第2話

 翌朝、時間通りに起床した由未は身支度を整え、母親を手伝って弁当をつめる。別の高校で国語教師と弓道部の顧問をしている父親の分と、自分の分を並べて用意している。新聞を読んでいた父親と目が合った。何か言いたそうな顔をされたけれど、また新聞へと目を落としてくれた。母親が聴いているラジオが朝のニュースを伝えている。

(…昨夜発見された女性の変死体は、残されていた生徒手帳から、黒間高校の…)

「イヤな話ね」

 母親はラジオのチャンネルを変えて明るいニュースを探している。父親が新聞から再び目をあげた。

「黒間といえば、隣の県だったな。……由未」

「はい?」

「夕べは、遅かったな」

「…友達の家へ遊びに行っていたのよ」

「茂木さんか?」

「ええ」

「友人をつくるようになったのはいいが、あまり遅くならないようにしなさい」

「はい」

「……」

「お父さん」

「何だ?」

「海老フライと唐揚げ、どちらにする?」

「……唐揚げ」

 父親の選択に応じて由未は冷凍食品をレンジで温めて弁当に入れた。朝食を終えて玄関で靴を履き、靴箱の戸棚についている鏡で、制服と髪に乱れがないか、確かめる。それから、スカートの右ポケットに入れているハンカチと、左ポケットに入れているティッシュをあらためて、昨夜の無駄遣いを思い出した。

「……安物買いの銭失い、だったかしら…」

 夜目には輝いて見えたアクセサリーが、朝日の中では、いかにも安っぽくつまらないものに見える。

「とりあえず、今日だけ……どうせ、見えないでしょう」

 ブラウスのボタンを外して、首にかけた。鏡を見てみる。

「……」

 やはり、安物は安物だった。ボタンを戻すと、誰も守っていない校則に違反しているアクセサリーは見えなくなった。家を出てケータイで時刻を見ると、いつもより7分ほど遅い。

「……ギリギリね」

 由未は近道を選んだ。夜なら絶対に通らない近所の林を歩くことにする。林といっても昼間は子供の遊び場になるような明るい場所で、舗装されてはいないが踏み分けられた小道もある。そこを早足に歩いていく。太い樹の根を踏み越えようとしたときだった。

「待った」

 声と同時に、ドンと何かに胸を押されて、由未は息がつまった。

「ぅッ…」

 胸を押したのは男の手で、声をかけたのも男だった。樹の陰にいて気づかなかった。次の瞬間、由未の頭に血が上る。

「何するのよッ?!」

「申し訳ない。だが、こいつの7年を思いやって、あと10センチだけ足を右へ、その後で非礼の罰を受けよう」

「何を言って…」

 由未は男が指し示す足元を見て、ちょうど踏みつぶそうとしていた蝉の幼虫を見つけた。

「……」

 言われたとおり、10センチ右へ足をおろした。

「ありがとう、お嬢さん」

「…別に…」

 まだ押された胸が痛い。早歩きだった勢いを一瞬で止められた。乳房ではなく、ちょうど胸骨の中央を押されたので男が不埒な目的で手を伸ばしたのではないことは理解できるが、やはり腹が立つ。しかも、由未が見上げなければならないほど、長身の男だ。190センチは超えている。がっちりとして、それでいて着痩せするタイプなのか、大男という感じはしない。

「……」

「叩かないのかね?」

 男は冗談めかして自分の頬を軽く打った。年齢は30歳か、それとも40歳か、若く見えるが、落ちつきからして壮年に入っているのかもしれない。

 由未はキッと睨みあげた。

「叩かれたいの?」

「できれば遠慮したいな。そういった趣味は持ち合わせていない」

「……。こんなところで何をしていたの?」

「こいつが飛ぶ瞬間を見たくてね」

 男は樹を登っている蝉の幼虫を指した。由未に踏みつぶされなかったおかげで、ゆっくりと樹皮を進んでいる。

「……よほど、ヒマなのね」

 由未の中で怒りが呆れに変わった。忙しい朝の時間に昆虫観察できる身分で、しかもコーヒーとサンドイッチまで広げている。

「そのヒマのおかげで、こいつは飛ぶ前に昇天する危機を脱したのさ。ヒマも捨てたものじゃあない」

「うまいこと言ったつもり? くだらない」

「たしかに、お嬢さんには不愉快な思いをさせてしまった。すまない」

 あらためて男が頭を下げてくれた。

「……別に、もう、どうでもいいわよ」

「どうでもいい……では、セミが素数を愛しているのは、なぜかな」

「…はァ…?」

「日本の蝉は7年、他の大陸では13年、北アメリカには17年も地中で過ごす蝉がいる。いずれも素数年だ。なぜ、人間が好んで使う10や12ではなく、素数なのかな」

「……少なくとも、人間が10進法を用いるのは、自分の指が10本だからよ。12進法を発明したのは、季節が一巡するうちに、月の満ち欠けが12回あるからではないかしら」

