第9話
翌朝、日曜日。差し込んできた朝日の眩しさで由未が目を覚ますと、車窓から見慣れた風景が見えた。
「ここ……学校の…」
気がつけば、高校の前にクルマが停車している。運転していたはずの男はクルマの外でタバコを吸っていた。由未はシートベルトを外してクルマを降りる。
「こんなところまで送ってくれたの?」
てっきり大阪駅あたりへ、送ってくれるものと思っていたのに、わざわざ彩乃の住所まで走ってくれていた。ざっと、数百キロはある。
「サクラが送ってやれってな。礼なら、こいつに言ってくれ」
「……そう。ありがとう」
降りるときになって、このクルマがサクラと命名されていることを知った。
「サクラさん、ありがとう」
ちゃんと名前を呼んで礼を言った。彩乃が疲れているようなので、本当にありがたい。まだ、彩乃は眠っている。
「降ろそうか?」
「私がするわ」
「だろうな」
男は吸っていたタバコを投げ捨てた。けれど、それは地面には落ちず、世界の外へ一時保管された。由未は眠っている彩乃を起こさないように背負い、もう一度、表情だけで男とサクラに礼を伝えてマンションへ入る。
「おっし、帰るぜ。我が麗しき鋼鉄の花嫁っ! サクラっ!」
背後で急加速する音が聞こえる。由未は背筋と脚に気合いをいれて、彩乃を背負ったままエレベーターに乗り、部屋の前まで辿り着いた。
「彩ちゃん、ごめんなさい。ちょっと起きて。部屋の鍵を出して」
「……」
緩慢な動作で背中から彩乃が鍵を渡してくれた。部屋に入ると、悲鳴をあげかけている腰を叱咤して、なんとか彩乃をベッドへ寝かせることができた。
「ハァ……ハァ……」
体格差はあっても、かなり大変な作業だった。
「今、何時なの」
由未はケータイを見る。時刻表示は午後8時12分だった。外は朝の光で満ちている。明らかに時刻表示は間違っていた。おまけに日付も一日遅れている。
「……半年前に買ったばかりなのに…、彩ちゃん、ケータイ貸してちょうだい」
「…う~……うん……」
彩乃が寝ぼけたまま、ケータイをポケットから出して渡してくれる。
「……11月14日…午後6時って……まったく、メチャクチャよ」
彩乃のケータイは季節までずれていた。
部屋を探してみるけれど、壁には時計がない。しばらく視線を彷徨わせて、ようやく彩乃の腕時計を見ればいい、ということに気づいた。
「つい、ケータイに頼ってばかりで……」
腕時計は午前4時36分、朝日の角度から考えても信用できそうだった。もう少し寝たい気分だった。疲れている彩乃の服を脱がせ、下着一枚にすると、由未も同じ姿になって横に並ぶ。サクラが高級車だったとはいえ、やはりベッドで眠るのとは違う。すぐに二人とも眠りに落ち、由未は二時間ばかりして目が覚めた。彩乃を起こさないように腕時計を見ると、7時前、静かに由未はベッドを離れた。シャワーをかりて部屋に戻っても彩乃は眠っている。せっかくの日曜日ではあるけれど、起こすのは憚られる。身体を拭いたバスタオルを干すと、漁っていいと許可されているダンボール箱を開ける。数冊の本を取り出して、静かに読書し、彩乃が目覚めるのを待つことにした。
三時間ほどして、午前10時すぎ、玄関のチャイムが鳴った。
「……彩ちゃんが寝てるのに……」
新聞勧誘だったら一喝すればいい、宅配便だったら、午後にしてもらおう、そう思って玄関に立ち、覗き穴から外を見て、ケンがいたので由未は座り込んだ。
「っ……向こうからは見えてない…」
シャワーを浴びたままの姿だったので、悲鳴をあげそうになったけれど、よく考えればケンから見えているはずはない。宅配や勧誘員などの記号的な存在でなく、人間関係のある他者だったために反射的な羞恥心を覚えていた。
「まったく……」
羞恥心が嫌悪感に変わった。立ち上がり、ドアに向かって怒鳴る。
「何の用かしらッ?!」
(っ…その声は、真藤……さん…)
一応、呼び捨てを定着させたわけではないようだったけれど、響いてくる声に敵意を感じる。それは、お互い様だった。
「用件は?」
(……ボクはマコちゃんに会いに来たんだ)
「あっそ。じゃ、帰ってちょうだい」
(真藤ッお前ッ!)
呼び捨て、お前よばわり、由未は眉をしかめたが、それ以上は何も言わず、部屋の奥へ戻った。彩乃は死んだように眠っている。まだ、起きる気配はなかった。
「……」
ピンポーン♪
また、チャイムが鳴った。誰が鳴らしたのか、見に行かなくてもわかる。
無視する。
ピンポーン♪
「くッ…」
苦々しく思いながら、さらに三回のチャイムを聞き、急いでスカートとブラウスを羽織った。足音を立てないように玄関へ走り、ドアを開いて怒る。
「疲れて眠ってるのよ。起こさないで!」
「……本当かよ?」
「ええ!」
視線の強さで威嚇してケンをさがらせると、彩乃を起こさないために、由未は靴を履いて、外へ出る。それでケンが背中に花束を持っていることに気づいた。赤いバラの花束だった。
「……何、その花?」
「お……お前には関係ないだろ」
「……」
由未はドアを開けて玄関脇に置いておいた部屋の鍵を取り、またドアを閉めて鍵をかける。どうせ、この男とはケンカにしかならない、玄関前で大声を出して彩乃を起こしてしまうより、戦場をかえることにした。
「なんで、お前がマコちゃんの部屋の鍵をもってるんだよ?」
「あなたには関係ないわ」
「……」
「ついてきなさい」
一階に降りて、マンションの駐車場でケンと対峙した。
「遠いところへ行っていて、疲れて眠ってるの。伝言なら預かるわ」
「……」
ケンが居心地悪そうに身じろぐと、花束のラッピングがパリパリと音を立てた。
「……」
「……」
あざとい小道具ね、由未は急いでいたので靴下を履いていない靴の中が気持ち悪く汗で濡れるのを感じながら、戦法を決めた。今度こそ勝つ、叩きのめしてやる、戦意は隠して敵を罠にはめる。
「それは渡しておくわ。あなたの気持ちはメールにでもして伝えたら? 無視されたら、それまでのことよ」
「……」
「この暑さ、鉢植えならともかく、花束は、すぐに萎れるわよ」
「……じゃあ、頼む」
ケンが花束を差し出し、由未は受け取ると、そのまま手放して駐車場に落とし、そして踏みつけた。無惨にバラが折れ曲がる。艶やかな素足につづく靴が、愛を伝えるために買われた花を潰している。唇が冷たい言葉を投げる。
「こんな花、いらないそうよ」
「っ…、くッ、…、お、おおおおおッ!!!」
怒りの余り、非言語的な雄叫びをしてケンが殴りかかってくる。直撃すれば顔の骨を折られるかというほどの拳を、由未は予想していたので、左へ避け、カウンターで蹴りを入れる。
ドッ!
