無言の圧迫に負けて土地建物の相続を放棄した。

 その場の勢いに押され、独身でアパート暮らしの野花まで示された書類に署名捺印したその時点で、生まれ育った家は呆気ないほどすんなりと弟夫婦の所有になった。


 その瞬間から、家を取り巻く空気にときに茨や氷が含まれるようになった事実を、ひたすら野花の身を案じて死んでいった母が知れば、どんなに悲しむことだろうか。


 ――わたしにはもう帰る家がないんだね。

   かあさん、かあさん、かあさん……。


 母譲りの肌に映りがいいホワイトベージュのマフラーに顎を埋め、枯蘆がそよぐ冬の川添いの道を歩いて行くと、風に乗ってオルガンの伴奏と賛美歌が聴こえて来た。




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