花束をスカートのポケットに

鷹月のり子

第1話

「花束をスカートのポケットに」

 

 

 真藤由未は来月には夏休みという時季に転入してきた新しいクラスメートを見上げ、教壇の上にいる彼女と目が合った。肩までの髪をタンポポ色のカチューシャでまとめている彼女は転校初日なのに、あまり緊張していない様子で柔らかい微笑みをくれる。

「ミタ・マコです。2ーBのみなさん、よろしくね」

 彼女は黒板にチョークで美田孫子と書きつけている。故事にかけた冗談のような名前にクスッと失笑してしまったのは由未だけで、他のクラスメートは黙っている。おかげで目立ってしまい、孫子が再び視線を投げてくる。由未の席は最前列で、わずか数歩の距離にいた孫子が近づいてきた。早く穫りすぎたオレンジのような爽やかな香りがするけれど、顔は挑戦的だった。

「どうして笑ったの?」

「ご…、ごめんなさい」

 反射的に謝ったのに、孫子は重ねて質問してくる。

「どうして謝るの?」

「それは…その…」

「あたしに謝らなきゃいけないような意味で、笑ったの?」

「そうじゃ…なくて…」

「あなたの名前は?」

 矢継ぎ早の質問が放たれているのを、さすがに教師が止めてくれる。

「美田さん、初日なんだから」

「あなたの名前は?」

 教師を無視して重ねてくる。由未は答えることにした。

「真藤由未よ。マコトにフジ、理由のユウ、未来のミで、ユミ」

「そう、由未。いい名前ね」

「…あり…がとう」

「わかりやすい単純な名前。きっと、お父さんが弓を好きで、あなたも弓道部?」

「っ、なっ…」

 正鵠を射られて由未は驚いた。とっさに足元のカバンへ視線を落として、相手にヒントとなるような弓道具や矢筒を置いていなかったか、確認したけれど、それらは無い。

「ってことで、由未って呼んでいい? それとも由未ちゃん?」

「何が、ってことで、よ。いきなり馴れ馴れしくされる覚えはないわ。だいたい、人の名前をわかりやすい単純な名前なんて失礼で…」

 由未の反論を教師が途中で切ってくる。

「二人とも、いい加減にしなさい」

「先生、あたし目が悪いの。一番前にしてください。ここがいい。左利きだから」

 孫子は由未の左隣を指している。もちろん、そこには他のクラスメートが座っていて空席ではない。それを乗っ取ろうというのだ。

「……。美田さん、あなた本当に目が悪いの?」

「はい。ほら♪」

 教師から疑いの目を向けられた孫子は、スカートのポケットから眼鏡を出した。

「この通り」

「そう……でも、どうして眼鏡を最初からかけていなかったの? 一番前になりたいくらい悪いなら、普段からかけているのが自然でしょう?」

「第一印象は大切でしょう?」

 孫子が語尾を教師に巧く真似て発音したので、クラスメートたちが笑った。

「つかみはOKね」

「もういいから座りなさい! 小林くん、美田さんに席を替わってあげていい?」

 由未の隣席だった男子は異を唱えなかった。転校生の紹介が長引き、廊下で待っていた一限目の歴史教師が授業を始める。由未の左側に座った孫子が小声で話しかけてきた。

「由未ちゃん、教科書いっしょに見ていい?」

「……。ええ、どうぞ」

 断るのも大人気ないと思ったので、孫子に見えるよう教科書を開く。けれど、内心では苛立っている。しかも、眼鏡はポケットへ戻していて裸眼でも十分に見えている様子だった。左利きというのは本当らしく、由未は右利きなので机を寄せ合って教科書を見ても、夏服の袖が触れ合うくらいで邪魔にはならない。並んで座って気づいたことに、孫子は態度のわりに小柄で、女子としては長身の168センチある由未から見れば、15センチ以上も差がありそうだった。

「……」

 とくに気取っているわけでも意識してクールな雰囲気を保っているわけでもないけれど、すらりとした長身と大人びた口調のためにクラスメートや弓道部の先輩でも由未をチャン付けで呼ぶ者はいない。さきほどは担任の教師と同様に孫子の調子に圧倒されたが、このさい非礼な転校生へ、一言いっておくことにした。

「私のことを、由未ちゃんと呼ぶのは、やめてちょうだい。不愉快よ」

 高圧的に身長差を活用して一睨みする。背が高いうえに、長い髪をポニーテールに結い上げているので、より高く見える由未から睨みつけられた孫子の顔から微笑みが消えて真顔になった。由未は左手で大きく前髪をかきあげて肘を孫子に向ける。無意識で行った仕草だったけれど、孫子の額に肘があたりそうになり、由未の袖から搾りたてのミルクのような甘い匂いがしたけれど、睨む目も、告げた口も、甘くない。

「「……」」

 相手は答えず、由未も黙る。もう授業が始まっているので当たり前だったけれど、イヤな空気が生まれて居心地が悪い。歴史教師は淡々と授業を進めている。

「…ガリアのローマ軍によって皇帝に推され、在位361~363年の短期に、新プラトン派の哲学などを基調に古典文化の復興をはかり、伯父コンスタンティヌス1世が公認したキリスト教をすて、異教を信仰したために皇帝ユリアヌスは後世に背教者と呼ばれ…」

「「……」」

 由未も、孫子も、授業が耳に入っていない。お互いの緊張状態から、先に脱したのは孫子だった。

「さっきは、ごめんなさい」

 由未にだけ聞こえる声で謝り、頭を下げている。

「調子に乗りすぎました。ごめんなさい」

「……」

 もとはといえば、非は由未が自己紹介していた相手の名前を笑ったことにあり、こうも素直に謝られると、逆に恥ずかしくなった。

「……いいのよ、私こそ笑ったりして、ごめんなさい」

「あたしと仲直り、してくれますか?」

「ええ」

「じゃあ、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしく」

 根は素直でいい子なのね、と由未は印象をあらためた。休み時間になると、孫子はクラスメートたちに囲まれた。

「どこから来たの?」

「南米のシエラレオネ共和国です」

「……どこ、それ?」

「どこでしょう?」

「また、ウソかよ」

「はい。シエラレオネ共和国は南米ではなくて西アフリカですよ」

「っていうか、美田ちゃん、ウソばっかりじゃん」

「そうなんです。つい、ウソをついちゃう癖があるので、あまり信用しないでくださいね。さて、あたしはウソつきです。これは本当でしょうか?」

「ぇっ……と、……ウソつきが…ウソつきだと言うと…」

「うふふ」

 小柄で愛くるしい外見のために男子が多く集まっているけれど、軽くあしらっている。どうせ由未は隣席なので話す機会は自然にあると思い、あえて聴いているだけだったが、由未の席にも一人だけ別のクラスの男子が訪ねてくれる。

