第7話

 翌朝、木曜日。両親と由未、彩乃の四人で朝食を摂り、家を出る前に由未が曰わく。

「お母さん、お父さん、二人とも仲良くね。健康にも気をつけて」

「……何よ、由未? なにかあるの?」

「ううん、何でもない。ただ、言っておきたかっただけ」

「変な子ね」

「くっ…」

 飲んだばかりの味噌汁を吐き出してしまいそうな笑いの衝動に耐えながら、彩乃は笑い涙を意味ありげな涙として小指で拭いた。

「彩ちゃん?」

「ごめん、ごめんね。由未」

「気にしないで、私なら平気だから」

 両親に別れを告げたつもりになっている少女は家を出ると、胸いっぱいに息を吸った。

 今日も夏の日差しが二人へ降り注いでくる。

「由未。よく聞いて」

 大切なことを告げる顔でウソを告げる。

「あたしたちは、昔ほどの力を失ったかわりに、太陽への耐性も身につけた。ある意味で進化した」

「そう……だから…」

 由未が太陽を見上げる。それを彩乃は手で遮った。

「あまり直視しないで。ずっと見てると瞳をやられるよ」

「うん、気をつける」

「肌もね、ジリジリするでしょ?」

「……うん……ちょっと痛いくらい…」

 夏なので当たり前だったが、そう思って浴びると通常の三倍ほど刺激を感じる。

 歩いて駅へ向かう。染みついた生活習慣なので、学校へ行く必要性について由未は疑問をもっていなかった。歩道橋から駅前の雑踏を見下ろして、彩乃は遠い目をして言ってみた。

「こんなにも世界はキレイ。太陽でさえ、美しいのに。なぜ、人間が作ったものは、こうも醜いのかな」

「そうね。きっと人間の存在が自然に反しているから、その有り様が醜くみえる。……でも、それを醜いと思えることは希望のある証拠、私はそう思うわ」

「ぷっ…くっ…」

 あたしを笑い死にさせる気っ、彩乃は口元を押さえて座り込んだ。

 陳腐な物言いに、同じレベルの発言が返ってきて、あまりに可笑しくて、お腹がよじれそうだった。

「彩ちゃん?! 大丈夫っ?! どうしたの?!」

 心配しながら、ちゃんと日差しを遮るように立ち回ってくれている。そんなところまで可笑しくて愛しくて、必死に笑いを耐えた。

「平気。ただ、聞こえてきたの」

「聞こえて…?」

「あの樹。あの樹の悲鳴がね、急に聞こえてきて、ちょっと共感しただけ」

 彩乃は歩道橋を造るために大きく枝を切られた街路樹を指してみた。

 信じてくれた。

「ひどいよね」

 樹を見つめて胸を痛めている。

「由未。わかるの? もう、能力が?」

「どうなのかな……何となくだけど……樹の気持ち、わかる気がする…」

「そう……。あの樹に、名前をつけてあげて」

「名前?」

「あたしたちが名前をあげれば、より強く生きられるの。なるべく強く、いい名前を」

「名前……」

 真剣に考え込む。

 思いついた。

「ガブリエル」

 とても得意そうだった。

「片羽のガブリエルっていうのは、どうかしら?」

「ぃ、いいと思うよ」

 笑いそうなのを耐えつつ、理由を聞いてみる。

「だって、ほら、枝を失ってしまったでしょう。まるで羽を失った天使みたい」

「なるほど……」

 よく思いつく。感心して笑いが止まった。

 少し早く起きていたので、いつもより一本早い電車に乗れた。満員電車に揺られながら、痴漢に遭った茂木のことを思い出して、彩乃が話を作る。

「由未。もし、人の血を吸いたくなっても場所と場合と、人を選んでね」

「っ…」

 誰が聞いているともわからない満員電車で、そんな大切な秘密を言うの、という目に彩乃は微笑んだ。

「大丈夫、あたしの声、今は普通の人間には聞こえない波長で喋ってるから」

「……超音波?」

「正解」

「私には、できないの?」

「訓練すれば、ね。そのうちコツを教えてあげる」

「お願いね」

 単に、列車の騒音と、彩乃が由未の耳元で囁いたことに、いちいち他人が反応しなかったにすぎないけれど、すっかり信じ込んでいる。ただ、耳元といっても身長差があるので、彩乃は爪先立ちになっている。そのために列車の揺れと人の動きに押されてバランスを崩した。

「ぅぐっ…ごめん。痛っ」

「大丈夫?」

 由未の肩と彩乃の顔がぶつかって、したたかに鼻を打ってしまった。

「痛~っ……ぅ…ヤバ…」

 鼻腔をサラサラとした液体が流れ落ちてくる感触を覚えて困った。

「彩ちゃん……血」

「ぅ~…前に打ったとこ、また打って」

 彩乃は手で鼻を押さえている。由未がハンカチをくれた。

「ごめん、前のも、まだ返してないのに」

「気にしないで。ほら、こっちにも零れてきてる」

 手を滴ってきた血を由未が指で拭いてくれた。

「……彩ちゃんの…血って、……」

「由未っ?!」

 まさか、と思ったときには由未は血の着いた指を口へ、舌先で少し舐めた。

「由未……」

 もしも何でもなく、こんなことをされたら、かなり引くけど、欺している自分が悪いので気持ちを入れ替えてみる。親祖にあたる吸血鬼の血は、よくないとか、そもそも吸血鬼同士の血液交換は近親相姦的にタブーとか、そういう新しい設定にすべきか、迷ったけれど大きな声も出せないので無難な注意にする。

「人が見てるから」

「そう…ね」

 たしかに、同じ高校の女子が一人、由未と彩乃の行動を見ていた。その顔に、見ていました、とても引いています、と描いてある。

 その女子を由未が睨む。

「……」

 誰かに喋ったら殺すわ、そんな気迫のある目にキッと睨まれた女子高生は怯えて、弾かれたように目をそらした。

「由未。目が、怖すぎ」

 電車を降りて学校へ。ちゃんと授業を受けて休み時間になり、廊下で茂木と出会った。

「おはようさん。……」

 いつも通りの挨拶をしつつ、由未の変化に気づいた。なぜだか、遠い目をして見てくれている上、首筋には鬱血したキスマークが残っている。彩乃へ視線をやると、由未から見えない方の半顔だけで微笑んでくれた。

「あんた……ユミリンを吸うたんか?」

「まあねン」

 答えながら前に出て由未を庇うように立った。

「モッチーこそ、あたしを試してくれたね。最初から、あたしを見張っていた」

「……」

「そう、そうね。きっと、西方正教会あたり? 違うかな。やっぱりバチカン?」

 一人芝居を展開しながら、腰を落として戦闘態勢になっている。

「……。せやね」

 ノリと勘のいい茂木は、ほぼ正確に状況をつかんだ。

 また欺されとる、しかも自分も吸血鬼化したと思て、茂木は笑い出しそうになるのを、しっかりと微笑みでフォローした。大笑いを微笑みに変換したので、かなり迫力のある顔になった。

「ほな、二匹まとめて始末せんとな。祈る神もない貴様らには、猶予も躊躇もせんで」

「よくも、まあ…」

 即興で、そこまで芝居ができてセリフが出てくる、と彩乃が感心していると、茂木は自分の両わき腹から、ありもしない短剣を抜く動作をした。

 その意図を彩乃は汲み取れた。

「ロンギヌスのダガー……やっかいな」

「彩ちゃん、どうなってるの?」

「由未……見えてないの?」

 わざとらしく彩乃が驚いてみせると、茂木が嗤った。

「なんや、これさえ視ることがでけんて、弱すぎるんとちゃうか」

「モッチー、あなた、何を言ってるの?」

「由未。あれは、もう由未の知ってるモッチーじゃないの。操られてる」

「操られて……、でも、どうしてダガー……聖遺物は、槍だったはず…」

「由未の知らない、一般に知られてない聖遺物だから、やっかいなの」

 たんに、とっさにロンギヌスと言ってしまった後、どう見ても茂木の構え方は短剣の二刀流だったので、無理やり修正したのを、後付の理由で完結させてみた。

「私には、見えてないわ……」

 信じてくれた。

「往生せいや!!」

 茂木が右手で横薙ぎの一閃をすると、彩乃は頭を低くして避ける。

「くッ…」

「ほな、こっちや!!」

 やや遅い動きで由未に向かって短剣を投げる動作をした。

「由未っ! 避けて!」

「っ!」

 反射的に彩乃と同じように頭を低くして丸くなる。当たり前だったが、どこも痛くならない。

「視えもせんくせに、うまいこと避けおって」

 茂木は存在しない紐を引く動作をして、投げてしまった短剣を引きよせ、空中で巧みに握り直した。パシッと受けとめる音が聞こえてきそうなほどの名演技で、彩乃はノリの良さだけでない茂木の多芸ぶりに感心する。茂木は悦には入って、十字に構えた。

