第10話

 夕方、彩乃とケンは高校生らしくカラオケボックスで話し込んでいた。

「ボクは同性愛だから差別される、みたいな風潮には賛成できないよ。テレビとかでも変な取り上げ方するしさ」

「理解あるようなこと言って、告白されてフッたくせに」

「そ、それはさ、…ボク個人の指向が女の子が好きだから……男の人に告白されても困るよ」

「同感」

「……」

「共感」

「……彩乃…」

「困った顔は、まあ、可愛いかな」

 彩乃はグラスからコーラを一口飲んだ。

「でもね、社会や国家が同性愛を冷遇するのは、やっぱり正しいかな。建前論や人権思想として同性愛を病気でない、治療を要さない、そして差別すべきでない、と論決していても、種としての人類は同性愛に対する心理的ハードルを高く設定しているべきだと、あたしは考えてる」

「……えっと…、理由は?」

「同性愛の素因を持つ人は統計によると1~5%ほど、いるらしいの。一学年100人としたら、1人から5人、けっこう多いよね。ケンの先輩も、そうだったわけだし」

「…5%…」

「別の調査では、もっと多い。これは思春期の女子に限っての調査だけど、同性に対して恋に近い感情をもったことがあるか、という質問に、なんと30%の女子がイエスと解答してる」

「さ…三十……って、クラスの女子の三分の一?」

「もっとも、この傾向は二十歳を過ぎる頃には消えてしまうって。その後は男性の同性愛者と割合は同じくらいまで下がる。この一時的な同性愛嗜好は、女子校や修道院などの閉鎖空間が原因であるか、もしくは男子との交際に備えた恋の練習なのかもしれない。不慣れなうちに男に近づくと危険って、本能が働いてね」

「……はしかみたいなものって言うやつ?」

「その喩えは実は、まったく的はずれ」

「そう、…なの?」

「まず、はしかは麻疹ウィルスによって発症するけど、その感染力はエイズウィルスなんて足元にも及ばない強さ、患者のそばに行くだけで、免疫のない人は、ほとんど感染する。だから、自然感染か、予防接種か、どっちにしても90%以上、先進国の識字率なみに、みなさん経験済みってわけ。おまけに一度かかると一生免疫がえられる」

「…へぇ…」

「でも、はしかを甘く見ちゃいけませんよ。簡単に治るなんてナメてると肺炎、脳炎になることもあるの。そうなったら致死率は1%」

「……1%って、それ高いの?」

「100人に1人が死んじゃう。けっこう高いと思うか、無視するかは自由」

「…ボクって…免疫あるのかな…」

「そして、はしかみたいなもの、なんて表現される女子の同性愛は経験者は全体の30%、うち25~29%が免疫をえるけど、また発症する可能性もあり、そして1~5%は一生治らない。ほらね、ぜんぜん、はしかと違います」

「なるほど……言われてみると、ぜんぜん違う…」

「不幸なのは、一時的な同性愛嗜好の女の子と、完全な同性愛指向の子が一線を超えちゃったとき、二人に待っている運命は明るいとは、言えない」

「……」

「あたしは同性愛指向は悪く言えば、癌。よく言っても、アポトーシスだと思ってる」

「癌ってことは……。アポトーシスって、遺伝子の指令で細胞が自壊することだよね?」

「ふ~ん♪ 賢いじゃん、はい、ごほうび」

 彩乃はチョコレートを一つ、投げてくれる。反射神経のいいケンは右手でキャッチしたけれど、あまり甘いものは好きではない。それでも、彩乃の手ずからもらった物なので口に含んだ。

「……」

「美味しい?」

「うん、まあ、普通に」

「…あっそ。アポトーシスにも個体発生での形態形成、体組織の恒常性維持において重要な働きがある。とすると、同性愛の発生原因は特定されていないものの、もしかしたら、個体または集団にとって、なにか重要な働きがあるのかもしれない。そして、それが無いのであれば、癌。ただし、良性の癌。ただ単に無駄にエネルギーを消費して、やがて死んでいく孤独な癌、ってね?」

「……同性愛ってさ、他の動物には無いの?」

「Good」

 ケンの質問で彩乃が笑顔になった。

「グッドよ、グッド・クエスチョン。いい質問ね、ケン。ちょっと好きになれそう。知性は身体能力、経済力と並んで男の三大要素。いい男の条件」

「ぃ、いぁ…、そんな…」

 ケンは誉められてテレる。彩乃はご機嫌になって話を続けていく。

「なんと同性愛と見受けられる行動が観察された種は1500種以上、そのうち確証をもって同性愛的行動があった種は500種。猿や昆虫、クジラなんてオス同士で精子のかけ合いが観察されてるの。すごいよね!」

