第8話

 翌朝、由未は目覚めて自分が泣いていたことに気づいた。

「夢……」

 悪夢ではなかったけれど、とても淋しい夢だった。

「そう……想い出したわ。……私も」

 涙を拭いて起きあがると、彩乃は眠っていた。夕べ、遅くまで泣き続けていたので疲れているようで、まだ眠りは深い。明るくなってから見る彩乃も息をするのも忘れるほど愛らしかった。思わず手を伸ばして触れていく。身じろぎしない、無防備な今なら邪魔だった下着も脱がせそうな気がする。キスも、簡単にできそう、由未は誘惑に負けて顔を近づけていく。

「……」

「…」

 彩乃が起きてしまった。

「……」

「……」

「由未……何か、した?」

「ま、まだ、何もしてないわ!」

「…まだ…」

 彩乃は起きあがってオリーブオイルまみれの身体を気持ち悪そうに撫でた。ぬめった下着の感触は最悪だった。立ち上がって、脱ごうとして由未の視線に気づく。

「……シャワー浴びてくる」

 ここで脱ぐのをやめて、バスルームへ向かった。

「彩ちゃん、いっしょに入ら…」

「ない。3分であがるから待ってて」

 夜と違って時間に余裕がない。二人とも朝食も摂らず、部屋を出る。授業を受けて昼休みになる頃、空腹を覚えた。

「さすがに、そろそろ、ちゃんと食べないとね」

「そうね。……でも、不思議、もっとお腹が空きそうなのに、それほど食欲があるわけじゃないわ」

「……」

 言おうか言うまいか、迷ってから彩乃は蘊蓄を語ることにした。

「恋をしている動物は寝食を忘れる。これは、ゾウや猿レベルの高等生物に見られる現象で、もちろんヒトも例外でない。食欲なんて失せてしまうくらい、恋の衝動は強いものなの」

「恋をして……」

 由未が意味を考えて、すぐに微笑んだ。

「彩ちゃん、前に相思相愛は、とても少ないって言ってたよね」

「確率としては」

「なら……私と彩ちゃんは……どうなの?」

「どうなのでしょう?」

 赤面した彩乃がはぐらかしてしまった。

「ま、たとえ恋をしていても食物を摂取しないと、いずれは活力を失ってしまう。それどころか、普段よりも代謝は活発になっていて、心拍数も増えやすく、血圧も上がりやすい、消費カロリーは上昇しているのに脳内ホルモンのおかげで疲れ知らず、まさに恋は麻薬。実際にゾウは体重を半減させて、場合によっては繁殖状態から脱してしまうことさえあるの。ということで、何か食べよ」

 コンビニで昼食を調達して校舎の屋上に行くと、茂木がいた。三人で会話しながら昼食をとるうちに、茂木が気づいた。

「ちょい待ちぃ。夕べはマコの部屋に泊まって、その前はユミリンの家やろ、その前もマコの部屋って……火曜から…水、木、金曜の今日まで、……66時間くらい、二人いっしょなんちゃう?」

「そうなるかな」

「そうなるわね」

「って……どうでも、ええけど、ちょっと怪しいで、その関係は」

「……」

 彩乃が黙って由未へ視線を送ると、由未はためらわなかった。

「怪しいって、どういう意味かしら?」

「せやから、友達以上なんちゃうか、みたいな疑問を周囲に抱かれるで」

「そう思いたければ、そう思えばいいのよ」

「いや、ここは否定するとこやろ」

「なぜ、否定しなくてはいけないの?」

「なんでって……」

「私は彩ちゃんが好き、彩ちゃんも私が好き、それを否定する必要なんて何もないわ」

「……何か、変なもん、食べた?」

「食べることさえ忘れるくらい、好き合っているわ」

「……。サバの刺身とか、生煮えのタニシとか、スペインの怪しい古城で獲れたエスカルゴとか、そういう寄生虫系の美食に手を出したんちゃう? せやなかったら、またマコに欺されてるかや。今度は、どんな暗示をかけたんや? また、ウチが神官になって過ちをただし…」

 チャラッチャチャ~♪

 茂木の話の途中で、珍しい着信音が鳴った。彩乃にも茂木にも覚えのない着信音で、由未が自分のポケットへ手を入れながら、不快そうな顔をしている。

「今さら何を…」

「どないしたん? 誰から?」

「……ケン君よ」

「彼氏……元カレからの着メロを、そんな軽薄なメロディーにしとったんかい。それ、ファーストフードのCM音楽やろ」

「あの男が勝手に送信してくれたのよ。たまたま、二人で店の前を通ったときの話題の流れで」

「お手軽で安くて便利。せやけど、身体に悪いと」

「……」

 由未は黙ってメールを読み、しばらく考えてから二人に液晶画面を見せた。

(マコちゃんのことで話がしたい。一人で旧校舎の理科準備室へ来てほしい)

 簡潔なメールだった。

「あのボケ…」

「ごめん、由未。あたしのせいで…」

「そんなこと気にしないで。……でも、……どうするのが、いいかしら?」

「無視したらええやん。あのボケ、この文章やと、マコと付き合うのをユミリンに認めてくれちゅー虫のええ話したいだけやで。その……まあ、少なくともユミリンとヨリを戻したい感じやないから、そっちの期待はせん方がええよ」

「そんな期待を私がしているとでも思うの?」

「睨まんとってよ……ユミリン、メッチャ怖い目ぇしてんで」

「……。このメールを、私が無視してしまうと、また彩ちゃんの部屋に押しかけるかも……」

「あいつ、そんなんしよんの?」

「ええ、もう何度も部屋の前で待ち伏せしていたわ」

「ストーカーやん」

「そうよ。だから、会ってくるわ。彼が何を考えているのか、とにかく話をしてくるから」

「由未……」

「心配しないで。一人で大丈夫よ」

「ちょい待ちぃ! あんた、さっきの勢いで暗示かかったまんま、ケンに変なこと言うんやないで! 話ややこしなるしな!」

「わかっているわ。モッチーだから話したのよ。他言しないでちょうだい」

 由未は屋上から降りると、旧校舎に入った。

 古い理科準備室の鍵は壊れていて、中へ進むと、ケンが待っていた。

「……」

「……」

 目が合っても、お互い挨拶はなかった。

「話って何かしら?」

 由未が単刀直入に切り込むと、ケンも遠慮無く見すえてくる。

 ケンの表情には、数日前まで確かにあったはずの罪悪感が消え、由未に対する敵愾心が大半を占めている。そんなケンに睨まれて一瞬、怯んだけれど、由未も睨み返した。

「話は何?」

「真藤さん、いったい何をマコちゃんにしたんだ?」

「っ……見てたの?」

「やっぱり、そうなのかっ!」

「…覗き見なんて最低ね…」

 由未の全身には悪寒が、ケンの身体には怒りが走り、それぞれに誤解を膨らませた。

「最低なのは真藤だろッ!!」

「っ…、……あなたこそッ!! どこから見ていたのよ?!」

「見てたヤツから聞いたんだ!! 真藤がマコちゃんに、ひどいことしてるって!!」

「……別に、…ひどいことなんて…してないわ。…同意はあったみたいなもので……泣かせてしまったのは不可抗力というか…」

 かなり後ろめたそうに由未が目を逸らせると、ケンが三歩ほど近づいてくる。

「お前、マコちゃんに何をしてるんだ?!」

「……。だ、だいたい見てた人がいるって、どういうことよ?!」

「昨日、校門でマコちゃんに土下座させたろうがッ! 何人も見てたんだ!!」

「ぁ……あれは…」

 てっきり、夕べのことを見られていたのかと誤解していたので、幾分かは冷静になれるものの、校門での件も説明しにくい。欺されて怒っていた由未をなだめるために彩乃が自主的に土下座外交をしたと説明して、この男に理解させられる気も、まして事の次第も話す気はなかった。