「なるほど、聡明なお嬢さんだ。では、蝉は指折り、いや、脚折り、6年、12年、18年ではなく、なぜ、あと一年長く、または、あと一年我慢できずに7、13、17とするのかな」

「そんなことわかるわけ……いえ、そうね。人間が考える逆なのよ」

「逆、とは?」

「あなたは蝉が飛ぶために7年待ちわびていると思っているでしょうが、本当は温かくて安全な地中の方が、よほど居心地がいいのよ。だから、つい、あと一年のばして7年、13年。そして、さすがに18年を前にして地中にあきてしまうの。それで、つい一年早く17年で出てくるのよ」

「……地中は、蝉のモラトリアムというわけか……なるほどっ! …くっ、わはははははっ!」

 男は豪快に笑った。

「いや、まったく、新しい見解だ。はははっ! …失礼した」

「……」

 どう反応していいか、わからない由未は男が樹に立てかけているケースに気づいた。細長い合成革のケースで、長さは1メートル以上、直径は10センチ程度の円筒形のケースだった。こういうものを由未は一つしか知らない。

「矢筒…、あなた、弓道をやるの?」

「ん? これかね。これは釣竿だが?」

「…そう…」

 世の中には由未の知らない物が色々とあるようで、矢を入れて持ち運ぶケースだと思ったのは、まったくの見当違いらしかった。

「……」

「さて、順調に地上を踏破しているな」

 男は再び樹を登っている幼虫へ目を戻している。

「それにしても、こいつは一年のばした挙げ句に、今日も寝過ごして3時間も遅刻したわけだ。もっと明け方に地上へ出てくれば、近道をする女生徒に踏まれそうになることもなかったろうに」

「ぁっ、遅刻っ!」

 由未は自分の状況を思い出した。

「あなたのせいよ!!」

 叫んで、男が何か答える前に、もう走り出している。けれど、ケンが乗っている電車には乗り遅れてしまい、校門で出会ったときには孫子へ忘れ物のケータイを渡しているところだった。ケンは由未に気づかず、由未も呼び止めなかった。昼休みになると、四限目の教科書を片付けながら、由未は不満を隣席の級友に伝える。

「いい加減、私の教科書をあてにするのは、やめてほしいわ。先週のうちに新しい教科書をもらったでしょう」

「今日も、由未はお弁当ですか?」

「カバンも持ってこない、お弁当も毎日コンビニでは身体を壊すわよ」

「30品目の健康バランス弁当でも、ダメでしょうか。やっぱり、サラダも買った方がよかったかなぁ……でも、それだと総カロリーがオーバー気味になりますから、今度からサラダを半分ずつにしましょう。教科書を見せてもらうお礼です」

「……一応、人の話を聞いてはいるのね」

「はい。ちゃんと聞いてますよ」

 孫子は机から休み時間のうちに買ってきた学校近くのコンビニの弁当を出している。由未は母親と作った弁当だった。

「由未のメインは唐揚げですか、少しメタボな内容ですね」

「……仕返しのつもり?」

「いえ、単なる感想ですよ。いただきます」

「いただきます」

 二人とも席を移動せずに、そのまま食べ始める。もともと由未は他のクラスメートと食事せず、一人で食べていた。今は孫子と机を寄せているので、あえて離すこともなく昼食を済ませる。食べ終わる頃に、茂木がC組の教室から出張してきた。

「あんたら二人で食べてるのもええけど、ユミリンは、そろそろケンと食べたら、どやねん?」

「……」

「でもって、手作り弁当も基本やろ」

「ですね」

「でも…」

「デモもテロもないっ! 約束やで! ちゃんと二人分の弁当もってきぃ! 約束やぶったら針千本や!」

「そんな子供みたいなこと…」

「子供なんはユミリンや!」

「……」

「ええな!」

「約束ですよ」

 孫子が手を取って小指をからめてくる。ノリの良さでは学校一の茂木も小指を重ねてきた。声も重ねて合唱までしてくれる。

「「針千本飲~ます♪ 指きった♪」」

「……よく、こんな恥ずかしいこと、大声で歌えるものね……あきれるわ…」

 赤面した由未は教室を出たくなったけれど、予鈴が鳴り、茂木が出て行く。五限と六限が終わり、放課後になった。由未は弓道部の部室で着替える。ブラウスを脱いだ由未の胸に光るアクセサリーを茂木が目聡く見つけた。