「あ…えっと、うん、…、すごいね…」

「このことから、同性愛には何らかの必要性があるのかも、って考えられる。進化は常に多様性と淘汰を繰り返して億年単位でやってきた。飛ぶための羽、歩くための足、けっこうレアものな器用な手、みんな持ってるポンプ装置の心臓、一夫一婦制を築くのに都合がいい性欲だけじゃない恋愛、ちゃーーんと器官や機能、反応、反射、傾向およそ生物がもってる資質には何か必要性がある。必要性がなくなったものは、盲腸みたく縮こまる。退化も進化。ってことは同性愛って資質にも、もしかしたら、あたしたちの気づかない重要な働きがあるのかもしれない。たとえば、同一種が生態系内で爆発的に増えるのを防ぐためとか、でも、これは巧く機能しているとはいえない。ネズミもバッタも大繁殖しちゃう。そしてヒトもアホみたく増えすぎ、旧約聖書を書き殴った2600年前の人口なら同性愛は不要悪かもしんないけど、今は人口爆発。ゆえに、個体数抑制のための同性愛説は仮説の域を出ないし、その効果も疑わしい。じゃあ、他にどんな必要性が考えられる? たとえば、兵隊説、集団を守るための働き蟻、兵隊蜂に生殖機能は要らない。子供を残すことなく死んでいい。ギリシャの戦士たち、日本の戦国武将、みなさん男色家。でも待って、この説にも無理がある。だって、もしも単に子供を残すことなく死ねばいいだけなら、いっそ、性欲も恋愛も要らない。アンセクシャルでいい。実際に極端に性欲が少なくて、恋愛もしたことない人はいる。なんと、生涯を童貞、処女で過ごす人は総人口の15%と、意外に多い。兵隊説と個体数抑制説、どちらもアンセクシャルでいいのに、同性愛って資質は積極的に同性との関係を求める。求めてしまう。このことの意味は? 意義は? なにか必要性があるから淘汰されずに、あたしたちの中に残ってるの? 意味、意義、人が生きるための意欲について考えて。人はパンのみにて生きるにあらず、哲学、芸術、科学、どんどん発展してきた。この発展を促したのは食欲というより、恋愛の情熱を昇華させたもの。超マルチ人間だったダヴィンチ曰く、どんな仕事でも疲れないって。その彼は同性愛者だったとフロイトは結論してる。彼の仕事への情熱は抑圧された衝動の昇華が産んだのかも。彼だけじゃない現代哲学者フーコーは同性愛をカミングアウト、医学と考古学を哲学に取り入れた。アンデルセン、ワイルド、プルースト、偉業を成し遂げるには、どこかに欠乏感があった方がいい? だから、同性愛者こそが社会の発展に大きく寄与してる? でも、これもダメ。この仮説を有効なものにするには、異性愛者が偉人、天才という部門において同性愛者に数の上で劣る、もしくは質において劣ると立証しなきゃならない。だって、性欲と恋愛の欲求を満たさず、その情熱を昇華させることは異性愛者にだってできる。雨ニモマケズ恋ニモマケズ、宮沢賢治はエッチな浮世絵を収集して、友人と遊郭にも行ってる。けど、生涯童貞を守った。彼は性欲と精神労働が両立しないという信念のもとに、性欲と恋をガマンした。曰く、性欲の苦しみはなみたいていではありませんね。たまらなくなると野原へ飛び出しますよ、だって。性欲ガマンするために雨ニモマケズ野原を走って創作活動への情熱をキープ。建築家ガウディがサグラダ・ファミリアに取り組んだのは失恋の年、31歳。ニーチェが次々と大作を発表したのも、妹まで巻き込んだ失恋の後。曰く、プラトン、デカルト、スピノザ、みんな偉大な哲学者は結婚しなかった。結婚ならびに結婚を説き勧めるかもしれないものすべて忌み嫌う。結婚こそは、おのれの最善への道を塞ぐ邪魔者かつ災殃である、彼は恋しまくりの情熱家で音楽家ワグナーの妻に横恋慕したり、ちょっと散歩しただけの女性に求婚したりしてるくせにね。そして、彼らは同性愛者じゃなかった。独身ではあったけど、異性愛の情熱を昇華して精神活動の原動力にした。ってことは、やっぱり同性愛の必要性を立証するには、もっと別の説が必要。そう、同性愛が不要、不適応って説は簡単かつ信じたくなる説得力をもって語られるのにね。まず、非生産的つまり次世代をつくらない。さらに、性病が蔓延するリスクがあるのに、生産というメリットがない。おまけに、社会からの抑圧でイギリスの調査ではセクシャルマイノリティの3人に2人が鬱ったり、精神疾患もったりしてる。なんと思春期の自殺原因の30%が自分のセクシャルな悩みについて。自殺は明らかに不適応な行動なのにね」

 ようやく彩乃は一呼吸おいてコーラを飲んだ。

「ふ~……あっ、あたし喋りすぎ?」

「そ、そんなことないよ。と、とても興味深かった」

「……。まあ、眠くならないのはケンが、あたしに恋してるからって証明かもね。話の内容より、あたしの唇の動きに興味がいく」

「……。すごく、いろいろな考えを持ってるんだ?」

「考え……かな。……ありがと。話せて、すっきり」

「いい聞き手になれるよう努力するよ」

「女の子に、どういう男性が好き? ってアンケート調査すると一位にくる項目は何だと思う?」

「うーん……学歴、……給料……体力…、…やっぱ、外見かな?」

「正解は、優しい人」

「ああ、なるほど」

「わかった風に言うけど、優しいって、どういうこと?」

「優しい……だから、それは、思いやりがあって、……相手のことを大切にする、ってことじゃないのかな?」

「ある程度、正解♪」

「やった」

 素直に喜んでいるケンの前で、彩乃はポケットから出した電子辞書を叩いた。

「でもね、優しいって言葉の意味は、周囲や相手に気をつかって控え目である。つつましい。おだやかである。すなおである。おとなしい。温順である。悪い影響をおよぼさない。情深い。情がこまやかである。けなげである。殊勝である。神妙である。簡単である。容易である。わかりやすい」