「やあ」

「ケン君、おはよう」

 三週間前に由未から申し込む形で、付き合いだした関係だった。

「あの子が転校生?」

「ええ、美田孫子さんよ」

「さっそく人気者みたいだなァ…」

「いきなり先生のモノマネをしたり、いろいろあったから」

「いろいろ?」

「た…たいしたことじゃないの。…」

「ふーん……真藤さんの隣になったんだ」

「ええ、目が悪いからって。……でも、さっきの授業中、眼鏡はしていなかったけれど……。それに、左利きだって言ったのに、右でもペンを使っているみたい」

 由未の視線と声を感じた孫子が反応してくる。

「あたし両利きなんです」

「……本当に?」

「本当ですよ。これを見てもウソだと思いますか?」

 孫子は両手にペンを一本ずつ持って器用に左右でクルクルと回して見せる。利き手ならできる生徒もいる芸当だったが、両手同時となると、拍手が起こった。

「芸達者なのね」

「はい。あ、その人は? 別のクラスの人ですか?」

「ボクはC組の中嶋紀彦、みんなにはケンって呼ばれてるけど」

「ナカジマ…ノリヒコ? なのに、ケン? どうしてですか?」

「なんだか、いつのまにかね」

 ケンはテレて誤魔化したので、由未が補足する。

「県大会の入賞常連なのよ。それで、みんなが県、県って呼んでいるうちに、ケンで定着したの」

「へぇぇ、すごいですね。弓道の?」

「あ、いや、ボクはテニス部なんだ」

「テニス部、……テニス部って女子と混合ですか?」

「そうだよ。もしかして、入部志望?」

「はいっ、一度やってみたかったんです」

 いい返事をして微笑んだ孫子に、ケンも微笑みを返した。

「じゃあ、放課後、あそこに見えてる部室に来て。三年生のキャプテンにもメールしておくから。ボクは一応、二年だけど副キャプだし」

「ありがとうございます」

「そんな丁寧に言ってくれなくてもいいよ。同じ学年なんだしさ。あ、そろそろボクは教室に戻るよ。また、放課後に」

 ケンと孫子のやりとりを黙って見ていた由未は、当初の疑問を投げかけることにした。

「そういえば、さっき私が弓道部だって、なぜわかったの?」

「それは宿題ですよ、ワトソンくん」

「ふ~…」

 由未がタメ息をついているうちに、次の授業が始まるチャイムが鳴った。放課後、由未が弓道場での練習を終えて部室でケータイを確認すると、ケンからメールが入っていた。仮入部してみるという孫子とスポーツ店へテニスウェアを買いに行くから、という短い文章が着いている。

「……」

「ええの? ユミリン」

 同じ弓道部員で友人の茂木友美が覗き込んで、本人の代わりに憤慨してくれる。

「ちょっとケンも無神経やで。いっしょに帰るんは男女交際の基本やのに」

 後片付けの都合などでテニス部の方が早く終わることが多いけれど、ここ三週間はケンがアルバイトの無い日は待っていてくれた。三日に一度くらいだったが、いっしょに帰ることが習慣になりかけていただけに、バイトの無い今日は約束していたわけではないものの、これは一種の裏切りだった。

「仮入部て、マコとかゆー転校生やろ」

「ええ」

「ざあとらしいで二年の夏にもなって初心者で入部やなんて。練習中も、ずっとケンにべったりで。あの男もアホやけど、こんなんやったら仲介したウチもユミリンに悪いわ」

 弓道場からテニスコートはよく見える。由未が見ないようにしていたものを茂木はしっかり観察していたようで、訊いてもいないのに誇張して報告してくれた。

「見ててウチまでイライラしてくるし! 手取り足取りベタベタしくさって!」

「コーチしてもらっていただけでしょ」

「せやけど……ええのん?」

「テニス部のことに、私が口出しする道理は無いわ」

「ほんでも…帰りまで…」

「ウェアを買いに行くんでしょ。とくに抗議するようなことではないわ。変に騒ぎ立てないでくれるかしら。とても、くだらないことよ」

 それ以上は話したくないという態度を取り、由未は読みかけの文庫本を開いている。茂木も諦めて着替え、二人で帰った。

 

 三日後の日曜日、午後3時までだったバイトを終えて帰宅していたケンはメールを受信していた。

(今から予定ありますか?)

 という孫子からのメールに(とくに無いけど?)と返答して数分後に、家の玄関からチャイムが響いてきた。母親が誰かと会話している。すぐにケンが呼ばれて玄関へ向かうと孫子がいた。

「こんにちは。来ちゃいました」

「ぇ…、でも…、…どうして…」

「県大会のトロフィー見せてくれるって約束しましたよね」

「あ…うん…」

 そんな話はしたけれど、約束までした覚えはなかった。孫子は手土産のケーキ箱を母親に手渡して微笑む。

「いくつもトロフィーあるなんて、すごいですね。ケンさん」

「そんなにたいしたことないよ。県大会なら優勝できるけどブロック大会だとベスト8止まりなんだから……ま、あがって」

 部屋に案内された孫子は一通りトロフィーと賞状を誉めそやした後、自分のスカートの止め金を外した。

「こっちを見てください」

 スカートのチャックもさげていく。

「マっ、マコちゃんっ?!」

 動転しているケンにかまうことなく、孫子はスカートを脱いでしまった。さらにブラウスのボタンを外すと、何の迷いもなく脱いでイスにかけた。

「どうです? 似合ってますか?」

「ぁ…あ、…あ、うん…三日前にオーダーしてたウェアか…」

 スカートの下から、テニス用のミニスカートが現れ、ブラウスの下にはタンクトップを着ていた孫子は嬉しそうに新品のテニスウェアを見せびらかしている。

「今朝、電話したら、お店に入荷してるって。取りに行ったら、すぐ着たくなっちゃってガマンできなかったんです。変ですか、あたし?」

「う、ううん、わかるよ。その気持ち、ボクも新しいの買ったときは家で着てみたりするから」

 ケンが共感してくれたので孫子はますます嬉しそうにポーズを取る。習ったばかりの動作で存在しないラケットを振る真似をすると、ひらひらとスカートが舞い上がり下着が見える。アンダースコートまでは着ていないので、うすい若葉色のショーツが見え隠れしながら踊っている。