「あれは……遊びみたいなものよ。あなたには関係ないわ」

「っ、なんだとッ!」

 さらにケンが近づいてくる。

「他にも! 林檎を頭にのせさせて的にしたりッ! パシリに使ってジュースとか、お菓子とか、買わせてるらしいじゃないかッ!」

「それは…」

 色々と説明しにくい事情がある。由未は困った。そして、説明してやる気も、あまり無い。

「……あなたには関係ないことよ」

「真藤ッ! お前ッ!」

 ケンが乱暴に由未の肩をつかんできた。

「っ! 離してちょうだいッ!!」

 それを振り払って距離をとる。

「触らないで! 虫唾が走るわッ!」

「むしずっ……、フラれたからってマコちゃんに嫌がらせかよ!!」

「はっ! あなたなんて、こっちから願い下げよッ!!! フッたのは私よ、忘れたの?!」

「だ…、だいたい真藤は、ボクのこと好きでもないのにモッチーを使って!! 男をブランド物を選ぶみたいに条件でッ!! ふざけるなよ!!」

「ブランド…」

「モッチーから聞いてるんだ!!」

「……」

 それについては自覚がある。あえて付き合うなら誰がいいと茂木に迫られて消去法で浮かんできたのが、ケンだった。条件で選んだ。テニスができて、勉強も、顔も、非の打ち所が少ないように思えて、選んだ。実際、ケンは女子からの人気が高かった。

「何とか言えよ!!!」

「……。ええ、あなたの言う通りよ」

 開き直った。この男に、どれほど嫌われようと、どうでもいいことだと思える。いっそ、この上なく苛立たせてやる方が三浦のことも含めて、胸がすく。由未の言語野はケンを怒らせるために、強烈なセリフを編み上げた。

「ブランドで選んだわ。県大会の成績と、せいぜい十人並みの顔。私より一段劣る学力。でも、品定めに失敗したみたいね。とんだ粗悪品だったわ。単純で浮気者、短気なバカ、自分がモテるなんて勘違いしないことね。ストーカーに成り下がるのがおちよ」

「……ぉ、……おまっ……おまっ……お前ぇはぁッ!!!」

 ケンの顔が真っ赤に燃えた。

 口では女に勝てない男が腕力を使ってくる。

「どこまでムカつく女なんだ!!」

 ケンは乱暴に由未の襟首をつかむと、壁に押しつけて怒鳴る。

「お前ッ!! もう二度と、マコちゃ…」

 怒鳴っているケンの言葉など耳へ入れず、由未は襟首をつかんでいる手の小指だけを握ると、その指を逆方向に曲げる。

「痛だああっ!」

 ケンが手を離して痛がっている隙に、渾身の力を込めて膝蹴りを腹部へ入れた。

 どすっ!

「うっ!」

 もう一発。

 どっ!

「うぐっ…この野郎ッ!」

 2発目の膝蹴りを受けながらケンはやみくもに拳を振るった。まぐれ当たりで、その拳が由未の肋骨から腹部にかけてをかすめた。

「つっ……」

 反射的に重心を後ろへ逃がしていたけれど、しっかりと痛む。よろめいた由未は机に手をついた。

「…ぅ…」

「ううっ…くそッ! …くっ…」

 ケンが悪態をついて腹を押さえている。

「もう女とは思わないッ! マジで殺すぞ!」

「……」

 私は女よ、由未は自分の弱さに戦慄していた。

 隙を突いて、全力の膝蹴りを2発も入れたはずなのに、もうケンは立ち直っている。とくに2発目の蹴りは、勢いのほとんどを鍛えられた腹筋に阻まれて、手応えは悪かった。

 対して、まぐれ当たりで掠めただけの攻撃が、由未の腹部に効いてきている。気迫では負けていないつもりでも、膝へ力が入らない。

「…く…」

 悔しいけれど、やはり女は弱い。でも、その弱さは補えばいい。由未は手を伸ばして丸底フラスコを握った。その実験用機材を机に叩きつけて割った。

 ガシャン!

 武器ができた。

 丸底フラスコの底を割って、持ちやすい鋭利な武器を手にする。

 それを真っ直ぐ、ケンへ向けて油断なく構えた。できれば、腹部のダメージが回復するまで動きたくない。動けば、足が崩れそうだった。

「近づけば、刺すわ」

「なっ………」

 ケンが動揺している。殺す、と勢いで言ったものの、まったく殺意はなかった。せいぜい、何発か殴って泣かせてしまおうくらいにしか思っていなかったのに、由未からは殺意を感じる。近づけば本気で刺してきそうだった。

「……なんて…女なんだ………鬼か、悪魔だ」

「……」

 女の子を殴る、あなたの方が、よっぽど鬼で悪魔よ、由未は黙って構えたまま考える。なんとか、この場を鎮めないといけない。本当に刺してしまうわけにも、逆に乱暴されるわけにもいかない。すでに、ケンも戦意を失いつつある。

「……」

「……」

 ようやく腹部の痛みが軽くなってきた由未は、ゆっくりとケンから距離をとる。ケンも追うことはしない。十分に二人の間合いが離れたところで、由未はフラスコを置いて理科準備室を出る。

「……」

 こんな女とボクは付き合っていたのか、別れてよかった。

「……」

 こんな男に交際を申し込んでいたなんて、人生最大の過ちだったわ、由未は早足で生徒の多い中庭へ向かった。ケンが追ってくる気配はない。教室に戻ると彩乃が心配そうに見てくれる。

「由未……」

「大丈夫よ、何もなかったわ」

「そのセリフは何かあった人が言うの。何があったの?」

「……昨日、誰かさんが校門で土下座したわよね?」

 由未が茶化した言い方をしたので、彩乃も同じ調子で応じる。

「そんな人もいたかな?」

「それを見ていた人もいたの。そして、わざわざウワサにしてくれる人もね。さらには、それを聞いて早とちりをしたバカな男もいたの。だいたい、わかるでしょ? あの男が、どんな誤解をしたのか。私って、彩ちゃん以外の人間には冷たいイメージを持たれているから」

「まー……ね。なるほど、他人から見ると、クールで怖い由未が、キュートで可愛いあたしをイジメてる絵になるよね」

「……」

 由未が閉口したので、その唇を指でつついてから、彩乃はチョコレートを唇に挟ませる。由未は素直に口へ入れた。彩乃が頭を撫でてくれる。

「よしよし。実際は、純粋で可愛い由未を、ウソつきで意地悪なあたしがオモチャにしてたのにね」

「あなたはオモチャに土下座するの?」

「由未は可愛くて大切なオモチャだから、たまに拝むの」

「…口が減らないわね。とても勝てないわ…」

「ね。本当に大丈夫だったの? あいつ、バカだから乱暴とかされなかった? 傷ついてない?」

「怒鳴られて、うっとおしいと思ったくらいよ。逆に、指を折って膝蹴りをしたら呻いていたわ。もう二度と、私を呼び出そうなんて思わないでしょうね」

 心配をかけたくなかった由未は事実をありのままには話さなかった。彩乃も追求はせずに、この一件を終えると授業を受け、放課後になって彩乃は腕時計を見て考える。

「今日は由未、自分の家に帰ってね」

「ぇ…、どうして?」

「あたし、部活には顔出すけど、終わったら行くところがあるから」

「どこへ行くの?」

「そんな子犬みたいな顔しないでよ。散歩に行くわけじゃないの」

「だから、どこへ行くの?」

「遠いところ」

「……」

 由未が立っている彩乃のスカートを握った。

「彩ちゃん…」

「遠いところだけど、月曜には帰ってくるから、また学校で会えるって」

「……どこへ行くの?」

「遠いところ。早ければ日曜日には戻ってくるよ」

「……何しに行くの?」

「もっと早いと土曜の夜、明日の夜には帰ってるから」

「教えてくれないの?」

「……そんな顔しないでよ……困ったなぁ…」

 どうにもスカートの裾を離してくれそうにないので彩乃はクラスメートに聞こえないよう由未の耳元へ語りかける。

「誰かさんが弾を使ってくれたから、もう予備がないの。だから、買いに行くの。わかった?」

「リリィさんって人のところへ?」

「そう」

「……私も行く」

「ダメ」

「行く」

「ダメ~っ」

「行く」

「往復で3万円はかかるよ。あたしに払わせるの?」

「……。家に帰れば、そのくらいの貯金あるわ」

「無駄づかいよ」

「無駄じゃないわ」

「あたし、由未が家に寄るのを待たなきゃいけないの?」

「……彩ちゃん……意地悪、言わないで」

「とりあえず、この話は部活が終わってからにしよ。そのままスカート持ってていいから部室に行くよ」

「……」

 さすがにスカートをつかんだまま移動したりはしなかったけれど、彩乃から30センチと離れずに部室へ入る。彩乃は制服を脱ぐと、小学校の頃に由未が使っていた弓道着へ袖を通した。