「うぐっ!!」
ケンは腹を蹴られて呻き、アスファルトに膝をついた。
「ぅぅ…」
さらに、隙だらけの側頭部を蹴った。
「ぐわっ…」
ケンは転がって、駐まっていた自転車を数台、巻き込んで倒れる。由未はポニーテールにしている髪を、さっと翻した。
「ふんっ、鎧袖一触とは、このことね」
勝てた、由未は少し痛む足首を踏み直している。
「さっさと家に帰りなさい。そして、二度と現れないこと、わかった?」
「ぐぅ…うっ…ぐ…」
ケンが蹴られたところを押さえて立ち上がってきた。
「お前なあぁああああっ!!」
「っ……」
この男は不死身なの、由未は突進してくるケンを避けきれず、体当たりされてアスファルトに倒された。
「うおおおっ!!」
馬乗りになったケンが殴りかかってくる。避けることはできず、由未は顔を両腕で包むように守る。
「おらっ!」
「くっ!」
左腕を殴られ、痛み、そして痺れて力が入らなくなる。さらに、右腕、また左腕、次々と殴られて戦意と勇気が消え失せ、涙が溢れてきた。怖い、身体が震えて、何もできないのに、ケンは我を忘れて殴ってくる。
「おらっ!」
「ひっ…」
力の入らない腕で必死に顔を守って震えた。けれど、次の衝撃がこない。恐る恐る見上げると、ケンは別の男に手首を握られていた。
「なんだよっ?! お前はっ!」
ケンは相手を誰何して、思い出した。
「お前はっ! 不審者っ!」
「半歩ゆずってオレが不審者だとしても、それを言う君は暴行の既遂犯だ」
船井だった。
「うるさいっ!! 離せよ!! この女にわからせてやるんだ!!」
「君にわかってもらう方が先だな」
船井が握力を込めるとケンは呻いた。
「痛だああ!」
仰け反ったケンを船井は簡単に投げ飛ばして、由未の上からどかせてくれる。ケンはアスファルトで背中を打った。
「ぐ、くっ、くそっ!」
「いい背筋をしている。ガッツも悪くない。だが、いかんせん。それを使う方向性を大きく間違っている」
「ぅ、うるさいっ! ざけんなっ!」
ケンが吠えると、船井は軽く手招きした。ごく単純な挑発に少年は真っ直ぐにのる。
「うおおおおっ!」
由未にも通用しなかった力任せのストレートパンチを再び放つ。船井は害虫でも払うように、そのパンチを叩き落とした。
「くっ…」
「次は、どうするね?」
「う…うざいんだよ!! てめぇはっ!」
さらに殴りかかるが、やはり払われる。蹴りを放つと、足を受けとめられて投げ飛ばされてしまった。テニスは一流でも格闘は未経験、対して船井の動きには、まったく無駄がなかった。
「ぐっ………くそっ! くそっ! ぐおおおおっ!」
動物的に吠えて自分を奮い立たせると、由未を倒すことのできた突進からの体当たりで船井へ挑みかかる。
ぼすっ!
体当たりが決まる前に、船井のストレートパンチが見事に入った。その場に、ケンが崩れる。
「加減はしたつもりなんだが……」
船井は倒れているケンが息をしていることを確認して、今度は由未の靴を拾った。倒されたとき、いつのまにか右足の靴が脱げていた。
「女性に暴力をふるってはいけない、よく世間で言われるが、戦争はいけない、というスローガン同様、実際の現実では暴力は多発している。戦争が頻繁なのと同じに、女性への暴力も多い。花束をしたため、紳士の仮面はつけていても本質的に男は危険だと、思った方がいい」
もってまわったことを言いながら、倒れたままの由未の右足についた土埃をハンカチで拭いてくれ、靴を履かせてくれた。
「痛むところは?」
「…っ…へ……平気よ…」
一瞬、恐怖が終わった安心感と、助けてくれたこと、そして、まだ胸に残っている嗚咽に背中を押されて、目の前の男に抱きついて泣きたい衝動にかられたけれど、由未は自制した。手で涙を拭いて、立ち上がる。
「……」
「……」
「……」
「……。感謝の言葉を待ってるんだが、期待しすぎだろうか?」
「っ…、……あなた、バカじゃないの!」
「残念だ。こういうとき、オレの胸にすがって泣いてくれると話が早くていいものを」
「ほっ、本当にバカよ!! 本物のバカだわっ!!」
由未が怒っても、船井は嬉しそうに笑った。
「活きのいいお嬢さんだ。実際、途中まで加勢はいらないかと見ていたんだが、この少年も打たれ強い」
「……いつから見ていたの?」
「お嬢さんが花束を赤い絨毯として踏みしめるところから」
「……」
花束とケンは無惨にアスファルトで天日干しになっている。由未は船井とケンを見比べた。由未が思いっきり蹴っても、すぐに立ち上がってきたケンを、あっさりと船井は一発でノックアウトしてしまった。ケンは由未より、一回り体格が大きい、そのケンより船井は二回りは大きく、190センチ以上ありそうで、由未でも見上げる形になる。
「……」
目が合った。
「……」
「……」
由未は船井から一歩離れ、視線もそらせると、小声でつぶやく。
「……がとう…、……けてくれて…」
ありがとう、助けてくれて、と発音したはずだったが、うまく舌が回らなかった。それでも、船井は満足そうに微笑んだ。
「どういたしまして、お嬢さん」
「……。私、もう行くわ」
船井に背中を向けてマンションへ戻った。部屋には行って玄関のドアを閉め、鍵とチェーンロックをかけると、その場に座り込んだ。
「…っ…ハァ……ハァ……」
再燃しそうになる恐怖と嗚咽を忘れるように努める。ここで泣くと、彩乃を起こしてしまう。そろそろ起きてもらった方がいい時間かもしれないけれど、心配はかけたくない。立ち上がって、浴室で裸になり、もう一度、シャワーを浴びる。
「痛っ…」
擦り傷が、肘と背中、お尻、殴られた打撲が両腕にある。とくに殴られたところは痛みで、うまく力が入らない。泣きそうになってしまう顔をシャワーに向けた。
「……忘れる、忘れる、どうでもいいこと……どうでもいいことよ」
きわめて初歩的な自己暗示で気分を変えて、彩乃が眠っている部屋へ戻るとバスタオルを干した。ついでに洗濯と食事の用意をする。彩乃は夕方まで眠り続け、起きても反応が鈍く、すぐに眠ってしまったので、由未も一人で食事を摂ると、諦めて隣で静かに眠ることにした。
夕方、茂木はケータイで由未と彩乃へ連絡を取ろうとしていたが、どちらからも応答がなかったので、しばらく悩んでから由未の自宅へかけていた。
「ほな、二人で旅行に行ってはるんですね。すんません、たいした用事やないですさかい、また、ケータイの方にでもかけ直しますわ」