「……」

「あ…すいません、埃たちますよね。ごめんなさい」

「いや、いいよ。本当に楽しそうだなっと思ってさ」

「はいっ、すごく楽しいです。やっぱり、上手な人から習ってると楽しくて楽しくて」

 男の部屋に二人っきりという状況でも、孫子がタイミング良く喋るので黙り込んでしまうことはない。テニスや学校のことで会話が続き、時間が過ぎていった。

「ふ~……疲れちゃいました。ちょっと横にならせてもらっていいですか?」

「あ、うん。どうぞ」

 ケンに訊いてから、ころんと寝転がる。さらに、孫子がベッドの棚へ手を伸ばすと、ケンは短すぎるスカートの中に視線誘導されてしまい、見られてはいけない雑誌を見られているのに気づくのが遅れた。

「これってケンさんの好きなアイドルとかですか」

 孫子が開いているのはアイドルグラビアではなく、ケンが健全な17歳の男子として、健全な青少年を育成する条例を無視して所持している文書図画だった。孫子の目に全裸で開脚した女性の写真が飛び込んできた。

「っ……」

 孫子は慌てて雑誌を閉じ、元に戻した。見なかったことにしようとしている様子だが、その耳も、顔も紅く染まっていく。

「……」

「あ、…いや、…それは…」

 うろたえているケンにスカートの中を見せる形で寝転がっていたのを、バッと起きあがって直して、スカートの裾を押さえた。

「……」

「…そっ…その本は、…と、……友達が勝手に置いて…」

「……」

「…別に、ぜんぜん…見てなくて……置いたまま…」

「……」

 孫子は黙り込んで赤面したまま、ケンから身体一つ分の距離をとる。

「……も、もう、こんな時間、そろそろ迷惑ですよね。ぁ、あたし、帰ります」

 時計も見ないで孫子は立ち上がった。ケンも形だけの見送りをして、部屋に戻ると頭を抱えてベッドに倒れ込んだ。

「なにやってんだよ! ボクは!」

 煩悶して転がると、条例違反の雑誌をゴミ箱に叩き込んで、さらに少年らしい七転八倒を1時間ばかり繰り返した。

 ピピピ♪

 メールの着信音が響いている。

「……マコちゃんから…」

 恐る恐るメールを開いてみた。

(さっきは変な態度をとって、ごめんなさい。どう謝っていいかわからないですけど、本当に、ごめんなさい。嫌わないでください)

「…マコちゃん……そんなボクの方こそ」

 すぐに返信する。何度かメールをやりとりするうちに、元通りの応答ができるようになり、明日の朝練を待ち合わせて行くことになった。

 

 翌朝、弓道場で軽い朝練をしていた茂木はテニスコートを見ていて業を煮やし、由未が読んでいる文庫本を取り上げた。

「ゆーちょうに剣客モノなんぞ読んどる場合でっか? ユミリン殿っ! あっちでポコンポコンって二人で遊んでまっせ」

「……。朝練くらいするでしょうね」

「超ミニのスカートで、走って飛んで、あいつ一分間に何回パンチラしとるんや」

「……。テニスを変な目で見るなんて、本当に下品ね」

「おっ、またジャンプ&パンチラ、ヘソ見せセット! おまけに微笑み! あ~っと、男も初心者の下手くそな返球を打ちやすいとこへ返して好感度あーーぷっ!」

「……。くだらない」

「下手なスマッシュ見せるに似たり! しかも、転んだ! お約束の尻もちパンチラ! みえみえやのにアホな男は心配して駆けよる! でもって思いっきりパンツ見せてから今さらスカート押さえて赤面かますっ! うまいでぇ! マコ選手そうとうの手練れや! 手を握り合って起こしてもらう! すさまじいオフェンスの連続っ! さあ、ここから、どうディフェンスしますか、ユミリン監督!」