「……けっこう意味が多いね。それにしても、電子辞書、いつも持ち歩いてるんだ?」

「淑女のたしなみですわ」

「ははっ…」

「思いやりの意味は、思いやること。想像。気のつくこと。思慮。自分の身に比べて人の身について思うこと。相手の立場や気持ちを理解しようとする心。同情」

「なるほど…」

「さて、すると、優しい人って解答した女たちが求めていることが明らかになってくる。わかる?」

「…えっと……気のつく男が好き?」

「もっと露骨に表現すると科学的になるよ。つまりね、あたしのことに気をつかって、控え目に、つつましく、おだやかで、言われたことは素直に聞いて、おとなしく、温順で、パチンコとか、競馬とか、アルコールとか、タバコとか、悪い影響をおよぼさないで、情深く、こまやかに、けなげに、殊勝に、神妙に、そして、簡単に扱えて、わかりやすい反応で、あなたは自分の身に比べて、あたしの身について思い、あたしの立場や気持ちを理解しようと、いつも、いつも粉骨砕身の努力をしていてね、って女は求めてる」

「ぅ…」

「さらにね、ケンが先にあげた学歴、収入、体力、外見、そんな条件は男を特定する時点で、とっくに女は選んでる。それらの条件は、ほぼ既定されていて変えられないことが多いから、期待してない。あなたに期待してるのは、優しさだけよ。もう、条件は選定済みなの、ってわけ」

「お…女の人って…けっこうシビアってのは聞くから…」

「可愛くないよね、こんな女」

「そ、そんなことないって」

「ううん、あたしは可愛くないと思う。さて、優しい人と解答する女が可愛くない理由は、何でしょうか?」

「ぅ…な…難問だ…」

「簡単よ。なぜって、惚れてくれてないから。恋愛が存在しないから、可愛くないの。条件と優しさを期待して結ばれようとするのは、とても実用的な動悸、プラグマティック・ラブ。よりよい結婚をして安定した家庭を築くための準備を粛々としてる女は、やっぱり可愛くない。恋をしてない女の子と、恋してる女の子、梅干しと梅の花くらいに違うって」

「……梅干しと……梅の花……」

「ね、ケン」

「は、はい?」

「あたしに、どんなタイプの男が好みか、訊いてみて」

「えっと、……彩乃は、どんなタイプの男が好み?」

「優しい人」

「……、ボクは彩乃のユニークなところ……好きかも」

「ウソウソ、あたしの身体と顔が好きなんでしょ?」

「そ、そんなこと…」

「じゃあ、あたしの身体と顔は、ケンの好みじゃないの?」

「あ、いや、それは、……好きだけど、……それだけってわけでも…」

「恋は視覚でするの。視覚が認識するのは、相手の姿形、そこに人間だと服装、身なりから社会階級と所得も反映されるけど、やっぱり一番見るのは顔、そしてプロポーション。デブも痩せすぎも、不細工もダメ。整った顔立ち、健康的な身体。健全な肉体に、健全な恋よ、宿れかし」

「……」

「興醒め?」

「そ、そうじゃなくて頭が追いつかないよ。どう答えたらいいのか…」

「ありのままのケンでいいよ、あたしも、ありのまま。でないと、今後の関係を継続するのに疲れるしね。一つ、いいこと、約束してあげる」

「どんな?」

「あたしはケンと付き合ってる間に、どんなハンサムな男が現れて、その人が知性的で、紳士で、スポーツ万能で、しかも、あたしに惚れてくれても、ケンを裏切ったりしない。誓って約束できる。ステキでしょ?」

「あ、ああ……嬉しい……マジで…」

「よかった。これは絶対に約束できることなの。なぜだと、思う?」

「……う~ん……わからない」

「あたしが、レっ…、レズビアンだから」

 ずっと流暢だった彩乃が一瞬だけ舌の操作をミスし、喉と胸のあたりで息を詰まらせ、数拍ほど余分に心臓を拍動させたけれど、ケンは気づいていない。彩乃は自分自身をカテゴライズする言葉を言い損ねて、羞恥心と罪悪感を合わせたような、修学旅行のバスで生理現象をガマンできず、自分一人のために、予定外のパーキングへ駐めてもらうような気持ちになってしまい、目が潤みかけたけれど、努めて冷静な表情をつくった。

「…」

 泣きそうになったけれど、泣きたくない、泣けば、もっとミジメになることがわかっている。鼻と胸の奥が熱く疼いた。ケンは言われたことの意味を理解するのに、数秒を要している。