「なんとかギリギリ入るくらいかな」

「着付けてあげるわ」

「ありがと」

 するすると和装を整え、キュッと帯を締めてくれる。由未も弓道着に着替えて、サボりがちだった部活を久しぶりにマジメにこなして練習を終えた。正規の練習が終わった後も、由未と彩乃は弓道場に残っていた。

 ちょっと小さすぎる弓道着の彩乃が蒸し暑さに疲れた顔で的場に座り込む。

「居残り練習って、何するの?」

「空き缶より、同心円を描いてある的の方がいいと思うの。窓を閉め切れば、銃声が外に漏れることもないと思うわ」

「……マジで言ってる?」

「やっぱりダメかしら」

「ダメダメよ。ぜんぜんダメダメ。だいたい弾が残り少ないって言ったよね。もう17発ずつしかないの。装填してあるの撃っちゃったら終わり、そんな弾を練習に使えると思う?」

「そう……じゃあ、オモチャの銃を貸してちょうだい」

「はいはい、どうぞ、どうぞ♪」

 彩乃は身軽に飛んで立ち上がると、両手にモデルガンを握り、二丁を器用にクルクルと回して踊る。その動きはガンマンというより、チアリーディングでバトンを回しているような軽々しくリズミカルなものだった。一通り踊ってから、由未へモデルガンを投げてくる。

「投げるなんてオモチャでも危ないわ」

 うまくキャッチしながら由未が文句を言った。

「大丈夫、大丈夫♪ それ、いちいちスライドしないと発射しないから」

 彩乃に使い方を聞いて由未は弾が無くなるまで的を狙って撃ったけれど、どうやら有効射程距離外のようで、あまり当たらなかった。

 彩乃が腕時計を見る。

「そろそろ、あたし着替えるよ」

「ええ、私も着替えるわ」

 二人で部室に入った。すでに部員は帰っていて誰もいない。彩乃は上着をはだけさせ、袴を脱ごうとする。

「やっぱり、和装ってダメ。暑くて暑くて。……ん~、ん? 固い…」

 彩乃が腰帯を解こうとして困っている。

「由未、これ固すぎ」

「ええ、特殊な結び方をしてあるから、私でないと解けないわよ」

「……謀った?」

「ええ」

 由未が背中から彩乃を抱きしめた。

「どこへ行くの? いっしょに連れて行ってくれないと、解いてあげないわ」

「……暑いんですけど」

「なら、上は脱がせてあげる」

 はだけていた上着の襟を開いて、半分まで袖を通して脱がせる。

「……動きにくいんですけど」

「そうでしょうね」

「……」

 肘まで脱がされて両手の自由が制限されてしまった。

「早く帰ってシャワー浴びて、さっさと電車に飛び乗りたい時間なんだけどな」

「私も連れて行ってくれる?」

「当初の解答に変更はありません」

「咬むわよ」

 由未が背後から彩乃の首筋を咬んだ。

「痛っ……由未ぃぃぃ」

「私も連れて行って」

「ダメって言って…痛っ…咬むな!」

「私も連れて行ってくれないと歯形が残るくらい咬むわよ」

「歯形なら、もうついてる。腕に」

 彩乃が腕に残っている歯形を非難がましく示した。昨日の午前中のことなのに、まだ由未の歯形が、しっかり見てとれる。

「あたしの玉肌に一生消えない痕になったら、どうしてくれるの?」

「……。ごめんなさい。もう咬むのはやめるわ」

「よしよし」

「キスマークをつけてあげる」

「……変わってない。主旨が…」

 着替えの途中で逃げることもできない彩乃のブラジャーを外して、由未がキスマークを胸のあちこちに、いくつも造っていく。

「由未…、もう…やめてよ…」

 彩乃は鼓動が高まりそうになるのを抑えられない自分を自覚して困惑する。

「んっ……ぅ…、いくつ、キスマークを…ぅ…つける気なの?」

「私の名前、由未、弓、射手座、半身半馬のケイロンが矢をつがえた姿を描いてるの。鏡を見たら、私を想い出すように」

「由未……、あたしのこと本気で好き?」

「今さら訊くこと?」

「……」

 彩乃が見上げられて、目をそらした。

「独占欲は恋愛の特徴なの。人が人を好ましいって思う気持ちには三種類あってね。一つは恋愛、もう一つは性欲、そして愛着」

 頭を使うことで冷静さを保とうとするけれど、鼓動の高鳴りは増すばかりで落ちついてくれない。由未は聞いているのか、いないのか、胸へのキスを続けてくれている。

「愛着は恋人や伴侶だけでなく、友人や家族にも感じるもの。おだやかな感情で、人と人の間に平和と友愛をもたらしてくれる。性欲は好みのタイプへなら同時に複数の対象へ覚えることもある衝動。けど、恋愛だけは、どんな場合でも……いえ、どんな場合でもという言葉は、およそ人間と生命のありように使うには範囲が広すぎるから…そう、そうね。原則として、原則として恋愛衝動は一人が一人に覚えるものなの」

「衝動? 恋愛感情じゃないの?」

「ちゃんと聞いてくれてるんだ…」

「私の耳は、彩ちゃんの声を聞くためにあるの。でも、私の唇は…」

「今は、耳の方を働かせてほしいな」

 彩乃の要望は半分無視され、半分かなえられる。由未は話を聞きながらも、唇も働かせていく。彩乃は身をよじった。

「んっ…、…言葉では恋愛感情っていうけれど、恋愛の本質は、感情なんて生温いものじゃないの。これはもう、衝動。強い感情の一つ、怒りでさえ、意図的な気分転換で忘れることができるのに、飢えや渇きは忘れようとしても、消し去ろうとしても、やっぱり湧いてくる生命の衝動、恋愛も同じく、忘れようとしても、消し去ろうとしても、否定しようとしても、あたしを……個人を捕らえて逃がしてはくれない」

「……私のことを忘れたいの?」

「そこには敏感に反応してくれるんだ…」

 彩乃は不自由な両手を回して由未の頭を抱きしめた。由未も彩乃の腰とお尻へ腕を回して抱き返してくれる。蒸し暑いことさえ、二人とも忘れていく。

「飲みたい、食べたい、この生きるための最低限の衝動も強い。あたしは一度、ダイエットとは関係なしに何日か食べなかったことがあるの。この衝動を試してみるために」

「身体を壊すわ。そういうこと、しないで」

「身体より心が壊れそうになるの。ダイエットと違ってね。わざと食べ物のことを考えたり、レストランに行ってステーキを頼んでナイフで切るだけ切って食べないで帰ったり、ケーキバイキングに行ってコーヒーだけで帰ったりするの。そんな風にしてると、三日目で寝ても覚めても頭の中は、食べ物のことばっかり。ホントに夢の中でも食べるの。起きると布団を囓ってる。五日目でリタイヤ。だって、トカゲを見かけても美味しそうって思っちゃう自分にゾッとしたから。普通ならトカゲに食欲なんて喚起されないのにね。捕まえて食いつきたくなっちゃう。パブロフのワンちゃんみたく、しっかりヨダレまで湧いちゃってね。そのくらい摂食衝動は強い。歴史を見ても暴動は政治的自由や理想を求めて民衆が立ち上がる場合より、食糧危機で発生することの方が、はるかに多い」

「難しい話ばっかり…」

「今度は性交衝動の話。栄養が満たされた生き物は、次は繁殖を求める。オスメスの性があるなら、性交を求める。性欲って衝動も、また強い。抱きたい、抱きつきたい、抱きしめたい、皮膚を擦り合わせたい、キスを交わしたい、舐めたい、舐められたい、舐め合いたい、オルガスムをえたい、性器を結合させて受精したい」

「……」

「性欲、性交衝動は恋愛をともなっていなくても強い。光源氏は最初の結婚相手だった葵の上に恋をしていなかった。政治的な結婚だったけれど、性交して孕ませ、夕霧を産ませることができた。あの恋愛の大権現でさえ、恋をしていなくても性欲だけで女を抱けた。あたしにも、そういう性欲はある」