「次は避けられんよ」

「由未っ! 逃げて!」

「ヤダっ! 彩ちゃんも、いっしょじゃないと!」

「隙だらけや!!」

 大きく振りかぶって二本まとめて由未へ投げつける。

「由未っ!」

 飛びついた彩乃が由未ごと倒れて転がる。転がりながら、伝える。

「第二校舎の裏に。あたしが引きつけるから二手に分かれて。お願い、聞き分けて」

「彩ちゃん……」

「大丈夫、あたしには、いざとなれば、ね」

 銃の引き金を引くマネをした。それで由未も納得して走ってくれる。

「どこへ逃げても無駄や!」

 茂木が追ってくる。二手に分かれたが、もちろん由未を追ってくる。

「ヤツとの勝負の前に、まずは狩りや」

「ハァハァ…ハァっハァ」

「無駄や無駄や無駄や」

 嗤いながら茂木も、だんだん呼吸が苦しくなってきたが、あえて平静を装って追いかける。ときどき短剣を投げつけてみると、由未は必死に避けてくれる。見えない投擲物を避けるというのは、肉体的にも精神的にも、かなりの消耗を強いる。おかげで余裕をもって追いかけることが、できる。

「ははははっはっ! どこへ行こうというんや!」

 楽しい。

 たしかに、楽しい。

 彩乃が由未を欺して遊ぶ気持ちが、よくわかる。

 高校で一年二ヶ月、友人として付き合ってきたけれど、転校してきたばかりの彩乃の方が、よく由未での遊び方を心得ている。

 こんなに由未が楽しいと思ったのは初めてだった。

「楽しい! 楽しいで! 吸血鬼っ! 一方的やな!」

「くッ…ハァハァ…」

「ヒャハハハ! 切れろ、切れろぉ!」

「っ…ぅっ…」

 何度も床を転がって逃げたので制服が汚れて埃まみれになっている。とうとう逃げ場がない。旧校舎への閉鎖された渡り廊下に追いつめた。

 左右は窓で、2階。逃げるには茂木の横を通るしかない。

「さて、どこから切り刻んだろか」

 存在しない短剣の刃を舌を出して舐める。ウチって、こんなにサディストやったっけ、自分の新しい面を発見した気分だった。

「ウチは神罰の地上代行者ぁぁ」

 今まで生きてきた中で最高に陰惨で残虐な微笑みをニパーっと浮かべてみる。

「ハァ…ハァ…」

 まだ由未の目は諦めていない。

 最後の最後に起死回生を狙って飛びかかってくるか、なんとか横をすり抜けようとするか、そのくらいの反撃はしてきそうだった。そろそろ止めたろかな、ほんでも、こんなに楽しいし、せっかくやからトドメを刺してみたいわ、茂木は疑似的な殺人衝動を覚えた。腹部に一突きしたときの由未の顔を見てみたい。絶望か、恐怖か、怨嗟か、悲哀か、どんな表情をしてくれるか、見てみたくてたまらない。

「終わりやな。アーメン、ハレルヤ!」

 両手の短剣を構えて間合いをつめる。

「極楽往生っ!!」

「っ!」

 由未が飛んだ。

 窓枠に立ち、そして、外へ飛ぶ。

「って、あんた! ここは2階っ!」

 茂木が止める間もなく、窓から飛び、1メートル先にあったポプラの樹の手ごろな枝でステップし、さらに2メートル先の自転車置き場の屋根へ飛び降りる。

 着地にも成功して、そのまま自転車置き場の屋根を走っていった。

 あまりに華麗なジャンプだった。

「……すご……」

「思い込みの力って、すごいよね。とくに由未の場合」

 逃げたはずの彩乃が隣にいる。

「昨日は自分のパンチラ見て気絶したのに、今日は屋根をスカートで走ってる」

「あんたなぁ……。ユミリン、危ないで。2階の窓から飛ぶやなんて、自分を超人やと思い込んで、大ケガするで」

「たぶん大丈夫。自分ができると思った範囲のことしか、しないだろうし」

「ほな、あんた、ここから飛び降りられる?」

「……」

 窓から下を見るとコンクリート、もしも枝へのステップに失敗すると大惨事だった。

「由未って運動神経いいから」

「あのなぁ…」

「それにしても、意外にサディスト」

 彩乃が茂木の胸を指で突いた。

「見とったんかい」

「まあねン」

「ほんで、どうするよ? いつ教えたるん? 全部芝居やって教えたら、泣くか、怒るか、しよっで? しかも今の場合、怒る方に賭けてもええ」

「欺せるところまで欺してから考える」

「……そうやって、いつも楽しんでんにゃ」

「第二校舎の裏、行くよ」

「ウチもかいな」

「もちろん」

「行くけど……そろそろ教えたった方が……」

 茂木と彩乃が第二校舎の裏へ行く。ほとんど生徒も教師も来ない場所なので決戦場としてはベストチョイスだったが、まだ由未は到着していなかった。

「あいつ、走っとったのに、遅いな」

「迂回してるんじゃないかな。真っ直ぐ行くとサディスト神父に捕まるかもしれないから」

「シスターにしといて」

「SS?」

「もう、なんでもええわ。疲れたし…」

 茂木が大きく伸びをして背中を反らした。

 カッ!

 半秒前まで茂木の喉があった空間を貫いて矢が、後ろに立っている桜の木に刺さった。

「な……なんですと?!」

 驚いた茂木が矢の飛んできた方向を見ると、由未がいた。

 かなり遠いが、その手には弓と矢。

「……ウチを殺す気…」

「由未の主観では正当防衛が成立するかな」

「って! ヤバい! あいつ遠的でも7割、近的なら9割も命中させんねんで!」

「キンテキ……モッチーの?」

「アホっ! 近い的のことや!! さっきのは遠距離射撃! それで、こんな正確やってんで!! 早う教えんとウチが撃ち殺されるで!! 説得する距離に入る前に殺される!」