「……」

「あ、キスしとる」

「ぇっ!」

 さすがに由未がテニスコートへ視線を向けたけれど、孫子とケンは普通に打ち合っているだけだった。にんまりと茂木が微笑んでいる。

「ウソや。ジョーク、ジョーク」

「あなたねぇ!」

 由未は声を荒げて、友人の襟元をつかんだ。

「なんや、ちゃんと感情あるんやん」

「っ…」

「あんまりスマしてるから人形かと思たわ」

「……。乱暴して、ごめんなさい。でも、あなたが悪いのよ」

 由未は手を離して、乱してしまった茂木の制服を丁寧に直している。

「……とにかく私の…」

「とにかく、読書しとる場合やないって。とりあえず、ウチにまかしとき。ちょいと警告くらいはしといたる」

「……変なことはしないでよ」

「わかってるって。まともな手段しかとらんよって」

「……」

 まじめな顔で考えてくれている友人を止めようとは思わなかった。昼休み、孫子は行動の結果として当然といえば当然、ごくありふれた状況の中にいた。

「ここに呼び出された理由は、わかっとるよね?」

「…いえ…その…、ここに特別な意味があるんですか?」

 旧校舎の女子トイレには孫子と由未、茂木の三人しかいない。旧校舎自体が文化部の部室として使われる以外は人の出入りが少ないので昼休みは、ほぼ無人だった。

「あんた、ちょっと可愛いからって調子にのっとんちゃう?」

「……。茂木さん、……あたしに話というのは……何ですか? ご用件は…」

「単刀直入にいこか。はっきり言うたら、人のものを盗るなちゅーことや」

「……」

 孫子が黙り込み、茂木を睨み返した。

「屈辱です」

「逆らう気ぃ?」

「もちろんです!」

「ええ根性しとるやん!」

「ちょっとモッチー、事を荒立てないで…」

「盗人猛々しいちゅーのは、お前のことや!!」

「侮辱です! いくら転校してきて日が浅いからって。信用されてないからって……そんな疑い……わかりました」

 孫子はブラウスの裾を翻して、スカートのポケットを裏返しにした。

「どうぞ調べてください! 気の済むまで!」

「…はァ?」

「教室にあるカバンも! 机も! 部室のロッカーも! 全部調べてください。そのかわり何もなかったら、あたしに謝ってもらいますから」

「はァ……何をゆーとるの、あんたは?」

「えっと……だから、何かを盗られて、あたしを疑ってるんじゃないんですか? そもそも何を盗られたんですか」

「……こいつ、殴ってええ?」

 茂木が振り返って由未に問いかけた。

「ユミリン、こいつマジでムカつくんやけど、転校生イジメは趣味やないけど、かなり殴る蹴るした方がよおない? キャンいわさんとあかんで」

「モッチー、暴力はやめて。美田さん、もしかしたら、まったく事情がわからないのかもしれないわ」

「…ちっ…とぼけとるだけやて。まあ、ええわ。あんたなぁ、テニス部のケンに近づくのやめぇ」

「ケンさんに?」

「せや」

「どうしてですか?」

「……。殴られんと、わからん?」

「理由がわかれば…近づきませんけど、…せめて理由を教えてください」

「言わんとわからんかな。ユミリンとケン、付き合うてるんよ」

「そ…そんなんですか…それは、…すいません、知りませんでした。以後、気をつけます」

「……信用でけるかなぁ…」

 予想外なほど、あっさりと要求が受諾され、孫子が頭を下げたので茂木が勢いを失った。

「信用してください。それに応援します、お二人のこと! あたしも手伝いますから!」

「……ユミリン、どない思う?」

「わかってくれたなら、もういいわ。……ありがとう、モッチー」

「……ユミリンが、そない言うんやったら…」

「ということで、あたしたち仲間ですね。いっしょにケンさんと由未を応援する仲間っ! モッチーと呼んでいいですか?」

「……お好きなよぉーに……疲れるやっちゃなぁ…」

「では、モッチー。これからの作戦を立てましょう。あたしの勝手な推測なんですけど、まだ二人は周囲に付き合ってるとわからないくらい発展してない仲ではないでしょうか。もっと近づくべきでは?」

「そーゆー作戦があったのに、あんたが邪魔したから延期されとるんや! 告ってから時間がなかってん! そこを、あんたがメチャメチャにしとるって状況なんや! 理解せんかい!」

「状況は理解しました。作戦は放課後までに考えますから、そろそろ授業に」

「「ふ~…」」

 茂木と由未は顔を見合わせてタメ息をついた。一応の同盟関係が結ばれた昼休みが終わり、放課後になるとテニスウェア姿の孫子が弓道場に入ってきた。

「お邪魔しますね」

「何しに来たん?」

 茂木が一睨みしたけれど、孫子は動じずに近づいてくる。

「えっとですね、表向きの口実としては弓道部も面白そうなのでテニス部は休ませてもらって、こっちを見学したいって先生には断ってあります」

「ひやかしなら、お断りや」

「ひやかしじゃないですよ。由未とケンさんのラブラブ大作戦を説明したいと思います」

「変なこと言わないでちょうだい。私たちのことは放っておいて」

 由未は不快そうに顔を背けたが、孫子は茂木に語る。

「そうはいきませんよ。あたしのせいで戦況を混乱させたとあっては仲間として責任を感じます。あたしの作戦なら、ばっちりですよ」

「まあ聞くくらいは聞いてもええやろ。マコは遠慮無さすぎやけど、ユミリンは奥手すぎるもんなぁ」

 茂木は期待していなかったが、作戦内容を聞くと賛同し、話を聞いていなかった由未の背中を押して早めに練習を切り上げた。三人で電車に乗り、ケンの自宅近くまで移動した。

「ケンさん、今日はバイト無いらしいですから、そろそろ帰宅されていると思いますよ」

「よぉ調べとるねぇ」

「自宅の実地調査も済んでますから。じゃあ、電話しますね」

「あなたたち、いったい何をするつもりなの?」

「ええから、ええから、ウチは小道具を買うてくるわ」

 茂木がスーパーへと走り、孫子はケータイを出してメールを送信している。

(急な雨に降られちゃって。ちょうど近所なのでケンさんの家で雨宿りさせてもらっていいですか?)

 数分待つと返信があった。

(いいよ。けど、雨なんて降ってる?)

「そうよ。どこに雨なんて降ってるの?」

 ケンと由未が同じ疑問を抱いているのに、孫子は微笑んだ。

「降るんですよ。今から」

「買うてきたよ。これでええやろ」

 そこへ茂木がペットボトルに入った水を2本も抱えて戻ってきた。

「まさか、モッチー…」

「そのまさかやぁ!」

 言うが早いか、1本を開けて水を由未へ頭からかけている。孫子は自分で開栓すると頭からかぶった。由未と孫子は頭から足まで、ずぶ濡れになってしまった。

「……私、怒っていいかしら?」

「「水も滴るいい女作戦!」」

「……、もう帰りたくなってきたわ」

「ええけど、そのカッコで帰るん?」

「……」

 由未は濡れて透けたブラウスを見つめて二人への恨みを強くする。

「……。私は、こんなやり方、ケン君を欺すみたいで……」

「もう作戦は動き出してます。さ、行きましょう」

 孫子は渋る由未の手を引いてケンの家を訪ねた。チャイムを鳴らすと母親ではなくケンが現れた。

「どうぞ、入って」

「急に、ごめんなさい。ケンさん」

「それはいいけど、雨なんて降って…うわっ、マコちゃん、ずぶ濡れじゃないか。…あ、真藤さんも、いっしょだったの?」

「…ええ…」

「急に降ってきて最悪でしたよ。ハクシュ…すぐそこは晴れてるのに、あっという間に降ってきて……ハ…ハクシュっ!」

「大丈夫、マコちゃん?」

「ぅぅ…風邪ひいちゃうかも」

「……。シャワーなら使えるけど……でも、今日は母さん、いないんだ」

 ケンが家族のいない状態で、女子を入浴させることに戸惑っていると、由未は罪悪感を覚えた。

「やっぱり悪いわ。帰りましょう。もう晴れているもの」

「シャワーお借りしますね。お邪魔しま~す」

 由未と孫子は玄関で180度それぞれ別の進路を取った。孫子は靴を脱ぎ、由未は敷地から出ようする。

「……」

「お風呂場、奥の右だから」

「こっちですね」

「……」

 由未は門扉の前で背中を向けたまま、黙っている。

「……」

 おずおずとケンが声をかけてくれる。

「……真藤さんも、よかったら……どうぞ」

「……」

「ホントに母さんいないし、……その……マコちゃんと二人になっても困るし……いてくれると助かるっていうか…」

「……お借りします」

 交代でシャワーを使い、濡れた下着は手洗いして乾燥機を借り、制服は脱水してから干した。ケンは自分の部屋に二人を案内すると、台所へ降りていった。二人はベッドに腰をおろしたけれど、ケンから借りた男物のテニスウェアを着ているので落ちつかない。しばらく沈黙が続いたあと、孫子から口を開いた。