「……」

「あの三浦って子、可愛いよね。由未とは違うタイプ、似てるところもあるけど。ああいう子にも、あたしは性欲を覚える」

「……」

 由未は抱いていた手に力を込めて、彩乃を強く抱きしめた。彩乃は微笑んで由未の髪にキスをした。

「そうそう、似てるところっていうのは意地悪したくなるところ」

「ぅ~……」

「でもね、やっぱり由未は特別。特別すぎる」

「彩ちゃん…」

「だって、由未に対しては性交衝動に加えて恋愛衝動を覚える。この二つのカクテルは強烈すぎて、あたしの脳を狂わせる。わかる? あたしが今、したいこと」

「……」

 由未が抱いていた手を離して、見つめ合う高さまで顔をあげた。彩乃は上着を脱ぎきって自由になった両手で由未の顔を撫でる。

「由未、あたし、そろそろガマンの限界かも」

「……」

 頷いて由未は目を閉じた。

「由未」

「彩ちゃん」

「……」

 由未の顔を撫でていた手を胸までおろして、その襟元をつかんだ。

 バッ…

 やや乱暴なほど襟を開いて胸を露出させる。ほとんど同時に由未の背中へ手を回すとブラジャーのホックを一瞬で外して、完全に乳房を裸にする。

「ぁ、…彩ちゃん…」

 少し動揺している由未は胸を吸われて、仰け反った。

「んっ…ぁ…」

 さっきまで由未がしていたようにキスマークをつけていく。

 この子は、あたしのもの、そう言わんばかりにマーキングしている。

「…ぁ…ハぁ…」

 由未は抵抗せず、素直に吸われて息を乱していく。彩乃は吸いながら微笑んだ。

「あたしに射手座を描いてくれたから、可愛くて魅力的すぎる由未には、ゼウスの妻ヘラの嫉妬を買ってクマになってもらおうかな」

 北天に輝く大熊座を胸に描くため、一つ二つと星をつくっていく。

「んうっ…ぁ…彩ちゃん…んっ…ハァっ…はあぁ…ァ…」

「さてと」

 七つの星を描ききると、彩乃は気分を切り替えるために深呼吸して由未から離れた。

「ふざけ合いっこは、おしまいにして。そろそろ服を着て帰ろ」

「……ヤダ」

「ヤダって…」

「どうしてなの?! どうして、おしまいなのっ?!」

「どうしても♪」

 彩乃がチョコレートを一粒、くれようとする。その手を払った。

「ヤダっ! チョコじゃヤダ!」

「喉が渇いた?」

「どうしてっ?! 私は、こんなに彩ちゃんが好きなのにっ!」

「っ…」

 由未が抱きついてくる。

 二人の間で、やわらかい胸と胸が押し潰され合って、肌が汗を吸い合って密着する。彩乃は再び熱くなりそうな脳を努めて冷静に叱咤した。けれども、治まらない。鼓動が早くなり、抱きついてくる由未を抱き返してしまい、さらに唇を吸い合いたい衝動を覚えて、どうしょうもなく切なくなる。

 ザッ…ザッ…

 由未は勿論、彩乃も興奮していて、部室の外から足音と聞き覚えのある声が近づいてくるのに気づかなかった。

(わわわ~♪ 忘れ物~ぉ♪)

 こんな時間に戻ってきた理由を歌にして説明しながら、茂木が部室のドアを開ける。

「ウチの忘れ物ぉ~♪ ぉひっ?!」

「「っ!!」」

「……」

 茂木は見たことがないほど複雑な形に手足の関節を曲げて硬直している。

 その目に、半裸で抱き合っている由未と彩乃が映り、慌てて離れた胸元に多数のキスマークがあることまで知ってしまい、二人が単に着替えていただけではないことを悟ってしまった。

 そして、

「し、失礼しましたっ! ごゆっくりっ!」

 音高くドアを閉めると、その3秒後に再び開け放った。

「って!! ちゃうわぁぁッ!! 何しとんねんッ?!! あんたらァ!!」

「「………」」

 由未は茂木の視線から彩乃を隠して背中を向け、彩乃は上着を拾って由未に羽織らせた。背中を向けたまま由未が振り返って茂木を睨む。

「大声を出す前に、ドアを閉めてちょうだい」

「せ、せやな!」

 茂木は部室に入ってドアを閉める。

 空気が密閉されると、由未と彩乃の匂いが、茂木の臭覚を不快に刺激した。

 茂木は息を止め、鳥肌が立つのを感じた。

「……マジか、あんたら…」

「……」

「ノックくらいできないの? 非常識ね」

「ひっ……非常識なんは、あんたらやッ!! 女同士で何しとってんッ?!」

「見ればわかるでしょ。いちいち騒がないでちょうだい」

「あ……あかん……ぜんぜん話が…」

 激しい目まいを覚え、茂木はフラついて壁に手をついた。

「落ちつけ……落ちつくんや……落ちついて、奈良の市町村を……生駒市…奈良市、天理市、大和郡山市、月ヶ瀬村、桜井市…」

 茂木が冷静になる自己暗示をかけている間に、彩乃と由未は制服を着た。狭くて蒸し暑い部室を三人で出る。

「おっしゃ! ウチは冷静や!」

 誰に教えられたわけでもないのに自分で体得した心理学的に有効な方法で脳を冷静にした茂木が立ち直った。

「真藤由未! 美田孫子っ!」

「「……」」

「はっきり言うっ!」

 茂木は少し間をつくってから怒鳴った。

「あんな気色悪いことっ二度とするんやない!!」

「「……」」

 茂木の言葉で由未は眼光を増し、彩乃は目を伏せた。

「ええなっ?!」

「部室を目的外に使ったことは認めるわ」

「そんなこと言うとんちゃうっ!!」

「けど、あなたの言い方は許せない」

 由未がつかみかからんばかりに茂木へ迫る。

「あなたの無神経でデリカシーのないところは人として最低よ」

「人として間違うとったんは、あんたらや! 気色悪いもんは気色悪いッ! 変に美化するんやない! 自分らのしとったこと考えてみぃ!! ごっつキモいわ!」

 パシンッ!

 頬を打つ鋭い音が夜空に響いた。

 手を挙げたのは由未で、叩かれたのは茂木。

 打たれた頬を手の甲で拭うと、地面に唾を吐いた。

「上等や。目ぇ覚めるまで、殴り合いでも、シバき合いでもしたろ!」

「……」

 黙って睨み、由未も構える。

 きわめて原始的な方法で結論に至ろうとしている二人を置いて、彩乃は校門へ歩き出している。それに気づいて由未が追った。

「彩ちゃん!」

「コラっ! 待たんかいっ! 一発シバいて逃げんのかッ!」

 茂木が背後で叫んでいるが、由未は校門を出てマンションへ入ろうとしている彩乃を必死で追いかけた。

「ハァハァ、待ってよ、彩ちゃん、ハァハァ」

「……モッチーの反応が普通だよね…」

 ぽっつりと覇気のない声で言った。

「あんな無神経な人の言うこと、気にすることないわ」

「……」

 彩乃の顔には表情がない。

 由未が手を握ると真冬の寒気に晒されたかのように冷たい、包むように両手で握った。

「彩ちゃん…」

「ごめん、家に帰って」

「……」

 ほとんど反射的に握っている由未の手に力が入ってしまう。それで意図は伝わった。

「由未、これで外泊何日目? ご両親に…」

「関係ないわっ!」

「……由未、困らせないで」

「遠いところに行くって……私も……行きたい……」

「今夜は疲れたから、もう出発しないし、由未を連れて行くかは、明日の朝、考えるから」

「……彩ちゃん、いっつもウソつく…」

「……」

 力なく微笑んでタメ息をついた。

「じゃあ、あたしを由未の家に泊めてもらえるよう頼んでみて。ダメって言われたら諦める。いい?」

「ええ」

 それを両親に認めさせる自信はあった。彩乃の手を握ったままケータイを使うと、母親に話をつけた。由未は嬉しそうに微笑んで報告する。

「歓迎するそうよ」

 由未は腕を回して彩乃の肩を抱く。彩乃は肩におかれた手に軽いキスをして駅へ向かって歩き始める。肩を包んでくれている由未の手を、弱い力で握りかえした。

 駅について時刻表を見て、ホームへ降りると、茂木がいた。

 同じ方向で通学しているので当然だった。

「「……」」

「……」

 目があって、間があく。

 少し考え込んだ茂木が怖い顔で近づいてきた。

「二人で、どこ行くねん?」

「あなたには関係ないわ」

「こんな夜に、二人して心中でもするんやないかと友達として心配したってんねん。素直に答えんかい」

「あなたは友人ではないわ」

「ウチは友達やと思うとる」

「「……」」

「友達やさかい、真剣に怒ったんや。そんなこともわからんの?」

「余計なお世話よ」

「あんたらが他人やったら余計なお世話はせん。他人やないさかい、言いにくいことでも、あえて言うんや」

「……。ああいえば、こういう。もう一度、叩かれたいの?」

「お願い…、由未…、モッチー…。ケンカ…しないで…」

 普段の彼女には不似合いなほど、か細い声で彩乃が懇願すると、由未は黙って彩乃の背中を撫でた。それが、ますます茂木の気に障る。

「マコ、あんたは、どう思うてんねん?」

「……」

「あんたは、さっきのこと本気でやっとったん?」

「……」

「薄々わかっとんにゃろ。自分らのしてたことが普通やないことくらい。昼休みにイチャついとったレベルやったらシャレで済むけど、さっきのは異常も異常、誰が見ても引くで」