「部室まで迂回して、自分の得意な武器を現地調達する。兵法には、かなってる」

「アホなこと言うてんと!! あんた仲間やろ!! 説得しぃ!!」

「……。あたしを人質にして武装解除」

「なるほど」

 茂木が素早く彩乃を羽交い締めにする。

 再び短剣を握って、彩乃の喉元あたりに突きつけた。

 いくら由未の腕前が正確でも、人質がいれば撃たれない。一度は見えなくなった由未が校舎の間を油断なく進んできている。

「あんた、自分ごとウチを撃てぇ、とかアホなこと冗談でも言いなや」

「言わないって。あ、それなら逆のジョークがいいかも。由未はヴァンパイア化して初日だし、その力も弱いから教会で儀式をすれば、元に戻れるってネタで話をしめよ」

「……ええやろ」

 二人が芝居の方向性を確認すると、由未が舞台に到着した。

「ハァ…ハァ…」

「仲間を殺されとうなかったら、弦を外して弓を捨てい」

 さっき即死させられるところだったので、弓を捨てさせるだけでなく、弦を外させて無力化しないと落ちつけない。

「彩ちゃん……」

「……」

 彩乃は羽交い締めにされ、ぐったりと脱力していて一見して意識がないように見える。茂木の羽交い締めの力が強いので、しっかり顔色も悪かった。

「早うせい!!」

「くッ…」

 由未は弦を外して、弓を置いた。

「矢も置いときぃ! 危ないやろ!」

「……」

 矢も置いた。

「殊勝な心がけや。ええやろ、その態度に免じて神の道へ戻る選択肢を、あんたにはやる」

「彩ちゃんを離しなさい」

「こいつは、あかん。骨の髄まで悪魔や、神の名によって浄化するしかない」

 と言いつつも、いい加減、重たくなってきたので彩乃を地面に捨てた。

「あんたは人間に戻りぃ」

「そんなこと…」

「でける。教会で洗礼を受けたら、まだ間に合う」

「……でも、彩ちゃんは?」

「言うたやろ、こいつは手遅れや」

「……」

「あんただけでも、まともな道に還りぃ、かえっておいで、ユミリン」

 茂木が聖母のような微笑みをつくって、両腕を拡げた。

「……わかったわ」

 肩の力を抜いた由未が近づいてくる。

「ええ選択や。おかえり、ユミリ…」

 それは騙し討ちだった。

 両腕を拡げて帰ってきた子羊を抱きしめるグッドエンドを演じようとしていた茂木の両手首を掴み、身体を引きよせると、由未は右足で茂木の左足を内側から刈る。

 バランスを崩した茂木は後ろへ倒れるしかない。

「ぐほっ!!」

 地面で背中を打って二人分の体重を受け、肺から息が絞り出される。両手首を掴まれていたので、ろくに受け身も取れなかった。

「…ぅ…ぅ…」

 呻いて、起きあがろうとしても手首を掴まれたままで、まったく動けない。目を開けると、由未が馬乗りになって牙をむいてくるところだった。

「ひっ…」

 ヤバっ、マジで咬み殺す気や、茂木が身を硬くした。体格は由未の方が大きく、体勢も不利で反撃の余地がない、防御もできそうにない。

「ひっ……や、やめえぇぇ!! やめてえぇやっ! これ芝居やねんっ!」

「由未っ!」

 由未が茂木の喉へ咬みつく寸前、彩乃が腕を入れた。

 がぶっ…

 由未の歯が、彩乃の腕に食い込む。

「痛っ…由未! お終い! 終わり! 終わり! はい、どうどう、どうどう、どう!」

 犬のケンカを仲裁する飼い主のように、背中を叩いて、正気へ戻らせる。

「彩ちゃん……どうして、邪魔を…」

「もう、いいの。終わったの。ね、モッチー」

「アンデルセンや」

 茂木が手首の拘束を振り切って、由未の胸へ、短剣を突き立てる動作をした。

「っ!!」

 由未が身体を硬くして身震いする。けれども、痛くもないし、出血もなく、死ぬことも、灰や塵になってしまうこともない。

「…ハァ…ハァ……私……」

 茂木は、何も持っていなかった。

「せやから、モトネタはアンデルセンやって言うてるやん」

「由未。The Emperor's New Clothes.ハンス・クリスチャン・アンデルセンの」

「……はだかの……王様? ……愚か者には……見えない服」

「そう」

「せや」

「……どういうことなの? 説明してちょうだい」

「怒らないで聞いてね」

 そして、全てを説明すると、由未は深く静かに怒った。

 

 昼休み、茂木は屋上で彩乃から由未の様子を聞いていた。

「やっぱ、まだ怒っとる?」

「かなりね。沸騰した液体窒素みたいになってる」

「どんな状態やねん」

「話しかけても無視、だからって身体に触るとピシッて叩かれる」

 彩乃は叩かれた手を撫で、まだ歯形の残っている腕も撫でた。

「食いちぎられるかと思ったよ」

「喉仏やったら、シャレにならんで」

「は~ぁ……やり過ぎたよね~ぇ」

「明らかに、やり過ぎやん」

「ま、そろそろ教室に戻るよ。たぶん、部活には顔を出さないと思うし、よろしくね」

 彩乃がチャイムとともに教室に戻ると、由未は着席して前を見ていた。

「……」

 二人の机は離され、由未からは拒絶のオーラが立ち上っている。

「……ゆ~みぃ、ちゃん♪」

 好物のチョコレートを机に置いてみた。消しゴムのカスでも払うように机から落とされてしまった。

「仲直りしたいなぁ~♪」

 めげずに、もう一つ、チョコレートを置いてみる。

 無駄だった。

「う~ん。……たしかにね、汎神論世界観がもたらす没禁忌社会のヒロイズムとして一神論文化圏から輸入された絶対悪の化身が、ここでは露悪または偽悪を強調しながらも、実質的意味において正義の相対化を…」