「それ、どないしたん?」

「昨日、帰りに買ったのよ」

「ふ~ん……ケンと関係のう?」

「ないわ」

「……」

 茂木はキュッと帯を締めると、由未も着終わったことを確認して部室のドアを開ける。ドアの前に孫子がテニスウェア姿で待っていた。

「なんで、そのカッコやねん」

「気に入ってるからです」

「……弓道しにきたんやろ?」

「はい」

「弓道着が無いんやったら体操服ってのが普通なんやけど?」

「あたしは普通じゃないですし、長ズボンだと暑いです。ブルマだと恥ずかしいです」

「そのカッコの方が、なんぼか恥ずかしい気がするけど」

「弓道着って、暑くないですか?」

「暑いよ」

「ですよね。弓道部に入るとしても秋までは……。あっ、由未、そのアクセは?」

 孫子も気づいた。ブラウスと違って胸元が少し開いているので見えている。

「昨日、露店で買ったのよ」

「やめた方がいいです。似合ってません」

「……」

「とてもセンスがないです」

「……」

「あんたボロかす言うなぁ」

「いつから由未はキリスト教徒ですか?」

「…別に、…そういうわけではないわ」

「なら、もっと最悪です」

「……」

「十字架は当時の死刑台です。ある意味、棺桶をアクセにするのと同じです」

「……」

「由未の家は仏教徒ではないのですか? 宗派は?」

「…禅宗、だったと思うけど…」

「弓道着にも合ってません。センスを疑います。おまけに安っぽいです。そんなものに、いくら使ったんですか?」

「…350円よ。定価800円を値切ったの」

「せっかくの美人が350円の首輪をしてるなんて台無しです。ブタでも、もっと高い首輪を巻いてもらってます」

「あんたケンカ売ってるやろ?」

「違います。真摯な忠告です。モッチーは似合っていると思いましたか?」

「ぅ…いや、まあ、実は正直なところ、ちょ~っと、ダサいかなぁとは」

「ダサ過ぎます」

「別に! 私だって気に入ってるわけではないわ!!」

 由未は怒って乱暴に革紐をちぎると、足元へ叩きつける。

「っ!」

 とくに命中しそうな軌道ではなかったが、孫子は飛び退いて避けた。慌てた様子でバランスを崩して尻もちをついている。

「またパンチラ。ウチらにサービスして、どないすんねん?」

「痛~っ…何するんですかっ?!」

「あなたが勝手に避けそこねただけでしょう!」

「投げつけるなんて、ひどいですっ!」

「もともと狙ってなんてないわっ!」

「……」

「……」

 二人が睨み合ってしまったので、茂木が間に入る。

「まあまあ、お二人さん。ここはウチに免じて」

「「……」」

「よし、こうしよ。ケンに新しいアクセを買わせるんや」

「どうして、そうなるのよ?」

「ええやん。付き合うてるんやし。おねだりくらい」

「グッドアイディアです」

「……」

「千円程度なら普通にありやで。手作り弁当の対価やと思えば安いもんや」

「善は急げといいます。ケンさん、今日は部活を休むと言ってました」

「ホンマかいな?」

「はい。急にバイトに入ってほしいと連絡があったそうです。他の人が休んでしまってフロアが一人になるからとか」

「そらキツいな」

「ケンさんのバイトって、何をされているんですか?」

「ファミレスのウエーターや」

「では、これから、そのファミレスに行くというのは、どうですか?」

「ええね」

「それは迷惑というものよ。余計な仕事を増やすだけになるわ」

「ええ気遣いや。けど、甘い。いっそ、ウチらが客として長時間ねばるねん。ドリンクバーとか、フロアスタッフに負担をかけんオーダーで。そしたら、テーブルが埋まるさかい、さばける人数も限られてくる。夕飯時が終わるまで占拠したったら、ええねん」

「さすが、モッチー!」

「……」

「ほな、今日の部活は、ごく軽くちゅーことで」

 簡単に部活を終わらせた三人は電車に乗り、ケンがバイトしているレストランの客となった。それほど店内は混雑していないが、たった二人で対応しているらしく、かなり忙しそうだった。茂木がケンを呼ぶと、早足で来てくれた。

「モッチー……ここを二人に教えたのかよぉ…」

「ええやん。秘密ってわけでもないんやろ」

「まあ……で、ご注文は?」

「ドリンクバーを三つ頼むわ。それだけにしといたろ」

「ありがと、助かるよ」

「でも、あとで由未にアクセを買ってあげてください」

「マコちゃん?」

「やめてっ! やっぱり、やめてちょうだい。ごめんなさい、何でもないの!」

「真藤さん……えっと……とりあえず、ごめん。バイトが終わってから」

 やはり忙しいらしく、すぐに他のテーブルへ駆けつけている。勝手がわかっている茂木が立ち上がってドリンクバーからコーラを三つ持ってきてくれた。

「なんぼなんでも、マコ、いきなりすぎるで」

「単刀直入ですよ」

「そらそやけど…」

「私、帰るわ」

「今、帰るとなると会計せんならんから、また負担やろね。おまけにワリカンすると端末機の操作がややこしいらしいで?」

「……」

 ガチャン!