「……」

 彩乃が身震いすると、由未が茂木の前に立つ。

「それ以上、言葉の暴力が過ぎると、私、あなたを許さないわ」

「許さんかったら、どないするねん?」

「その口さがなく囀る喉を踏みつぶしてあげるわ」

「……」

「私は本気よ」

「…正気やないで……あんたは……思い込んだら、真っ直ぐなんは長所やと思とったけど……ここまで短所として発揮されるとは……」

 電車がホームに入ってきた。車両へ乗り込んでしまうと、他人に聞かれていい話ではないので茂木も黙る。由未の自宅がある駅で二人が降りても、茂木は最後まで黙って視線を送ってきていた。

「彩ちゃん、本当に気にしない方がいいから」

「……うん……わかってる……、考えない……考えないよ…」

 意図して、茂木のことは忘れる。

 由未の家に着き、前回と同じように両親に歓迎され、夕食をいただき、風呂をかりて、パジャマを着て、由未の部屋に敷かれた布団に入った。すぐに入浴を終えた由未も部屋に戻ってくる。

「彩ちゃん…」

 すでに布団へ入って目を閉じている彩乃に、どう話しかけようか、かなり迷ったわりに由未は平凡な選択をした。窓を開けて星空を見上げる。

「ね、彩ちゃん。星がキレイよ」

「……」

 もそっと布団から這い出てくれた。

「北極星も見えてる。彩ちゃんが……私につくってくれた大熊座も」

 由未は頬を赤くしながら自分の胸に手をあてたけれど、彩乃はチラリと夜空を見上げると、すぐ布団に戻った。

「……明日、8時には起きてないといけないの。もう寝ていい?」

「うん……ちゃんと私も連れて行ってくれる?」

「……。いい子で寝てくれたらね。だから、安心して眠って」

「…わかった」

 素直にシングルベッドへ入って目を閉じる。すぐには眠れなかったけれど、彩乃の寝息を聞いているうちに眠りへつくことができた。

 

 翌朝、土曜日。彩乃はパジャマの中でマナーモードにしておいたケータイがバイブレーションする震動で目を覚ました。朝7時前、いつもより一時間半は早い。静かに由未を起こさないよう布団から出ると、身支度もそこそこに机へ書きつけを用意する。

(ごめんね、由未。やっぱり一人で行…)

 ペンを走らせる左手を横から素早く握られた。

「……」

「おはよう、彩ちゃん」

 ぱっちりと由未が起きていた。彩乃は諦めてペンを置く。

「……頑張って早く起きたのに…」

「これで?」

 由未は目覚まし時計を見て微笑む。

「私は電車通学で、お弁当もつめてるのよ」

「あたしはコンビニ弁当で校門前のマンションに住んでるの!」

「それにね、夕べ、彩ちゃんは私に、安心して眠って、って言ったわ。つまり安心して眠ってると、どうなるか、わからないってこと」

「……チッ……ミスった…」

「もしも、連れて行ってくれること、確定だったら、きっと、彩ちゃんは曰く。ちゃんと起きないと置いてくから、さっさと寝なさい。ね?」

「……。すぐ出発するよ。朝ご飯は新幹線に乗ってから」

「うんっ」

 由未は布団から出ると、すでにパジャマではなく外出着をまとっていた。

「由未……いつから起きてたの?」

「四時からよ」

「……」

 彩乃は由未を置いていくことを諦めて家を出る。由未の両親には二人で彩乃の親戚の家まで遊びに行くと言って外泊の許可をもらって出発した。新幹線に乗ると、いつもほど会話は弾まず、早くから起きていた由未は眠気に襲われる。まだ早い時間帯の特急列車内は家族連れもビジネスマンも仮眠をとっている人が多い、あまり話し声を立てるのも憚られる。

「由未は寝てなよ。あたしは本でも読んでるから♪」

 彩乃は右手で本を持った。小説ではなく科学書らしいタイトルがついている。

「うん……でも、私も何か読みたい」

「絵本とか、無いよ」

「彩ちゃんが普段読んでる本が読みたいの」

「ああ、寝るためにね。最初のページで寝れるかもよ」

「ひどいわ」

「冗談♪」

 彩乃は左手で別の本を持って、由未に手渡してくれる。地球の生命と進化についての本だった。由未も高校生として生物や化学の知識は持っている。知的好奇心も少ない方ではない、ある程度読み進めて、結局は眠った。

「由未、起きて」

「ん、ん~……着いたの?」

「乗り替え。その前に買い物したいから大阪駅で降りるの」

「何を買うの?」

「犬のエサ」

「彩ちゃん、犬なんて飼ってないのに?」

「まあ、見てればわかるよ」

 新幹線を降りて駅前のデパートに入ると、地下の食品売り場で、彩乃は高級な外国チョコを箱で大量に買った。すべてカードで決済してから、さっそく箱の一つを開けて、もっとも高価だった一粒が、1800円もするウイーン王宮御用達のソリッドチョコを手に取る。

「いい香り。ね、由未」

 由未の鼻先に向けてくれた。たしかに、量販のチョコとは香りからして違う。形も口に入れたとき、優しく溶けるよう楕円形をしていて、まるで幼児の舌のような形だった。

 とても美味しそうだけれど、由未には納得できないこともある。

「……犬のエサにしては、ずいぶん高いのね」

「あたくしどものワンちゃんは舌が肥えておりますのよ。おほほほっ」

 彩乃が怪しい婦人言葉を操って微笑み、チョコをのせていない手も由未に向ける。

「お手」

「……」

「きっと、ホッペが落ちるくらい美味しいよ?」

「……」

 由未はチラリと店員の方を見た。大量に買ってくれた上客に営業スマイルを向けてくれている。買って、その場で食べようとしている子供じみた行為への批難は見てとれないほどには隠されている。由未は少し迷ったけれど、旅の恥はかき捨て、という言葉を受け入れた。

「…わん…」

 彩乃と手を重ねる。

「もっと可愛い声で吠えてくれないとね。王宮のワンちゃんみたいに。はい、おかわり」

「……。わんっ」

 ちょっと声を高くして吠え、反対の手も重ねる。首を傾げて、前屈みになり、彩乃との身長差を逆転させて見上げてみた。

「うん、可愛い可愛い」

「くんくん」

 興味がありますという顔でチョコの匂いを嗅いでみせる。飼い主は上機嫌になったが、やはり素直にはくれない。

「おあずけ」

「……きゅ~…くんっ…くすん…」

 鼻と喉を器用に鳴らして、チョコと彩乃の顔を交互に見つめる。その目まで潤んでしまった。

「食べて、よし」

 パクリと彩乃の手からチョコをもらうと、舌が蕩けそうなほど美味しい。

 幸せを感じた。

「可愛い顔」

 彩乃が頬へキスをしてくれる。

「御主人様って、言ってごらん」

「御主人様」

「……。素直すぎるのも問題かも」

 まさか言うとは思わなかった彩乃は、自分も箱からチョコを取って口に含む。

「なるほど……中毒になりそうな味」

「わん」

「いや、もう犬はいいから。あ、もう一つ欲しいの?」

 彩乃の問いに由未は頷いた。

「よしよし」

 もったいぶらずに二つめをくれる。それを味わってから飲み込むと、由未は彩乃の頬へキスを返した。彩乃が頬を赤くして、店員へ目線をやると、営業スマイルのまま凍りついている。早々に立ち去ることにした。二人で両手にチョコの箱が入った袋をさげて、エレベーターに乗る。ちょうど、二人だけだったので、人目を気にせず彩乃はチョコの箱を、まるで空中に見えない棚が存在するかのように、次々と片付けるように消していく。