 自分でも何を言ってるかわからないことを並べ立てて、相手の気勢をそごうとしても、まったく無視された。

 放課後になり、由未は淡々と掃除を済ませると、カバンを持った。

 彩乃があとを追う。

「いっしょに帰っていい? それとも、部活?」

「……」

「ごめんね、まだ怒ってるよね」

「……」

 無視したまま、昇降口で靴を履き替える。

「美味しい物、食べよっか? もち、あたしのオゴリ」

「……」

「何でもいいよ。ケーキでもパフェでも、ディナーでも、ね?」

「……」

 彩乃など存在しないかのように視線を向けず、校門へ向かう。

「由未ちゃ~ん…」

「……」

「ごめん! ホント悪かった! 超ごめんなさい!」

 校門で跪いて謝る。

「ごめんなさいっ! 本気っで、ごめんなさい!」

 ほとんど土下座になってみる。

「ごめんなさい! ごめんなさい! 由未、ごめんなさい! あたしが悪いの! ごめんなさい! お願いだから、無視しないで! ごめんなさい!」

「……」

 立ち止まってくれた。あと一押し、そろそろ許されそう。

「許してください! ごめんなさい! 由未様! あたしが悪かったです! 超反省! ウルトラ後悔!」

 スカートに縋って、見上げてみたのに、手を払われた。

「うっとうしい」

「っ…」

「目障りよ。消えてちょうだい。二度と私の前に姿を見せないで」

「そ……そんなぁ…」

「……」

「……。針、飲む」

 手のひらに針を五本。

「飲むから、許して」

「飲めるものなら、飲んでみなさい」

「……」

「さあ」

「……っ!」

 意を決して口に入れ、上を向いて飲み込んだ。

「…っ…ハァ…ハァ…」

「……口を開けてみなさい。ウソつき」

「あ~…」

 彩乃は大きく口を開けた。そこに針はない。

「……舌をあげて」

「あ~…」

「……本当に飲んだの?」

「あ~…」

「……びょ…病院に行った方がいいわ!」

「吐くから大丈夫」

「ダメよ。吐くときに喉を傷つけたら、どうするの?」

「ぅっ…吐きそう」

 彩乃が口元を押さえた。

「ぅ…ぅ~…」

「吐かない方がいいわ。手術で出してもらった方が…」

「お腹に、大きな傷痕ができちゃうよ。そんなのヤダ」

「……でも…」

「ぅ……あ、吐く。……う~、ペっ」

 あっさりと口から右手に針が五本。

 唾液で濡れていても、胃液や血は着いていない。

「大丈夫でした♪」

 右手から針が消える。

「……その能力は、やっぱり本当に……。……それに、手だけじゃなくて口でも、できるの?」

「今ね、できそうって気分だったの。で、やってみたら、できた」

「……力の話は、…本当?」

「うん」

「……でも、あなたが私を欺したことに、かわりはないわ。モッチーまで使ってコケにされた。あなたを嫌いになるのに十分な理由よ」

「ぅ~……泣きそう。お願い、由未。嫌わないで」

「……」

「嫌わないで」

「……泣きたいのは、こっちよ。いつも欺されてばかり」

「じゃあ、二人で泣いて仲直り。海で夕日を見て、ギュッと抱き合うの」

「……」

「ごめんなさい、由未。本当に調子に乗りすぎました。ごめん」

 立礼でマジメに深々と頭を下げて行儀良く謝っている。

「……。本当に、悪かったと思ってる?」

「もちろん! あたしが悪い。超悪い」

「……償う気はある?」

「償います! どうか、償わせて! あたしに贖罪の機会を!」

 再び跪いて教皇へ悔悛を示すような絶対服従のポーズを見せた。

「……私、お願いがあるの、いいかしら?」

「イエス・マイ・プリンセス! どんな願いでも全力で!」

「……本当に?」

「地球の丸さくらいに!」

「…本当に?」

「誓います!」

「信じるわよ。黙って、ついてきて」

 由未は帰路を外れて、郊外へと歩いていく。

 どんどん歩いて住宅が無くなり、田んぼと大きな池のある風景をも通り過ぎ、山の中に入っていく。アスファルトが無くなり、登山道のような道になっても歩いていく。

「……」

「ハァ…ハァ…由未、どこまで行くの?」

「……」

 由未は山道に落ちていた空き缶を拾った。目立つところに落ちているのを次々と拾っていて、これで三つになる。

「あなたも拾って」

「ハァ…地球をクリーンにする作戦なら日曜にしようよ…ハァ…ハァ…」

「あなたも拾ってちょうだい」

「は~い」

 仕方がないので空き缶を拾った。

 さらに20分も歩かされて、人家から完全に遠くなった。

「ハァ…ハァ…まだ?」

「ここでいいわ」

 とくに何もない、ただ朽ちかけた切り株が二つ、そこへ由未が持っていた空き缶を並べる。彩乃が持ってきた分も並べさせられた。

「ハァ…で、どうするの?」

「銃を貸して」

「……オモチャじゃないよ」

「銃を貸してちょうだい」

「……射的がしたいならさぁ。こっちで、どうぞ♪」

 彩乃はモデルガンを右手に持った。もしも、警察官に職務質問されることがあったとき、オモチャだと言い張るために持っているアイテムだった。

「これなら危なくない。空気圧で6ミリのプラスティック弾が出るよ。目以外なら身体に当たっても大丈夫」

「ホンモノの銃を貸してちょうだい。私のお願い、どんなことでも、かなえるって言ったわよね?」

「言ったけど…」

「ここなら銃声も街に届かないはずよ」

「……だから、こんなとこまで…」

 これは、いよいよ本気、彩乃は抵抗を諦めた。

 左手にグロックを握った。

「由未。あたしはジョークが好きだけど、これはホンモノだから絶対に、人に、自分に、可愛い小動物に、銃口を向けないで。そして跳ね返ってきそうな硬い岩とか、金属とかに向けて撃たないでよ。あと、弾が無くなったと思っても、覗いたりしないで、いい?」

「ええ」

「あたしは、ふざけて死にそうになったことがあるから忠告してるの」

「……何をしたの?」

「こうやってね、カッコよくクルクルっと!」

 彩乃はモデルガンの方を右手でクルクルと器用に回して、背中で投げ、手前で受け取り、さらに股の下をくぐらせ、最後に空き缶を狙って撃った。

 パスッ!

 外れた。

 空き缶までは5メートル、かすかに見えた弾道は80センチ以上、外れていた。

「チッ……いっつもフィニッシュが決まらない…」

「まさか、それをホンモノの銃で試したの?」

「そうなの、マカロフでやったら安全装置が、いい加減で暴発しちゃってさ。見てよ、ここ」

 彩乃がスカートをめくった。内腿に小さく薄い掠り傷の痕がある。

「痛くもなかったけど、ビックリして二度とやるまいって思ったね」

「……すごくバカよ」

「だってね、二丁でリズム良く決められたら、ステキって思わない? マカロフでマカロニウェスタンみたくするの」

「……思わないわ。危険きわまりない行為よ」

「じゃあ、こんな危ないモノ使いたがるのは、やめてさ。どこかで何か食べようよ。あたし、お腹減っちゃった」

「貸してちょうだい」

「……。どうしても?」

「どうしてもよ」

「……。危ないこと、しないでね。空き缶、撃つだけね」

 彩乃は銃口を地面に向けて、ゆっくり手渡した。

 由未は感触を確かめ、慎重に触れている。

「使い方を説明してもらえる?」

「安全装置が引き金のところと一体になってて二重になってる。引くと、ちょっと抵抗があるけどグッと押し込むとズトン。この前、撃ったときのままだからスライドしなくていいよ。スライドっていうのは、映画とかでジャキって、この上のところを引くこと。これで弾が装填されるわけ。ま、そんな感じ」

「……それで、終わり?」

「えっと……あと、反動がすごいから手首が痛くなるよ」

「それは握り方が悪いから、とか、なにか理由がないの?」

「握り方は、こう、普通に持てばいいんじゃないの」

「正しい撃ち方は?」

「前に向けて撃てばいい」

「……姿勢とか、あるでしょう。弓道でも射法八節を習ったように、何かないの?」

「ようは弾幕よ、弾幕。一秒間に何発撃つか」

「……ようは銃の正しい撃ち方も、知らないわけなの?」

「ぅ~……銃道?」

「もう、いいわ」

 由未は諦めてグロックを構えてみる。

「私も我流になってしまうわね」

「今ここに真藤流拳銃術の開祖が目覚めようとしていた。あたしは歴史の瞬間に立ち会って…」

「黙っててもらえる?」

「はい」

「……」

 由未は真剣な顔をして狙いをつける。何度か、足を踏み直して弓道よりも、45度ほど的に対して身体の正面を向け、両手で拳銃のグリップを包み込むように握って、両目で照準を合わせる。

 爆ッ!

 当たった。

「わぉっ! おめでと」

「……」

 由未は嬉しそうな顔もせず、拳銃と手を見つめる。切り株まで歩いて、穴の空いた空き缶を拾った。

 見事に穴が穿たれている。

「ビギナーズラックって、あるね。さ、返して」

「まだよ」

「あんまり撃つと手が痛くなるよ」

 彩乃は撃たせたくなさそうだったが、由未はグロックを返さない。

 再び、同じ距離から狙いをつける。

 爆ッ!

 命中。

「さあ、もういいでしょ。返して」

「……」

 また狙いをつける。

「ふ~…」

 爆ッ!

 また命中。

 さきほどより缶の中央を撃ち抜いている。

「うわ~ぉ」

「……」

 また、狙う。

 そして、命中。

「……。ラッキーショットが続くねぇ」

「……」

 爆ッ!

 当たる。

 さらに、当たる。

 結局、十発撃って十発とも缶に当たった。

 ガチッ…

「……弾が切れたの?」

「あ、うん。17発入るけど、この前に使って、そのままだったし」

「替えの弾は?」

「ないよ」

「もう一丁、持っていたわよね」

「ハァ~……」

 彩乃がタメ息をついて、グロックを握った。

「また次の機会にしようよ。今日は打率10割。すごいじゃん。才能って、あるんだね」

 やや対抗心が疼いている。

「でもね、結局は…」

 彩乃がグロックを構える。

 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ!

 5発続けて撃った。

「どうよ?」

 当たったのは1発だけ、しかも缶の角に掠っただけだった。

 由未がタメ息をついた。

「どう、と言われても。ろくに狙いもつけないのね」

「あたしは1.5秒で命中。由未は命中させるのに20秒はかかる」

「4発も外して?」

「威嚇と牽制になる。そして相手が動いていたら、別の弾が当たってたかも」

「……それは、わかるけど。ちょっと貸して」

 由未が残弾のあるグロックをかりる。

 そして、再び狙ってみる。

 爆ッ! 爆ッ!

 初弾が命中、二発目は切り株に当たった。

「連発すると反動が、つらいわ」

「……いい腕してる…」

「ビギナーズラックよ」

「謙遜にしては、ムカつきます。とても」

「ちゃんと狙えば、あなたも当たるわ。練習よ、練習」

 再び由未がグロックを構える。

 爆ッ! 爆ッ!

 二発とも外れた。

「ビギナーズラック。くくくっ」

 とても嬉しそうに彩乃が微嗤する。

 由未は気にせず、目を閉じて気持ちを入れ替え、再び狙う。

「……」

 爆ッ!

「……」

 爆ッ!