 食器の割れる音がフロアに響いた。由未たちではなく、離れたテーブルでウエートレスが食器を落としたようだった。何枚かの皿とコップが割れて散乱している。

「すいません! 失礼いたしました! すいません!」

 ミスをしたウエートレスが半泣きで謝っていた。そこへ、ケンがフォローに駆けつけてくる。

「望ちゃん、大丈夫? ケガは?」

「はい、平気です。すいません、ごめんなさい。忙しいのに…ぅっ…ぐすっ…」

 泣きそうになった同僚の背中をケンが優しく撫でた。

「いいから気にしないで。ケガがなくてよかった」

「ごめんなさい、中嶋先輩」

 二人の様子を見ていて、孫子はケンが中嶋紀彦という本名を持っていることを思い出した。茂木は深いタメ息をついている。

「なにが……のぞみちゃ~ん…や……あのアホ…ホンマ…」

「年下キャラですね。あたしと同じく丁寧語で下手に出て、すりよるタイプです。しかも、それが素で可能な子かも」

「あんたも……ホンマ……なんちゅーか……やっぱり、猫かぶっとるんや?」

「にゃ~~ん、ですか?」

「……。とにかく、ユミリン。気にせんことや。あのアホは誰にでも優しいだけやし」

「そうね」

「そうや」

「誰にでも優しい、それは長所ですね」

「せや」

「短所でもありますね」

「……せや」

「一長一短とは、まさにケンさんのことですね」

「……ウチがユミリンの立場やったら、刺し殺しとうなるかも」

「ケンさんを?」

「あんたをやッ!!」

「にしても、ケンさんを中嶋先輩って呼ぶということは別の学校の後輩ということでしょうか? モッチーは知ってます?」

「さあ……まあ、ただの同僚やと思うでホンマに。少なくともケンは、そう思とるやろ」

「ケンさんは、ですね」

「二人とも……私、本当に帰りたいわ。お願い」

「「……」」

 孫子と茂木は顔を見合わせると一気にコーラを飲み干した。

「由未、飲まないんですか?」

「……ええ」

「もったいないから、いただきますね」

「そうしてちょうだい」

 由未が一口だけ唇をつけていたグラスも飲み干した孫子が財布を出している。

「あたしが払います」

「オゴってくれんの?」

「払いたいんですよ。その代わり、モッチーは由未を連れてケンさんと少しでも会話しておいてください。あたしは望ちゃんと話したいから」

 孫子はタイミングを見計らって会計へ行く。狙い通り、さきほどミスをしたウエートレスがレジに立ってくれた。

「お会計で、よろしかったでしょうか」

「……」

 孫子は黙って一万円札と伝票を置いた。230円のドリンクバー三つ、690円の支払いに小銭も調べず一万円札を出しているが、ウエートレスは営業スマイルで対応してくれる。

「一万円から、お預かりいたします」

「高校生?」

 疑問文になっていない、単語一つに語尾をあげただけの不躾な質問を投げつけている。ウエートレスは少し驚いて、営業スマイルを困惑スマイルに変えつつも答えてくれる。

「…は、…はい、そうですが…」

「何年生?」

「……一年生です」

「どこの学校?」

「……」

 そこまでは答えたくないです、という表情を浮かべたスマイルを器用に作ってくれたが、孫子は手加減しない。

「どこの学校?」

「…稲豊高校ですけど…」

「あのバカ高」

「……」

 さすがに黙って9310円を用意し始める。スマイルも消えている。

「いつからバイトしてるの?」

「……先々月からですが、それが何か?」

「紀彦に色目つかうの、仕事のうちなの?」

「……。9310円のお戻しになります」

「三浦望」

 孫子は差し出された紙幣と硬貨を受け取らずに名札を見て、呼び捨てた。

「……こちら…9310円のお戻しになります」

「呼ばれたら返事は? 三浦」

「…はい」

「バカね」

「……」

「ありがとうございました、って、言ってごらん」

「……」

「バイトでしょ?」

「……。ありがとうございました」

 望は感情を抑え込んだ顔で大人の対応を試みるが、孫子は続ける。

「またお越し下さい、って、言ってごらん」

「……またお越し下さい」

「すごくバカね。犬以下」

「……」

「それ、あげる。バカにした賠償金」

 孫子は背中を向けた。

「ぇ、あの…、お客様?!」

 チップを受け取る習慣のないウエートレスが混乱している。孫子は望を無視して、最後にケンを見つけると、輝くような可愛らしい笑顔になって「また明日」と手を振った。すぐに茂木と由未が店の外で合流してくる。

「ほんで、どんな話をしたん?」

「稲豊高校の一年生だそうです。先々月からバイトしているそうですよ」

「それだけやないやろ」

「ちょっとだけ睨んでおきました。それだけです」

「それだけやない、やろ?」

「お見通しですか。お釣りをチップにあげちゃいました」

「なんでやねん?」

「もらう道理のないお金が手元に残るって、後味が悪いと思いません? あの子、いい子そうだから余計に困ると思います」

「あんたってホンマに次から次へと……」

「由未、アクセもらいそびれちゃいましたね」

「…別に、…どうでもいいのよ。もう……。それに、もともと、もらう道理のない物よ。もらっても後味が悪いわ」

「ケンさんは手作りのお弁当を食べて、後味悪く思うのでしょうか?」

「……」

「アクセのお詫びに、あたしが由未に何か買ってあげます」

「それこそ、道理がないわ」

「そんな道理、あたしの無理で撃ち抜きます」

 孫子は放課後まで十字架があった由未の胸元へ、手で作った銃を向けて撃った。

「可愛く可愛く、ねだってくれたら、何でも買ってあげますよ。わき腹を槍で突いても生き返る化け物ブランド以外なら」

「……帰るわ。ついてこないで」

 由未が一人で歩き出し、孫子は茂木を見る。

「ほな、また明日ちゅーことで」

「ですね」

 その場で解散になった。

 