「……。由未って男の子と付き合うの、これが初めて?」

「だったら、どうだというの? あなたこそ、ずいぶん慣れているみたいね」

「そう?」

「転校してくる前は、いったい何人の男と、こんな風にしていたのよ。この部屋だって二度目なのでしょう。あきれるわ」

「ゼロ♪」

 孫子はフィルム状のミント味がする小さな菓子を口に入れている。もう一枚を由未に勧めてくれる。色々と緊張することが多かったので、喉が渇いていた由未は素直に口へ入れた。爽やかな味と香りが拡がって、消えていく。

「この部屋は二度目でも、男の子の部屋にあがるのも二度目」

「……。あなたは……ケン君のこと、好きなの?」

「由未こそ、好きなの?」

「……」

 由未は目をそらした。そして、さっきから強い違和感を覚えている。

「由未の初恋なのかな?」

「……」

「手と手を握ってぇ」

 孫子が右隣に座っている由未の遠い方の右手を自分の左手で握ってくる。必然的に身体が向かい合う形になった。

「じっと見つめ合うの」

「……」

「できれば、大きな栗の木の下で」

「……それは、童謡よ」

「あ、な、た、と、あ、た、しぃ」

「……」

 由未が距離をとろうと身じろぎしたのに合わせて、孫子は握っていた手を軽く引く。ごく簡単に由未はバランスを崩して後ろへ倒れそうになった。バランスを取ろうにも、手を握られていて後ろへ手をつけない。気がつけば、ゆっくりとベッドの上に寝かされて、天井を背負った孫子が真上にいる。

「由未」

「……なに?」

「進化論からのクイズ。口は何のためにあるの?」

「……食べる、ため?」

「そう。だから、いただきま~す」

 孫子が顔を近づけてくる。

「っ…」

 頬へキスされそうになって由未は顔をそらして逃げた。すると、孫子は無防備になった首を狙ってきた。

「かぷっはむはむ」

「ひゃ…」

 首筋を甘噛みされた由未は声にならない声を漏らした。

「はむはむ。危なかったねぇ。あたしがヴァンパイヤだったら、もう、お仲間じゃよ。ふふふ」

「く、くすぐったいから、やめてちょうだい」

「この可愛くて可愛くて美味しそうなコリコリとした頸動脈を、どうしてくれよう。ぺろぺろ」

「ぅっ…」

 舌先で拍動している由未の首筋を舐めながら、くすくすと笑って語っている。

「あ~あっ、吸いたい。吸いたい。吸ってしまいたい。この可愛すぎる由未を吸って、あたしの仲間にしてしまいたい。神さまのクソ野郎から、いとわれる仲間に。暗くて甘い夜の世界へ、いとしき由未を堕としちゃいたい。あ~あっ…やっぱり、吸おう。はむはむ。かぷっ」

「ぃっ…」

 唇だけでなく歯を立てて噛まれた。痛いか、痛くないかのボーダーライン上の加減だったけれど、これ以上、好き放題させる気はない。ぐっと顎を引いて噛むのをやめさせて見上げる。

「あなたは人が定めた最古の成文法を知ってる?」

「……はむはむ法典?」

「そうよ! 歯には歯っ!」

 体格では由未の方が二回りは大きい、孫子の腕に自分の腕を巻きつけて、腹筋で一気に起きあがり、体勢を入れ替える。上下を逆転させつつ、豹のような速さで喉に噛みつく。

「うきゅっ…」

 気道を狭められた孫子が息のつまった音を漏らしている。

「うきゅ~っ…」

「どう? 降参する?」

 由未が口を離して問いかける。その瞬間を待っていたように孫子が小さな身体の利点を活かして組み敷かれたままでも、逆に噛みついてくる。

「がうっ!」

「くっ…」

 危ういところで避けた由未は今度こそ逃がすまいと、肩を押しつけて孫子の動きを封じる。孫子は顎を引いて防御しているけれど、強引に咬みにいく。押さえつけられていた孫子は近づいてきた相手へカウンターを狙っていた。お互いに首を狙って咬み合い、結果として顎で押し合うことになる。あと少しで咬めそうなのに、相手の顎が邪魔で決め手がない。

「ぐるる」

「う~うっ」

 悔しそうに喉を鳴らしているところへ、ケンが戻ってきた。

「……。二人とも、…何して…」

「「ぁ…」」

 夢中になって遊んでいた孫子と由未が、誰の部屋を訪問していたかを思い出した。

「これはライオンごっこですよ。ケンさん」

「ライオン……ごっこ?」

「子供の頃、やりませんでした? 子供ライオンが兄弟と狩りの練習をするマネごっこ」

「ボクは……知らないけど、……。子供が好きそうな遊びだね。二人がやってるとライオンっていうより、仔猫のじゃれ合いみたいだけど」

「久しぶりに由未がやりたいって言うから、遊んであげたんです」

「そんなこと言ってないわ!」

「そうでしたか?」

「あなたから仕掛けてきたのよ」

「そうだったかも、しれませんね。まあ、どうでもいいじゃないですか。コックリさん、しましょう」

「「……はァ?」」

「コックリさんも知りませんか? 五円玉を使う子供向け黒魔術コックリさん」

「あ、いや、それくらいボクでも知ってるけど……」

「お願いだから2秒前の言動との整合性を明らかにしてちょうだい。あなた二重人格?」

「どうして、あたしが乖離性同一性障害だって話になるんですか? まあ、たしかにコックリさんは一種の憑依魔術ですよね。キツネ憑きの代表格です。でも、まだ召還してませんよ。由未こそ過去と現在の整合性が怪しいです。由未♪ ひょっとして健忘症じゃないですか? ケンさん、ロウソクありませんか? あと、マッチかライターお願いします」

