第11話


 夕方、喫茶店の窓辺でコーヒーの香りを楽しんでいた船井は、昭和の侍映画を見せられたような気になった。

「……」

 雨の中を、がむしゃらに走ってきた若武者の炯眼は槍のように光っている。その手には長尺の和弓、背には矢筒、頭は髷を思わせるポニーテール、そして裸といっていいような軽装。映画のワンシーンかと思ったが、目が合うと喫茶店に押し入ってくる。

 驚いている店員を無視して、弓を握ったまま、船井がいるテーブルまで駆けてくる。

「ハァハァっ!」

「……」

 若武者と思ったのは見覚えのある女子高生で、雨に濡れたブラウスはボタンが無くなっていて、ブラジャーをつけていないことがわかる。ただ、彼女を見た者に、色気よりも殺気を感じさせる勢いがあった。

「助けてっ!」

 ほとんど反射的に船井は自分のシャツを脱いで由未に羽織らせる。着痩せする船井の隆々たる上半身の筋肉が顕わになった。

「彩ちゃんが掠われたの!! 船井さんっ、あなたも力が使えるんでしょ?!」

「まずは落ちついて…」

「落ちついてるわ!! ちゃんと武器もあるの! あなたなら感じられるはず! お互いを引き合うって! 何か感じるでしょ?! 彩ちゃんの居場所! どこなの?!」

「……」

 よくも、警察の職務質問を受けずに走っていられたと、その幸運に驚嘆しつつも、こんなカッコで街を走ってきた相手に落ちつけという方が愚かだったと、船井は説得の方法を変える。

「力というのは、この手品のことかな」

 上半身裸の船井が何も持っていなかったはずの手に、きちんと畳まれたバスタオルを持った。それを広げて由未の下半身を包んでくれる。さらに、由未に羽織らせてくれたのと同じシャツが、またも何も持っていなかったはずの手に現れ、今度は自分で着た。

「スカートの持ち合わせはなくてね。シャツも男物しかない」

「やっぱり……、お願い! 彩ちゃんを助けて!」

「場所をかえよう。目立ちすぎている」

 船井は店員と客に注目されているので、あえて手品を披露するように指をクルクルと回してから紙幣を出現させ、レジに置いた。

 外へ出ると、ビルとビルの隙間に由未を促した。うまい具合に、庇があって雨に濡れずに済む。

「それで、どういう状況でオレに助けをもとめてくれているのかな?」

 今度こそ船井は詳しく由未から説明を聞いて、状況を認識した。

 そして、由未の期待を裏切ってくる。

「悪いが協力はできない」

「っ、どうしてっ?!」

「お嬢さんの友人を掠ったのは、身の丈ほど長い黒髪の女の子だったと言ったが、あれは魔物のたぐいだ。協力はできない」

「どうして?! あなただって同じ力が使えるんでしょ?! 照空できてる! 何もないところへ、入れたり出したり!」

「照空……そう呼んでいるのか……」

「そうよ! 空を照らすから照空! 知らなかったの?!」

「いや、オレは空間を変質させているみたいなので、変質の力、と勝手に思っているだけで、そもそも同類に会うこと自体少ない。たまたま出会っても、あまり友好的な会話をしたことはない。あの子がオレをこころよく思っていなかったようにね」

「彩ちゃんは、誤解してるだけよ! その前に出会ったのが最悪なヤツだったから! でも、リリィさんみたいに、ちゃんと話せる人もいるわ!」

「話せる人もいる……か」

「お願い! 助けて! 彩ちゃんが殺されちゃう!」

 由未が涙を零して懇願するので、船井は肩を叩いてなだめてくれる。

「だが、あれは魔物でね。魔王といってもいい。オレに太刀打ちできるとは思えない」

「そんなことないはずよ! あなたは強いもの!」

「素手の勝負でルールがボクシングや陸戦技なら、一瞬で勝ってみせるがね。正直、お嬢さんの友達にだってオレは勝てないかもしれない。なにしろ、銃を持ってない」

「ウソよ! あなた自衛隊員だって言ったわ!」

「隊員が好き勝手に武器を持ち出せると思うのかね? シビリアンコントロールを知らない歳でもないだろう」

「照空できれば、簡単でしょ!」

「数量を管理していないと思うかね? 補給科の所属なら誤魔化しも効くだろうが、オレは陸幕づきのレンジャーでね。実弾訓練は多いが、必ず銃器は回収される。お嬢さんの所属している弓道部とは、わけが違うさ」

「でも……武器くらい…」

「オレの武器は、ぜいぜい、これくらいだ」

 船井は一瞬だけアーミーナイフを見せてくれた。

「こいつで十分に護身くらいできると考えてたんだが、まさか女子高生が拳銃、それも二丁も所持しているとは思わなくてね」

「彩ちゃんを掠った人は、銃を持っていなかったわ!」

「お嬢さんが見たところ、持っていなかったが、持っていないとは断言できない。おまけに、銃を持っていた女子高生を一瞬で掠ってしまった」

「……。……お願い、協力して…、…お願いします」

「困ったな。……ナイフで戦車に勝てと言われているようなものなんだが、わかってくれないかな」

「私も戦うわ! いっしょに!」

「……。戦力外通告を出したい。むしろ、足手まといになる」

「……。……もう頼まない。でも、せめて場所を教えてちょうだい。あなたなら感じるはずよ!」

「……」

「その顔は、わかってる顔よ!」

「やれやれ……。わかった。オレも男だ。女性の頼みを無碍にはすまい。それで死んだら本望というやつだ。ただし、条件がある」

「どんなっ?!」

「オレが勝てたら、お嬢さんが欲しい」

「……」

「あくどい条件だが、実は成功率は低い。たぶん、オレは死ぬ。だが、お嬢さんが戦いを挑んで勝てる確率よりは、はるかに高いと自負してる。さて、どうするね?」

「……」

「惚れた女のために死戦へ征くのさ。このくらいの要求、いいだろう?」

「……惚れたって、……あなたが……私に? ……冗談でしょ?」

「冗談でオレは何日も、お嬢さんの周りをウロウロしていたわけじゃない。どうにか、口説くきっかけがないかと、腐心していたんだが、どうにも、お嬢さんは男に興味が無いらしい。となると、口説くのは無理だ。だから、この条件、というわけさ」

「……」

「どうするね?」

「……私が、……あなたを軽蔑すると思わないの?」

「思うが、仕方ない。欲しいものは欲しい。心までは奪えなくても、身体だけでも手に入れたい」

「……」

「おとぎ話でも、よくある条件さ。さて、プリンセス。もう一人のプリンセスを救うために、悪魔の騎士を雇い、魔王に挑ませるかね? 答えを聞こう」

「……」

 こうしている間にも彩乃が殺されてしまうかもしれない、掠ったからには、すぐには殺さないかもしれないけれど、殺すと言ったからには殺すのだろう、由未は決めた。

「その条件を飲むわ。だから、必ず勝ってちょうだい」

「御意」

 船井は慣れた動作で敬礼してくれた。そして、折りたたみの傘を渡してくれる。

「お嬢さんは家へ…」

「私も行くわ!」

「その弓を持ってかね。ここまで、よくも警官に職質されなかったと奇跡的だと思うのだが…」

 もっとも、武器の所持というよりは、さっきまでの衣装が職質の対象かな、というセリフは飲み込んで肩をすくめる。由未は目立つ武器を船井へ押しやった。

「これは、あなたが隠していて」

「どうやって?」

「照空すればいいでしょう」

「……。オレは、だいたい50センチくらいの物しか扱えないんだが…」

「…だから、釣竿を持ち歩いて…」

「いかにも」

「彩ちゃんなら、手に持てる物なら何だって無限に…。リリィさんなんか、軽自動車までならって…」

「空恐ろしい魔女たちだ」

「……。あなたの力は、あまり……強くないの?」

「微力を尽くして戦って参りますとも、お姫様。ですから、どうか、お城で待っていてくださいな。申し上げるのも二度目になりますが、やはり足手まといなのですよ。どうか、作戦成功のために、ご自重ください」

「……」

「行って参ります」

「……」

 小降りになってきた雨の中、船井が走っていく方向を、ずっと由未は見ていた。

 