 二発とも当たった。

 ガチッ…

「弾が切れたみたい」

「はい、お終い。由未ってガンマニア? 趣味は童話と剣客小説だと思ったけど」

「……。私は、……私は、もしも、また襲われることがあったら……ちょっとでも、彩ちゃんの役に立ちたいから…」

「由未……。…由未が、あたしの立場だったら、由未に危ないことさせたい?」

「……。彩ちゃんが、私の立場だったら、役に立ちたいって思わない?」

「質問を質問で返すの禁止」

「禁止するの禁止」

「…クスッ…」

 彩乃が笑ったので由未も笑った。ひとしきり笑うと、そろそろ日が落ちかけている。山の中なので、暗くなるのが早い。

「さ、その話は置いといて。お腹空いたから帰ろ」

「そうね」

 二人で空き缶を片付けて、山を下りる。

 アスファルトが整備された道まで下山して、自動販売機を見つけ、そのゴミ箱に缶を捨て、炭酸飲料を買ったときだった。

「やはり、ご同類だったか」

 男の声で二人が振り返る。

「っ…」

「船井さん……だったかしら?」

 由未は覚えていた。

「お嬢さんには、これで三度目」

「あなた、どうして、いつも私のいるところへ現れるの?」

「赤い糸を感じるが、ために」

「面白くないジョークね。いい歳して、よく言うわ」

「ロマンスに年齢は関係ないさ」

「口の減らない男……、渓流釣りでもしていたの?」

 今も船井は釣竿を入れたケースを持っている。それから由未が推理したけれど、船井は話をかえてきた。

「いや。それより、二人とも、なるべく早くシャワーを浴びた方がいい」

「なっ」

「あと、そっちのポケットモンスターは向けないでくれると、落ちつけるんだが」

「っ、シャワーを浴びろとか、ポケットモンスターとか、よく女性に向かって、それだけ失礼なことが言えるわね!!」

 由未が怒って詰め寄ろうとしたのを、彩乃が鋭く止める。

「由未っ!! そいつに近づかないで!!」

「ぁ、彩ちゃん?」

 由未が振り返ると、彩乃はスカートのポケットへ手を入れたまま、中でグロックを構えている。おかげでスカートの裾が完全に持ち上がっていた。三人が路肩に立っている道路には多少の交通量があり、前回と同様、人目を考えると抜き身で構えるわけにはいかなかった。

「ご同類には、これで二度、お目にかかる」

「……」

「彩ちゃん……さっき、予備の弾は無いって…」

「っ、…ぁ、あるに決まってるでしょ。練習で全部使うわけない!」

 彩乃が右手をポケットから抜く、同時にグロックが消えていて、次の動作で右手にはカートリッジが握られた。

「由未、あたしの後ろまでさがって」

「ぇ…ええ」

 言われたとおり、彩乃の後ろまでさがり、船井と距離をとる。

 船井は両手を軽くあげて、肩をすくめた。

「敵意はない、と言っても油断しない。立派なことだ」

「あたしに何か用なの?」

 彩乃の左手はポケットの中でグロックを構えたまま、銃口は船井の方向を狙っている。二丁が一丁になったので、余計に突起物として目立っている。

「いや。ただ、そうだな。さきほどの批難について、一つは弁解しておこう。山から鳥が不自然に飛び立つのと、猟銃でない銃声が、ほんのかすかに聞こえてね。興味を持って来てみたら、お二人の身体から、変わった匂いがする」

「「……」」

「オレは自衛官だから、すぐに気づいたんだが、勘のいい警察官にでも、気づかれるだろうな。お嬢さん方の今夜の香水は、危険すぎる香りがする。だから、早くシャワーを浴びた方が無難だと忠告させてもらったのさ。ポケットモンスターの方は、見たままの感想でね、こいつは失礼だった。非礼を詫びよう」

「……あたしたちに、近づかないで」

 彩乃はグロックを構えたまま、通りがかったタクシーを呼び止めるため、カートリッジを持ったままの右手を挙げた。少し通り過ぎてタクシーが停まってくれている。

「由未。先に乗って」

 素直に言われたとおり、タクシーへ乗り込む。彩乃は最後まで船井への警戒を解かないまま、由未の隣に座った。

「……」

「お嬢さん、ごきげんよう」

 わざとらしく英国紳士のようなお辞儀をした船井が顔を上げると、もうタクシーは走り去っていた。

「さて、オレは歩いておりるか」

 登ってきた道を戻ろうとして、足を止めた。

 さっきまで誰もいなかったガードレールの上に、少女が一人、立っている。

 長い髪、非常識なほど長い黒髪で、毛先は立っている少女の足首に届いている。年齢は高校生か、もっと幼い、中学生かもしれない。彩乃よりも小柄だった。なぜか、小川も滝もない山中で、学校が指定するような紺色の水着をまとっている。その水着も、長すぎる黒髪も濡れていない。素足に革靴を履いている。

 奇妙なことだらけだったが、船井は会釈して挨拶してみる。

「こんばんわ」

「こんばんわ」

 少女は挨拶を返して、ガードレールから降りた。

 ふわりと長い黒髪が闇に溶けるように拡がり、そして、少女の身を包むよう重力に引かれて足首まで垂れ下がる。あまり気持ちのいい光景ではなかったが、船井は表情には出さなかった。

 少女は船井を少し観察すると、タメ息をついた。

「うにゅ~……探してたイメージと違う……ぜんぜん違う」

「ご愁傷様」

「……む~。美喜梨ちゃんに勝てると、思う?」

 ふくれっ面になった少女が消えた。

「ふにゅっ♪」

 突然、船井の目前に現れ、彼の形のいい鼻をつまむと、次の瞬間に、また消える。

「……」

 つままれた鼻を指先で掻いた。

「この山はキツネが出るらしい」

 冗談を言っても、二度と少女は姿を見せなかった。

 

 タクシーに乗った彩乃は、運転手に一万円札を渡して頼んだ。

「ここから離れて。それと、何でもいいからラジオの音楽を大きな音で流して」

 運転手が言われた通りにしてくれると、ワーグナーのニーベルングの指環が大音量で響いた。音にまぎれて、彩乃は足元でグロックを握る。

 弾の無くなったカートリッジを抜き、新しいカートリッジを挿入する。二丁とも弾を補給してから、文字通りホッと胸をなで下ろした。

「ふ~…」

「……」

「……」

 隣に座っている由未を睨んだ。

「…ぁ…、彩ちゃん?」

「自分の一言が…」

 彩乃は乱暴に由未のポニーテールをつかむと、唇を耳へ押しあて低い声で唸った。

「どれだけ、あたしの心臓を凍らせて、何億年寿命を縮めたと思うのッ?! テロメア切れて逝くかとッ! あたしの役に立ちたい?! 役どころか、厄よ! 弾が無いの相手に教えるバカが、どこの世界で役に立つの?! 馬謖もビックリよっ! バカっ!」