 ペラペラと話しながら、五円玉とコックリさん用の五十音表をテーブルに広げて、ケンが持ってきてくれた紅茶を「いただきます」と言って楽しんでいる。ケンは勢いに負けて腰をあげた。

「マッチなら、仏壇にあったかも。ロウソクも法事用の本物があったかなぁ……ホントに、するの?」

「はい。ダメですか?」

「いや、いいけど……。じゃあ、取ってくるよ」

 再びケンが一階へ降りていく。由未は孫子を睨んだ。

「あなた、さっきから何を考えているの?」

「だって、明るいままじゃ恥ずかしくないですか、このカッコ」

 孫子はイタズラな微笑みを浮かべて、由未の胸を指で突いた。

「きゃっ…」

 すっかり下着をつけていないのを健忘していた由未の乳首が、くっきりとテニスウェアから浮いている。おまけにブラジャーから解放されたからか、つんと立っていて由未は強烈な羞恥を覚えて、両手で胸を守った。

「やっぱり、忘れてましたね」

「……」

「部屋を暗くすれば、目立たないし、どうせ服が乾くまで何かして遊ぶじゃないですか。コックリさんは最良の選択ですよ」

「いったい、どこをっ! どうすればっ! コックリさんが最良の選択になるのかっ! 聞いてみたいものね!」

「では、ご説明します。部屋を暗くする必然性があって、しかも指先を触れ合えます。おまけに、たとえ信じてなくても、なんだかドキドキします。由未はコックリさん怖いですか?」

「そんなもの怖くも何ともないわ。子供の遊びよ」

「そう思ってる人でも、なんとな~く畏れがあったりしますよね。途中でやめたら祟られる~ぅみたいな風に。科学万能、神も仏もいない、でも、もしかして世界には摩訶不思議なことがあるかも、怖い怖いお化けがいるかも」

「……バカみたい」

「ちなみにドイツの大学で行われた人間行動実験では、初対面の学生2名を明るい部屋と暗い部屋に閉じこめた場合では、ボディタッチの回数が367%も暗い部屋の方が多かったそうです」

「……」

「そして、有名な話ですが、デートするときジェットコースターに乗るのは加速度と高所への恐怖によるドキドキと、恋愛のドキドキを混同してしまい、実際以上に相手を好きだと思ってしまえる効果を狙っています」

「……それで、コックリさん?」

「暗い部屋、触れ合う指先、非日常の体験、これ以上の仕込みと環境がありますか。しかも、シャワーの後、おまけにノーブラノーパン。これはもう、カモがネギしょって、ついでに味噌と鍋とコンロまで抱えてきた日ですよ」

「…帰りたく…なってきたわ。本気で」

「帰るのは、あたしです。途中で急用を思い出しますから、あとは、ご自由に」

「コックリさんを途中で抜けるの?」

「信じてませんから」

「……」

 由未が黙ってあきれていると、ケンが注文された物をもってきた。

「お待たせ。これでいいかな」

「ありがとうございます。ケンさん、カーテンを閉めて電気を消してもらえますか」

 ケンは指示された通りに、部屋を薄暗くした。

「ちょっと不安定ですけど、テーブルは狭いですから、ベッドの上でやりましょう」

 孫子はテーブルに置いていた五十音表をベッドの中央に置いて、ロウソクはテーブルの上で点火した。

「あたしが召喚しますから、ケンさんは由未の隣に座ってください」

「「……」」

 ケンと由未は一瞬だけ視線を合わせて、それから由未が場所を譲った。シングルベッドの中央に五十音表、孫子は下方に、ケンと由未は上方の位置に並んで座る。薄闇とロウソクの炎が、夏の夕方に独特の雰囲気を作り出していた。