「……あ、……そっか…」

「そういうこと」

 無理に微笑んで彩乃は続ける。

「最初の話、あたしは同性愛的行動についての心理的ハードルは高くしておくべきだと思ってる。人は両性愛的傾向を、ある程度持ってるとしても、ほとんどの人は自然と異性愛を選ぶ、完全なバイセクシャル、男も女も性欲の対象として、そして恋愛の対象にもできるバイセクシャルがいたとしても、それだけ器用なら、どうぞ異性を選んでください。そして、同性愛であっても異性との生活に耐えられるなら、耐えるべきだと思うの。逆に、社会が容認ないし促進してしまったら、バイセクシャルはもとより、まともだったはずの異性愛者まで影響されていく。朱に交われば赤くなる。わざわざ不適応と思われる同性愛を増やす意味はない。たとえ、それが恋愛でなくプラグマティックな愛だとしても、自分の遺伝子を残すべく行動するのが、生き物の正解だと、あたしは論決してしまった。恋愛は人生の一部でしかない、はずだから」

「……彩乃……、そんな顔で、……よく、それだけ喋っていられ……」

 ケンは多弁に語りながら涙を流す恋人を見て、ハンカチの持ち合わせがないことを後悔した。

「彩乃…」

「……ごめん……泣くつもりなんてないの……。トイレ、行ってくる」

 彩乃はボックスを出て、女子トイレへ入る。メールの問い合わせをすると、茂木から1通、由未からは7通もメールが来ている。

「由未…」

 7通とも、内容は彩乃の居場所を問い、連絡を求めている。返信はせずに、茂木からのメールを開いた。

(任務、失敗)

「モッチー…」

 彩乃は電話をかける。すぐに、茂木が応答した。

(ウチや)

「失敗って、どうなったの?」

(それがなァ……カタに嵌めるつもりが、ウチがカタに嵌められて泣かされてしもてん)

「泣かされたって?」

(蹴り入れられてな。ユミリン、マジギレしとって、ウチもマジ泣き入れてん。あんな泣いたん、小学校以来やで、ホンマ)

「……由未、怒ると怖いから…」

(怖すぎやで)

「それで、ケンのことは言えたの?」

(それは伝えといた。せやけど、半信半疑って感じやったで。ありえへんって顔しとった。せやから……あんたも気ぃつけた方がええで。かわいさ余って憎さ百倍、ウチみたいに蹴られるかもしれんで」

「そう……気をつけるね。それで、由未、その後は、どうしてるの?」

(ウチも怖いさかい、あんまり近づいてへんけど、あんたを探し回ってるみたいや。校内と街ん中、あんたの部屋の前、行ったり来たりしてんで)

「そっか……」

(どないすんの? もう日も暮れるで)

「由未には家に帰ってもらうから」

(素直に帰る雰囲気やないで)

「それについては考えるよ。じゃ、ありがと、モッチー。ごめんね」

 電話を終え、腕時計を見ると、午後7時過ぎ、外は暗くなりかけている。

「……。10時過ぎにしよ」

 彩乃は方針を決めると、顔を洗って、ケンが待っているボックスに戻る。ドアをあけると、ケンはあらたまって彩乃に頭を下げた。

「ケン?」

「謝っておきたいんだ」

「? 何かしたの?」

「何度も、彩乃の部屋にストーカーみたく行ったこと、悪いと思ってる」

「なんだ、そんなこと」

「自分でも間違ってるとは、わかってたんだけど、どうしても、話をしたくて……何度も……もしも、彩乃が……ボクが、しつこく部屋の前に押しかけたことで、……ボクと付き合いたくないのに、ボクと付き合うことにしたなら……、……そう、思って……。謝っておきたくて。ごめん」

「いいよ。気にしないで。ケンは正常な反応をしてただけ。ケンの立場なら、あたしの意志を確かめたいって思って当然。だから、謝らないで。そして、ケンの行動は、あたしの意志決定について重大な障害になったわけじゃない。……あたしは由未を好きでいることに……ピリオドを打つべきだと、論決していたから。むしろ、ケンの存在は助けになってくれてる。だから、その意味でも、謝らないで。誇っていい。ケンは恋の勝者なの」

「勝者って…」

「……」

 それ以上、彩乃は自分たちの特殊な三角関係についての話題は避け、当たり障りのない会話で時間を過ごし、10時前になった。もう一度、女子トイレに入ると、ケータイを見つめる。また、由未からメールが5通も入っていた。

「……」

 彩乃はメールを打ち始めた。

(あたし、由未の家に来てるの)

 それだけ打って送信するとポケットに入れた。これで、由未は自宅へ戻るはずで、しかも10時過ぎに帰宅した娘を外に出す両親ではないと感じている。先週など、ほとんど由未は自宅で眠っていない。いくら、相手が女子で、それなりの外泊の理由をつけていても、さすがに今夜、この時刻に帰宅して再び外出できるはずはなく、また、メールを受け取った由未は真っ直ぐに帰宅してくれると確信できる。

「我ながら、あくどい策ね。ごめん、由未」

 謝って、少し泣いた。

 

 翌日、火曜。夜明け前になって、ようやく眠りに落ちることができた彩乃はチャイムの音で起こされた。

 ピンポーン♪

 見に行かなくても、由未だと、わかっている。

 ピンポーン♪

「……」

 彩乃は制服を着た。そろそろケンと約束している時刻になる。玄関で靴を履いて、ケンを待った。

(あなた、また…)

(……)