「……。いったい、いくつ入るの?」

「たぶん、無限。そんな感じがする」

「無限……。どんな物でも?」

「ううん、あたしの両手で持つことができる重さと大きさが限界。だから、冷蔵庫とか大型テレビは無理。でも、数は無限っぽいからチョコならトラック一杯分でも、いけそう」

「……能力…、…世界の外へ……」

「ま、人によって性質が違うらしいけどね」

「リリィさんって人は、……どうなの?」

「それは、会って自分で訊いてみれば♪」

 さっそくチョコを二つ、自分と由未のために取り出すと口に入れる。デパートを出ると、駅に入らず、駅前のロータリーに立った。

 彩乃はポケットからケータイを出してメールをチェックすると、微笑んだ。

「アッシーの都合がついたみたい。こっから先は電車に乗らなくてすみそう」

「アッシー?」

「足に使う男の総称」

 彩乃が腕時計を見ているうちに、駅のロータリーへ白いスポーツカーが入ってきた。かなり目立つ、その派手なクルマを由未もイメージでは知っていた。おそらくフェラーリか、ポルシェというブランドだろうと見当がつく。二人の前で停車すると、タキシード姿の瀟洒な男が降りてきた。

「こんにちは」

 まずハンサムと言っていい顔立ちにシャープな眼鏡をかけている。身長も由未より高い、すらりとしてタキシードが似合っているけれど、雑多な駅前の雰囲気からは違和感がある。彩乃が笑顔で近づいていく。

「この前は電車とタクシーだったから、超疲れたよ。今日はラッキー」

「幸運の礼はブリュンヒルデに。今日は彼女の機嫌がよくてね。遠出したいと思っていたところに古河さんからのメールをもらって二人の一日が決まったよ」

「ブリュンヒルデさんも、あいからずの曲線美で♪」

 彩乃はハンカチでクルマのボディーを撫でた。

「人間が考えうる造形美の極致ね」

 クルマを誉めてから、彩乃が助手席に腰を下ろすと、男はひざまづいて彩乃の靴を脱がせ、その埃を払うと小箱に入れて、どこかへ消してしまった。

 見ていた由未が緊張する。

「……、あなたがリリィさん?」

「いや」

「……私は真藤由未といいます」

「僕はラインハルト、こちらは恋人のブリュンヒルデ」

「ぇ…」

 由未は彩乃が乗ったクルマを示されて思考が止まる。さっきから彩乃と男の会話も理解しきれていない。ラインハルトなどと名乗ったが、男の顔立ちは日本人、言葉も流暢な日本語で外国育ちとは思えない。何より、ブリュンヒルデというのは誰なのか、本名とは思えないラインハルト同様、もしかしたら男の中では彩乃がブリュンヒルデなのか、そして、彩乃の旧姓である古河を知っている男に、由未は複雑な気持ちになった。

「……」

「古河さん、彼女も?」

「いっしょにお願い」

「では、靴を脱いでから」

「……」

 軽い嫌悪感を覚えながらも、由未は言われた通り靴を脱いでクルマに乗った。ラインハルトと名乗る男の運転は、クルマの派手さに似合わず、丁寧で乗客に優しく、乗り心地は悪くなかった。ただ、一時間も乗っているうちに、運転が丁寧なのは乗客への配慮ではなく、クルマへの配慮だと由未でも気づいてしまった。高速道路を進み、瀬戸大橋を渡る頃になって、トイレ休憩のさいに彩乃から忠告される。

「あいつ、クルマを愛してるから、テキトーに合わせといて」

「…愛…、…クルマを?」

「アホ御曹司なんですの。ただで乗せてくれる彼の世界に合わせるのが、せめてものタクシー代。あいつも財閥系でね、だから、あたしの旧姓を知ってるってわけ」

「……彼も…能力を?」

「あいつの力は、ちゃっちいよ。靴箱にして五つ分って自分で言ってた」

「……」

「車内禁煙はともかく、飲食も禁止だから今のうちに何か飲もっ」

「……ええ」

 休憩が終わると四国に入り、高速道路を降りて立派な屋敷の車庫で駐まった。

「二人とも降りて」

「はいはい」

「ええ」

 降りた車庫には数台の磨かれたクルマが並んでいる。その中から青いスポーツカーを選んで、ラインハルトがエンジンをかけた。

「ここから先は山道になるから、こちらへ」

「えっと……彼女の名前は、何だっけ?」

 彩乃が青いクルマを手で撫でる。由未でも日常的に見かける国産車で、インプレッサというエンブレムが読めた。タキシードを着ていたラインハルトは屋敷に戻って着替えてきた。Tシャツにジーンズと、ごく普通の若者らしい姿で眼鏡はしていない。

 彩乃の頭をコツっと叩いた。

「嫁のマーリィだ。オレはバニング。忘れるなよ、ひどいぜ」

「ごめん、ごめん」

「……」

 由未は何も言わないことにした。今度は土足厳禁ではなく、そのまま乗車して山道を進んでくれる。やや運転は乱暴だった。たぶん、クルマを替えると性格傾向も替わるのだろうし、それが故意的なものか、不随意な現象なのか、由未にとって知りたいと思えることではなかった。

 今度は助手席に乗らず、由未と二人で後席に並んでくれた彩乃が囁いてくる。

「まあ、自分とは違う自分を演出したくなる気持ちはわかるしね」

「……彩ちゃん…」

 由未が何か言う前に、運転しながらバックミラーで二人を見ていたバニングと名乗った男が口笛を吹いた。

「古河の恋人ってか?」

「まあねン」

 はっきりと肯定して由未の頬へキスをしてくれる。その様子を見てもバニングはデパートの店員や茂木のような反応はしなかった。

「4Pは久しぶりだ。燃えるぜ!」

「「ぅっ…」」

 彩乃と由未は急加速されて呻いた。山道なので遠心力も加わってくる。

 何より、一歩間違えば谷底という道なのに、アスファルトとタイヤの摩擦を楽しむように運転されると、由未と彩乃は生きた心地がしなかった。

「着いたぜ」

「……ハァ……ハァ……あんたを呼んだこと、激しく後悔……タクシーのがよかった」

「んなこと言ってると待っててやらないぞ」

 満足そうにバニングはダッシュボードに足をのせるとタバコを吸っている。彩乃と由未は這うようにクルマから降りた。

「マーリィちゃん、せめて、帰りは穏やかに。いっそ、待ってる間に二人で燃え尽きておいて」

「おい、古河」

「何よ」

「リリィには、恋人って紹介しない方がいいぞ。あいつ、お前に惚れてるから」

「……」

 コーラだと思ってコーヒーを飲んでしまったような顔をして彩乃は「ご忠告感謝」とだけ言い残して石段を登り始める。由未もついていく。脚が痛くなるほど石段を登ると、庵が見えた。