 彩乃はジェットコースターでくだるときのような浮遊感の後、さっきまでいたマンションから、まったく知らない場所にいることを認識するのに数秒を要していた。

「……」

「ふにゅふにゅ」

「……離して!」

 まずは鼻をつまんでいる美喜梨の手を払い、それから周囲を見渡すと、何かの工場のような施設だった。すでに倒産したのか、閉鎖されたのか、人の気配はなく、設備は錆びている。高い天井は半分が崩れて、暗い雨空が見える。雨の匂いと鉄さびの匂いに混じって腐敗臭がした。

「……っ…」

 すぐそばに死体が一つ。彩乃と同じくらいの年齢の少女で、すでに死んで何日か経っている様子だったが、身体に傷は無い、手足に縛られた痕が見てとれた。

「……」

「彩花ちゃんも、そうなるよ」

「……殺さないで、ってお願いしてもダメ?」

「ダ~ぁ~メ♪」

「……」

 彩乃は黙って両手にグロックを握った。それを美喜梨に向ける。

 美喜梨は珍しそうにグロックを見つめてくる。

「それって、オモチャ?」

「オモチャに決まってるって。でも、当たると痛いよ。だから、あたしに近づかないで。あたしも黙って殺されるのはイヤだもん」

「ふ~ん……でも、殺すね」

「お前が死ねッ!」

 彩乃が撃った。

 爆ッ! 爆ッ!

 二人の距離は1メートルもない至近、彩乃の腕前でも外さない自信があったし、不意も突いた。なのに、射線から美喜梨は消え、弾は工場の壁に当たってしまった。

「後ろなのだ♪」

 コツッと美喜梨は背後から彩乃の頭をつついた。

「っ!」

 爆ッ!

 彩乃は振り向いて発砲したけれど、すでに美喜梨はいない。また、弾は当たらずに積み上げられた資材が埃を立てている。

「またまた後ろなのだ♪」

「くッ!」

 また、後頭部をつつかれ、今度は振り返らずに、彩乃は肘を曲げて、両手のグロックを肩のところで、狙いもつけずに後ろへ撃った。

 爆ッ爆ッ!

「くっぅ~」

 彩乃は爆音で耳を、反動で両手首を痛め、呻いた。

「遅い遅い♪」

 美喜梨は余裕綽々で彩乃の目前に現れ、嗤っている。

「くっ……」

 明らかに、美喜梨は瞬間移動している。それも、ほとんど瞬時に彼女がイメージした通り、さらに、ここへ連れてこられたこと自体で、彩乃までも瞬間移動させられるらしいと洞察できる。

「……」

「シンキングタイム? さ、次は、どうするの?」

 瞬間、彩乃の目には美喜梨が巨大化したように見える。

「っ?!」

「今度は前なのだ♪」

 瞬時に距離をつめていて、彩乃の鼻にキスをされた。もはや、拳銃の間合いではなく、取っ組み合いの距離で、彩乃はグリップで殴りつけようとしたけれど、やはり虚しく空気を切る。

「くそっ!」

「女の子が、そんな下品なこと言わないの」

 また、背後から、軽く背中を突かれて彩乃はバランスを崩し、二歩ほど前によろめいた。反射的に振り向いたけれど、その振り向いた後の背後から、また突かれる。今度こそバランスを崩して転けてしまった。

「くッ…」

「怒ってる? ムカついてる?」

「……」

「それとも、泣きそう? 怖い?」

「……っ!」

 彩乃は飛び起きて右手で美喜梨を狙い、撃つ。

 爆ッ! 爆ッ!

 同時に左手で自分の背後も撃っていた。

「あ~♪ 残念、今度は上でした」

「っ?!」

 頭の上、天井から声がして、彩乃が見上げると、美喜梨は何もない空中に立っている。

「浮いてるの?!」

「ううん、靴の底だけをね、あっちに入れたまま、靴の底から上は、こっちにするの。ほら、こんな風に歩けるよ」

 美喜梨は空中を歩いている。よく目を凝らすと、本来の歩行で着地すべきタイミングのときだけ、靴底が消えている。

「……そんな…色と空の、はざまで……物を空間に固定するなんて…」

「できないの? 瞬間移動もできないみたいだし、ぜんぜんダメダメ♪ 美喜梨ちゃんには勝てそうにないねぇ。ふにゅ♪」

 空中から消え、また目前に現れ、鼻をつままれる。

「このッ!」

 殴りつけようとしたけれど、また消えられた。

「ワンパターン♪」

「……。うわあああああああああああああ!!!」

 彩乃が絶叫して発砲する。

 前後左右、狙いなどつけず、メチャクチャに撃っている。

 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ!

 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ!

「きゃはははは♪ こっち、こっち♪」

 美喜梨は現れては消え、消えては現れる。前後左右、そして上、どこに現れるか、わからないので、どこへともなくメチャクチャに撃つ。

 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ!

「鬼さん、こちら、手の鳴る方へ♪」

 手を叩いて誘ってくれるが、そこを狙っても遅い。もっと早く、現れる前に、現れそうなところを撃っておく。

 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ!

「当たれェ!!」

「外れ♪」

「わあああっ!!」

 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ! 爆ッ!

 銃声が止まり、急に静かになった。

「……」

 手首が痛い、骨が軋むほど、痛い。

 彩乃の右手からグロックが滑り落ち、コンクリートの床に転がった。すでに、弾は切れ、ブローバックしたまま、熱くなっていて、雨のために少し濡れて湯気をあげている。

「…ぅ…っ……ぅ…ぅ~…」

「あ、泣いた♪ 泣いてる、泣いてる」

「…ぅ……ぅ~……」

 彩乃が肩を震わせ、両膝をつき、前屈みになって地に伏せた。額が着きそうなほど頭を垂れ、涙の滴が次々と落ちていく。両手を胸の前で交差して、あと一発だけ残っている左手のグロックを美喜梨の視界から隠して、泣く。もう、打つ手がない、敗北と恐怖に苛まれ、泣くことしかできない少女の演技をする。不幸中の幸い、泣く演技は巧いし、本当に手首が痛くて、それだけでも十分に涙が止まらないでいてくれる。

「ぅ…ひっく…ぅ~…ぅ…」

「んふふふ♪ 可愛い声」

「…ぅっ…ぅっ…ひっ…うっ…」

「絶望した? 絶望してる?」

 美喜梨は心底楽しそうに彩乃の周りを歩き回り、ときどき泣き顔を覗き込んでくれる。

「殺されちゃうねぇ。んふふふ♪」

 爆ッ!

 撃った。

「死ぬのは、あんたよ。……ぇ…」

 覗き込んできた美喜梨の頭を狙って、撃ったはずだったし、美喜梨は瞬間移動しなかった。この距離で外すはずもない。

「……どうして…」

 なのに、美喜梨は微動だにしない。

 弾は美喜梨に到達する15センチほど手前で、見えない障壁に阻まれ、先端が潰れている。

「美喜梨ちゃんバリアー♪ なのだ」

「……」

 彩乃は落としていたグロックを右手で拾い、泣いていた姿勢から、飛び起き、左手のグロックを消し、その手に新しいカートリッジを持つと、右のグロックのリロードを2秒以内に終える。多少は洗練されてきた動きだった。

「…瞬間移動で避けるだけじゃなくて、……弾を防ぐことも…」

「できるのだ♪」

「くっ…」

「さ、次は、どうするの? 考えてある? それとも、シンキングタイムあげよっか?」

「うるさいっ!」

 爆ッ!