「っ……わ…私……」

「ハァ…ハァ……」

 怒っている彩乃の手も身体も震えていて、冷たい汗で全身が濡れている。密着されて動揺と恐怖の激しさが伝わってきた。その震えが、由未に伝染してくる。

「…っ……私…」

「ハァ……」

 彩乃は手の力を抜いてポニーテールを離すと、由未に背中を向け、シートへ身を投げ、額に手をあて黙り込む。

「……」

「わ…私、…」

 由未が何を言っているか、音楽に遮られて聞こえない。

 しばらく街を彷徨った運転手に、彩乃は由未の自宅へ向かわせた。自宅前に着くと、左側に座っていた彩乃が降りて、由未を促す。

「由未。降りて」

「……っ…っ……ぐすっ…」

 啜り泣いていた由未は顔を上げず、首を横に振った。

「由未の家よ。降りて」

「…っ……っ…」

「迷子の迷子の仔猫ちゃん、あなたのお家はここです。降りて」

「ぃや……このまま別れたら、彩ちゃん…ぐすっ…また、どっかに行っちゃう…っ、…また、何年も…、もう会えないかも…」

「一人で、何を、どう、思い込むと、そうなるの? 明日、学校で会えるから、今日は降りて」

「やだッ!」

「……。運転手さん、英徳高校前のマンションへ行ってください」

 降ろすことを諦めた彩乃はマンションへ戻ってもらう。

 まだ、大きな音量で流れているクラッシック音楽の中で、今度は優しく由未の耳元に囁いた。

「……由未、あたしが悪かったから、もう泣かないで」

「っ、…悪いのは…私…」

「ううん、さっきのは八つ当たり。自分のうかつさを由未のせいにしちゃいけないよね。ごめん」

 囁きながら耳にキスをした。

「ごめんね。ひどいこと言って。髪も痛かったよね。ホント、ごめん」

「彩ちゃん……許してくれるの? …私…」

「由未の涙で消えない怒りは、あたしにないの」

「彩ちゃん……」

 由未は泣き笑いで彩乃へ抱きついた。タクシーはマンションに到着し、二人は部屋へ入った。アイスコーヒーを淹れている彩乃へ、遠慮がちに由未が問いかける。

「さっきの…男……、彩ちゃんの敵……なの?」

「……。どうかな…、正確には、敵か、味方でないにしても無害な存在か、わからない。けど、あたしと同じことができるはず、たぶん」

「…たぶん?」

「なんとなく、わかるようになってきたの。リリィとチマ、さっきの男。なにを、どうとは言えないけど、共通する感じがあるの。空気の重さ、みたいな」

「空気の……重さ……」

「雰囲気が暗いとか、そういう表現じゃなくて、もっと物質的な重さを感じるの……なんとなくだけどね……。由未は、あの男と顔見知りだったの?」

「うん……」

「どう出会って、今に至ってるのか、あたしに教えてくれる? できれば、何も隠さないで、一つも言い漏らさないように、すべて、そのまま」

「もちろん」

 由未は一度目の蝉の幼虫を観察していた船井との出会い、茂木もいた大きな池のある公園での再会、船井芳実と名のったこと、サンドイッチとコーヒー、それに冗談と釣りが好きなこと、自衛官で有給休暇だと言ったこと、何もかも漏らさず彩乃に説明した。

「う~ん……ありがと…」

 彩乃は難しい顔で考えている。

「彩ちゃん、私の考え、言っていい?」

「いいよ。どうぞ」

「もしも、彩ちゃんと同じ力があるなら、釣竿なんて、わざわざ持ち歩くかしら?」

「そう、そうだよね。そこは、引っかかる。でも、感じるし……。あ、それと、ポケットモンスターって何?」

「……」

 なぜか、由未は顔を赤くした。

「どういう意味なの? 何かのキャラクター?」

「違うわ」

 淹れてもらったアイスコーヒーを一口飲んで説明する。

「英語の、俗っぽい言い方で……ペニスのこと」

「ペニスの? ……」

 彩乃は言われてみて、鏡の前で先刻と同じようにスカートのポケットに手を入れたままグロックを握って、銃口を前に向けてみる。

「っ……」

 自分の姿を見て、がっくりと膝をついた。

 西部劇の早撃ちガンマンのように自分では構えているつもりだったけれど、持ち上がったスカートの突起物は銃には思えず、別のモノを連想させる。

 しかも彩乃は腰を落として、発砲の反動に耐えるため両足を開いているので、とても自身の美意識をマイナスの方向に刺激する姿だった。

「……二度と、やらない……絶対に…」

「その方が、いいと思う……」

「船井の忠告は、二つとも、あたしのためになる、か……とりあえず、シャワーも浴びておこ」

 彩乃は自分の身体の匂いを嗅いでみる。火薬と汗の匂いがした。タクシーの運転手なら花火で遊んだ女子高生だと思ってくれるかもしれないけれど、警察官や自衛官などの専門職には、気づかれるのかもしれない。

「洗濯もして…あ、由未のも洗うから脱いじゃって」

「うん」

 由未がブラウスとスカートを脱いだ。

「そんなに素早く脱がなくても……、じゃあ、由未が先にシャワー浴びてきて」

「お風呂、いっしょに入ろうよ」

「狭いしヤダ」

「ここのバスタブなら二人でも狭くないから」

「広くなくなるから、ヤダ」

「……。かぷっ♪」

 由未が首筋に咬みついてきた。

「コラっ、仕返しのつもり?」

「うん。仕返し。かぷっかぷっ、ちゅ~」

 首を甘噛みして、皮膚を吸っている。

「ちゅ~」

「やめてよ、汗くさいから」

「……ごめんなさい」

 由未が離れて赤面すると、彩乃は慌てて言い直した。

「由未じゃなくて、あたしが汗くさいからイヤなの」

「そんなこと無いよ。ぜんぜん平気。彩ちゃんの匂い、好き~ぃ」

 さっきまで吸血鬼だったのに、今度は子犬になってブラウスに顔をうめてくる。

「くんくん、うん。やっぱり、いい匂い、甘くてオレンジとチョコレートみたい」

「あたしは食べ物なの?」

「私はヴァンパイヤだから」

 また、皮膚を吸われる。しかも、ブラウスを脱がしながら、鎖骨にそって舐められた。

「ぅっ、くすぐったい。コラっ、犬みたいに舐めないの」

「甘い匂いなのに、しょっぱい」

「っ……」

 味覚的な感想を言われた彩乃が顔を真っ赤に染めて力尽くで逃げた。

「なし崩しで脱がさないの! ほら、一人でシャワーしてきて!」

「……はい」

 由未がバスルームへ入ると、彩乃は脱がされかけていたブラウスを完全に脱いで、ソファに座った。

「は~ぁ……昼と夜で由未の性格、変わってる気がする…」

 アイスコーヒーを飲み干して、由未の入浴が終わるのを待った。

「お先です」

「……ごめん、また着替え用意するの忘れてた」

 由未がバスタオル一枚であがってきたので、ダンボール箱から着替えを探す。

「由未のサイズに合うパジャマかぁ……」

「今夜も裸で寝るから、気にしないで」

「……癖になった?」

「彩ちゃんのせい」

「パンツくらい着てないと地震か、火事のとき、いっそ殺してって状況になるかもよ」

 彩乃が替えの下着をベッドに置いた。

「これ使って。あと、もしかして、今夜も泊まる気?」

「……ダメ?」

「ダメ」

「……」

 悲しそうに下を向かれると、彩乃は嬉しそうに微笑んだ。

「ウソ」

「……ウソつき!」

「由未を欺すのが、あたしの生き甲斐なの」

 彩乃が笑いながらバスルームへ入る。髪と身体を洗って、下着とパジャマを着てから部屋に戻る。

「そういえば、あたしたち夕食してないね」

「そうね。……でも、色々なことがあって、なんだか食欲がないわ」

「あたしも」

 彩乃は冷蔵庫を開けた。

「糖分くらい摂っておかないとね。脳はブドウ糖を必要としてる。タンパク質でも脂質でもなく、ね」

「彩ちゃんって、普段どんな本を読んでいるの?」

「ん~……色々、そこのダンボール三つ目に入ってるよ」

「見てもいい?」

「どうぞ」

 許可をもらったので由未はダンボール箱を開けてみる。数十冊の本が入っていた。

 ざっとタイトルを見てみる。

「……ライバルに勝つ知恵と戦略……、真実の愛を育むために………、家庭の幸福……、空海と般若心経のこころ……人間社会の形成………愛の解剖学…………歴史における科学……本当は怖いグリム童話……ダーウィンをゆるがす分子生物学……性欲の脳科学……横暴警官への対処法……議論に勝つ方法………、女の子らしい本は、一つもないのね。科学書か、哲学書、あとは実践的な処世術ばかり」

 由未が好きな剣客小説や古い物語は、ほとんど無かった。

「童話も解説本を読むのね。…あ」

 由未は本の隙間に入っていた封筒を見つけた。

「……」

 以前に勝手に見ていて、ひどく怒られた封筒だった。

「ああ、それ。リヒテンシュタイン・バンクからの資産報告書よ」

「外国の銀行?」

「そ。言ったよね、あたしの親が遺産をもらって改姓したって。で、そこの銀行に、あたしの分が預けてあるの。それをヴァンパイヤの産地だと思ったのが、モッチーと由未。クスッ…くくっ…」