由未の母親から、彩乃と一泊旅行に出かけていることを聞き、ますます顔を悩ませた。電話を終え、ベッドで寝転がる。妹と弟が部屋に入ってきた。
「姉ちゃん! 遊んでぇや!」
「……」
「遊んでぇや! 起きてぇや!」
「……」
妹と弟が、うるさい。深刻な考え事をしているのに、背中に乗られてバイクごっこされる。うつぶせに寝転んでいる茂木の身体がバイクで、そこへ二人乗り、髪の毛をハンドル代わりにされている。
「「べぇぇぇん! きゅおおおん!」」
右へ、左へ、体重を移動されるので、うっとうしいこと、この上ない。容赦ない身体的接触をともなうコミュニケーションで、背中に押しつけられた妹の股間と、弟の股間の違いが認識できてしまう。そんなことを意識してしまった自分がイヤだった。
「やめぇい! 考え事しとるんや!!」
「どこぉん! 事故だぁ!」
「事故や! ぴーぽーぴーぽー♪」
怒ると逃げていく。妹だけを捕まえた。
「ちょい待ちぃ」
「遊んでくれんの?」
「ちょっと質問があるんや。大事なことや、真剣に答えいな。ええか?」
「ええよ」
「ウチは、あんたのこと好きや」
軽く妹を抱きしめてみる。
「姉ちゃん、急に、どないしたん?」
「ええから、質問に答えい。あんたはウチのこと好きなん?」
「好きやで、そんなん当たり前やん」
「ほな、好き同士やな」
「せやね」
「せやったら、大人になったら結婚しよ。ええやろ?」
「……アホちゃう? 姉ちゃん、頭どっかで打ったん?」
「ウチとは結婚でけんの?」
「当たり前やん。女同士やで」
「……」
「それになぁ、家族は結婚でけんねんで知らんの?」
「あえて姉妹やちゅーことは忘れよ。もしも、あんたとウチが同じ歳で、好き同士やったら、どや? 生まれ変わって他人さんやったのに好き同士になるねん。せやったら、結婚しよゆー気ぃになる?」
「う~……姉ちゃんが男に生まれ変わるん?」
「いんや。ウチは女のまんまや」
「ほな、ウチが男に生まれ変わんの? イヤやなぁ…」
「いんや。あんたも女のまんまや」
「……。女同士で結婚したいん?」
「せや」
「……姉ちゃん……キンタマって知ってる?」
「おぼろげに」
「……赤ちゃんの作り方、知ってる?」
「そこはかとなしに」
「ほな、女同士で結婚すんの無理なんわからんの?」
「……。やっぱ、それが普通の反応やんなぁ!」
手近な相手で自説の正しさを再認すると、妹にキスを迫る。
「チューしたろ、チュ~っ」
「やめてぇや! 姉ちゃんのアホぉお!」
抱いていた腕の中から、妹が逃げていく。再び、部屋が静かになった。
「小学生にでも、わかることやん」
寝転がって天井を見上げる。
「……こうなったら、やっぱり、荒療治に限るで」
茂木はケータイを握ると、ケンへ電話をかける。すぐに応答してくれた。
「もしもし、ウチや」
(あ、うん、…やあ……)
ケンから腰の引けた声が戻ってきた。
「気合いのない返事やな。ちょっと話があんねん。あんた今、どこにおるん?」
(……モッチーの家の前……だけど…)
「はあっ?!」
茂木が飛び起きて窓から見下ろすと、門前にケンがいる。こっちを見上げていた。
「あんたストーカーかっ?!」
(た、たまたま! モッチーに話があって来たんだ!)
「それにしても、いきなり訪問せんと電話アポくらいせんかい!」
(…で…電話だと…無視されるかと…思って…)
「あ、ああ……せやな。……戦況が変わってへんかったらウチも無視したかも…」
茂木はケンに聞こえないよう「こんな戦況、いくらなんでも奇策すぎるちゅーねん」と、ぼやいてから話を続ける。
「まあええわ、ストーカーの容疑は無しにしといたろ」
(助かるよ)
「とりあえず、ウチも外へ出るさかい、待っとりぃ」
茂木はケータイを切ると、時刻を確認する。そろそろ日が暮れる。夏の夜に、一対一で男子と出歩くことになってしまうと、思い至り、スカートを脱いでズボンに替えた。鏡を見ながら弟にグシャグシャにされた髪を櫛で整えてから玄関を出る。
「お待たせ」
「あ、ああ」
「また、アホみたいに大声出されるとかなんし、人目のないとこ行こか」
茂木は75センチ程度、ケンと離れたところを歩いて、近所の公園を通り過ぎ、倒産して使われなくなったビルの三階へあがった。
「ここ勝手に入っていいのかよ?」
「先月まで暴走族がタマリ場にしとったし、大丈夫やろ」
「……。それって、めちゃヤバくないか?」
「ケンカになったら、自信ないん?」
茂木が挑発するとケンは真に受けた。
「そんなことはないけどさ、多勢に無勢ってこともあるじゃないか」
「女の子をおいて一人で逃げると?」
「そうは言ってないだろ」
ケンが近づくと、茂木は側頭部を腫らしていることに気づいた。
「あんた、そのケガ、どないしたん?」
「べ……別に、……階段で転んだ……だけ…」
「まあ、どうでもええわ。どうせ、ユミリンに蹴られたんやろ?」
「どうして、わかるんだ?! もう聞いたのかよ?!」
「いや、カマかけただけや。……それに、ユミリンとは、ウチも今のところ戦争中みたいなもんで、あんまり連絡はないんや。……よっしゃ、まず、あんたの話から聞こか。話してみぃ」
「でもさ、暴走族が来るって、マジでどんなに頑張っても、3対1くらいだと、モッチーを守れないよ」
「大丈夫や。暴走族は先月、全員検挙されとる。アホな奴らや」
「なんだ、そっか。にしても、どうして、ああいう暴走とかするかな」
「あんたのテニスといっしょや」
「……かなり違うと思う。ぜんぜん違うよ」
「いやいや、科学的に分析するとな、暴走行為でスリルと冒険心を満たしつつ、自分は勇敢なんや、というアピールをグループ内の女の子にすることがでけるやろ。あんたが努力を積み重ねて県大会で優勝して達成感を満たしつつ、校内外の女の子にアピールするのと同じやん」
「……ボクは…別にモテるためにテニスしてるわけじゃない…」
「それは無意識の問題や。本人の自覚が無うてもアピールであることは確かや。ま、選択した手段の有効性としては、あんたの方が暴走族より何枚も上やから、環境への適応がでけてるで」
「なんだよ、それ。変な理屈、どこで覚えてきたんだよ?」
「最近な、マコがいろいろ言いよるさかい、影響されて、ついね」
「マコちゃんが……そっか。彼女、頭もいいから」
「あばたもえくぼ」
「……」