 また、美喜梨は瞬間移動しなかった。

 弾は先ほどと同じように15センチ手前で潰れて、地に落ちた。

「……」

 よく見れば、天井の穴から小雨が降ってくるのに、美喜梨は濡れていない。

 透明な卵形の容器に入っているかのように、雨も防いでいる。それは、上下左右、前後、360度×360度、まったく隙のない障壁で、彩乃の知っているリリィの防御よりも完璧だった。

「……」

「あら? あらあらあら? もう諦めかけてるの? いいの? 死んじゃうよ」

「……」

「せっかく、こんな立派なモノ持ってるのに、ね♪」

 美喜梨が何もない空中からグロックを握り出した。

「っ?! あたしの銃!!」

「どうやって、こんなの手に入れたの? 瞬間移動もできないのに」

「他人のポケットまで探れるの?!」

「…」

 美喜梨は彩乃へ銃口を向け、それから弾が無いことに気づいて、カートリッジまで空中から取り出すと、見よう見まねで装填してみた。その仕草の拙さから射撃経験がないことはわかるけれど、見よう見まねなりに弾の装填は正しかった。

「美喜梨ちゃんの質問には、ちゃんと答えようね」

 発射可能な銃口を向けられると彩乃の顔がこわばる。彩乃には弾を避けることも、防ぐこともできない。

「ぅっ、撃たないで…あたしは…」

 自分の弱みを敵に教えることになるけれど、教えずにいると、試し打ちの一発で殺されてしまうかもしれない、彩乃が後退ると、その背後に瞬間移動してきて、背中に銃口を突きつけられた。

「美喜梨ちゃんの質問に答えよう、ね? どこで手に入れたの?」

「……海外旅行して買ってきたのよ。……アメリカで。……税関なら、無限ポケットでパスできるから」

 彩乃はリリィのことを隠してウソをついた。

「なるほどぉ~、せこい手段♪」

 信じてくれたのか、それとも、美喜梨にとって重要な問題でなかったのかもしれない。彩乃は背中に感じる銃口の圧力で、正直なところ怖くて下着を濡らしてしまいそうだったけれど、闘志を奮い立たせて、何とか、生き残る方法を考えるための時間を稼ぎたい。

「……う…撃たないでね……ホントに…あたし……弱いから…」

「弱いなりに、無限ポケットって言ってるんだ。うん、確かに無限だよね」

「……どう呼んでるのよ、この力を…」

「美喜梨ちゃんパワー♪」

「……ステキなセンスですね」

「んふふふふ♪」

 美喜梨が背中にあてている銃口を彩乃の背骨にそって、上げ下げしてくる。

「っ……う…たないで…」

 生きた心地がしない、彩乃が青ざめていると、銃口を離してくれ、また瞬間移動して顔を見て会話のできる正面に現れる。

「でぇ~、彩花ちゃんの質問もあったよね」

 と言いつつ、美喜梨はチョコレートをつまむと、口に入れた。

「わぁっ♪ 超おいしい!」

「……」

 彩乃の質問には実演で答えてくれている。

「……」

 由未のエサを、よくも、この野良犬っ、彩乃の敵意に満ちた視線を美喜梨は微嗤で受けている。

「チョコのお礼に返してあげる」

「なっ?!」

 彩乃は投げつけられたグロックを慌てて受けとめた。落としていたら、暴発したかもしれない、美喜梨は平気だとしても、彩乃にとっては怖いことだった。それでも、武器は戻ってきた。

「……」

「考えてる、考えてる」

「……」

 瞬間移動、全方位障壁、さらに他人の照空への干渉まで可能な美喜梨に対抗すべき手段が思いつけない。欺して接近させて完全ゼロ距離で射撃するにしても、鼻をつままれた距離で殴ることも間に合わない。もう一度、泣きを入れてみても、有効とは思えない。

「……」

 三六計逃げるに如かず、お互いを感じるといっても、なんとなく、ここにいるかも、くらいの感覚でしかない。感じられるときと、まったくわからないときもある。けれども、彩乃は徒歩、相手は超光速、なんとか目くらましでもして逃げられないかと考えるが、そもそも現在位置さえ、彩乃にはわからない。

「ここ、どこなの? あたしのいた街?」

 素直に訊いてみた。

「うん、ちょっと北にある帝愛工業っていう倒産した工場」

 あっさり教えてくれた。言われてみれば、そんな工場があったかもしれない、けれど、彩乃の記憶が確かなら、この工場の周囲には何もない。工業団地として造成されながら他の工場が入居することもなく、たった一つ建設された工場さえ倒産してしまった場所で、今は道路も閉鎖されて暴走族さえ来ない。人目を避けるのに最高の場所で、美喜梨が選りすぐったのだと、わかってしまった。

「うん、そう、逃げても無駄」

「……」

「そろそろ殺される?」

「……」

 なぜ、あたしが殺されるのか、殺されなければいけないのか、それはわかってる、快楽殺人、こいつは快楽のために人を殺す、そして、たまたま運悪く彩乃は、美喜梨の好みに合っていた、それだけのこと。でも、質問はしておきたい。そこにこそ活路があるかもしれないから。

「どうやって、殺すの?」

「文字通り、息の根を止めるのだ♪ ふにゅっ♪」

 美喜梨が瞬間移動して、彩乃の鼻をつまんだ。

「んっ、くっ!」

 接近してくれたチャンスに撃とうとしても、また瞬間移動して遠ざかってしまう。

「んふふふ♪」

 美喜梨は嗤い、そして消える。

「後ろなのだ♪」

「このっ! っ?!」

 振り返ろうとした彩乃は右手が動かないことに気づいた。

 動かない、力は入るのに、まるで縛りつけられたように動かせない。

「何よっこれ?!」

 右手首に黒い何かがリング状に巻きついていて、それは空中に固定されていて、おかげで手首を動かせない。

「美喜梨ちゃんバインドなのだ♪」

 今度は彩乃の左側に移動すると、自分の長い髪の毛を彩乃の左手首へ巻きつけ、その髪を切った。

「…切った。…違う…」

 切ったように見えたけれど、違った。巻きつけられた髪は彩乃の手首を固定して、その両端は空中で消えている。

「…髪を一部だけ……照空させて……くっ! くう~っ!」

 力一杯に両手を動かそうとしたけれど、人間の髪は驚くほど頑丈で、まったく動かせない。

「はい、足もね」

 左右の足首へも同じように髪を巻きつけ、固定される。

 髪を先端から部分的に使っていくため、美喜梨の髪は見た目の上では短くなり、もともとは身長と同じだったのに、今は腰までしか無くなっている。彩乃を縛っている髪は固定されているのに、美喜梨の方はハサミでザックリ切られたような先端になっているものの、まったく自由に動いている。理不尽な技だった。

「頭は、彩花ちゃんの髪で♪」

 美喜梨は手足の自由を奪った彩乃の髪へ手を触れる。少し長め、常識的な肩までの長さの髪を指で梳かすと、その先端を空中に固定してしまった。おかげで頭を動かそうとすると、頭皮が痛む。

「お口を開けて」

「……」

 手足も頭も動かせないけれど、まだ両手にグロックはある。懸命に活路を考えている彩乃の鼻をキュッとつままれた。

「……」

「お口を開けようね」

「……」

「……」

 美喜梨が黙って待っている。

「「……」」

 口を開けると何をされるのか、きっと、ろくなことでない、彩乃は唇を引き結んで耐えるけれど、だんだん苦しくなってくる。鼻を塞がれているので息ができない。美喜梨は黙って待っている。

「……っ、…ハァ…ハァ…」

 耐えきれず、彩乃が呼吸するために口を開けると、そこへも美喜梨は自分の髪を束にして押し込み、彩乃の口腔を黒髪で塞いでしまった。

「ん~っ!!」

 息ができない。

 鼻をつままれ、口を髪で塞がれ、まったく呼吸ができなくなってしまった。

「んっ! んっ!!」

 すでに限界までガマンしていたところを窒息させられると、一秒でも苦しい。彩乃の肺は必死に吸い込もうとして、呼吸筋を収縮させているけれど、空気は1センチ立方も入ってくれない。胸と喉が周期的に横隔膜の動きに合わせて、膨らんだり、しぼんだりしている様子を美喜梨は楽しそうに見ている。

「んふふふふふふ♪ んふふふふふふ♪」

「んっ! ……ん~っ!」

 苦しくて彩乃が涙を流すと、その濡れた頬を美喜梨の舌が舐めてくる。

「んふふふふ♪」

「んっ! ん~んっ!」

 爆ッ! 爆ッ!