 足音と由未が気色ばむ様子でケンが来てくれたことを確信して、ドアを開けた。

「彩ちゃん!」

「ごめん、由未。あたし、ケンと行くから」

 決めていたセリフを吐いた。

「っ…」

 由未が表情を凍りつかせ、血の気を失った。

「……彩ちゃん? ……どうして?」

「ごめん」

「……わからない。……わからないわ!! ごめんって、どういうこと?!」

「それは、つまり……ケンと付き合うことにしたから、……ごめん」

「……」

 昨日からの不安が現実化して、由未が茫然と立ちつくしている。彩乃は鍵をかけて、由未に背中を向けた。ケンは黙ってついてきてくれる。マンションを出て、学校へ入ると、すぐに自分の教室には入らず、ケンのクラスで時間を過ごし、予鈴が鳴り、本鈴が鳴るのと同時に本来の教室へ出席する。教師と同時に定位置へ着いた。

「……」

「……」

 隣席の由未が、ずっと視線を送ってくるけれど、顔を合わせることなく、一限目の教科書を机から出した。初めて、学校から支給された教科書を開いて、授業を受ける。休み時間になると、必ず、ケンの教室へ逃げ、由未を避けた。二限、三限、四限、そして、昼休みもケンの教室で過ごす。茂木がC組の雰囲気を巧くコントロールして、彩乃とケンをひやかすことのないようクラスメートを押さえてくれている。

「……」

 彩乃は目立たないよう静かにケンの隣で、見てもいない参考書をめくっている。茂木はクラスメートと会話しながら、それを横目で見守っていたけれど、教室に由未が入ってきたので、緊張した。

「……」

「……」

 張りつめた弓の弦よりも危うい顔の由未を見て、茂木は制しようという気力が萎え、ケンカの優劣が決まっている猫が、強い猫を恐れるように腰が引けて、彩乃との間に立ってやることができなかった。由未は真っ直ぐ、彩乃とケンへ近づいてくる。教室にいる女子の大半がケンと由未が付き合っていたことに勘づくなり、ウワサで知るなりしていたし、男子でも耳の早い数名は知っていた。そして、二週間前に転校してきた彩乃がケンに急接近したことも、今日になって、とうとう当然のように教室でケンと過ごしていることも意識している。大半のクラスメートが自分のことではない恋愛沙汰に強い興味を持ちながらも、見て見ぬフリをしている中、由未は二人の前に立った。

「……」

「……」

 彩乃は自分を庇って間に立とうとしてくれたケンを制して、由未と対峙する。

「……」

「……」

 さらに一歩、由未が距離をつめた。

「歯を食いしばって、目を閉じなさい」

「…」

 彩乃は言われたとおりにして、身体の力を抜いた。

「「……」」

 殴打を待っている彩乃へ、さらに一歩、由未が近づく。

「「……」」

 由未が彩乃にキスをした。

「っ…」

 教室の空気が凍りついて、時間が止まった。

「んっ…」

 硬直している彩乃の唇を吸って、食いしばっていた歯に由未の舌が滑り込んでいく。キスが深くなり、由未は彩乃を抱いた。

「……んんっ…」

 彩乃は目を開けて、正気なの、みんなが見てるのに、と目で問いかけたけれど、由未は抱きすくめてキスを続け、凍っていた教室の空気が異様な沸騰をむかえても、キスをやめない。

「「……」」

 騙し討ちのキスで圧倒された彩乃は、まともな思考ができなくなってくる。キスで感じる由未の唇と舌の感触、息をすることもできず、抱かれて重ねた身体の存在感、そして、耳から入ってくる教室の空気の波、ひそひそと、それから、ざわざわと、生徒たちが何か言っている。呼吸ができない。低酸素状態を強いられた彩乃の脳がパチパチと火花をあげて、そのまま気絶しそうになるころ、ようやく唇が離れていった。

「んっ…ハァ…ハァ…ハァ…」

「…ハァ………ハァ…」

 吐息がぶつかり合い、由未が見つめてくる。もう一度、キスをしようと顔を寄せてくる。

「っ……やめて!」

 彩乃は両手で由未を突いて、距離をとった。

「…ハァ……ハァ…」

「放課後、話があるわ。必ず、会って」

 キスをしかけた由未は冷静といっていいほど、表情がなく、淡々と告げている。

「必ず、会って」

「……ハァ……ハァ…」

 よろめいた彩乃をケンが背中から支えてくれた。

「彩乃……」

 ケンが名前を呼ぶと、それを聞いた由未は見えない鞭で胸を撃たれたようにビクリと震い、目を潤ませて彩乃を見た。

「彩ちゃん…」

「……ごめん、由未。…お願い、今のキスで最後にして」

「っ……。放課後、必ず、会って」

 一瞬、声を上げて泣き出しそう悲痛な顔をした由未は嗚咽を飲み込んで、用件を繰り返した。

「……っ…」

 彩乃は、この場にいることに耐えられなくなり、あてもなく教室を飛び出していく。ケンが追い。由未は残った。

「……」

 一人になると、雑音が入ってくる。

 クラスメートではない生徒たちが、何か言っている。

「……」

 由未は全員を睨み殺すように見すえ、警告する。

「私について、どう思ってもいいわ! けれど! もしも、彩ちゃんを、彼女を傷つけるようなことをしたら、その人は殺すわ! 私がッ!! 必ずッ!! 殺すッ!!」

 教室が静まりかえった。

 ひやかしと好奇心に対して、強烈な殺意と憎悪を露わにし、由未の言う、その人は単数的なものでなく、むしろ今ここにいる全員、さらには、世界のすべてに向けられた布告だった。世界中のすべて、相容れない者すべて、抹殺してでも、たとえ、世界が二人だけになってもいい、それが由未の結論だった。