「ま、あいつに言わせたら、それこそ恋愛状態の心理うんぬん言いよるやろけど。ほれ、あんたの話が先や。話してみぃて」
「……。ボクはマコちゃんと話がしたいんだ。ちゃんと二人で、真剣に」
ケンが本題に入ると、茂木も頷いた。
「せやろなァ」
「なのに、あの女が邪魔ばっかりして。……まるで、マコちゃんを監禁してるみたいに会わせようとしない。いつ行ってもいるし……」
「…あの女って……ユミリンのこと、ちょっと前まで彼女やったん覚えてる? 蹴られて忘れた?」
「……口が過ぎたのは、謝るよ。モッチーに紹介してもらっといて……先に裏切ったのはボクだから……。けど、あんな女だって、わかってたら……断ってたさ。……だいたい、蹴られて忘れるどころか、普通は怒って当然だろ」
「あ~……まあ、……せやね、ちょっと前まで彼氏やった男を足蹴にしたら、あの女よばわりくらいされて当然かもしれんね。どっちも、どっちや……別れるってイヤなもんやね」
「……」
「ま、話を続けたってよ」
「……真藤…さん、とマコちゃんって本当に仲がいいのかって……疑問に思って、モッチーに訊きたかったんだよ」
「……仲……ねぇ」
茂木は自分が目撃したことをケンに話していいとは思っていない。なるべくなら墓場まで持っていくつもりだったが、ケンが何を、どこまで知っているのか、それも問題になる。あまり学校で変なウワサが流れるのは、誰にとってもよくない。茂木は廃ビルの窓辺に立ち、月を背にしてケンの表情がよく見える位置に立った。
「ユミリンとマコのこと……どない思うてるわけ? あんたとしては」
「どうって……言われても……ただ、女の子同士のイジメって男にはわからないだろ。いろいろウワサとか、見た感じとかでのボクの判断だと……真藤はマコちゃんのことイジメてるんじゃないか? ……その原因はボクにあるの……かも、……しれないけど……。自惚れで言ってるわけじゃなくて……真藤には、もう嫌われてるけど……やっぱり、彼女と付き合ってたのを解消したのは、マコちゃんのことが原因だし……真藤ってプライド高そうだから……、……」
「なるほど……そういう解釈も成り立つわな」
「モッチーは何か知ってるのかよ?」
「……」
話していいとは思えない。茂木が黙って、考え込むとケンは苛立った。
「知ってるなら教えてくれよ!」
「……イジメとは…ちゃう。そういうことやない」
「だったら何なんだ?!」
ケンが大声を出して肩をつかんでくるので、茂木は押し返して距離をとった。
「まあ待ちぃ。結局、大声出すし」
「隠し事するからだろ!!」
「隠したいことは隠す、それが、あかんの?」
「っ……頼むよ! 教えてくれ!」
「とりあえず、イジメとは、ちゃう。せやけどな……まあ、最初から読めとったことやけど、マコかてユミリンに遠慮があって当然やろ? あんたのことで」
「……」
「あんたが好きや言うたところで、はいそうですかと、付き合うのもユミリンに悪い、そういう考えが生まれても当然やろ? あたしのせいで由未が……ごめんなさい、この償いには、何でもします。土下座でも、恥ずかしいことでも、何でも、みたいな心理や」
「……それに、あの女は、つけ込んでるのか……」
「いや、そこまでユミリンを悪玉に考えんでも。ちょっと視点を変えたら、やっぱり一番悪いのは、あんたやったりするし」
「……」
「ユミリンかって聖人君子やないんや。気持ちの整理がつかんで変なことになってもうた。そういうことかて考えられるやん。その視点では、やっぱり、あんたが一番、悪い」
「……それは……そうだけど……ボクは、それでもマコちゃんが好きなんだ!!」
「はいはい、恥ずかしいこと叫ばない」
「……」
「ケン、あんたには先週も言うたけど、けっこう勝手なこと言うてるで? 真藤さんは、さようなら、マコちゃん、ウェルカム」
「……わかってるさ……けど…」
「けど、先週と違うんは、あんたの勝手にウチも味方したろかちゅー気になってることや」
「モッチー……」
「ここ、喜ぶところやで?」
「そ…そうだけど……どうして、いきなり? この前は、あんなに反対したじゃないか」
「ユミリンには気持ちの整理をつけてもらう。そのために、マコとケンが普通に付き合う。それが誰にとっても一番ええような気がしてきたんや」
「モッチー……ありがとう」
「いや、どっちかというと、あんたのためやない。ユミリンとマコのためや。あんたは三番目」
「何でもいいよ。ありがとう、モッチー」
「ハッピーエンドに終わるとは限らんで。マコかて彼氏を選ぶ自由はあるんや。ウチはユミリンが気持ちの整理をつけた時点で、あんたの味方するんも終わりやし。そういう意味では、やっぱりユミリンの味方なんや、ウチは」
「そっか。そうだよな……うん、わかった」
「……」
いや、あんたは全体像の半分が抜け落ちとるし、わかってないことが多すぎるけど、まあ、これが限界やろ、茂木は明日の行動についてケンに指南すると、自宅までケンに送ってもらった。
「ボクは、ボクなりにベストを尽くすよ」
「せやね。まあ、頑張りぃ」
ケンを見送ってから、もう一度、由未と彩乃のケータイへかけてみるが、やはり二人から応答はなかった。
「二人っきりの世界に、こもるってか……まあ、学校には来るやろけど……ユミリンとは大ゲンカになるやろうなぁ……ま、しゃーないわ。雨降って地固まる、や」
深いタメ息をついた。
翌日、月曜日。六月の最後の日、茂木は女子トイレの個室でタイミングを待っていた。ケータイは無視される。直接に教室やマンションへ行っても、彩乃と一対一で話すことはできそうにない。だから、由未と彩乃が用を足しにくるのを待ち伏せ、一人になるタイミングを狙って襲いかかる。
由未と同時に別々の個室に入り、先に終わった彩乃が一人になった気配を感じて、待ち伏せていた個室から飛び出して、彩乃の口を塞ぐ。
「静かにしぃ!」
「っ…」
彩乃は抵抗する間もなく、茂木が飛び出してきた個室に引きずり込まれた。茂木は後ろ手で鍵をかけると彩乃の口を塞いだまま、警告する。
「静かにしいや。ユミリン抜きで大事な話があるんや」
「……」
理由を告げると、彩乃は抵抗しなかった。
すぐに由未が、別の個室から出てくる気配がある。手を洗い、髪を整えている気配がする。しばらくして、どの個室からも彩乃が出てこないので呼び声が響いてくる。
(彩ちゃん?)