「じゃあ、コックリさん、コックリさん、あたしたちのところへ来てください」

「「……」」

「んんっ? うん、来たみたいです。あたしの背中が重いです。首の後ろがピリピリします。あ~あっ、重い、重すぎます、コックリさん、どうか、降りてください。こちらへ」

 孫子は大袈裟に両手をついて何かが背中に乗っているような演技をしてから、ロウソクの炎へと現世外の存在を導いている。

「ご降臨です。ケンさんは何か感じませんか?」

「ボクは…どうかな…いそうかも…。ずいぶん、あっさり来てくれたみたいだけど」

「由未も感じますよね」

「……わからないわ」

「じゃあ、コックリさんに、お伺い奉りましょう。二人とも指先を五円玉の上に」

 孫子は五十音表の上に置いた五円玉に人差し指をあてる。ケンと由未も、それに倣った。

「一つめの質問は、あたしから。コックリさん、コックリさん、モッチーの出身地は、どこですか?」

「奈良よ」

「由未……コックリさんに訊いたのに……せっかくだから、関西星人とか、どないやねん共和国とか、そういうセンスのないネタを期待をしていたんですよ」

「「どういう期待…」」

 ケンと由未が異口同音しかけて、途中で黙った。

「奈良なんて現実的で面白くないです。モチモチ王国のモッチー公爵のメイドさんということにしましょう」

「モッチーは中学も、こっちらしいわ」

「ボクの中学に転校してきたんだよ。そのときも、奈良から来たって言ってた。真藤さんも知ってたんだね」

「ええ、本人から聞いたわ」

「そういえば、転校してきたマコちゃんは、どこの出身? 言葉に違和感がないけど…」

「ひ、み、つ、だそうです」

 孫子は五円玉を動かして、ひ、み、つと御告げする。ケンと由未の指は誘導されただけだった。

「「……」」

「秘密といえば、ケンさんって付き合ってる人、いるんですよね? 今も半径50センチ以内に」

「…ぇ……あ、…ああ、うん…」

「ひどいですよ、黙ってるなんて」

「……ごめん」

「あたし知らずにケンさんと仲良くしてたら、モッチーに女子トイレまで呼び出されたんですよ」

「モッチーが……なにかされた?」

「頭から水をかけられて、殴る蹴る。泣かされて、土下座させられて、爪をはがれて、頭にリンゴを乗せて弓道の的にされて、命中して、しばらく入院してました」

「……。それは、どこからが、ウソ?」

「半分くらい」

「……。あのさ……真藤さん?」

「ほとんどウソよ」

「そっか……」

「あたしは射抜かれたとき、改心したんです。これからは由未とケンさんを応援しようって。病院のベッドの上で♪」

 孫子は片手で抱いていた枕を置いて、テーブルへ手を伸ばして紅茶を飲む。ケンは黙って考え込んでいる。

「……」

「答えに窮するようなウソを続けないの。あなた性格、悪いわ」

「もう二人はキスくらいしてるんですか?」

「本当に人の話を聞かないのね」

「コックリさんに訊いてるんですよ」

「「……」」

「コックリさん、コックリさん、二人はキスしてますか?」

「「……」」

 三人の指は、し、て、な、いを選んだ。三人のうち二人が知っている事実で、残りの一人も直感的に察知していたことを、あらためて確認しただけだった。

「付き合ってるならキスくらいすればいいのに」

「「……」」

「ね、今、ここでしてみてくださいよ」

「イヤよ」

「ボクも……ちょっと、それは……付き合ってるって言っても、ほんの数週間なんだ。まだ、お互いのことも、よく知らないし」

「ふ~ん……じゃあ、コックリさん、コックリさん、ここに運命のカップルはいますか?」

「「……」」

 い。

「「「……」」」

 る。

「「「………」」」

 ゆらゆらとロウソクの炎が揺れている。階下で回っている乾燥機の音が聞こえそうなくらいの静寂、三人とも指は五円玉の上で、息がかかりそうなほど近い、そして離れることはできない。沈黙に、耐えきれなくなったのはケンだった。

「きょ、今日はモッチーとは、いっしょじゃなかったんだ?」

「「……」」

 かなり冷めた目を二人の少女に送られて、少年は汗を浮かべた。

「あ、いや、いつも、いっしょだからさ。今日は、どうだったのかなぁ…って」

「その話のそらし方でもいいですけど、がっかりかな」

「…ごめん…」

「じゃあ一気にゲームを加速させますよ。コックリさんに御告げをもらって、AとBがキスする。まず、Aは誰ですか、コックリさん、コックリさん、Aは?」

「それは王様ゲームよ」

「ボクも、そう思う」

「イヤですか?」

「イヤよ」

「ボクも、そういうことは大切にした方が、いいと思うから」

「あたしも、そう思います。とても大切なことです。軽々しくしちゃいけません」

「あなたって……人はっ……。あなたって…人はっ……ねぇ……」

 由未が肩を震わせて感情を抑え込もうと努力している。それでも五円玉から指を離さなかったのに、あっさりと孫子は立ち上がった。

「急用を思い出しました」

「「……」」

 またウソを言う、そんな視線に孫子は平然と微笑む。

「とても急な用件です。だから略して急用。ということで、帰ります」

「で、でもさ! コックリさんは?!」

「二人で御怒りを鎮めておいてください。でないと、三人とも祟られますから。じゃ、あたしは、これで」

 二人が止める間もなく孫子は部屋を出ると、脱衣所で制服の乾きをチェックする。生乾きだったが、着られないことはない。乾燥機を開けてみると、下着は十分に乾いていた。着替えてテニスウェアは洗濯機へ入れる。自分の身支度が整うと、由未の乾いていた下着を洗面台の水道で濡らして軽く絞っただけで、再び乾燥機に入れてスイッチを押した。

「あと二時間は乾かないかな」

 脱水していない下着が乾燥機の中でペチャペチャと水音を立てているのを確認して、家を出る。予想通り、二人は五円玉から指を離さず、追ってこない。近くの公園に入った。

「モッチー、どうですか? 二人は何してます?」

「しーっ…大きい声を出したら、向こうにも聞こえるって」

 木陰のベンチに座っていた茂木は自分のケータイに耳を当てている。通話状態にあるのは孫子のケータイであり、それはケンの部屋のテーブルに置かれている。

「聞こえますか?」

「感度良好や。けど、盗聴器とちゃうねんから、こっちの声も送られるさかい気ぃつけんとあかんで」

「ですね。それで二人は何してます?」

「コックリさんの御怒りを鎮める方法を真剣に話しおおとる。アホや……めちゃアホや」

「二人ともオカルト方面の知識は無いタイプだと思いますけど」

「せやさかい、アホやねん。謝り方を考えてアホなことばっかり発想しとる。マコはコックリさんに詳しいんやな。せやけど、関西では、五十音表の他に、イエスとノーもあったで。こっちでは違うんやね」

「全部ウソです。したことありません。超テキトーです。っていうか、あんなもの存在しませんよ。五十音表を使った作為と不作為、参加者の誰かが、いつの間にか誘導してる、それを御告げだと思って他の参加者は止めない、動かしてる方も自覚がないことさえある、深層心理と表層願望、ついでにイタズラ心の産物です。神は死んだ。コックリさんも絶滅した、です」

「……ひどい話や。ケンとユミリンは真剣に祟りを鎮めようと、無い知識を絞ってはんのに。そんなことしてんとキスとまでは言わんから、色のある話くらいしたらええやん」

「あたしにも聴かせてください」

「ほな、マコは、こっちから耳当ててみぃ。音量あげるし」

「はい」

 孫子もベンチに座って、一つのケータイを茂木と頭で挟み込むようして聴覚を集中する。よく聴こえてきた。

(塩をまくというのは、どうかしら?)

「「プッ…くくっ…」」

(それは悪霊に対する風習だし、余計にコックリさんを怒らせないかな?)

(そうよね……やっぱり、油揚げかしら)

(都合良く、あればいいけど。冷蔵庫を見に行こうにも、指……)

(動けないと塩も無理よね。砂糖はダメかしら……ダメでしょうね)

(紅茶の砂糖か……どうかな、このさい砂糖でも)

「「くくっ!!」」

 茂木と孫子は笑いをこらえるのに苦労している。二人して腹を抱えて震えた。

(とりあえず、砂糖をマコちゃんが座ってたとこに、置いてみて)

(そうね)

(で、コックリさんに訊いてみよう)

(ええ)

「……アホすぎる…」

((コックリさん、コックリさん、やめていいですか。……い…い…、よかったぁ!))