「……」

 殺す、議論の余地などない、まさに問答無用の敵意を撒き散らした由未が、教室を出て行っても、しばらく、誰も話そうとしなかった。

 

 あてもなく教室を飛び出した彩乃は気がついたら、自分の部屋の前に戻っていた。

「彩乃…」

 追ってきてくれたケンが心配してくれている。彩乃はドアを開けた。

「ケン…入って…」

「ぁ、ああ」

 久しぶりに部屋へ招かれ、ケンは返事らしい返事ができず、彩乃の背中を追って部屋に入った。彩乃はベッドに倒れ込む。

「…あたしは、自分と由未を大切にしたいから、由未と別れるの…」

「……」

「自分も、由未も、ね」

「……」

「でも、もしも、自分と由未、どっちが大切って訊かれたとき、あたしは……わからない」

「し…真藤さんは……、彩乃のこと……、……二人とも、…」

「……相思相愛……、不毛な……想い……」

 彩乃は目を閉じて、唇に触れた。

「あんなキスを、あんなところで、しかも、あたしを欺して、無防備にさせて、…ふふ……由未、策士ね……、てっきり叩かれると思って、…モロに欺されたよ…」

 涙が耳のあたりで汗と混じった。

「……。ケン、……キスしてみて」

「……自分を大切にするんじゃなかった?」

「……ありがと」

「どういたしまして」

「でも、チャンスを逃したね」

「……。そうでもないよ」

「…。どうして?」

「彩乃が、ちょっと元気になってくれた」

「……」

 はにかんだ微笑をして、彩乃は起きあがって、冷蔵庫から冷たいオレンジジュースを出した。二つのグラスに注いで、一つをケンの前に置く。

「ありがと」

「あたしは放課後までに考えないといけない」

「……なにを?」

「なるべく、由未を傷つけないで別れる方法。きっと、ここに由未は来る」

「……」

「そのとき、ケンがいてくれる方が、いいのか、帰ってもらった方が、いいのか。……いっそ、既成事実をつくちゃった方が……とも、思ったけど、それは却下。別れることはできても、由未を傷つけすぎる。あたしの生き方にも合わない。ただ、黙ってケンにいてもらうか……それとも、由未と一対一……さっきの感じだと腕力でも負けてるし……押し倒されそう」

「ボクがいた方がいいなら、いるし、いない方が、いいなら、帰るよ」

「どっちが、いいと、ケンは思う? 由未のためには、どっちが、いいか、ね。由未の傷を深くしないで、かつ、確実に別れる方法」

「……二律背反……」

 ケンは考え込み、それから答える。

「ボクがいなくても、彩乃の意志は固いから、きっと、ボクがいない方がいいよ。二人で、ちゃんと話し合ってみて」

「話し合って……ね。ってことは、押し倒されない方法を考えておかないと……」

「……」

 ケンとしては、いたいという気持ちもあったけれど、つい先週までは彩乃の部屋を訪ねて追い返されるのはケンで、追い返すのは由未だった。その立場がキレイに逆転してしまうと、どれだけ彼女を傷つけてしまうか、想像に難くない。ケンが在室していることは避けた方がいいと、思えた。

「……」

「……」

 昼休みが終わるチャイムを聞こえてくる。彩乃は学校へ戻る気はなかった。

「ケンはサボらないで行って」

「……。その方がいい?」

「いい」

「わかった」

 ケンが退室してくれると、彩乃はドアに鍵をかけた。ポケットからケータイを出して机の上に置いておく。何度か、学校からのチャイムが聞こえてきて、放課後になった。

 ケータイが鳴った。

 着信表示は由未。

 彩乃は電話をとった。

「…もしもし」

(どこにいるの?)

「……。…話なら、このまま電話でしようよ」

(会って話したいの)

「……」

(そこ、彩ちゃんの部屋ね?)

「……どうかな」

(行くわ)

 電話が切れた。

「……雲行き、怪しいなァ…」

 外を見ると、ぶ厚い雲が流れている。夕立か、本降りになるか、どちらにしても雨は降りそうだった。

 ピンポーン♪

 チャイムが鳴った。

 彩乃はベッドから立ち上がって、玄関に向かった。

「……」

 コンコンっ

 部屋の主でありながら、外に向かってノックして、ここにいることを相手に伝えた。それから、少し大きめの声で問いかける。

「話って?」

(……。開けて)

 ドアの向こうから由未の声。

「このまま話して」

(顔を見て話したいの)

「……」

(開けて、お願い)

「……ごめん。このまま話して」

(……。彩ちゃん、あの男のこと、……好きでもない……はずよ)

「…嫌いでもないよ」

(……どうして、あんな男を選ぶの? 私は彩ちゃんが好きなの。彩ちゃんも、私のこと好きでいてくれるはずよ。なのに、……なのに、どうして?!)