 翌朝、定刻に起床した由未は身支度を整え、台所で炊事の手伝いをしていたが、父親が洗面所に入ると、ホウレン草を切っていた母親が手を止めて話しかけてくる。

「由未、夕べも遅かったわね」

「友達と話していたの」

 即答したけれど、母親は納得していない。父親が戻ってこないうちにと、話を急いでいるようだった。

「一昨日、どうして下着を替えていたの?」

「……」

 洗濯物のすべてを把握している母親に、どう説明すべきか、わずかに迷った。いつも由未はブラジャーとショーツの色を合わせているけれど、あの日はコンビニで買ったショーツのまま帰宅して、それを洗濯機に入れてしまった。昨日の昼に干した母親がブラジャーと色の合っていない見たことのない新品のショーツを不審に思っても仕方なかった。

「雨に濡れたのよ。にわか雨に」

「ウソおっしゃい。一昨日は、よく晴れていたわ」

「…降ったのよ、本当に。いっしょに友達も濡れたわ」

「茂木さんのこと?」

「違うわ」

「じゃあ、誰といたの? なぜ、下着を替えることになったの? 制服は濡れていなかったわ」

「っ! どうして、いちいちお母さんに説明しないといけないの?! もう子供じゃないわ!」

「……。子供じゃないから心配しているのよ」

「……」

 意味はわかった。

「由未、とにかく、軽はずみなことは、やめてちょうだい、ね」

「……」

 軽はずみなことって、なによ、由未は喉元まで込み上げてきた反駁を飲み下した。けれど、胸の中を嫌悪感が這い回っている。それは吐き気のような寒気のような、とにかく不快で、冷たい羽虫が身体の中を飛び回りながら神経を刺激しているような実に気持ちの悪い感覚だった。

「この頃、変な事件も多いのよ」

「……」

 親として子を心配してくれると同時に、女として娘を蔑まれたような、ひどく少女のプライドが傷ついた朝で、きっと自分は今のことを一生忘れない、そんな風にさえ思えてくる。今聞いたことを耳ごと、記憶を脳梁ごと、取り去りたい衝動にかられるほど、精神的な不快感が増して、それが肉体の違和感に実体化して痛いような疼きが、胸といい、喉といい、そして下腹部から脚にまで飛び回っている。

「聞いてるの?」

「……」

 由未はカバンをつかんだ。とても朝食は喉を通らない。まして、孫子と茂木が言っていた約束は覚えていたけれど、こんな疑いをもっている母親が管理する台所で二人分の弁当を作ろうなんて無理だった。

「いってきますっ!!」

 家を出た。怒鳴りたい、叫びたい、カバンをアスファルトに叩きつけて地面を二つに割ってやりたい、苛立たしくて気が変になる。だから、近道の林に入った。もしも、昨日の男がいたら思いっきり叩いてやる。非礼の罰は受けるといっていた。たとえ、八つ当たりでも何でもいいから、力一杯殴ってやる。

「……」

 男は、いなかった。

「……」

 蝉の声だけが、うるさい。

「……」

 蝉の抜け殻だけが残っていて、男の痕跡はなかった。諦めて由未は一人で登校する。茂木にも、ケンにも、孫子にも会わないよう朝食を抜いた分、早い電車に乗り、孫子のマンションから遠い方の校門を通って教室に入った。

「……」

 始業まで15分は余裕があり、まだ10人ほどしか教室にいない。誰とも挨拶を交わすほどの仲ではないので黙って最前列の自分の席へ座った。始業50秒前になって孫子が隣に座った。

「由未、来てたんですか。モッチーが探してましたよ」

「……」

「おはようです」

「……」

「お、は、よ、う」

「……」

 ずっと黙っている由未の耳元へ、孫子は他のクラスメートには聞こえない小さな声で問いかける。

「何かイヤなことでもあったの?」

「あったわ」

「どんな?」

「あなたに会ったことよ」

「……」

「……」

「由未、今すぐ謝ったら許してあげる」

「……」

「朝からイヤなことがあって、つい八つ当たりしちゃったの、ごめんなさい、って言ってごらん」

「……」

「お願い、話を聞いてちょうだい、ううん、そばにいてくれるだけでいいの、優しく頭を撫でてくれるだけでいいの、って言ってごらん」

「……」

「ごめん、って一言でもいいよ」

「……」

「そうね、黙ってコクッと頷くだけでもいい。目尻に涙なんか浮かべてくれたら、思わず抱きしめてあげる」

「……」

 ちょっとだけ迷った、言われるまま頷いて、ごめんなさいと謝って、頭を撫でてもらえば、すっと楽になれそうな気がする。身体は小さいのに、大きくて柔らかそうな胸へ抱きよせてもらえば、何もかも忘れられそうだった。けれど、由未は今まで通りの自分を貫くことを選んだ。