「「……」」
(彩ちゃん、いないの? ……教室かしら…)
由未の気配が女子トイレから消えた。茂木は彩乃の口から手を離した。
「こうでもせんと、あんたとタイマンで話せんかったからや。悪う思わんとってな」
「……話って?」
「察しはつくやろ。ユミリンとの関係についてや」
「……」
彩乃が目を伏せた。茂木は静かに、強い声で語る。
「あんた、ユミリンと距離とって、ケンの気持ち、聞いたりぃ」
「……ふーん……友達を裏切れって……言うんだ?」
ちょっと茶化して彩乃が言ってみても、茂木は静かに強い口調を崩さない。
「その友達のため、でもあるんや。わかるやろ。今のユミリンとマコの関係は変や。まともやない」
「……」
「それにな、ケンとは中学からの付き合いやけどな、あいつ、ホンマに本気で、あんたに惚れ込んどるで。どっぷりアホみたいに、あんたのことしか、考えとらん。……正直、ちょっと可哀想なくらいや。あんた、わざと挑発したんやろ? その気もないのに」
「……」
「ケンの気持ち、ちゃんと聞いてやりぃ」
「……あたしが…そうしたとして…、由未の気持ちは、どうなるの?」
「ユミリンのことは、ウチがフォローする」
「……」
「しばらく距離と時間をおいて冷静になりぃ。自分とユミリンのこと、ちゃんと考えたら今の関係は間違うてることくらい、あんた、誰よりわかってるはずやろ? 女と女で、どうするねん?」
「……でも、由未の…気持ちが…」
「それは、ウチがフォローするさかい」
「……」
「……」
茂木は黙って彩乃の手を強く握った。
「ええな?」
「……」
「ほな、あんたはテニス部の部室へ行きぃ。ケンが待っとるさかい」
「……」
「断るにしても、ちゃんと気持ちを受けとめたってから、断るのが礼儀やろ?」
「…それは……わかってる。……だから、モッチーも、ちゃんと由未のフォロー……してくれる?」
「もちろんや、約束する」
茂木が真っ直ぐに見つめてくる。
「ユミリンのことは、ウチに任しときぃ」
「……お願い……するね」
彩乃がつぶやき、茂木と個室を出る。茂木はケータイで由未へかけ、彩乃は言われた通りテニス部の部室へ向かった。そろそろ授業が始まる時間で、テニスコートにも、部室にも誰もいない、ケンだけが待っていた。
「マコちゃん」
「……お待たせ。……話って?」
「ボクは君のことが好きだ」
「……それは……前にも聞いた」
「君の返事を聞いてない」
「……」
「ボクと付き合ってほしい」
「……どんなこと、するの?」
「…え?」
「付き合うって、具体的には、どんなこと、するの?」
「それは……デートしたり、……、また、部活じゃなくても、いっしょにテニスをしたり、とか」
「デートして、テニスすれば、満足して、おしまい?」
「……おしまい、って…」
「もっと、色々なこと……そう、エッチなこと、あたしにしたいから付き合ってほしいの?」
「違うよ! そんな気持ちじゃない!!」
「へぇぇ……ケンには性欲が無いんだ?」
「な……無いことも……無いけど……その……マコちゃんに対する気持ちは、もっと神聖なものなんだ!」
「神聖……か…」
どの神を信仰してるの、そう問いかけて困らせようかと思ったけれど、彩乃は問答の不毛さに飽いた。たんに自分が逃げたいためだけに、この男を困らせている。そう自覚した。彩乃は一歩踏み込むことにした。
「ケンは、あたしのこと、抱きしめて、キスをしたい。違う?」
「……違わない。そう、したい」
「それは三浦とか、由未が相手じゃダメなことなの?」
「好きなのは君だけだ」
「で、あたしにキスして抱いて、脱がせて、……セックスしたい? 正直に答えて」
「…し……したい。……マコちゃんが、いい、なら」
「あたしがヤダって言ったら?」
「しない」
「お付き合いしても、エッチは、ヤダって言って、本当にガマンするの?」
「……する」
「キスもヤダって言っても?」
「……するよ。そういう気持ちになってくれるのを待つために、ちゃんと付き合うんだ。そうだろ?」
「そうだね、普通は」
一歩、彩乃はケンに近づいた。
「ケン、あたしの気持ち、そのまま言うね。それを、どう思うかは、ケン次第」
「……わかった」
「あたしはケンを嫌いじゃない。でも、ケンを恋しいとは思ってない。キスしたいとも、抱き合いたいとも、少なくとも今の時点では、思ってない。恋しくもなければ、性欲も感じない。ただ、テニスを教えてくれたケンには、ちょっと愛着を感じる。う~ん……誤解を恐れずに言ってしまえば、この世で一番好きな男の子は……ケン、かな」
「それで十分だよ」
「十分じゃないよ。ぜんぜん足りない。最低限ギリギリの合格ライン。あたしは……由未、…のこと、ケンより好き。だんぜん、由未の方が大切」
「……そうだろうとは……思うけど…」
「……。バカケン」
「ボクはバカだけど、それでもマコちゃんのことが好きなんだ」
「……あたしが、すっごい変態だったら、どうする? ケンが、びっくりするような趣味の持ち主だったら、どうする?」
「どうするって……たとえば?」
「う~ん……ケンって変態に、どんなイメージ持ってる?」
「……Sとか、Mとか、鞭で叩いたり、縛ったり…」
「一番メジャーな変態ね、それ。むしろ、市民権を獲得しつつある気さえする。サディズム、マゾヒズム、ボンデージ、スパンキング、ウィッピング」
「……」
「もっと引く趣味あるよ」
「……ボクの気持ちを冷めさせるために、わざと言ってる?」
「そういう面も半分あるけど、付き合ってからノーマルな女じゃないことがバレて捨てられるのもヤだから、事前申告みたいな、ね」
「じゃあ、どんな趣味でも、ボクは合わせるよ」
「相手に合わせる。映画好きなら自分も映画ファンに、ロックならファンクラブに入会、ステキね。もしも、あたしがテニスをやめて、って言ったら、やめられる?」
「……やめるよ。君のためなら、何だってできるよ。本気でテニスをやめてくれっていうなら、やめる。男に二言はない」