 苦し紛れに引き金を引いても、工場の屋根に穴を増やしただけで、何の解決にもならない。このままじゃ殺される、彩乃はもがいて、もがいて、必死に手足をバタつかせ、つままれている鼻を振りほどこうと首を動かそうとするけれど、彩乃の髪は固定され、口の中に詰められた髪も、口の中にありながら、空間に張りつけられていて、まったく頭部を動かすことができない。何度も吐き気がして、胃液が逆流してきたけれど、髪がダムになって堰き止めていて、嘔吐することもできない。

「あと少しで死んじゃうね」

「…ん……ん……」

 すでに彩乃は力を失いつつあり、思考もできなくなりつつある。

「できるのは泣くことだけ♪」

「~っ…」

 吸いたい、息をしたい、死にたくない、弱々しくもがいて、涙を零していると、溶けかけのアイスクリームでも舐めるように、美喜梨がペロリペロリと左右の頬に舌を這わせてくる。

「あ~♪ 美味しい」

 最悪だ、もうダメ……、混濁した彩乃の意識が失われそうになった瞬間だった。

「はい♪」

 美喜梨が鼻を離してくれた。

「っ、スーッ、フーッ! スーッ、フーッ!」

 鼻呼吸できるようになり、小さな二つの穴が、その直径を最大限に使って空気を往復させている。

「スーッ、フーッ! スーッ、フーッ!」

「んふふふ♪ うれしい?」

 美喜梨が、まだ流れている彩乃の涙を舐めとっている。

「美味しい涙♪」

「スーッ、フーッ! スーッ、フーッ!」

「今度は一分間ね。今のうちに、よーーく吸っておいてね」

 美喜梨は手に懐中時計を持った。金製のアンティークな時計だった。それから、彩乃の呼吸が整うのを待って、遊びを始める。

「はい、よーーく吸って。3、2、1」

「スーーーッ…」

 遊ばれ方の説明はなかったけれど、ここは言われたとおりに肺いっぱいに空気を貯め込んでおかないと、おそらく一分間は呼吸ができないと思われ、彩乃は素直に従った。

「ちゅっ♪」

「っ…」

 彩乃は鼻全体を包むようにキスされて、激しい嫌悪感を覚えたけれど、どうにも逃げられない。

「んちゅ~~♪」

「……」

 彩乃の鼻を唇で包んでいる美喜梨が舌を動かしてヌルヌルと彩乃の鼻の穴を舐めてくる。超最悪だった。

 カチ…コチ…

 美喜梨は懐中時計を彩乃の耳にあててくれている。今、何秒なのか、そんなことは正確にはわからないけれど、とにかく一分ガマンするしかない。

 カチ…コチ…

 時計の音に合わせて美喜梨は舌を左右に振ってくる。

「……」

「んふふふ♪ あふっ15秒」

 カチ…コチ…

 鼻の下に感じる気持ち悪さは忘れることにする。あと、10秒。

「んふふふ♪」

「……」

 嫌な笑い方、彩乃は息苦しさに耐えながら、両手のグロックを握り直した。こんなヤツに負けない、絶対に殺してやる、殺されてなるものか、彩乃がキッと睨む、美喜梨は楽しそうに見下げてくる。高低差のあるキスのまま、超至近距離で二人の目線が絡んでいる。

 カチ…コチ…

「んふ♪ はい、60秒」

「フーーーッ…」

 ようやく唇を離してもらえ、彩乃が肺に貯めていた空気を吐き出した後だった。

「ロスタイム15秒追加♪」

「んんっ?!」

 吐き出した後に、吸い込もうとした瞬間を狙って美喜梨が鼻にキスをしてくる。ぴったりと呼吸穴を塞がれ、吸い込むことができなくなる。

「んっんんん?!」

 さっきまでの苦しさとは、まったく別物、肺に空気がない。吸い込もうとしても、美喜梨の舌が気持ち悪く鼻の中に侵入してくるだけで、息ができない。

「んんんっ!」

「はい、15秒」

「スーっーっ!! フーーーっ!」

 吸って、吐いて、また吸おうとしたとき、美喜梨の唇が食いついてくる。また、キスで鼻を包んで、さらに舌を奥に入れてくる。彩乃の肺は吸おうと懸命に力を入れているので、その陰圧で美喜梨の舌は、奥の奥まで入ってくる。

「んんんんっ! んっぐっぐんん!!」

 苦しみもがく彩乃の鼻の中を美喜梨はディープキスでも楽しむかのように舐め回してくる。

「んんぐうっ! んんぐっ……ん…」

 まるで脳の下部を犯されているようなおぞましさを彩乃に与えてくる。そして、何より息苦しくて、気が遠くなる。脳がバチバチと火花をあげているような苦しさが続き、やがて、その火花さえ、小さくなっていく。燃えつきる線香花火のように、小さく、弱く、消えていく。

「……ん……ん…」

 もう死ぬ……、彩乃の目が光を失いかけ、舌を吸ってくれる吸引力まで弱くなってくると、美喜梨は舌を抜いて、自分の肺にある空気を彩乃へ送ってくる。

「ふーーーっ♪」

「…ぅ……」

 彩乃の鼻へ、空気と美喜梨の唾液が入ってくる。

「まだ死んじゃダメよ♪ はい、深呼吸」

「ブブップーーーっ!」

 鼻から空気と唾液を吹き出して、ようやく新しい空気を吸う。

「スーーーッ!」

「どう? 楽しい?」

「フーーーっ! スーーーッ!」

 彩乃は息を整えるのに精一杯で美喜梨の声など耳に入っていない。耳に入っていても、脳が認識してくれない。

「さてと、今度は1分30秒ね」

「……」

 彩乃には睨む気力も残っていなかったけれど、落としそうになっていたグロックを握り直している。再び美喜梨は1分30秒、彩乃に息を止めさせ、やっと吐き出した後に、さらに30秒も唇と舌で彩乃の生命を玩んで、悦んだ。彩乃はぐったりと全身を弛緩させ、腹筋の一部と右足だけがピクピクと痙攣していた。

「…ひっ…フー…ひっ…」

「んふふふふ♪」

 美喜梨は弱々しく嗚咽の混じった呼吸をしている彩乃を見て興奮している。

「ちょっと、感想を聞いてみましょうね」

「…ぅ……」

 彩乃は口の中に詰められていた黒髪を引き抜かれて、やっと口でも呼吸ができるようになった。

「ご感想は?」

「……」

 彩乃は何か小声で言っている。よく聴き取れない美喜梨が顔を近づけてきた瞬間を狙って、唾を吐いた。

「ぺっ!」

「んふっ♪」

 ねっとりと美喜梨の顔に唾が命中して拡がり、少し垂れた。美喜梨は怒るどころか悦んだ。

「すると思った♪」

 唾をかけられた顔を動けない彩乃の顔に擦りつける。

「ぅぅ…」

 ぬるぬると頬擦りされ、彩乃は気持ち悪さで呻いた。

「んふっふふ♪」

 美喜梨は擦りつけてから、彩乃の顔から舐め取って飲み込んだ。

「さ、また、ハナチュ~してあげるね」

 彩乃の瞳が不安と恐怖で揺れるのを美喜梨は心底楽しそうに嗤った。

「うん、そう、こうやって、じわじわ殺してあげるの。何度も何度も死ぬ寸前まで苦しめてあげる。そのうち、殺してくださいってお願いするようになるよ。でも、じわじわしか殺さないの」

「……」

 説明した美喜梨は再び彩乃の口へ髪を詰め込み、窒息の地獄へ落として楽しむ。苦しみもがく彩乃を堪能し、ときどき休憩させ、また死ぬ寸前まで窒息させる。

「さてさて、今の気分は?」

 また、美喜梨が口に詰めた髪を抜いてくれた。

「言いたいことあるかな?」

「ぺっ!」

 また、彩乃は唾を吐きかけた。

「んふふ…痛っ…ぅ…」

 予想していて甘んじて受けた美喜梨が顔を押さえて、痛みを覚えている。美喜梨は吐きかけられたものを手に取って見ると、それは数本の針だった。

 彩乃は嗤って、声を絞り出した。

「あたしが二度も無意味なことすると思う? アホ変態」

「……」

 美喜梨の顔には針が刺さってできた傷がある。

「ひどいよ、彩花ちゃん。女の子の顔に傷をつけるなんて、最低」

「……」

 けれど、ほんの数ミリほど美喜梨の皮膚を破り、数滴ばかり血を流させたにすぎない。軽傷だった美喜梨は針を捨てて嗤った。

「えらいね、彩花ちゃん。誉めてあげる。美喜梨ちゃんに傷をつけられたのは彩花ちゃんが初めて」

「……」

「それに、これも」

 美喜梨は彩乃の両手にあるグロックをつついて嗤った。酸欠で何度も気絶したのに、ずっと、落とさず持っていられたのは、銃底の一部を照空によって空間に固定し、彩乃が意識を失って握力を無くしても、落ちずにいてくれたからだった。