「私に近づかないでちょうだい。暑苦しいわ」

 由未は腕力で孫子を遠ざける。肩を押して距離をとり、寄せていた机を離して一限目の教科書を孫子から遠い方の端へ置いた。

「……」

「……」

 担任の教師が入ってきて出欠を取り、一限目が始まるまでの時間に、再び孫子が声をかけてくる。

「約束のお弁当、作ってきました?」

「そんな約束、覚えてないわ」

「そうですか」

 席を立った孫子は教室を出ると、茂木のクラスに入った。一限目の準備をしながらクラスメートと談笑しているところへ、遠慮無く話しかける。

「モッチー、ちょっと付き合ってください」

「付き合えって、あんた、これから授業はじまるやん。だいたい、ユミリンは?」

「ちゃんと出席してました。でも、その由未のことで付き合ってほしいんです。サボると留年しますか?」

「出欠に余裕はあるけど……そこまでのことなん?」

「はい」

「しゃーないな」

 立ち上がった茂木を連れて教師に見つからないように校門を出ると、孫子は街で一番大きなショッピングセンターを茂木に案内させた。二人で入店して、いかにも時季外れの文化祭のために買い物に来たという雰囲気で店内を歩き、裁縫道具のコーナーで足を止めた。

「何を買うねん?」

「これです」

 孫子は25本入り498円の裁縫針を手にしている。

「そんなもん、学校のそばでも買え……って、どんだけ買うねん?!」

「たくさん在庫のある店でないとダメだったんです。あ、これも、ついでに。新品の制服なのに、もうボタンが取れかけてるんです」

 ほつれかけていたブラウスのボタンを縫いつけるために携帯できる大きさの縫衣具セットも選んでいる。糸と針、それに小型の糸切りバサミがセットになった女の子らしいアイテムが598円で見つかり、レジへ向かった。

「40438円になります」

 大量の針を買う女子高生に店員も驚いているが、茂木は使用目的が理解できてきた。

「……もしかして、ユミリン、弁当もって来とらんの?」

「そんな約束、覚えてないわ、と涼しい顔で言ってくれました」

「…せやけど、そんなことに4万も……」

「約束は約束です」

 孫子が呆れている茂木を連れて、学校へ戻った頃には、昼休みだった。教室に由未の姿はなく、少し探すと校庭の木陰にいた。一人で買ったコンビニのトマトとナスの季節パスタへ、白いプラスティックのフォークを入れているところだった。

「……」

 由未は食べようとしていたパスタにキラキラと光る針が降り注いでくるのを最初、状況が理解できずに見つめていた。気がつけば、目の前に立っている孫子が両手にいっぱいの針を降らせている。いったい、何の嫌がらせなのか、しばらく考えて、それから手の込んだ復讐だとわかった。

「さあ、どうぞ。飲んでください」

「……」

 由未も針千本の約束が記憶にないわけではない。

「早く飲みましょう。約束ですよ」

「……」

 こんなもの飲めるわけない、そんな指摘をするのも鬱陶しい、孫子の背後にいる茂木をも睨むと、曖昧な笑顔を浮かべて視線をそらせてくれた。

「約束です、由未」

「……」

 パスタは針に埋もれて、もう見えない。皿の上は山盛りの銀色だった。

「さあ」

「……」

「マコ、ユミリン、そのへんにしといて仲直りしぃや。こんな針で銀シャリみたいにしてもうて、睨み合いしてんと」

「由未、ごめんなさい、は?」

「……」

「そうね、針の数だけ、ごめんなさいを言えたら、許してあげる」

「どんだけ言わすねんっ?!」

「じゃあ、この千分の一でもいい」

「……」

 黙っていた由未は皿を傾けて針を校庭に捨てると、パスタの残った皿を持って立ち上がり、焼却炉に皿ごと捨ててしまった。振り返らずに歩いていく。

「ユミリン! ちょい待ちぃて! ………マコも、ちょっと頭冷やしときぃや!」

 茂木は昼休みが終わろうとしているのに教室へ戻ろうとしない由未を追いかける。すぐに話しかけても無駄だとわかっているので、2メートル離れたところを追跡していく。途中で静かなタメ息を漏らしながら、クラスメートと孫子へメールを送り、自分と由未が授業を欠席する理由をでっち上げて教師に伝えておくよう頼んだ。黙って歩き続ける由未に目的地は無く、曲がりたい角で曲がり、進みたい道を進み、いつしか大きな池のある公園についた。