「へぇぇ……あたしがアポテムノフィリアだったり、アベイショフィリアだったとしても、合わせてくれるの?」
「アポテ…?」
「相手の手足を切り取ることに興奮するド変態と、身体障害者に性欲を覚えるバカのこと。フリークスってね、片手とか、義手の女の子、義足とか、車イスの少年、そんな特徴に性欲を喚起されちゃうの。ケンは、あたしの快楽のために右手を諦められる? 切っていい?」
「……」
「やっぱり、引くよね」
彩乃が肩をすくめると、ケンが踏み込んできて、その肩をつかんだ。
「ボクは君の本当の気持ちが知りたい。さっきから、また君は誤魔化してる」
「っ……バカケンのくせに、よくわかるじゃん」
「バカでも、わかるくらい、わかりやすいからね」
「……。あたしと付き合ってるとき、また浮気しない?」
「しない」
「したら、チンチン切っていい?」
「いい」
「そうね、チンチン切って女装させて、あたしはアンドロミメトフィリアになら、なれるかもしれない」
「……一応、訊くけど、それ、どういう変態?」
「女性に性転換した男性に、興味を示す女性のこと」
「……ボクに女装をさせて楽しい?」
「うん、きっと楽しい。手足を切り取りたいとは思わないけど、女装はさせてみたい。あたしのテニスウェア着てみてよ。超ミニスカ、もち、パンツも女物」
「……着たら付き合ってくれる?」
「う~~ん……迷いどころ…」
「ボクは真剣に言ってる。何でも、とは言えないけど、できそうなことなら何だってするよ。好きだから、マコのこと」
「……あたしの名前……、やっぱり、……」
彩乃は迷ってから、部室のドアを閉めて、鍵も閉めた。これで万一にも誰にも見られない状況になった。
「ケン……手、握ってみて」
「ぁ、ああっ! こ、これで、いい?」
ケンが手を握ってくる。テニスで鍛えられた手で、由未より、ずっと硬くて武骨で、可愛くない。けれど、頼りになりそうで、カッコいいとは思える。汗ばんだケンの手を気持ち悪いとは思わない、ただ、嬉しくもない。由未と肌を触れ合わせたときほど、なにか心臓や脊髄、脳に響いてくる衝動がない。
「……ケンのこと、好きになれるかなァ……なれると、いいけど…」
「他に好きな人が……いるの?」
「……」
黙り込んでしまうと肯定したも同然だった。握り合っているケンの手が震えて、それが伝わってくる。彩乃はケンの手に、さらに反対の手も重ねた。
「ケンってさ。フラれたこと、あるの?」
「……正直なところ、女の子を好きになったこと自体、今回が初めてなんだ」
「いつもは男の子を好きになるの?」
「……どうして、話を、はぐらかすんだよ……ボクは真剣に言ってるのに…」
「あ、いや、ごめん、そういうつもりじゃ…ないんだけどね……。って、ことは、あたしが初恋の相手?」
「そうだよ。こんな気持ち、初めてなんだ。君のことしか、考えられない。想えないんだよ」
「そう……光栄に……想うね」
「ボクと付き合ってくれる?」
「……あと、二つだけ」
「どんなこと?」
「ゆっくり、あたしを抱きしめてみて、ゆっくり、ね。ガバッてしちゃダメ」
「こ……こうか、な?」
ケンは願ってもない要求に応えるべく、ゆっくりと両手をまわして彩乃を抱きしめる。ふんわりと小さな身体がケンの腕に包まれ、おさまった。
「う~……う~ん……、まあ……何とかなる……かな?」
「な、何か、不満が?」
「不満はあるけど、ガマンはできそうかなって」
「……どんな不満が? 治せるなら治すから」
「治せないから、いいよ」
「……言ってくれれば……努力するよ」
「……」
努力して治るものじゃないよ、それに努力するのは、あたしの方、彩乃は抱きしめてくれているケンを抱き返してみた。背中が大きい、柔らかくてキュートな由未に比べて、ぜんぜん可愛くない、でも、これは、これで、慣れれば悪いものでもないかも、あたしってバイかな、彩乃は男の胸板に耳をつけてみる。鼓動は早鐘のようで、この音は由未と同じだった。
「ふふ……この音は可愛い」
「か、…かわ…いいって…」
「ケンの心臓、よくオーバーヒートしないって思うほど、ドキドキしてる」
「そ…そりゃ…そうだよ。こんな…状況で…」
「この音は可愛いね」
「……可愛いって、…そういう表現って…違わないか?」
「ううん、可愛いは重要」
彩乃はケンの胸に指で漢字を書きつける。
「可愛い、可の反対は不可。すると可愛の反対は、不可愛。これすなわち愛せない。ほらね、可愛いは大切な要素」
「…そ…そうなんだ。マコの言うこと、わかるようになれるよう、努力するよ」
「ありがと。じゃあ、あと一つ」
「……何、かな?」
「これを知っても、あたしと付き合ってくれるなら、あたしからお願いしたいくらいなこと。覚悟して聞いてね」
「………わかった」
ケンが深呼吸する音が聞こえる。やや筋肉が硬く緊張した感じがする。
「あたしの初恋の相手のこと」
「……」
さらに、抱いてくれている腕が硬くなった。
「あたしはケンを受け入れようと思うけど、ケンのことは、いい友達くらいにしか好きじゃない。だから、結局はケンのことを愛せなくて、あたしが原因で関係が破綻してしまうかもしれない。関係を継続しても、愛せないまま……まあ、愛せないまま結婚して子供ができて家庭が幸福なら、それもプラグマティックな愛ではあるんだけど…」
「プラグマ…?」
「実用的な愛ってこと。恋愛って結婚して子供をつくるために、するでしょ?」
「そ…そ、そうだね…」
「そこまで考えてなかった? あたしへの想いは、エッチして、すっきりしたら、おしまい?」
「そんなことはないよ!」
「じゃあ、明るい家族計画も立ててたの? ちゃんと子供の名前も? 家のこともプランありで?」
「そ…そこまでは…まだ……でも、考えろっていうなら、ちゃんと考えるよ」
「ふふふっ、意地悪言って、ごめんね。当事者の意識はともかく、自然の摂理ってやつよ。で、別に大恋愛の結婚でなくても、まあ、きっと子供は可愛いよ。でもって、その子供が、また結婚してくれたら、孫は、もっと可愛い。可愛いは重要」