「さっきまで、できなかったのに。美喜梨ちゃんを見習ったんだ?」

「…まあ…ねン」

 威勢よく答えたかったけれど、その体力がなく、おまけに喉と鼻が煙で焼かれたみたいに痛い。

「ご褒美に、何かお願いきいてあげる。言ってみて」

「……。じゃあ、……なるべく長い休憩をちょうだい」

「なるほどね。ん~……、では、昔話を一つ」

「……」

「湖はありました。ほとりに白い花が咲いていました」

「……」

 彩乃は聞き流しながら、反撃の方法を考えている。美喜梨は微笑んで続けた。

「その花を狙って人間の子供が手を伸ばしてきました」

「……」

「花は祈りました。私は摘まれたくない、もっと、ここに咲いていたい。祈りは、かないました。花に子供の手はとどかず、湖に落ちてくれました」

「……」

「子供は溺れ、沈んでいきます。近所のお姉さんが通りがかり、助けようと飛び込みました。けれども、お姉さんは心臓の病気だったのです。子供を助けることはできたのですが、お姉さんは死んでしまいました」

「……」

「感想は?」

「……。その子供は?」

 どうなったの、誰のことなの、いろいろな意味に取れる質問をした。

「その子は、溺れたままです」

「……?」

「それからの人生は、とてもとても息苦しいの。だって、そうでしょう、あのお姉さんの分まで、あの人のおかげで、あの人のためにも、そんな水圧が周りから、その子を押し潰すの」

「……」

「その子は、もう、この世界から消えてしまいたい、でも死にたくはない、死ぬのは苦しいし、怖いし、息をしていたいから」

「……」

「ね、空気って大切よ。お金より、お家より、ご飯より、脚より、手より、目より、大切。息ができないのは耐えられない。たった5分で死んでしまうもの。やすやすと息をしてる人を見ると、つい止めてみたくなっちゃうわ。とくに、彩花ちゃんみたいな可愛くて生意気そうな子が好みよ」

「……。それが言い訳?」

「言い訳?」

「あの日の事件さえ無ければ、まともな人間だった。あのことがあるから、歪んでしまった。だから、自分が悪いわけじゃない。溺れた苦しさを他人へ与えて、それを快感に思う腐りきった性根は、自分のせいじゃない。仕方ない。必然、当然。そういう言い訳を携帯してる」

「……」

「その子供はね、溺れなくても根っから腐りきってたの。遺伝子からクソ。クソ遺伝子。生まれつきの超弩級変態。産まれてきて、ごめんなさい、って言ってごらん?」

「……」

「クソ遺伝子。全身、60兆個の細胞、全部クソ遺伝子。脳細胞から爪の垢まで、腐りきって臭い。その腐敗臭で宇宙が歪む」

「……。今夜は楽しめそう」

 美喜梨が微笑んで、やや彩乃から離れたときだった。

 カッ!

 飛んできた矢が美喜梨の背中、ちょうど真ん中を射抜こうとして、美喜梨の障壁に阻まれ、矢は先端が潰れてしまった。

 美喜梨は振り返り、弓を構えている由未を見つけた。

「あ、露出狂の。すごいね。よくここが…」

 シュッ!

 由未は無言で乙矢を放ってくる。

 カッ!

 見事に美喜梨の胸を狙った矢は真っ直ぐに飛んできたけれど、また障壁に阻まれた。

「彩花ちゃんの鉄砲より、ちゃんと飛んでくるね」

「由未…」

「彩ちゃん!」

 由未は三本目の矢を構える。

「んふふ♪」

 シュッ!

 また、正確に美喜梨を狙った矢が飛んでくる。

「美喜梨ちゃんスイング・バイっ♪」

 無意味な一声と同時に美喜梨は自分を包んでいた障壁を変形させ、卵型だった障壁を開いて、由未と自分の間で壺のような形をつくった。矢は壺の入口から突入し、底を這うように方向転換させられると、今度は射手だった由未へ返っていく。

 ドッ!

 矢は由未の胸を突いた。

「由未っ!!」

 彩乃は由未が倒れるのを見ていることしかできなかった。

「……由……未…」

「美喜梨ちゃんスイング・バイ。うまくできました」

 美喜梨は展開していた障壁を戻して自分を包む。わずかに肩を濡らした雨を手で払って微笑む。

「弓なんて使う人、今でもいるんだ。びっくり♪」

「……」

「あ♪」

 美喜梨は絶望しきった彩乃の顔を見て微嗤んだ。

「絶望した? 絶望してるよね。あの子が心の支えだった?」

 美喜梨は舌を大きく出して、その全体で彩乃の頬を撫でるように舐める。

「うん、美味しい。涙も濃くなってる。絶望の味」

「……」

「なら、これは、どうかな」

 彩乃の右手首を空間に固定している髪を、美喜梨は結び直すように動かしてくる。彩乃の右手首は、自身の右耳のあたり、ちょうど、自分で頭を撃ち抜ける位置に、移動された。

「終わりにする?」

「……」

「んふふ♪」

「……」

 勝てる見込みも、勝ったところで由未が殺されてしまった世界への未練も、無かった。

 爆ッ!

「んーーふふふふふっんふっ♪」

「……」

 彩乃は右を見た。銃口と自分の間に障壁ができている。

 美喜梨がつくった障壁だった。

「んふっんふふふふんふ♪ 楽に死なせてあげるわけないよぉ~ん♪」

「……」

「たっぷり苦しめて絶望の…」

 ザクッ!

 聞いたことのない音が美喜梨の胸から響いた。

「んふ?」

 美喜梨は自分の胸を見下ろして、そこから突起物が突き出ているのを見つけた。尖った鋭利なモノが赤く濡れて、左胸から飛び出している。それは刃物のようだった。

「「……」」

 彩乃にも見える。背中から胸まで、ざっくりと美喜梨の胸を貫通しているのは、大きなナイフだった。血が、衣服に拡がっていく。

「……。…み、…美喜梨ちゃんは…無…敵…」

 美喜梨が瞬間移動した。

 ナイフだけを残して美喜梨は消え、ナイフは重力に引かれて落ちる。美喜梨は2メートルほど彩乃から離れた位置に出現して、障壁で自分を守った。

 けれど、傷口から大量の血が破れた水道管のように溢れてくる。胸から、背中から、あっという間に、スクール水着を変色させて、白い脚を赤く染めて、美喜梨は倒れた。

「…美喜…梨…ちゃ……は…、…きり…、……きり…」

 誰に、なぜ、殺されたのかさえ、理解することなく、美喜梨は事切れた。彩乃を拘束していた髪も、あっさりと落ちていき、彩乃も倒れた。

「……ぅぅ…」

 起きあがろうとする彩乃は倒れている美喜梨の死を確認している船井を見つけた。さらに、船井は由未へ駆けより、微笑んだ。

「…由未…」

 彩乃の視線に船井が頷きを返してくる。

「お嬢さんはショックで気絶しただけのようだ」

 船井は由未の脈と呼吸を確認して、抱き上げると彩乃に近づいてくる。

「……由未…」

「矢が昔ながらの戦闘向けでなくてよかった。鏃が鈍角だったおかげで、こんな物でも防いでくれている。ほとんど無傷だ」

 船井が顎で示した由未の胸元には、彩乃が送ったネックレスが潰れていた。

「ご同類、ケガはないかな?」

「……、たぶんね…。…どうやって、助けてくれたの?」

「ずっと隠れて様子を探っていたのさ。チャンスの女神を待ちわびて」

「由未と、いっしょだったの?」

「いや。振り切ったつもりだったんだが……。途中で、このアルテミスが飛び出したときは驚いたさ。もっとも、お嬢さんが突破口を見つけてくれたとも言える。魔王の防御壁も万全でないとね」

「……由未はアルテミスじゃない。あえて言うなら巫女神アメノウズメ」

「?」

「自分の国の神話くらい勉強しておくことね。……ま、でも…ありがとう。助けてくれて」

「どういたしまして」

 とにかくも、一つの危機は去ってくれた。

 

 翌々日、由未は強姦されていた。彩乃を助けてくれた船井には感謝していた。だから、はじめ由未は謝意を述べ、それから遠慮がちに彼の望みには応じたくないと伝えたけれど、強引にキスをされ、押し倒されていた。