「あたしが…女で……由未も……女の子だから」

(そんなの関係ない!!)

「……。関係ある、あたしと由未は意見が違うみたい」

(っ…、……お願い、顔を見て話して。ドアを開けて)

「……」

 彩乃に鍵を開けるつもりはなかった。このままの籠城戦を決めている。

「由未。あたしの考えてること、わからないの?」

(わかるわ! でも、そんなの関係ない!!)

「わかるなら、わかって。あたしは自分にも、由未にも、まともな道を進んでほしいの。どんなに……好きでも、ダメなものはダメ」

(ヤダっ! 彩ちゃんと、いっしょにいたい!!)

「あたしがイヤだって言ってるの。あたしが嫌がること、由未はするの?」

(彩ちゃんがイヤだって言ってもヤダっ!!)

「由未……」

(開けて! お願いだから開けてよ! せめて顔を見て話して!)

「……」

(ひどいっ! ひどいよ!! 拒絶するなら最初からっ! 最初から私の前に、どうして現れたの?! 忘れてたのに!! どうして今さら転校して来て!! 今さら拒絶するの?! ひどい! ひどい!! ひどい!!)

 由未が叫んでドアを叩いている。ひどい、ひどい、と叫ぶ度に、ドアが震動して、その衝撃が彩乃の手にも伝わってくる。その手が涙で濡れた。けれど、泣き声は出さない。

「ごめん、由未。あたしだって、こんな風になるとは思ってなかったの。ただ、昔の由未が今は、どうしてるかなって。気になって……それだけだったの)

(ウソよ!! 私が好きだったから戻ってきたって!! そう言ったわ!!)

「……その好きは………今ほどの好きじゃなかったの……わかるでしょ?」

(違う! 違うわ! 彩ちゃん、自分のことわかってない!! 私のこと好きだったから、私から男を取り上げたのよ!! そうでしょ?!)

「っ……。……そう……かもしれない……ごめん」

(ひどい!! こんなっひどいことないわ!!)

「……怨んで、嫌いになって…」

(イヤっ!! 彩ちゃんが好きっ!! 好きだからっ開けて!!)

「……。由未が怒るなら、ケンとは付き合わない。けど、……由未とも離れるべきだと思うの。わかって、お願い」

(ヤダっ! 離れたくない!!)

「ごめんなさい。由未がヤダって言ってもイヤなの。まともに生きてほしいの。きっと、不幸になる。だから、ダメ」

(不幸なのは今よ!! 彩ちゃんが会ってくれないのが一番不幸!! 彩ちゃんさえいれば幸せなの!! どうして、それがわからないの?!)

「……。お互い、考え方……ぜんぜん違うみたい……やっぱり、さよなら、するしか、ないね。ぜんぜん無理みたい」

 彩乃は少しドアから離れる。

「じゃあ、さよなら」

(……。せめて、さよなら、くらい顔を見て、言ってよ)

「……」

(顔を見たら、決意が揺らぐの? その程度の決意で私を捨てるの?)

「……」

(最後に顔くらい見せなさい)

「……」

 彩乃が鍵を開ける。

 カチッ…

 その瞬間、ドアが音を立てて強く引かれたけれど、チェーンロックが全開を阻んだ。

 ビーン!

 強く引かれてチェーンが空気を鳴らしている。

 由未の手がチェーンを握った。

「開けてよ!! ちゃんと開けて!!」

「顔は見えるよ。これでガマンして」

「開けて! 開けてよ! 彩ちゃん! 開けて!」

 チェーンを握ってガチャガチャと強く引いたり押したりしている。由未の手首がドアとドア枠で摩擦するために赤くなっていく。それでも、やめない。

「開けて! 彩ちゃん! 開けて!」

「……開けたら、何する気だったの? さよなら、するって言ったよね」

「開けて!! 開けて!! 開けて、開けて!! 開けて!!」

 手首の皮膚が擦れて血が滲んでいる。

「由未、さよなら」

 彩乃はドアの隙間から一瞬だけ由未と目を合わせて、もうドアから離れる。いつまで、そこにいても開ける気はないという意思表示に対して、由未が叫ぶ。

「開けてくれないなら死ぬからっ!!」

「……お願い、死なないで幸せになって」

 彩乃は振り返って、ドアから離れたまま、他人行儀に頭を下げた。

「本当に、ごめんなさい。今さら、ひどいことしてるって、わかってる。でも、まともに生きてほしいの。由未にも自分にも、そう決めたから、だから、別れるの」

「……。……」

 プッ…パラ…パラ…

 何か、軽い物が落ちて、転がる音がした。

 彩乃が訝しんで顔をあげると、チェーンを握っている由未の手首からブラウスがさがっている。音は落ちたボタンの音だった。

「由未っ?!」

「開けて」

 由未がチェーンを揺すって、今度は外からスカートを脱ぐ音がして、チェーンを持っていない方の手で、脱いだスカートを彩乃の部屋に投げ込んだ。

「なっ、なにしてるの?!」

「開けてくれないなら、ここで裸になるから」

「なっ…」

 彩乃が驚いているうちに、ブラジャーがチェーンを握っている手の手首まできて、チェーンを持ちかえると、ブラウスとブラジャーが玄関に落ちた。靴と靴下も、蹴り込まれてくる。