「…努力、するよ。でも、……マコの好きな人って……誰?」
「……聞きたい?」
「聞いておきたい」
「聞いても絶対に誰にも言わない?」
「当然だよ、約束する」
「……じゃあ、言うね。ウソも冗談もなし、本気の本当、いい?」
「あ……ああ」
「あたしが恋してる対象は……真藤…由未」
「……えっと……その、……冗談?」
「……」
「……本気で言ってる? 真藤って、あの…その…ボクが、知ってる真藤さん?」
「あたしは女の子が好きなの。そして、恋してるのは由未その人」
「……そ……そういう趣味の人がいるのは……知ってるけど…」
「まあ、一種の変態ね。けっこう引いてるでしょ? 恋の病とは言っても、本当に病的だもん」
「そ……そんなことはないよ。それに、同性愛は変態じゃない。病気でもないって!」
「……意外……、どうして、そんなことケンが知ってるの? たしかに、同性愛は、いわゆる変態、性的倒錯に分類されないし、病気でもないと定義されてる、けど、どうして、そんな細かいことをケンが知ってるの?」
「そ……それは、その……、前に……告白されたことがあって……」
「告白……男の子に?」
「……そうだよ……それで、ちょっと調べて、……病気じゃないから医者に診せなくてもいいかなって…」
「付き合ったんだ?」
「なわけないよ!」
「気持ち悪いもんね」
「……あ、……その、……マコのことは、平気……っていうか、その…抵抗はないし」
「そりゃそうよ。ケンは異性愛者で、あたしは異性。抵抗があるのは、あたし」
「……ボクに抱かれてるの……気持ち悪い?」
「慣れてきて平気かも」
「……」
「今、バイかよ、こいつって思った?」
「お、お、お、思ってないよ!」
「どう思ってくれてもいいけどね。にしても、ケンに告白した男って、どんな人?」
「……先輩だけど、……その人との約束で誰にも喋らないって……だから、ごめん。話せない。でも、何もなかったし、ボクには、その人を好きになることは、できないよ。尊敬は、できても……そういう意味での好きは、……無理なんだ」
「あたしもケンのこと、友達とか、ペットとか、お兄ちゃんとか、弟とか、二卵性の双子の片割れとか、親しい同居人とか、愛する子供の父親役な人とか、お茶の間の置物とか、まあ男性の中では世界一好きな人とか、そういう意味で好きになれても、恋人として、夫として、好きになれるかは……自信がないよ?」
「……それでも、……ボクと付き合ってほしい」
「そう……ありがと。……じゃあ、超ふつつか者ですが、あたしこそ、よろしく」
もう一度、ケンの胸に顔をあててみる。抱きしめてくれる力強さを少しは嬉しいと想えそうだった。
「マコ……」
「……あたしの名前、…彩乃。そう呼んで」
「アヤノ? ……どうして?」
「ケンを好きになれるか、努力するために。ケンが意図的に、あたしをチャン付けで呼ばなくしたように、あたしにも意識のレベルをあげる手続きが必要なの」
「……わかったよ。…あ……あや……彩乃」
「うん……やっぱり、しっくりくる」
「……彩乃……」
「ケンは紀彦じゃなくて、しっくりくるの?」
「長年、ケンだからね」
「なるほどね」
彩乃は抱き合っていた状態から離れて、部室を出ると、茂木に指示されていた通り、ケンと学校をサボった。
茂木は第二校舎の裏で呼び出した由未が来るのを待っていた。先週、神官気取りで対決したとき、本気で殺しに来た由未が射った矢が、まだ桜の木に刺さっている。
「まあ、今回は殺されることはないやろ。……たぶん」
叩かれたら叩き返そう、茂木が方針を決めていると、由未が現れた。
研ぎ澄まされた鏃のような鋭い目線で茂木を睨んでくる。
「こんなところに呼び出して、いったい何かしら?」
「マコとのことや」
「……あなたには関係ないことよ。いちいち干渉しないでちょうだい」
「そうはいかん」
「……。彩ちゃんは、どこへ行ったの?」
「あんた、自分の心理状態、わかってへんやろ」
「何それ、あなたには私のことが、わかるっていうの?」
「あんたは、なんでマコが好きなんや?」
「……。人が人を好きになるのに、理由が必要?」
「どこかで借りてきたようなセリフやねぇ」
「……。あなたと無駄話をしている気はないの。言いたいことがあるなら、はっきり言えば?」
「ほな言わせてもらおか」
「……」
「あんたはマコに甘えてるだけや!」
「……」
由未は睨みながらも、身じろぎした。指摘されたことに自覚はある。
「……別に、…あなたには関係ないことよ」
「ユミリン、ウチも、あんたの味方や。マコも、ウチも味方や。一番悪いのはケンや」
「……今さら、あの男のこと?」
「せや、あんたを傷つけるような別れ方をして、おまけにマコのことが好きやとぬかしよる。ひどい話や」
「……そうね。でも、私は傷ついてなんかないわ」
「そう思いたいだけや。あんたプライド高いさかいな。せやから、ケンに、男に、もう興味なんかない。ホンマに好きなんはマコや、そういう思い込みをつくって自分を納得させてるだけなんや」
「なにそれ?」
「そうやってプライドを維持して、マコも味方してくれて、その思い込みに付き合ってくれた。そういうことや。代償行為っていうてな、あんたは手に入らへんかったケンとの関係の代わりに、ケンが好きになったマコを手に入れることで満足しようとしてるんや」
由未が鼻で笑った。
「バカみたい。探偵ごっこ? それとも精神分析医にでもなったつもり?」
「あんたを傷つけたケンが一番悪い。せやけど、変な思い込みで青春の時間を無駄にして、どないすんねん?」
「あなた何もわかってないわ。何一つ、話が噛み合わない」
「若さゆえの過ちや、認めとうないのはわかる。あんたは美人やし、頭もええし、愛想は悪いけど、女のウチが見てもホンマに美人や。こんな美人と別れたケンが、どうかしとる」
「あの男に、こだわってるのはモッチーじゃないの? 遠距離恋愛に疲れたなら、いっそ、あなたが交際すればいいのよ。私は何とも思わないわ」