「……」

「もーちょっとキレイな池やったら泳げるのになぁ」

 茂木が小石を拾って水面へ投げつけている。石は5回も水面を叩いてから沈んだ。茂木は嬉しそうにガッツポーズを取る。けれど、葦の繁みを二つ越えたあたりから釣竿が見えている。怒られることはなかったが、かなり迷惑な行為だったに違いない。

「すんません、つい気ぃつかんと」

 茂木が繁みの向こうへ声をかけると、繁みから男性の頭が出てきた。

「あの見事な投石が、女の子とは驚きだ」

 由未に見覚えのある顔だった。

「あなた、どうして、ここにいるの?」

「そいつは同感だ」

「……はぁ?」

「オレも同じことを考えたよ。どうして、お嬢さんは、ここに来たのかな? たまたま? 偶然なのか、それともオレを探してくれたのか、とね」

「どうして、私があなたを探さなくてはいけないのよ?」

「その方がロマンがあっていい」

「……バカみたい」

「ユミリンの知り合いなん?」

「……、知らないわ。一度会っただけよ」

「今日で二度目さ。そっちのお嬢さんには、はじめまして。オレは船井芳実」

「茂木友美や。ヨシミって、また似合わん名前やねぇ」

「よく言われる。この図体で芳実はないからね」

「ええ身体してるやん」

 茂木が船井の肩を叩いた。

「おまけに、顔もええ」

「ちょっと、モッチーっ! あなた、初対面の人に、どうして、そう馴れ馴れしくできるの?」

「別に普通やん。感じのええオッチャンやし。おもろそうや」

「茂木さんの方が、面白いさ」

「そんなこと言うて、星の数ほど女を泣かせてきたくちやろ」

「いくら寿命があっても、銀河の星々と比べられたら、太刀打ちできないな。せいぜい、ダース単位といったところさ」

「あははははっ! おもろい、おもろいで! 最高や。ほんで、昼間っからヒマそうに、釣りしてはったんやね。邪魔して、ごめんなァ」

「いや、実は釣竿の調子を確かめていただけさ。釣っていたわけではないから、気にせず石を投げてもらってもいい」

「平日の昼に、ええ身分やねぇ。船井はん仕事は何をしてんの?」

「自衛隊員さ。しばらくは有給休暇だがね」

「なるほどっ! 道理でホンマに、ええ身体してるわ。なんか格闘技でもやってるんかと思たけど、軍隊とは恐れ入ったわ。カッコええやん」

「誉めるとサンドイッチくらいは出る。コーヒーもつけよう」

 船井がサンドイッチの入ったランチボックスを茂木に向けてくれる。

「おおきに。いただきまーす」

「…モッチー…」

 遠慮の欠片もない友人を恥ずかしく思ったけれど、由未こそ朝から何一つ食べていない。

「めっちゃ美味しいやん、このカツサンド! 船井はんが作ったん?」

「料理は好きな方でね。お嬢さんも、どうかな?」

「……」

 由未は言葉の代わりに、お腹で返答してしまった。きゅるきゅると情けない音で鳴る腹を心底恥ずかしく思って、ケチャップよりも真っ赤になった由未を茂木が笑った。

「あははっあははっ! なんぼスマしとっても、身体は正直やね」

「まったくだ。食欲には逆らえないな」

 船井がサンドイッチを勧めてくれる。

「……ありがとう……ございます」

 礼を言って食べる。美味しかった。ほどよくトーストされたパンと、さっくりとしたカツに冷たいトマトとレタスが最高に合っていて、二つ三つと食が進み、すっかり満腹になった。

「ごちそうさん」

「ごちそうさまです」

「いい食べっぷりだった。さすがは育ち盛り」

「船井はん、料理うまいんやね。ホンマお世辞ぬきで美味しかったわ。な、ユミリン」

「ええ。…そうね」

「お誉めに預かり恐悦至極」

 船井も満足そうに微笑んでいる。重ねて礼を言った茂木と由未は、そろそろ授業が終わり、部活の時間になりかけていることに気づいて、学校へ戻った。クラスの担任には貧血だったという説明がされていたらしく、とくに問題になることもなく弓道場へ行く。着替えて弓の具合を確かめている茂木と由未に、テニスウェア姿の孫子が近づいてきた。