「ぁ、あたし、もう! ダメっ!」

 孫子は耐えられなくなってケータイから離れると腹を抱えて笑っている。茂木も黙って手足をバタバタとさせて顔を歪めている。

(やっと終わった。これで祟られないかな?)

(ええ。……もともと、コックリさんなんて存在しないのよ。祟りなんてないわ)

「あんたメッチャ真剣に考えとったやん!」

 茂木は突っ込まずにはいられないらしく、ケータイの送話口を押さえて言った。

(真藤さん、そういうこと言わない方がいいって、やっぱり一応)

(そう……、そうね。ケン君は御守りとか、ジンクスを信じる人なの?)

(うん、まあ、試合の前とかはね。ちょっとだけ)

(私は神頼みは好きじゃないわ)

「なんで話を合わせへんねん!」

「自分を偽らない付き合いをしたいからじゃないでしょうか」

(そっか…)

(……)

「ほれ、話につまるやん」

「コックリさん拘束状態の方がマシだったですね」

(……)

(……私も、そろそろ帰るわ)

(あ、うん)

(急に来て、ごめんなさい)

(いや、ぜんぜん)

 二人が部屋を出たらしく、何も聴こえなくなった。

「って、おい! こんだけの状況で何もなしかい!」

「大丈夫です。由未の服だけ濡らしておきましたから、諦めて部屋に戻るはずです」

「さっすが! 芸が細かい!」

 茂木は喝采したけれど、いつまで待っても由未は戻ってこない。ケンだけが部屋に戻ってきた物音がする。

(…はぁ~ぁ……疲れたぁ~ぁ……)

「「……」」

(ボクって……ヘタレかも…)

「かもやない!!」

(あれ…? なんか声がしたような…)

「ヤバっ…」

「切ればいいです!」

「せやな」

 茂木は通話を切った。

「まったく……あ、せやけど、マコのケータイ、どうする?」

「あとでケンさんのケータイにモッチーから連絡してください。あたしが忘れて困ってるから明日の朝にでも学校で、と伝えてもらえれば問題ないと思います。ケンさんは女性のケータイの発着信履歴を勝手に見るような人ではないでしょうし、見たところで通話内容は残っていませんから」

「ホンマ策士やなぁ…せやけど、もしも発着信の履歴を見たら、バレるかもしれんで?」

「大丈夫ですよ。普段から、そういう場合のために、あたしのケータイは時刻表示がズレてます。それどころか、日付も違ってますから、問題ありません。たしかに逆算すれば、由未とケンさんが二人だったときに通話中だったと推測できますけど、デタラメな日時なわけですからケータイの調子が悪いと言ってしまえば、それまでです」

「……どこまで策士やねん。策士、策に溺れるちゅー諺あるで? 自分自身は、どうやって時間を知るねん?」

「これで」

 孫子は右手に着けている腕時計を見せてくれる。小ぶりで銀色の本体に白いレザーベルトの国産品だった。

「電波時計なので常に正確ですよ」

「高そうな時計してんなぁ…」

「そんなに高い物じゃないですよ。7万円くらいです」

「……。あんた、ええ階級の出身やね?」

「はい。でも、秘密ですよ」

「ええ根性してるわ。あ、ユミリンが帰りよる」

 公園の前を由未が通り過ぎていく。二人には気づかず、真っ直ぐ帰る足取りだった。

「ウチがフォローに行くわ。マコは帰りぃ」

「は~い」

「ほな、また明日」

 孫子に手を振って茂木は由未のあとを追う。すぐに追いついた。

「ユミリンっ!」

「モッチー……まだ、いたの」

「どやった? ケンと二人で」

「……別に…」

「そやろなぁ……そんな顔してるわ」

「……」

 黙って由未は駅へ向かっている。茂木は通学に使う乗降駅がケンと同じなので自宅とは方向が違う。どう声をかけるべきか、迷いつつ由未のあとを歩いている。

「……」

「……」

「……」

「モッチー、心配してくれて、ありがとう。でも、大丈夫だから、帰って」

「…うん、……ほな。今日は帰るわ」

 そろそろ暗くなっている。茂木は「また明日」と言って帰路につき、由未は一人で駅へ向かう。茂木と別れると故意に歩調を遅らせた。まだ、少し先にケンの家を出た孫子が駅にいるかもしれない。できれば駅で出会うことは避けたい。ゆっくりと歩いていると、夜風が吹いてきた。

「…ぅっ…」

 背筋に寒気を覚え、ぶるっと身震いする。何気なく後ろを振り返ったけれど、誰もいない。

「……ちょっと寄り道していこうかしら…」

 独り言を口にした由未は、表通りから少し奥に見えた神社に入った。初めて訪ねる神社で湧き水をいただいて手と口を作法通りに禊ぎ、参拝する。参道の中央は神の通る道で、人は左右を歩くべきだと弓道家の父親から教えられている。

「……」

 参拝も作法通りに済ませて、100円玉を投げた。

「……」

 ケータイで時刻を確認すると8時を過ぎている。再び駅へ向かって歩き出した。駅前通になると人気も増え、コンビニへ入り、下着を買ってトイレで着替える。

「モッチーも、あの人も、余計なことをしてくれるわ」

 まだ濡れていたショーツを無理に着ていたので冷たくて気持ち悪い。脱いだショーツをカバンに入れて、ここにいない人物に文句を言った。コンビニを出て、駅前のロータリーへ着くと、何気なくアクセサリーを売っている露店で足を止めた。時間的にホームへ行っても、すぐには電車がないとわかっている。

「これなんか、どうです?」

 路上に座っていた店主が、ドクロが意匠されたネックレスを指している。由未の趣味には合わない。

「……」

「じゃあ、これは?」

 今度はシンプルな十字架を指している。黒革の細紐に銀色の小さな十字架という可もなく不可もないデザインだった。値段も800円と安い。手にとって見てみる。

「……」

「お姉さんなら、500円で」

「300円なら、買ってもいいわ」

「きついっす。そいつは仕入れ値をわってるっすよ。せめて350円!」

「そうね、それで」

「く~っ、可愛いのに世知辛い」

 店主は350円を受け取りながら、しっかり由未のスカートから伸びている脚と、少し湿ってラインが見えているブラジャーを鑑賞していた。由未はポケットに十字架を入れると、駅へと入っていった。

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