「その話はしない約束よ」

「ごめん、ごめん」

 他愛ない話をして、ゆっくりと二人の時間を過ごしているのが、とても楽しくて嬉しい。

 電灯を消して、二人ともベッドで寛いでいる。話題は尽きることがなかった。

「みにくいアヒルの子って、アンデルセンだっけ?」

「ええ、そうよ」

「本当に醜いのは、カッコウの生き方だと思うなぁ」

「カッコウ……そんなお話あったかしら?」

「カッコウはね、自分で巣を作らないでホオジロやモズの巣に卵をまぎれさせるの。で、一つ卵を蹴落として数を合わせて親鳥を欺して、子育てを肩代わりさせて、自分は静かな湖畔で、のんびりカラオケを楽しむの。森の影から、ほくそ笑みながらね。あざやかで醜い生き方だと思わない?」

「そう…ね……。それ、童話じゃなくて実話?」

「実話というか、あいつらの生態。アンデルセンの醜いアヒルの子の実母、白鳥ママはカッコウみたいな性格だったりしてね。すると、醜いのは母親? つまり、醜いアヒルの子の形容詞は、白鳥ママにかかる、正確には、醜い白鳥ママが産み捨てた可哀想なアヒルの養子、みたいなタイトル」

「そんな解釈、誰もしたことがないでしょうね。彩ちゃんだけよ、そんな風に考えられるの」

「生は詭道なり♪」

 彩乃がチョコレートを一つ、由未の唇に挟んでくれる。

「白鳥ママは子育てしないで自分のDNAを一つ多く次世代に残せた。とてもローコストに。世界は美しくて輝いている。けど、効率よく生きることは、ときに醜い?」

「疑問形にして、ふらないで。そんな難しい問題」

 チョコレートをくれた手に由未が軽いマッサージを始める。まったく鍛えていない手で拳銃を撃っているからか、ところどころ筋肉が硬くなっていた。

「ぁ、イタ気持ちいい……。欺し合い、殺し合い、それが世界の一部。美しさと醜さは、どうやって決まるの?」

「……。答えにはならないけど、ひどい話なら、ヘラ、アテナ、アフロディテの三女神から美しさの一番を決めたとき、その審判役を務めたトロイアのパリス王子は美女ヘレネを与えられることを約束されてアフロディテを選んだのよ」

「あはははっ、それは、ひどい! デキレースのミスコンみたい! しかも、神ってとこが、笑える!」

「なにより、ヘレネはメネラオスの妻よ。神が不倫をうながしてる」

「きっと、神の国では、不倫が文化なのかもね。日本も神の国だし」

「おかげで怒ったメネラオスが攻めてきてトロイア戦争が10年も続くわ」

 手へのマッサージを終えた由未は、起きあがって彩乃の足を揉む。

 小指から順番に、優しく強く揉まれると、彩乃は気持ちよさそうに眼を細めた。

「不倫が原因の戦争じゃ、兵隊の士気を維持するのも大変そう。しかも、別居が10年も続けば家庭裁判所で離婚できたのに」

「結果は、ご存知の通り、メネラオス側の英雄アキレウスをパリス王子の矢が仕留めるものの、トロイの木馬によって陥落。王子の気まぐれな恋のために、国は滅び、男は殺され、女は奴隷に、道楽息子の典型ね」

「トロイア戦争って、いつの話?」

「前13世紀頃といわれているわ」

 足から、ふくらはぎ、腿へとマッサージを続けている。

「ふ~ん……ってことは、紀元前340年頃に、兵法書としての孫子が書かれたとき、その奇策中の奇策はギリシャから中国に伝わってたかな?」

「千年あるけれど、シルクロードが成立しているとも言えないような時期よ」

「ホモ・サピエンスがアフリカ南部を出発したのが、7万年前。ユーラシアを通り抜けてアラスカで毛皮の防寒着を作って、ロサンゼルスで煙草を覚えて、アマゾンで裸に戻って、アンデスで鉄器もなしに段々畑、南アメリカ大陸の南端に集落をつくれたのは、1万年前。南極大陸以外の地上の覇者になるのに6万年かかってる。これは早い? 遅い?」

「……早いと思うわ」

「そう、早い。36億年の生命の歴史でいえば、まさに神速」

「でも、シルクロードや大航海時代まで、各大陸の連絡は無かったわ。同じユーラシア大陸でも、トロイの木馬が、古代中国へ伝わるのは、難しいんじゃないかしら。当のヨーロッパ人でさえ、1870年にトロイア遺跡が発掘されるまで、ホメロスは神話的創作だと思っていたのよ」

「トロイの木馬、現代でもコンピューターウイルスの代表的戦法になってるよね、不朽の奇策って感じ。思いついたオデッセウスにはノーベル戦術賞を贈ってあげたいかな」

「ダイナマイトを発明した罪滅ぼしに創設された賞よ。ねぇ、彩ちゃん、オリーブオイルはあるかしら?」

「あるよ。キッチンのとこ」

「少し使うわね」

 由未がキッチンへ向かった。

「やっぱり、お腹空いた? なにか作るの?」

「彩ちゃん、すごく肩が凝ってる。オイルマッサージしてあげるわ」

 オリーブオイルの瓶とバスタオルを持って戻ってきた。

「パジャマを脱いで、ここに横になって」

 由未がベッドの中央にバスタオルを敷いて、パジャマのボタンを外してくる。

「オイルマッサージって……ベタベタしない?」

「終わったら、シャワーで流すといいわ」

 パジャマの上着を奪って、彩乃をうつ伏せに寝かせると、手にオイルを着けて優しく撫でてくれる。

「う~っ……」

「冷たい?」

「ううん、気持ちいい」

「腰の方も触るからパジャマの下も脱いで」

「……地震がきたら、どうしよう? パンツ一枚なんて恥ずかしくて死んじゃう」

「杞憂よ」

 由未の手がパジャマをさげていく。抵抗はなかった。彩乃はショーツ一枚で下向けに寝そべっている。その背中がオイルで艶めかしく光り、由未は口の中に湧いた唾液を飲み込んだ。

「……。オイルで下着も汚れてしまうわ。裸にするわよ」

 由未の手がショーツにかかってくる。彩乃は両手を、お尻へ回してショーツを守った。

「裸はヤダ」

「でも、オイルがつくわ」

「いいよ、洗濯するし」

「マッサージの邪魔になるの」

「……恥ずかしいからヤダ」

「誰もいないわ」

「由未がいる」

「私も裸よ」

「……でも、……なんとなく……ヤダ」

「いやがらないで脱いで」

「……由未は、あたしが嫌がること、するの?」

「……そんなに、イヤなら……このままするわ」

 再び由未の手が、肩と腰を揉んでくれる。オリーブオイルが下着に染み込んできた。

「彩ちゃんの背中って小さくて可愛らしくて、羨ましいわ」

「もっと、誉めて♪」

 彩乃がチョコレートを一つ、マッサージされたまま手のひらにのせた。両手にオイルがついている由未は、屈んでチョコレートを手から口で拾った。

「美味しい。……彩ちゃん、腰も細くて柔らかくて……本当に可愛い…。今度は、仰向けになって。また、足からするわ」

「あたしばっかり気持ちよくなるより、由未にもしてあげる」

 彩乃が起きあがって由未と向かい合った。

「……」

 暗がりになれていた目が形のいい由未の胸を見てしまい、彩乃は視線を彷徨わせた。

 顔が熱くなってくる。

「バ…バスタオル……落ちてるよ」

「動きにくいから外したの。ほら、寝てちょうだい」

「……」

 赤面したことを気づかれたくなくて彩乃は右腕で顔を隠して仰向けに寝る。その足を優しく大切な宝物でもあつかうように撫でられると、どうしようもなく身体が熱くなって、心拍数が高くなってくる。