「んっ…ぅぅ…」

 大きな池のある公園、その岸辺の芝生と船井の胸板に挟まれ、押し返そうとしても、まったく動けない。まるで力の差が違う。岩に挟まれたかのように1ミリも逃げられない。

「んっ…ハァ…ハァ…」

 やっと、唇を離してくれた。由未は唇を手の甲で拭い、顔をしかめる。気持ちが悪い。いっそ、この池の水でもいいから口を漱ぎたい。

「…やめて…ください…。…お願いですから……、…き……気持ちが悪いの…」

 声が震えた。

 手足に力が入らない、入ったとしても、組み敷かれている状態から逆転できるとは、到底思えない。ケンが相手でも押さえ込まれてしまうと、まったく歯が立たなかったのに、さらに圧倒的な力の差を感じる船井に対して、何か抵抗ができるとは思えなかった。ただ、震える声で拒絶することしかできないのに、男の手が由未の胸を包んだ。

「っ…ぃや…」

「お嬢さんの心臓は、激しく踊っているが、これは歓喜ではなく恐怖……それも一興と思うオレは業が深いな。嫌がる女性を抱くのは始めてだ。後味は悪いだろうか……だが、やめるつもりもない」

 男の手が何度も由未の胸を撫で回している。由未の背中には冷や汗が流れた。

「や……やめて…っ…やめてください…」

 ブラウスのボタンを外されると、身体が恐怖で凍りついた。

 イヤ、イヤ、されたくない、そう思っても怖くて、悲鳴もあげられない。

「…ぃヤっ……彩ちゃん…」

「こういうときに恋人の名前を呼ばれるのは、扇情的でさえある。自分が悪役なのだと、再認するばかりか、意地の悪い満足感が湧いてくるな」

 男が小さく笑って、はだけさせたブラウスを開き、ブラジャーを押しさげた由未の胸に口づけしてくる。

「イっ…イヤぁぁっ…」

 胸の肌が泡立ち、気が狂いそうなほどの嫌悪感で無駄な抵抗をして、もがく由未の姿を男が楽しんでいる。

「…ひっ…ハァ……イヤ……お…お願いですから…っ…もう、許してください…っ!」

 胸にキスをしていた男の手が、スカートの中へ入ってきた。由未は脚を閉じようとしたけれど、男の膝が由未の両足を押し開いていて、閉じることができない。男の手が腿を撫で、スカートの奥へ入ってくる。

「っ…い……いや……彩ちゃんっ……彩ちゃんっ……」

「呼べば出てくる。いい恋人のようだ」

 船井が走ってきた彩乃を見つけて、身体を起こした。

「ハァハァっ」

 彩乃は乱れた息を整えながら、グロックを両手に握ったけれど、船井との距離は10メートル以上ある。

「由未から離れて」

「ふっ…、お嬢さんはオレを雇った。今は報酬を受けとっているところだ。邪魔しないでほしいな」

「……」

「彩ちゃん……」

「由未、……言ってくれれば…」

「ご同類こそ、今まで、どこに?」

 船井は組みしいていた由未を盾にして立ち上がった。

「あたしが何をしてようと船井には無関係……、ちょっとした野暮用よ」

 説明する気も意味もなかったけれど、由未を盾にされたままでは銃を使えない。銃を撃てなければ、勝ち目がない。突破口を探すためにも彩乃は話すことにした。

「あたしの都合で二日だけ付き合った男の子にお別れをね」

「ほお。素直に承知してもらえたのかな?」

「ええ、船井と違って、意外なくらい、あっさりと」

「気の毒なことだ」

「そうね。だから、罪滅ぼしに彼を好きだった女の子にも会ってきたの。悪いけどフォローお願いってね。報酬は彼そのもの」

「都合のいい話だ」

 船井が肩をすくめ、由未はアイコンタクトだけで、その女の子が三浦望であることを確信した。

「船井も諦めてくれないかな?」

「お断りする」

「……、あたし、平気な顔してるけど、かなり怒ってるよ。船井を殺したいくらい」

「そうかね」

 船井が盾にしている由未の身体を撫でた。

 爆ッ!

 彩乃が池の水面を撃った。着弾して波紋が拡がっている。

「由未に触るなッ!!」

「女銃士か…」

「あたしは本気だから」

「ならば、オレも本気で相手をしよう」

 船井が盾にしていた由未を横へ突き飛ばした。

 爆ッ! 爆ッ!

 キンッキンッ!

 船井の前に銀色の壁が出現して銃弾を防いだ。

 爆爆ッ! 爆爆ッ!

 さらに連射する。

 キンッ!

 一発が銀色の壁に当たり、他の三発は大きく外れて船井の後方へ飛んでいった。それでも命中した一発が銀色の壁に穴を穿ってくれた。

 ザスッ…

 壁を構成していた一部が弾け飛び、地面に刺さって、それがナイフの刃であることが、わかった。

「ナイフを……盾に…」

 銀色の壁の正体は何十本というナイフで、それを空中に壁のごとく出現させ、瓦のように並べて固定している。左右に二列、大きなアーミーナイフなので船井の身体を彩乃の射界から隠すのに十分な幅があった。

「かの魔王から盗んだ技でね」

「……、意外と簡単だから…、チッ、クソ遺伝子」

 彩乃も美喜梨を見習って、すぐに可能になった芸当なので、それを船井が習得しても不思議はなかった。ただ、銃弾に対して壁として使ってくるとは予想外で、その機転が恐ろしい。

「けど、撃ちまくればッ!」

 美喜梨やリリィの防御と違い、銃弾でナイフの刃を折れば突破できる。さらに、そこへ撃ち込めば、船井に弾が届くはず。

 爆爆ッ! 爆爆ッ! 爆ッ! 爆爆ッ!

 キンッ! キンッ!

 二発が命中して、一本だけナイフを折ることができた。けれど、その隙間には、すぐ新しいナイフが出現して防御壁の穴は塞がれてしまう。

「当たれッ!」

 爆ッ! 爆爆ッ! 爆ッ! 爆ッ!

 キンッ! キキンッ!

 穴を二カ所あけることができ、そこを塞がれる前に撃ち込もうと狙ったけれど、外れてしまい突破できなかった。

「だったら」

 彩乃が右へ走り、正面にしかない防御壁をさけて、船井の左から銃弾を撃ち込もうとした。

 爆爆ッ! 爆爆ッ! 爆爆ッ!

 キンッ! キンキンッ!

 彩乃が撃つより早く、船井は新たな壁を出現させる。あざやかな手つきで何十本というナイフが壁になる。まるでオーケストラの指揮者が両手を振り上げるような優雅で素早い動作だった。

 爆爆ッ! 爆ッ!

 キンッ!

 彩乃の左手にあるグロックが全弾を撃ち尽くしてカートリッジを排出する。その隙を船井は待っていた。彩乃がグロックを持ったままの右手で新しいカートリッジを親指と中指だけで空中から摘み出して、左手のグロックへ装填しようとするタイミングを狙って、船井はナイフを投げる。

 ヒュッ! 爆ッ!

 隙を突かれることを予定していた彩乃は装填しかけのカートリッジを捨て、まだ6発も弾を残していた右手のグロックを撃っていた。

 爆ッ爆ッ!

 ドッ!