 日本庭園でフリルだらけの白と黒の洋服を着た女性が紅茶を楽しんでいる。由未にも彼女がリリィなのだと、わかった。

 彩乃を見ると微笑みかけてくる。

「いらっしゃい、孫子さん」

「弾が無くなっちゃった」

 手早く用件を済ませたい彩乃だったが、リリィは由未へ視線を送る。

「そちらは?」

「真藤由未です。はじめまして」

 由未は礼儀正しく頭を下げた。

「はじめまして、私はリリィ」

「でさ、新しい弾、多めにちょうだい」

 彩乃はポケットから札束を出した。

「これ、この前の分と合わせて」

「別に、いいのに」

 リリィは持っていたティーカップを消して近づいてくる。上品な香水の匂いがした。彩乃は札束を手渡す。

「ちゃんとしないと落ちつかないの。で、新しい弾ちょうだい」

「マカロフは撃たなかったのに、グロックは気に入ってくれたみたいね。遊んでるの? それとも、出遭っちゃった?」

「一人ね。……あと、もう一人、怪しいのもいて落ちつかないから」

「手伝ってあげましょうか?」

「いい、たぶん平気」

「由未さんは使えるの?」

「ぜんぜん」

「……。由未さん、どうして来たの?」

「ちょっとね。ついでみたいな感じ」

「私は由未さんに訊いてるの」

 ふわりと香水の匂いが、さらに近づいてくる。

 由未は覚悟を決めて言った。

「私も仲間にしてください!」

「由未っ?!」

 彩乃は驚いているが、リリィは考え込む。

「え~~……っと……いいけど、由未さん、使えないのよね?」

 リリィが強調するように右手でグロックを握り、それを左手へ持ち替えると、次の瞬間には消してしまった。

「その力は使えませんけど、射撃なら少しはできます」

「アメリカ育ち?」

「由未は弓道してたから、あたしより巧いのは確か」

「孫子さんと比べたら、きっと小学生の男の子でも巧いわ」

「……。新しい弾ちょうだい。由未が練習で使っちゃったから、もう予備がないの」

「由未さん、どうして照空もできないのに、こっちの世界に入りたがるの? もしかして、孫子さんのため?」

「……。はい」

「二人って、どういう関係なの?」

「友達」

 彩乃が即答したけれど、リリィは無視した。

「孫子さんと、どういう関係?」

「……友達です」

「そう、命がけで協力したいような友達なの?」

「…はい。……私にとって、たった一人の友達ですから」

「なるほどねぇ。……でも、照空もできず……かぁ」

「その力だって、いつか使えるようになるかもしれません」

「可能性は否定しないけど……、できそうな気がするの?」

「はい。助けたいって気持ちがあれば、いつか、きっと。強く願えば」

「っ……くっ……ぷっ…」

 リリィが笑いをこらえようとして、失敗する。それでも上品さを失わない程度に、大笑いを始めた。

「ふふっふふふっ! あはははっははっ! 可笑しい、あははっ! 可愛いわ、あなた可愛い、可愛すぎっ! ふふふっふ! 助けたい気持ちがあれば、できるかもって? あははっはははっ! 強く願えば?! あははあはっ!」

 涙を拭きながら笑っている。

「ひ、久しぶりよ! こんなに笑えるのっ! あははっはははっ! 願いは諦めなければ、きっとかなうっ! ステキよ、とっても可愛くてステキ! あははははっ!」

「……」

 由未は憮然として黙り込む。バカにされているのは、よくわかった。

「はいはい、ごめんなさい。あんまり笑っちゃ失礼よね。まあ、立ち話も何だしさ。こっちに入っちゃって」

 くだけた感じでリリィが庵へ案内してくれる。しかも、地下室だった。地下室内には銃と火薬の匂いがしたけれど、それらは無い。地上の日本建築とは、まったくかわって地下室は明るい洋風の造りでテーブルとソファがある。リリィが二人に紅茶を淹れてくれたので、彩乃はチョコレートを一箱、テーブルに置いて開けた。

 リリィは先刻と同じティーカップを持つと、一口啜った。

「まずね、照空。私はムーブ・アティックって呼んでいるけど、孫子さんは無限ポケットだったかしら?」

「まあね」

「センスのない呼び方ね」

「動く屋根裏部屋は、センスがあるつもりなんだ?」

「私の場合、入れておける容量が屋根裏部屋くらいなの。でも…」

 リリィはグロックを握ると、自分に向けて撃った。

 爆ッ!

 銃声は響いたけれど、リリィは無傷で紅茶を楽しんでいる。

 由未が気づいた。

「弾を…消した…?」

「そう、私は直接に手で触れなくても、入れたり出したりできる。だから、弾も怖くない」

「ちなみに、あたしは怖いから絶対にしないでよ。由未も」

「…え…ええ…しないわよ、そんなこと」

「リリィは怪力でね、軽自動車くらいなら入れておけるんだよね?」

「失礼ね。でも、軽自動車が限界で普通車は無理、軽自動車も一台だけ、そのくらいの力なわけさ」

「は……はい…」

 どう相槌を打っていいか、わからない。なのに、リリィは話を進めていく。

「どうして、この力を使えるのか、どうして、こんな力が身につくのか、どうして性質が違って、人によって限界があるのか、私たちは、その答えを知らないの」

「……」

「でも、ある程度の傾向は経験則として手に入れてる。由未さんの言った…クスッ…くくっ」

 思い出し笑いをしてから、リリィが続ける。

「残念だけど、乙女チックな、願う力が強ければ、とか、助けたい気持ちがあれば、そんな風に目覚める能力ではないみたいよ。もしも、そうだとしたら、この瞬間にも、世界で家族や恋人を失う人、どのくらいいると思う? 日本に限っても交通事故だけで年間7000人も、一日にして20人も、他の事故や病気を入れれば、本人や、その人の恋人、家族は、どうして能力をえないのかしらね? きっと、由未さんに比べて、助けたいって気持ちが足りないから、願う心が少ないから、ダメなのかな?」

「……」

 由未は顔を伏せて、反論を控えた。

「リリィ、あんまり由未を、からかわないで」

「はいさ。さくっと説明すると、傾向として無神論者の苦労知らず、または思慮深い仏教徒に発現してることが多いの」

「苦労知らず…ねぇ…」

 彩乃がつぶやくと、リリィが補足する。

「食べるのに困ったことがないレベルの生活をしてきた人って言った方がいいかな。それぞれに精神面での苦労はあったりするからさ。経済面での苦労知らずってこと。そして、絶対神、唯一神を信仰してる人に発現した例は知られていない」

「……キリスト教…」

 由未のつぶやきをリリィが肯定する。

「そう。加えて、ユダヤ教、イスラム教なんかも含めて、多神教でない宗教の信者すべてといってもいい」

「「……」」

「きっと、彼らにとって世界は世界、しっかりとした世界を神が創ったはずだから、自分が歪められたり、世界の外へ影響できるなんて考えてもみない。根っこのところで世界を受け入れてる、そういう意識の構成になってるから、かな」

「……」

「由未さん、空即是色、色即是空って聞いたことある?」

「くうそく、ぜしき、しきそく、ぜくう……漢文…いえ…仏教のお経か何かですか?」

「そう。色とは現実の目に見える世界だと思って。空は見えない世界、世界の外、宇宙の外。いわゆる空間と空は違う概念。空間っていうと何もないように思うけれど、そこには縦横奥行き、そして時間がある、つまり世界。空間には空気なり星間粒子なり、何かある。あるは色、ないは空。空は宇宙の外、私たちは、そこを照らすことができる。それを照空。とてつもない話ね。でも、色空不二、色と空は、まるで正反対の二つ別々のもののようだけど、実は二つで一つ。色空もとより不二なり、空すなわち、これ色、色すなわち、これ空。唱えて空即是色、色即是空」

 そこまで喋ってリリィは紅茶で唇を湿らせた。

「空とは何もないのではなく、あらゆるものを包み込んだ安定した状態。その空を照らすことによって知覚でき、干渉でき、ある程度、操ることができる。無限ポケットって呼び方に一理あるのが、きっと空に限界は無いはず。なのに、私の場合は屋根裏部屋くらいしか、自分で使えない気がして、それが枷になってる。でも、孫子さんは無限な気はしても、直接に触れた状態でないと、しかも、その物を動かすってプロセスがないと、色から空へ、空から色へ、移せない。私の場合は照らすだけ、直接に触れていなくても、色から空へ、空から色へ、飛んでくる弾丸でも簡単にね。ここまでで、質問は?」

「……。そういうことがあるにしても……空を悟れる人が、思慮深い仏教徒というのは納得できますけど、苦労知らずの無神論者というのは……ちょっと違う気がします…」

 由未の意見に、リリィと彩乃が微笑んだ。

「そうなのよさ。この二種類の人種は、水と油、男と女、賢者と凡夫、空と色くらいに、まったく別もの。なのに、照空できちゃう。私も煩悩まみれの衆生。でもね、賢者が世界を思惟するように、私も世界と私について思惟することがあったの。そう、世界と私は相容れないかも? 私と世界って、びみょ~に違うんじゃない? 世界と私に、ちぐはぐな感じがする。この不調和、不揃い、世界と私には隙間があるかも? 境があるかも? そんな疑問が膨らんで、そして、できるようになっちゃった。少なくとも自分の有り様と、世界の有り様について、疑問や疑念を抱いて思惟を続けていたことが必要条件。でも、十分条件じゃないみたい。ある種、天賦の才能みたいなものもいるのかもしれないの。それにね、経済的な苦労知らずな分、思惟する時間がやたらとあった、そんなことも関係してるかもしれないわ。迷いと悟りは紙一重、なんてね。他に質問は?」