「ハァ……ハァ……早く…開けて…」

「由未、待って! ちょっと、ストップ!」

 彩乃はドアに駆け寄って、チェーンを握っている手へ両手を重ねた。

 ドアの外には、ほとんど裸になっている由未が見える。あとはショーツ一枚と、彩乃が送ったネックレスくらいしか身につけていない。

「…ハァ……ハァ……」

 由未は不安と緊張で顔を青くしている。外は、まだ明るく、いつマンションの住人が通りかかるか、わからない。

「開けて」

「由未……」

「私には、彩ちゃんしか、ないの」

「……」

「ずっと決めてたの」

「……ずっと、って?」

「私、彩ちゃんのこと想い出せなくなってたけど、でも、ずっと決めてたの。小学校にあがったとき、友達は作らないって。彩ちゃん以外の人はいらないって。そう決めて生きてきたの。だから、中学校でも高校でも、ずっと一人で待ってたの。ずっと、待ってたの」

「由未……」

「その彩ちゃんが、私をいらないっていうなら、私も私がいらないわ。何もかも捨ててしまうから」

 そう言って由未がショーツを脱ごうとする。彩乃はチェーンを握っている由未の手を強く握った。

「手を離して。開けるから」

「彩ちゃん……」

「見ぃ~つけた♪」

 突然、彩乃の背後から声が響いてきた。

「「っ?!」」

 誰もいないはずの自分の部屋で背後から声がした驚きで、彩乃は腰が抜けて座り込み、由未はドアの隙間へ顔を押しつけて中の様子を知ろうとする。

 部屋には、一人の少女がいた。

「やっと見つけた。ふにゅ♪」

 少女は腰を抜かしている彩乃の鼻を指でつまんだ。

「可愛いハナ。イメージ通り♪」

 クスクスと嗤う少女は長い黒髪をしている。長い、とても長い。立っていても足首まである長さだった。なぜか、スクール水着を着ていて、素足に革靴を履いている。

「~っ…離して!」

 驚きのあまり鼻をつままれたままだった彩乃が、やっと手を払った。

「ハァ…ハァ…」

「はじめまして。私は佐々野美喜梨。あなたのお名前は?」

「……小林彩花よ」

 彩乃は腰を抜かしたまま、それでも、偽名を名乗って、背中に回した手に拳銃を握っている。美喜梨と名乗った少女は明るく軽い調子でクスクス嗤いながら喋っているけれど、油断できない相手だった。なにより、いきなり部屋に現れている。

「彩ちゃん! 誰なの、その人?! 敵っ?!」

「美喜梨ちゃんは無敵なのだ♪」

 少女が消えた。

「ふにゅ♪」

「っ?!」

 由未は背後から左右の乳首をつままれて驚きのあまり身震いした。

 振り返ると、そこには美喜梨がいる。

 さっきまで部屋の中にいたはずなのに、今は由未の背後。ふにふにと、弾力を確かめるように由未の乳首をつまんでいる。

「お外で、すっぽんぽんなんて、どうしたのかな? イジメ? それともプレイ中? 露出が趣味なのかな? キレイだけど、美喜梨ちゃんの好みじゃないかな~ぁ」

「な……何なのっ、あなたっ!!」

 美喜梨を殴ろうとしたけれど、由未の手は虚しく空気を切った。

 また、消えている。

「……」

「こっちなのだ♪」

 部屋の中、彩乃の前にいた。

 彩乃は銃口を美喜梨に向けた。

「い……いったい、あたしたちに何の用があるの?」

「美喜梨ちゃんはね、彩花ちゃんを殺しに来たのだ♪」

 また、消えた。

「ふにゅ♪」

 今度は彩乃の背後から、手を回して彩乃の鼻をつまみ、そして、また消える。

 しかも、美喜梨だけでなく、鼻をつままれていた彩乃まで消えてしまった。

「あ……彩ちゃん?! 彩ちゃん?!」

 由未が叫んでも返事はない。背後にも、部屋の奥にもいない。

「彩ちゃん?! どこなの?!」

 やはり返事はない。

「ど……どうなってるの?! ねぇ!! 彩ちゃん?!」

 返事も姿もない。美喜梨も現れない。

「…彩ちゃん……ハァ……ハァ……」

 頭が混乱している。

「……お、……落ちつくの……落ちつくのよ。どうすれば……いいか……考えるの……考え……消えたのは……あの能力…照空……」

 泣きそうになるのをガマンして必死に考える。

「……リリィさんに連絡…」

 連絡先を知らない。住所も四国の山中としか、わからない。こんなことならクルマで送ってもらわず、公共交通機関で行っていれば、ある程度の位置はわかったかもしれないのに、山中の寺というだけで短時間に探し当てるのは無理だと思える。

「あのミキリって子は……きっと、敵……彩ちゃんを殺すって……。助けなきゃ……でも、どうやって……方法……それに、どこに行って……。味方になってくれそうな……能力のある人に……あのクルマバカの連絡先も……、船井さんっ!」

 混乱しそうになる頭を叱りつけて、由未は恋人を助ける手段を懸命に考えていく。そして、走り出した。

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