 ナイフが彩乃の腹部へ突入し、銃弾は船井の髪と肩をかすめて、池へ吸い込まれていった。

「うぐっ…ぅ…ぅ…」

 彩乃は衝撃で息が止まり、手足から力が抜け、グロックを落として、うずくまった。

「彩ちゃんっ!」

 悲鳴をあげて由未が駆けより、彩乃を抱くとナイフは刺さっていなかった。刃ではなく柄を向けて投げつけられていたおかげで、打撲だけで刀傷は負っていない。けれど、立つ力も無く、胃液を吐いて呻いている。船井は素早く駆けよると、二丁のグロックを奪い、消してしまった。

「さて、お嬢さん」

「っ…」

「ゆ…由未に……なにかしたら…」

 彩乃が倒れたまま、船井を睨んでいる。

「オレがホテルに誘わず、こんな無粋な場所で抱こうとしたわけが、わかるかな」

「「……」」

「釣りを楽しもうと思ってね」

 船井が樹に立てかけていた筒から、太い釣竿を出した。

「釣りはいい。糸を通じて、獲物の命が伝わってくる。手の中で懸命に踊ってくれる。狩猟の中でも、もっとも趣深い。弓や銃は、実に無粋だ。直接、命を切り裂くことのできるナイフでさえ、釣りには劣る」

「「……」」

「抱いてから、とも思ったが、活きのいいうちにオレの趣味に付き合ってもらおうか」

 船井が由未を捕まえると、彩乃が色めき立つ。

「由未に…ぅ…」

 立とうとしたが、まったく身体に力が入らなかった。逆にナイフの柄で突かれた腹部が激しく痛み、気が遠くなってしまう。口の中に血の味がする。

「ご同類、邪魔をすれば、今度こそ殺す。まあ……その身体で邪魔ができれば、の話だがね」

 船井は釣り針を持つと、それを捕まえていた由未の足首、アキレス腱に刺し込んだ。

 ずぶっ…

「ああっあああっ!!」

 由未が痛みで悲鳴をあげた。釣り針は由未のアキレス腱を貫き、針先が内側から皮膚を破って外へ出る。痛みでピクピクと、ふくらはぎが攣った。

「あああっううっ!」

 さらに、釣り針を突き通すと、反対の足首、またアキレス腱へ、刺し込まれる。由未は仰け反って悲鳴をあげた。船井は糸の先を釣竿へ結んだ。

「アキレス腱は人体の中でも一番強い。自重をあげても切れないほどに」

 船井は軽々と由未を抱きあげると、池へ向かおうとする。その背中を彩乃が呼び止める。

「待って…」

「なにか?」

「…由未を…殺すの…?」

「ああ」

 ピクニックにでも行くような調子で、平然と答えられた。彩乃は力の入らない身体で懸命に上半身を起こすと、懇願する。

「殺さないで…、お願い…」

「話が、それだけなら…」

「待って!」

「……、まだ、なにか?」

「少しだけ…由未と…、…話を…、…キスを、させて」

「うむ……」

 船井は由未を彩乃の隣へおろした。

「由未…」

「…彩ちゃん…」

「由未」

 蒼白な由未の顔を撫で、彩乃は船井から見えない角度で、励ましと戦意を目の色だけで伝え、見つめてからキスをする。深いキスで唇を吸って、舌をからめ、両腕を回して抱き合い、アキレス腱をつながれた両脚にさえ、膝を入れて、まだ舌をからめる。

「あたしも、すぐに逝くから」

「……」

 由未が咎めるような、迷うような目で彩乃を見つめた。

「由未が殺されたら生きてる意味がないよ。なら、すぐに死んで、生まれ変わりに期待する方が、まだ、意味があるの。ね?」

「……」

 由未が黙って、もう一度、強く抱きついた。その抱擁が終わると、由未は船井を睨み、横柄に顎で示して、殺すなら、殺すがいいと、伝える。

「女性同士のラブシーンというのは初めて見せてもらったよ」

「……」

「言い残すことは、あるかね?」

「……」

 黙って睨んでいる由未に、船井はナイフを向けた。

「口を開けて、中を見せてもらえるかな」

「……」

「女性の顔に傷をつくりたくない。頬を切り裂きたくはないが、このままだと、実行せざるをえないな」

 ナイフを頬に突きつけられると、由未は睨んでいた目を潤ませ、怯えて涙を流して、口を開けた。口の中には小さなハサミ、裁衣具セットの小さな糸切りバサミが入っていた。それを船井は摘み出して池へ捨てた。

「なるほど、いい小道具だ。人の力では切れない釣り糸だが、ハサミなら切れる」

「「……」」

「口うつしでハサミを隠すとは、古典的な策略トロイの木馬を応用したか…ふふふっ」

「ひっ…ひぅ…ぅぅ…」

 由未が声を上げて泣き出した。最後の頼みの綱が無くなり、殺されるしかない状況に泣いて震えている。彩乃が砂をつかんで船井に投げつけた。

「あたしから殺せッ! クソ紳士ッ!」

「クソは余計だな」

「黙れ! ヘンタイ紳士ッ!」

 さらに砂をつかんで投げつける。

「無駄なあがきを。ならば、先に頭を冷やしてみるかね」

 船井が仔猫でも持ちあげるかのように、彩乃を池へ投げ込もうとしたときだった。

 爆ッ!

 銃声が響いて、彩乃を投げる姿勢のまま、船井は振り返った。

 泣き伏していたはずの由未のスカートに小さな穴があり、そこから煙があがっている。スカートが突起物で盛り上がり、由未は右手をチャックからスカートの中へ入れていた。

 爆ッ!

 由未がスカートの中から撃った。二発目も、見事に船井の背中に命中した。白いシャツに血が拡がっていく。由未は立ち上がって、スカートから手とグロックを抜き、船井を狙う。

「3丁あったのか……そうか、…ハサミは、おとり…、…ご同類が膝で…」

 船井が持ちあげていた彩乃をおろした。

「…恐ろしい魔女だな…」

「オデュッセウスだけじゃなくて、孫武にも知恵をかりてるの。人を欺すときは、二手三手先を考えて」

「なるほど…、…スカートのポケットモンスターに…やられるとは…くくっ」

 それが彼の最後の言葉になった。

 

 翌週の月曜日、由未と彩乃は昼休みを屋上で過ごしていた。

 どのみち他者に理解してもらうつもりはないので二人とも気にしていないけれど、C組の教室でキスをしたことは有名なようでクラスは居心地が悪い。ただ、由未の警告が効いているのか、表だってからかう生徒はいなかった。

「リリィさん、私の分の銃もくれていたのね」

「セクハラの代償に…」

「……、やっぱり気になるから訊くわ」

「何を?」

「リリィさんに会ったとき、私は8時間、この世界から消されていた。違う?」

「……違わない」

「やっぱり……その空白の時間に、……何があったの?」

「……セクハラされた」

「……」

「何をされたか、気になる?」

「…なるわ…」

「あたしがされたことを由未にしてあげる」

「…今、ここで?」

「両手をあげてフェンスを持って」

「こう?」

 言われたとおり由未は屋上のフェンスをつかんだ。磔にされた殉教者のようにフェンスに背中をつけ、両手を高くあげて無防備になる。

「あたしは8時間たっぷりされたけど、由未には5分で済ませてあげる」

「…何をするの?」

「こうするの」

 彩乃は両手を由未のブラウスの中へ入れると、くすぐった。

「きゃっははっふひっはははっ! やめて、はひひっ!」

「やめない。5分、ガマン」

 彩乃は冷酷に楽しそうに由未の身体を5分間くすぐり続けた。終わる頃には由未は汗だくで屋上に座り込んでいた。

「ハァ…ひ…ハァ…ハァ…ひどい」

「あたしは由未を人質に取られて8時間、このセクハラに耐えさせられたの」

「…だから…あの後、あんなに疲れて…」

「由未が強引についてきたおかげでね。くすぐり地獄に落とされたよ。マジ逝くかと思った」

「…8時間…」

 ほんの数分でも腹筋が攣るかと思うほど苦しかったのに、時間単位になると想像を絶する地獄だったに違いない。

「……リリィさん…、そういう人なの?」

「みたいね」

「……ごめんなさい」

「悪いと思うなら、あと7時間55分、耐えてみる?」

「……」

「そんな可愛い顔されたら…」

 彩乃が顔を近づけると、由未も目を閉じた。

 キスをする。

「あたしは由未が好き。でも、気づいてくれてると思うけど……あたしはダーウィンにも未練がある。自分がレズビアンとして生きることに迷いがある。それは他人の目とか、世間とか、そういうことじゃなくて、自分の価値観。あたしは進化論的な種のレースを是としてる」

「…子供がほしいの?」

「そう。でも、その百倍は由未が好き。価値観は曲げられても、この衝動は抑えようがない。ダーウィンに怒られて、プラトンと紫式部にタメ息をつかれるかもしれないけど、それでも、あたしは由未が好き」