「……どのくらいの人が照空できて、その人たちは、どうして敵味方がいるんですか?」

「どのくらいの数ねぇ……絶滅危惧種くらいじゃないかな。思慮深い仏教徒にしても、めったにいないし、何より、この人たちは無害ね。むしろ、私たちを見守ってくれるくらいよ。でもって問題なのが、私たち。この数は、条件で考えて、経済的な苦労知らずで、無神論者で、普通じゃない趣味の持ち主で、しかも懐疑的思惟を続けてきた人、となると100万人に一人もいないかもね」

「日本の人口は1億2千万」

 彩乃が電卓を叩くマネをして暗算する。

「ざっと120人。水滸伝でもする? ここを梁山泊にして」

「由未さんはしたいみたいよ。仲間にして、なんて初めて言われたわ。それも、照空なしに」

「……私は……ただ、……友達だから。……せめて、銃を売ってもらえれば、私…」

「自信家ね。グロックなら一丁90万円なり」

「……」

 とても手が出る額ではなかった。

「可愛い顔。あ、そうそう、廃棄するつもりだったトカレフなら10円、中国製のマカロフでも1万円」

「リリィさん…」

 顔を輝かせる由未を彩乃が制する。

「ダメだよ。トカレフは安全装置が無いってバカ銃だし、コピー品のマカロフも危険すぎ。せめて持つならグロックにして」

「……」

「由未、諦めなって。だいたい銃は、どこに隠すつもり? スカートの中?」

「そうよ」

「体育の時間は? 部活は?」

「……」

「お風呂は? 親に見つからない自信あるの?」

「……」

「お巡りさんに職質されたら?」

「スカートの中よ。調べるなんて職権乱用」

「たまたま、お巡りさんの前で突風が吹いたら?」

「……そんなこと100万分の1くらいの…」

「あたしたちの街、パトカーがうようよしてるね。あたしとチマのせいで」

「……」

「ね?」

「……私はっ…私は! あなたを守りたいのっ!!」

「……」

「由未さん、争いを見てしまったのね。孫子さんと、…チマって何?」

「あたしを襲ってきたバカ。あたしが血を流して苦しむところが見たいって、おねだりするから、自分をブラディーマリーにしてやったの。ブラディー・ウィザードとか名乗るから、略してチマ」

「チマだけに、血まみれの最後ってわけね」

「……オヤジギャグ……だ……アホすぎる…」

 うなだれる彩乃を無視して、リリィは由未を見つめる。

「由未さんの気持ちは、わかるわ。知ってしまったら、助けたくなるものね」

「はい」

「さっき、どうして敵味方がいるか、訊いたわね」

「はい、どうしてなんですか?」

「私たち、照空できる者同士の出会いは、往々にして不幸であることが多いわ。その性質のためにね。出会いは、出逢いでなく、出遭いになることが多い。しかも、100万人に一人以下なのに、お互いを感じてしまったり、引き合ってしまう。まるで惑星と惑星が干渉するようにね。そして、その接触の結末は、ほとんどバッドエンド。めったにハッピーエンドは用意されてない。それこそ、ハッピーエンドなんて天文学的確率でしょうね。うん、チマと孫子さんの場合だと、孫子さんが血を流して苦しむところを異性に見てもらって快感大興奮って性質だったら、ハッピーエンドだったかも」

「あたしに、そんな趣味ないし」

「絵としては美しいでしょうね」

 リリィが彩乃を見つめてタメ息をついた。

「手に入らないなら壊れてしまえ、そういう気持ち、よくわかるわ。ね、由未さん?」

「ぇ……っ」

 唐突なことを言われて由未が戸惑った瞬間、エレベーターで降下したときのような浮遊感を覚えたけれど、ソファに座ったままで、手に持っていたティーカップもそのままだった。

「……私……」

「長旅で疲れてるみたいね、うとうとしていたわ」

「ぇ……は、はい……すいません」

「いいのよ、気にしなくて。でも、そろそろ帰ってもらおうかしら。私も疲れたし、由未さんが銃を持つべきかは、孫子さんと、よく相談してね」

「……はい、…そうします。…」

 それほど長居したつもりは無いけれど、帰れと言われれば退室するしかない。立ち上がって頭を下げ、彩乃を見て困った。うとうとどころか、彩乃は熟睡している。糸の切れた操り人形のようにソファへ、だらしなく四肢を投げだして眠っていた。これでは部屋の主に帰れと言われて当然だった。

「起きて」

 由未が揺り起こすと、ぼんやりとした目で周囲を見回して状況を認識したらしく、由未の手を握ってくれる。

「もう帰るわよ」

「……」

 返事はなかったが、抵抗もなかった。

「リリィさん、お邪魔しました」

「いいのよ。お幸せに」

「……リリィさん…」

「とても羨ましいわ。好きになった人にも、好かれていること。きっと、それは、この世の天国ね」

「……気づいて…」

「その関係、大切にしてちょうだい」

「はいっ!」

 もう一度、頭を下げて彩乃の手を引いて地下室を出ると、とっぷりと日は暮れていた。訪ねたときは、まだ日は高かったはずなのに、もう深夜という闇の濃さ、石段の左右にある灯籠だけが頼りで、ラインハルトだか、バニングだか、あのクルマ狂いの男が待っていてくれるか、かなり不安になる。

「彩ちゃん、足元、気をつけて」

「……」

 彩乃は手を引かれるまま、かなり足取りも怪しいので、由未は長い石段を彩乃を背負って降りることにした。山の夜は涼しい、恋人を背負っていても、軽く汗ばむくらいだったけれど、山の夜は暗い。石段が終わると、灯籠も無くなり、道は真っ暗で歩いて帰ることさえできそうにない。

「あの男……」

 男は待っていなかった。ケータイでさえ圏外、由未は途方に暮れ、背中で眠っている彩乃に相談しようと思ったが、山びこが響いてくる。

 ファァッァ!

 聞き慣れないエンジン音だったけれど、この山中で危険極まりない運転をする男が近づいてくれている。見下ろすと、ヘッドライトが右へ左へ、まるでラジコンカーのように這い登ってくる。

 五分も待たずに、タイヤを呻らせて由未の前に停まってくれた。ただし、二人を撥ね殺すつもりなのかという勢いで由未の脛にバンパーが触れそうな距離でギリギリの急停車をしてくれた。

 由未は怯えなかった。人格は疑っていても、この男の運転技術が信頼に耐えることは頭で理解している。急停車した運転手を、ヘッドライドの逆光にも負けず、黙って睨む。

「……」

 車窓が開いて、男が謡う。

「とっぷり暮れた山の中♪ 牝鹿の姉妹を照らしたら♪」

「……」

「姉はギョロリと鬼の目で♪ おちびはスヤスヤ夢の中♪」

「……今度は即興詩人……また、クルマも替えて……」

 うんざりした顔で由未は後席のドアを開けて、シートに彩乃を寝かせる。車種や車名、個人的に命名した名前について訊いてやる気力はない。レクサスというブランドと駆動力の半分は電気でえていることは車内の表示で、わかった。

 由未も乗り込むと、出発される前に話しかける。

「一つ、お願いがあるの」

 しおらしい声を意図して選んだ。

「彩ちゃん、とても疲れて眠っているの。少し熱っぽいみたい」

 背負っているとき、彩乃に微熱があることには気づいていた。

「あなたにとって、この子が大切なように、私にとって彩ちゃんが一番」

 あえて丁寧にクルマの天井を撫でた。

「ね。だから、優しく運転してほしいの。お願い」

「ふっ…」

 男が微笑んだ。

「アクセルとハンドルは、処女のように♪ 羽毛のように♪ シフト・ザ・エンゲージ」

 言っていることは半分もわからなかったけれど、気持ちは通じたようで運転は穏やかで優しいものにしてくれた。そうなると、高級車の乗り心地は揺りかごのようで、起きているつもりだったのに由未まで眠り落ちてしまった。

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