「ユミリン、マコにはケンと付き合えてウチが勧めた」
「余計なお節介ね。あんなストーカーを彩ちゃんに勧めるなんて迷惑よ」
「マコは付き合うてみるて。あんたとは距離をおくそうや」
「……。ウソよ」
「ホンマや」
「ウソね。彩ちゃんが、そんなこと言うはずないわ。私と彩ちゃんの関係は他人には理解できないほど深いのよ」
「あんたな、女同士で好き好き言うてて気持ち悪ぅないの?」
「理解できないものを気持ち悪いと思うのは人間の悪い癖ね」
「マコは人の道に外れたことやて、ようわかっとるで? せやから、ケンと付き合うてみるて。あんたとは友達でいたいそうや」
「……。…人の道って、なによ?」
「小学生でもわかることや。男は女に、女は男に、自明の理や」
「……くだらないわ」
「くだらんのは、あんたの妄執や」
「っ…、言っていいことと悪いことがあるわ。あなたの軽すぎる口、二度と開けないように針で縫ってあげましょうか」
「威嚇しても無駄や。そんな追いつめられた猫みたいにならんと、失恋の痛手は女の子らしい泣いて済ませたらええやん。ケンがマコを好きやちゅーんなら、ほっといて、もっとええ男を捕まえたら、ええやん。マコが羨ましがるほど、ええ男、あんたやったら捕まえられるで? ちょっと愛想ようしたら、ええねん。男なんか、イチコロや」
「あなた、本当に何もわかってないわ。私は男になんか一切興味がないの」
「そういう思い込みで妄想をつくって、マコまで巻き込んだ。もう、ええやろ?」
「ええ、もういいわ。あなたとは話していたくない。耳が腐るわ」
「……、なあ、ウチはユミリンと友達やさかい、お節介して真剣に忠告してるんやで?」
「友人関係は解消したはずよ」
「小学生やあるまいし、絶交とか言いな」
「もともと、あなたを友人と思ったことも無いわ」
「よぉ、そんだけ、ひどいことが言えんなぁ?」
「あなたこそ、無自覚に私と彩ちゃんを、どれだけ傷つけているか。わからないことを、わからないまま、わかったつもりになってる。無神経と無理解の権化、人の道が聞いてあきれるわ」
「あのなァ、理解せぇちゅー方が間違いや。女同士で、何がしたいねん?」
「あなたに語る口は持たないわ」
「ちょっとは客観的に自分らを見てみぃ、同性でチューして、裸になってイチャイチャして、身体の舐め合いでも、しとんの?」
「……黙らないと、黙らせるわ。実力で」
「他人の口を塞いで、自分の耳も塞ぐ。そうしとぉなるのは自分でも間違いやと、頭のどっかで気づいとるからや。わかっとんにゃろ? ちょっと好き好き言うてチューするくらいなら、気の迷い、若気の至りや。せやけど、裸で抱き合うようになったら、もう病気や。変態や。誰も理解せん。ああ、せやね、今の世の中、個性たら、人権たら、個人の自由たら、アホなことぬかして屁理屈を理屈やと思うバカが多いさかい、なんたらかんたら正当化しよるけど、なにより根本的なこと忘れて、お天道様の道理に外れて人権もクソもあるかい。異常なもんは異常で更正せなあかんにゃ。友達が覚醒剤やら売春やら、道に外れたことしとったら本気で殴ってでも止めさせるんがホンマの友達やろ。耳に痛いことでも、聞き! ウチかて言いとうないこと、あえて言うてるんや! あんたのためや!」
「なにが……」
「真理は真理で動かんのや。ええか、どっかの大臣の格言にあるやろ。女は生む機械や。健全な女は二人以上の子供をつくってこそ、健全やて」
「度し難いバカね。それは格言ではなくて、失言よ」
「ちゃうね。真理をついた言葉や。ど真ん中の正鵠にスパッと刺さった矢や。せやから、人を傷つけることもある。言われとうないこと言われたさかい、配慮がないたら、失言たらいうんや。ホンマは子供を産むんが健全やと、みんなよぉわかっとる。耳に痛いから、人権こねくりまわして屁理屈たれるんや」
「……」
「あんたの気持ちは、はしかみたいなもんや。思春期の気の迷いで、ごく一時的なもんなんや。それに、どっぷり耽たるのはアホといっしょや。いつまでも風邪のふりして登校せんガキといっしょや」
「……気の迷いなんかじゃないわ。あなたには永遠にわからないでしょうけれど、本気で恋愛しているのよ」
「アホか。命のバトンをつなげるから、恋愛ちゅー自分勝手な欲望にも価値があるんやんか。そうやない恋愛感情なんか相手を独占したいだけのワガママ身勝手やり放題や。金銭欲にも劣るわ」
「……」
「ええ加減、その妄執、捨てい。ウチが根性叩き直したる。思いっきり泣いて忘れい。ほしたら、気の迷いやて、よぉわかるさかい。これ以上、口で言うてもわからんにゃったら、ホンマにシバくで!」
「是非に及ばず候」
「なんやて?」
古風な言葉で、実力行使も辞さないと伝えられても、意味がわからず問い返した茂木の頬に軽い衝撃が走った。
パシッ!
平手で叩かれて、茂木は怯まず、叩き返す。
「一発は一発や!」
この前の分も含めて往復ビンタで泣かしちゃる、茂木は力を込めて全力で叩く。
ブンッ…
力んだ平手が空を切り、後退して間合いをとっていた由未がカウンター気味に蹴ってくる。
ドムっ!
「グフっ! ……ぐぅ…」
前蹴りをモロに腹部へもらった茂木が両膝をついた。さらに、由未が中段の蹴りで茂木の側頭部を撃つ。これも直撃して茂木の身体は横倒しになる。由未は油断せず、相手が飛び起きても対応できる体勢のまま、肩を蹴って上を向かせると、桜の木に刺さったままだった矢を引き抜き、その先端を茂木の鼻先に向ける。
「ぅ…ぅぐ…ぅぅ…」
「彩ちゃんは、どこへ行ったの?! 答えなさい!」
「ぅ…ぐう…」
「答えないと!」
由未は呻いている喉元を踏みつけ、矢を右目に向けた。
「答えなさい!」
「ぁ…あんた……ぅぐ…ぅ…ぅっ…」
メチャクチャしよる、キレすぎや、茂木は苦痛と恐怖のために涙を零しながら、ケンと彩乃の行く先は知らないと答え、あとは完全に泣き出してしまったので、由未も追求を諦めた。
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