 また、キスをする。そのキスは二人に近づいてくる気配で中断された。近づいてきたのは、茂木だった。

「お二人さん、おひさしゅう」

「……」

 彩乃が反応に困り、由未も目を丸くして驚いた。

「……あなた、…私が怖くないの?」

「いや、まあ…そろそろ、ほとぼりも冷めたかなぁ、と」

「……。何か用かしら?」

 由未は余計なことを言うなら、また蹴る、という構えを取った。

「ウチも考え直してん」

「「……」」

「お二人さんのことが、気の迷いなら、気の迷いで、そのうち目が覚めるやろし。そやのうてマジものやったら、マジもので、ウチが何を言うても無駄やろと。つまり、どっちに転んでもウチが口出しする意味が無いんやないかと……せやろ?」

「…あなたって人は…」

「モッチーらしくていいよ」

「ほな、和解ちゅーことで」

「……、大事な話をしていたのに、邪魔をしてくれるのね」

「うわっ、ウチが邪魔者なんは、わかるけど、そこまで、はっきり言うか」

「言わないとわからないでしょうし、私も遠慮しないわ」

 由未がアイスクリームくらいの冷たさで茂木をあしらって、話を続ける。

「彩ちゃんと私のこと、きっと、ダーウィンには怒られないわ」

「なんのこっちゃ」

「どうして?」

「クジャクの尾羽で気分を悪くしたときと、同じよ。最初は理解できない。でも、後になって意味がわかってくる」

「……? どんな風に?」

「生命が誕生したときには雌雄の別なんてなかったでしょ。オスとメスに別れたことも、一つの進化。でもまた、退化も進化。クジラが地上から海へもどって手足を尾ひれに退化させたように。性別も退化させることに適応性があるなら、そうなってもいいはずよ」

「ずいぶん大胆な発想ね」

「有性生殖をする種にも単為生殖があるわ」

「たしかに、アブラムシやミジンコ、ワムシ、タンポポは受精なしで次世代をつくることがある。脊椎動物でも魚類や爬虫類の一部で知られてる。けど、基本的には母体と同じ遺伝子、つまりクローンしか産めないの。生命現象の多様性を考えれば、もしかしたら、本当にマリアはセックスしないで妊娠したかもしれない。けど、科学的にはマリアからマリアが産まれることはあっても、マリアからイエスは産まれないの」

「私と彩ちゃんの子供なら、遺伝子の混ぜ合わせも起こるし、私のクローンでも、彩ちゃんのクローンでもないわ」

「……」

「あんたアホちゃうか」

 ドムっ!

「グフっ! ぅ…ぅぅ…ナイスキック…、毎度のような、あんたのボケにワンパターンなツッコミしたウチの二重ボケに、実に鋭いツッコミを…」

「減数分裂している私の卵子と、彩ちゃんの卵子から取りだした遺伝子をミックスして受胎させれば、二人の子供になるわ」

「…しかも、放置やし」

「いくつか、技術的な問題があるにしても、きっと、そう難しいことではないはずよ。すでに人は分化後の細胞から未分化細胞をつくることに成功してるもの、生殖細胞からなら、同性同士でも新しい子をつくることは比較的簡単なはずよ」

「…由未…」

「ウチの意見も……言わせてもろてええでしょうか」

「発言は自由よ。ただし、結果も発言者に返ってくるけれど」

「……たとえ、可能やとしても、それは自然な生命とちゃうんやないでしょうか。間違った行為やと……思いますが…」

「モッチーに同意。適応性がないと思う」

 茂木だけでなく彩乃まで共感してくれなかったのに、由未は持論を続ける。

「自然な生命って何かしら? 私たちは電気や石油、ウランが無いと生きていけないわ。でも、月の石を手に入れられる。ロケットやクルマは許容して、試験管ベイビーを拒否する価値観は、はたして正当かしら。新しい技術こそ、ヒトの進化の結果よ」

「その技術は主にオスたちがつくってくれたよね。あたしたちメスの気を引くために、オレは賢いぞ、強いぞ、難解な数式がとけるぞ、宇宙の真理を発見したぞ、病気を治せるぞ、空飛ぶ機械を発明したぞ、政党の党首だぞ、教祖だぞ、ってね」

「人は銃とペニシリンを発明したとき、種の頂点に立っているわ。少なくとも、この惑星上では最強の種よ。むしろ、余分な武器を持ちすぎ、余分なエネルギーを浪費しすぎているわ。戦争を代表とするオスたちのレースに。すでに人の天敵は人と言っていい。だから、私たちは人に内在する天敵も克服するべきなの。役割を終えた器官には退化してもらうべきなのよ。ここまで言えば、わかるでしょ、彩ちゃん?」

「……。それは…もしかして、オスは要らない。メスだけで生きていこうって…こと?」

「ええ」

「なんちゅー発想や……女だけの社会て…あんな、そういうロボットアニメがあるんやけど、宇宙に進出して、女だけの種族と、男だけの種族が戦争するねん」

「それで?」

「文化を忘れるねん。歌とか」

「……なぜ?」

「愛が無くなるやん。せやから、愛を謳うことも無くなって、淋しい社会になるねん」

「愛は無くならないわ。私は確かに彩ちゃんを愛しているもの」

「ぅ……あかん、ウチには反論する気力がない……マコ、頼むわ」

「由未の発想には、一理…、三理くらいあるけど、生殖を機械に頼るのは、やっぱり適応性があるって言えるかな?」

「科学文明が肯定されるなら、ヒトの外部生殖装置だって、書籍やサーバーが外部記憶装置であるように肯定されるはずよ。カンガルーもパンダも、とても不安定な出産と子育てをするわ。カッコウはホオジロやモズに頼るし、ジガバチなんて、蛾や蝶がいなければ、子を残せない。イモムシへ卵を産みつけるのと、顕微鏡下で体外生殖するのに、後者を否定するほどの差異は無いわ。ヒトは手で道具をつくった。ジガバチは針で子を産みつける。どちらも獲得した形質を活かしているだけのこと」

「……そうだけど…」

「多くの動物に同性愛的行動がみられるのは、単なる間違いかしら? 彼らは相手の性別や自分の性別を誤認しているの? そんな間違いを生命は、ずっと続けるかしら? むしろ、新しい試みではないの。生命は多様性へ、チャレンジしているわ。常に新しい可能性を求めている。彩ちゃんと私が子供をつくることも、そのチャレンジの一つよ。彩ちゃんと私は、ホモ・サピエンスとは違う種なの。新たに進化した一つの種、進化しつつある途上だと想う私を否定できる材料があるの?」

「…ニュータイプなんや…、ウチはオールドタイプで、よろしく」

「ずいぶん……もろそうな種ね……すぐに、滅びそう…」

「地球が誕生してから、滅びた種の方が多いわ。もしも、彩ちゃんと私の子供が、また、男の人を好きになって、ホモ・サピエンスに吸収されてしまっても、それは、それで、いいと思うわ。滅びたとしても、種のレースに果敢に挑んだことにはなるもの。恐竜が滅びたからといって、人や犬に劣らないように……ううん、優劣の価値観は、それぞれね。ヒト類で、たった一種しか、存在しなくなってしまったホモ・サピエンスより、石炭紀から存在して37万種にも、多様性を展開させた甲虫類の方が、優れているかもしれない。結局は高度に進化するより、ウイルスやプリオンのような単純生命の方が生き残れるかもしれない。だから、優劣の価値観は、それぞれ。それぞれよ。それぞれだから、彩ちゃんと私、たった二人の新しい種を、私は肯定できる、価値があると思える。彩ちゃんは、想ってくれる?」

「……由未」

「彩ちゃんが想ってくれるなら、二人は新世界のイブとリリスよ。アダムは、いらないわ。これは……私のプロポーズ。彩ちゃん、いっしょに新しい世界をつくってみよう」

「ぅ…由未…ぅ、…やばい…、やばすぎるよ…」

 彩乃が両目から溢れた涙を持て余している。

「…やばすぎ……感動しちったよ……ぅ…」

「彩ちゃん」

「……よくも……よくも、あたしが、…納得できる……理屈を……、由未…、…そんな由未だから…あたしは…」

 彩乃が由未に抱きついた。

「あたしは、その理屈とプロポーズを受けたい」

「彩ちゃん」

 二人がキスをする。

「……ウチがおるのを…忘れて…」

 目の前で熱烈なキスをされて、やっぱり正直なところ気持ちが悪いとしか思えなかったけれど、もう蹴られたくないので黙っていることにした。


 完

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花束をスカートのポケットに 鷹月のり子 @hinatutakao

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