「由未とモッチーに言わないといけないことがあるんです」

「なんや?」

「……なにかしら?」

 今朝と昼休みのことを忘れたわけではないけれど、幾分冷静になった由未も無視はしなかった。

「怒らないで聞いてくださいね」

「そら内容によりけりや」

「ええ、あなた、とんでもないことを平気で言うもの」

「じゃあ、今回も、とんでもないこと、で、よろしくお願いします」

「……言うてみぃ」

「……言ってみてちょうだい」

 二人は簡単な覚悟を決めて、孫子の言葉に傾聴する。

「あたしも、ケンさんのこと好きになっちゃいました、です。やっぱり遠慮しないで正々堂々、由未と対決ってことでよろしくお願いします」

「殺すッ!!」

 茂木が矢を番えると孫子に向けて弓を引いた。

「もっぺん言うてみぃ! どの口や?! 二度と喋れんようにしたる!!」

「もう一度、言いますよ。この口で」

 孫子が自分の唇を指で撫でる。

「好きです、ケンさんが」

「あんたには地獄すら生温いわッ!!」

 茂木が怒鳴ると同時に、由未は茂木の引き手と矢を強く握った。

「やめなさいッ!! モッチーッ!」

 矢を弦から外して安全な状態にして、茂木を睨んだ。

「たとえ冗談でも、弓を人に向けて引かないっ! これは鉄則でしょう?!」

「……せやけど……、…」

 本気で怒られているので、茂木が勢いを失った。

「…せやけど……マコが…あんまり好き勝手いいよるし…」

「そんなこと問題じゃないわ! これは人を殺す武器だったのよ。それを忘れないでちょうだい」

「……。正論やけど……いっそ、こんなヤツ殺した方がようない? 人ちゅーより魔物のたぐいやで」

「どうせ、ケン君を好きになったなんて、またウソか、冗談よ。わからないの?」

「いいえ、本気ですよ♪」

 孫子はアメ玉を二つ、掌にのせている。

「ごめんなさい、由未。で、これ、お詫びの飴です」

「「……」」

「ダメですか? モッチーの分もありますよ」

「あんたはアメ玉一つで彼氏を横盗りしよういうん?」

「由未には自衛の権利があります。あたしは宣戦布告しました。ですので、今日はテニス部に出席します。地の利は、あたしにありますよ、由未もテニス部に編入したら、どうです? うふふ」

「……」

「あんた背後に気ぃつけいや。矢が飛んでくるかもしれんで」

 背中を向けた孫子へ警告すると、顔だけ振り返ってくれる。

「はい。でも、どうせ止まってる的でしか練習していない人たちには当てられませんよ」

 孫子は回避運動のつもりなのか、左右にランダムなスキップをしながら遠ざかっていく。余計に見ている茂木の苛立ちを高めた。

「アイツはぁあッ!!」

「もう、どうでも、いいわよ」

「…ユミリン…」

「あの人がしたいように、すればいいのよ。もともと好きになるのを止める権利なんて無いでしょう」

「…あんたが、そんなこと言うて……どないすんの…」

「今は練習しましょう。部活の時間よ」

「……」

 結局、その日の練習は二人とも気の乗らないものとなり、的を外してばかりだった。弓道部の部活が終わる頃には、テニス部は帰った後で、由未が何も言わないので茂木もあえて話題にせず、いっしょに電車に乗り、あまり会話も弾まないまま由未と別れ、自宅近くまで帰ってきた茂木は待ち伏せていた孫子を見つけて、殺気に近い感情を覚えた。

「あんた、そこで何してるん?」

「モッチーを待っていました」

「……。とりあえず、一発シバいてええな?」

「は、話を聞いてからにしましょうよ!」

「10秒や」

「ケンさんのこと好きなんてウソです。あまりにも由未が奥手だからライバル出現って状況になれば本気になるかもって思ったんです!」

 早口で一気にまくし立ててくれた。

「ふ~ん……うまいこと10秒でウチを納得させたもんやけど……ホンマにホンマ?」

「もちろんです」

「…まあええわ。信じたろ。もしも裏切ったら、電柱にくくりつけて的にするしな」

「はい」

「……。ほんで、具体的な作戦とかあるの?」

「明日、あたしの部屋にケンさんを呼んでます。さっき帰りに約束しました」

「もしも、あんたがホンマにケンを好きになったんやったら、三日で奪えそうやな」

「ですね。もしかしたら三時間かもしれません。侵略すること炎の如く♪」

 孫子はロリポップキャンディーをポケットから出して口に入れた。茂木にも勧めてくれたので、夕食前の空腹に負けて口に入れる。

「おおきに」

 一応の礼を言ってから、文句も言う。

「何が炎や。林か山にしとかんと電柱にくくるで」

「意外と博識ですね。風林火山をご存じですか」

「やかましいわ。あんまりケンを誘惑するんやないでホンマに」

「はいはい、あたしはケンさんを好きじゃないから、彼の前でも器用にふるまえるんですよ。それに、ケンさん誰にでも優しいし」

「……ったく。ほんで? どんな作戦やねん?」

「これ、あたしの住所です」

 孫子はメモを渡してくれる。学校の前にあるマンションの名前と部屋番号が書いてあった。

「明日、モッチーと由未も遊びに来てください。それで、四人で楽しくおしゃべり。そしたら、次は由未が由未の家にケンさんを呼ぶ番です。あたしとモッチーは当日になって急用ができて欠席」

「なるほど……合理的で納得がいく作戦ではあるなぁ……」

「じゃ、モッチー、バイバ~イ」

 また回避運動のようなスキップで孫子は去っていった。

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