「気持ちいい?」

「…うん……いい、よ」

 由未の方を見ないで答えた。足から膝、腿まで手がのぼってくると、身体が落ちつかない。内腿を揉まれると彩乃は身体をよじった。

「く、…くすぐったいから、そのへんは、やめて」

「そう。なら、やっぱり腕ね」

 手を取って、指先を見つめてから、口づけされた。

「由未…」

「一度、してみたかったの。物語の騎士が、お姫様にするみたいなキス」

「由未が騎士なの?」

「今はね」

 もう一度、口づけされると顔が火照って息が乱れた。

「ぉ、…お姫様ってガラじゃないね。あたしは」

「黙っていれば、どこのお姫様より可愛いわ」

「黙ってないとダメなのね」

「しゃべると、虫愛ずる姫君より個性的よ。でも、そこも好き。私は、彩ちゃんの全部が大好き」

「っ…」

 好き、その音が胸に染み入ってくる。彩乃も答えたくて、たまらなくなる。

 今は言わない方がいい、そう思ったのに、口をついて想いが溢れてくる。

「ぁ……あたしも、…由未が……好き…」

「彩ちゃん……」

 由未が身体を重ね、目を閉じて、顔を近づけてくる。

 その唇に瞳を奪われて、

「っ…」

 唇へキスをされる寸前に、彩乃は顔をそらせて頬にキスを受けた。

「「………」」

 そっと離れて見つめられる。

「「……」」

 見つめてくる由未の瞳を見ていられなくて、彩乃から動いて、由未の頬へキスする。

 そのキスが終わると、今度は由未が耳へキスをしてくれる。

「ぁ…」

 軽いキスから、唇での甘噛みに変わり、温かくて柔らかい感触に思わず彩乃は声をあげて、身をよじった。

「ん……」

 耳朶を甘噛みして一周すると、耳珠の間を舐められる。

「んっん……由未…」

 やめて、と言うつもりが、言葉にならなかった。

「彩ちゃん」

 耳元、本当に耳のすぐそばで名前を呼ばれると、頭の中で由未が声をかけてくれているような錯覚に堕ちる。自然と二人の身体が重なって密着している。少しだけ汗ばんだ肌が合わさって一つになる。由未の唇が、耳から、頬へ、キスの位置を変えてくる。ゆっくり、何度も頬へ、それから額に、目蓋に、鼻先に。そのまま唇を合わせそうになって、ぎりぎりのところで彩乃が逃げる。

「ぜんぜん、マッサージじゃなくなってる」

「口でするマッサージよ。お姫様」

「……。お前の口は、ウソをつくためにあるのかえ?」

「いいえ、あなたにキスを送るためです」

 そう言って見つめられると、彩乃は心拍数があがるのを抑えられない。まだ大人になりきれていない姫宮のように子供じみた仕草で顔を両手で隠した。顔へのキスができないとなっても、その手へ、手首へ、肘や二の腕、肩へ、鎖骨へ、腋から胸へ、キスの巡礼を続けられる。

「…んぅっ…由未っ…」

 胸の頂きへキスをされ、吸われそうになると、彩乃は顔を隠していた手で胸を守る。由未は守りの堅くなった胸を諦めて、くだる。両手で包み込めそうなほど、彩乃のウエストは細い、わき腹を撫でて、口づけを繰り返しながら、肋骨からヘソ、その下へもキスを続け、そっと両手で下着を脱がせようとする。

「っ……」

 彩乃が胸を守っていた手で今度は下着を押さえる。脱がされないように両手で強く守ってしまった。脚も閉じて、完全に防御をかためていた。

「彩ちゃん、そんなに恥ずかしいの?」

「……だって……由未…」

 あたしを脱がせて、どうするつもりなの、問いかけることができなかった。

「彩ちゃんの全部にキスしたいから」

 由未は脱がせようとしていた手を離して、彩乃の腿へ唇を這わせる。ゆっくり、ゆっくりと膝へ、脛へ、足首へ、足の甲と爪先まで柔らかい唇を押しあてられると彩乃は頭の奥が熱くなって、思考がまとまらなくなり、何もかも由未に委ねたくなってくる。由未の望むままに、されるままに、何もかもされてしまいたい。

「…ハぁ……」

 悩み深い吐息が漏れる。その間にも、由未の唇が爪先から登ってくる。足の付け根まで登りきると反対の脚へ、下着の上にもキスを降らせて渡っていく。また、腿から膝、爪先まで、指の一本一本にキスをされると、彩乃の身体がキスをしてくれた相手と一つになりたいと脳へ訴えてくる。

「…由未……ハぁ…」

 いつの間にか、脚を閉じていられなくなり、されるまま由未に身体をまかせている。また、爪先からキスが登ってくる。

「ぁ…ハァ……んっ…」

 内腿から足の付け根、オリーブオイルの染み込んだ下着にキスをされると、彩乃は身をよじって喘いだ。

「ゆ、…由未…ハぁ…はぁ…」

「いいよね、彩ちゃん」

 今度こそ、由未の手が下着を脱がせていく。足にも、手にも、力が入らず、抵抗できない。脳の一部だけが拒否しているけれど、手も足も、脳幹も、彩乃の身体のすべてが抵抗する気をなくして、逆に受け入れたいと叫んでいる。

「脱がせるね、彩ちゃん」

「ぃ、…ぃや」

 かろうじで脳の一片がイエスと言いたがる言語野を叱咤してノーと言ってくれた。さらに手と足へも命令を送り、なんとか防御姿勢をとる。膝まで脱がされた下着を引き戻して身体を丸くする。

「由未…離して…」

「……」

 引っ張り合いになった下着を由未が離してくれた。

「…彩ちゃん…」

「ハァ……ハァ…」

「強引にして、ごめんね」

 謝られると胸の奥が痛い。やっぱり、拒否しなければよかった、後悔する彩乃の顔を見て由未が微笑んでくれる。

「彩ちゃんが好き、大好き」

「……」

「……」

「…あ……あたしも……由未のこと、…だ…大好き、…」

 身体を丸くした防御姿勢のまま、顔と気持ちだけは由未に向けた。

「彩ちゃん」

「由未…」

「愛してる、彩ちゃん」

「……」

 見つめ合ったまま、由未が近づいてくる。

「「……」」

 キスされる、でも、でも、あたしは、けど、どうしたら、思考らしい思考にならないまま、彩乃は身体をギュッと硬くして目を閉じて震えた。

 由未は唇を重ねようとして、気づいた。

「……彩ちゃん…」

 好き合っていると確信できる、なのに、とてもキスをする気になれないほど、相手は緊張していて、まるで逃げることの許されない生け贄が身を捧げるかのように、目を閉じて震えている。

「……」

 こんなファーストキスは嫌だった。

 あと1センチの距離で由未は止まって、彩乃を見つめる。

 そして、湧いてきた疑問を言葉にした。

「……彩ちゃん……怖いの?」

「っ…」

 彩乃が身震いした。それで由未にも伝わった。

「彩ちゃん…」

「…ご…ごめんなさ…い…」

 閉じていた彩乃の目から涙が溢れて、胸から嗚咽が漏れてくる。

「っ…ぅ、…ひっく…」

「泣かないで、彩ちゃん」

「ひっく…ぅ…ぅうっ…うっ…、くっ…ごめ…、…由っ…未…、…ごめ…っ…」

 啜り泣きが、本降りになっていく。由未は自分の胸に彩乃を抱きよせた。

「いいの、彩ちゃん。ぜんぜん、謝らなくていいの」

「でも…だって……あたし…」

「いいの」

「よく…ない……何度も……由未の気持ち、試したくせに…っ…自分が……怖いなんて…っ…」

 心が震えて涙が止まらない。由未と一線を超えてしまうことが怖かったのだと、問われて初めて自覚した。とっくに由未は覚悟を決めていたのに、自分は深淵を覗き込んで足がすくんで、腰が引けている。闇の奥へ、崖へ、飛ぶことができない。

 せめて抱いてくれている由未の胸へ泣き声で伝える。

「由未のこと…っ…好きだから…ずっと、好きだったから…」

「彩ちゃん、わかってるよ。いいの。無理しなくていいから」

「本当っに、本当だから。…だから、転校して……由未の学校に…」

「……」

 嬉しかった。嬉しすぎて抱きしめる腕に力がこもる。

「うぎゅ…っ…い、痛いよ、由未…」

「だって、泣いてる彩ちゃんが可愛すぎるから、いけないの。泣きやむまで、このままよ」

 力を抜かないで、ずっと抱きしめていたかった。

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