第3話
翌日の部活後、ケンは孫子の部屋を訪れていた。3LDKのマンションに備えつけの家具と制服やテニス用具が置かれている他には、ダンボール箱が整然と積まれているだけで、ほとんど生活感がない。
「テキトーに座ってください」
「あ、うん。部屋、片付いてる…っていうか、片付ける前?」
「はい。引っ越ししてきて片付ける前に、テニス始めちゃったり、いろいろで生活に必要なもの、その時々で出してますから、そのうち、ちゃんとしないといけませんね」
孫子は届いていた郵便物をダンボール箱の上に置くと、冷蔵庫からアイスティーを出してグラスに注いでいる。
「由未とモッチーも弓道部が終わったら来てくれるそうです」
「え、そうなの?」
「はい」
「そっか…」
「お腹空いてますよね。なにか簡単に作ります」
「あ、いいよ、別に」
「あたしも、お腹空いてますから」
孫子は昨夜から下ごしらえしておいた四人分の手料理を仕上げていく。できあがる頃には由未と茂木も訪ねてきた。四人での軽い食事が終わり、孫子は冷蔵庫をあけて考える。
「コーラとか、買ってきますね。他にリクエストありますか?」
「ボクもいくよ。重いだろうし」
「平気です。すぐ近くのコンビニですし、あたしが今日はホストなんですから、座っててください」
やや強めに断言して孫子が買い物に出ると、主のいない部屋に三人が残される。
「マコちゃんって料理うまいんだなぁ」
「……そうね。美味しかったわ」
「下手やないけど、こんなくらい普通やで。にしても、本人がおらんから気になってたこと話題にするけど、ご両親って、どないしてはるんやろ? 一人暮らしにしては贅沢な部屋やで」
「そうかも……。トイレ、こっちだっけ?」
ケンが座を外した。二人になると、茂木は由未へ耳打ちする。
「ユミリン、このままケンのこと盗られてええのん?」
「……。彼が決めることよ」
「いや…その、…あんたの努力とかも…なんていうか、こう…もうちょっと可愛くするとか、媚びを売るというか、その、アピールや。アピールっ」
「男に媚びを売れっていうの? 私が、それほど器用な人間じゃないことは知っているでしょう?」
「はぁぁ……」
茂木はタメ息をついて、意味もなく部屋を見回した。
「にしても殺風景な部屋やなぁ。ん…英語? エアーメールかいな」
何気なくダンボールの上に置かれている郵便物を手に取った。A4サイズの封筒に英文が印刷されている。
「モッチー、人のものを勝手に…」
「これ、なんて書いてあるか、わかる? リヒテなんとか? ユミリンやったら読める?」
「えっと…」
由未は渡された封筒の文字を読もうとする。
「Liechtenstein Ban…」
その途中で孫子が戻ってきた。その目が由未の持っている封筒を映すと、二段階以上も冷めた目つきになった。
「由未。それ、あたしのものよ」
「……ごめんなさい」
「どうして、勝手に見てるの?」
「……それは、…その……ごめんなさい」
「意外と行儀が悪いのね。……返してください」
孫子は郵便物を受け取ると、ダンボールの向こうへ投げた。ケンもトイレから戻ってくる。異様な空気に、いつも鈍感な男も気づいた。
「どうかした? なにか、あった?」
「なんもあれへんよ」
茂木が即答して奇妙な雰囲気を払い捨て、ついでに訊きたいことを直球で訊く。
「マコって家族は? いっしょに、いてへんの?」
「今は一人暮らしです」
「…両親は、おらんの?」
「モッチーの家族は?」
「普通や。……みんな関西弁やけど」
「じゃあ、あたしも普通」
「マコちゃんは一人暮らしで淋しくない?」
「淋しいです。ときどき遊びに来てください」
「ぇ……っと、……。うん、学校から近いしね。ときどき来るよ」
「私、帰るわっ!」
由未が立ち上がって、もう背を向けている。
「ちょ、ちょい! ユミリンっ!」
茂木も立ち上がって、由未を追いかけつつ、孫子を睨もうとしたが、考え直してケンを睨んだ。
「……ボクも帰るよ。ごちそうさま」
「おそまつさまです」
三人が帰ると、孫子は茂木へメールを送る。
(ごめんなさい、ちょっと挑発しすぎちゃいました。フォローお願いします)
かなり勝手な内容のメールに返信はなかった。
翌朝、登校時刻ギリギリに起床した孫子が身支度を整えてからケータイを見ると二通のメールが入っていた。
茂木から。
(フォローはしといたけど、今日は挑発せんときや)
「了解です」
ケンからもメールが入っている。
(朝練するけど、よかったらマコちゃんも来る?)
「あたしに惚れるなよ、少年」
ケータイに独り言を告げて登校したが、教室に入っても由未がいない。昼休みになってC組の教室を訪ねても、茂木もいない。
茂木と同じクラスのケンが声をかけてくれる。
「どうかした? マコちゃん」
「モッチーはいないんですか?」
「ああ、休みか、遅刻か、一時間目からいないけど…」
「そうですか」
「あ、今日も練習、来てくれるよね? テニス部に」
「……。解答は保留させてください」
「……そっか……わかった。でも、待ってるから」
ケンが言い終わるのを待たずに、孫子は背中を向けて自分の教室に戻りながら、茂木と由未へメールを送ってみた。意外にも由未から返信があった。
(ちょっと事情があるの。気にしないで)
「一番気になるツボをついてますよ。……気になるじゃないですかっ! もおおっ!」
孫子は叫んで悔しがった。
「これを昨日の仕返しでやってるなら策士だけどっ! あの子、天然だからっ! もお! どんな事情なの?! 気になる! 気になる! …あっ、いたっ!」
廊下の窓から、校門を入ってくる二人を見つけた。
階段を駆け下りて、昇降口で捕まえる。
「ハァハァ、二人とも、どうして遅かったんですか?」
「どうしたもこうしたもあるかいッ!!」
茂木の怒声が返ってきたので、孫子は反射的に小さな身体を、さらに小さくしたけれど、怒りの矛先は孫子ではなかった。
「ホンマ腹立つわッ!!」
「何があったんです? そんなに怒って、タコみたいですよ」
「タコにもなるわいッ! 乙女のケツを何やと思とんねんッ!」
「乙女はケツって言わないと思いますけど。いったい何があったんです?」
「モッチーが痴漢に遭ったのよ。電車内で」
「ええーっ?! それで犯人は無事だったんですかっ?!」
「ひどい目に遭ったわ」
「ですよね」
「っておいっ! ウチへの同情はっ?!」
「部活の後に何か甘い物でも、ご馳走してあげるから気を静めてちょうだい。このまま学校中に自分が痴漢に遭ったことを言いふらすつもり?」
「ぐうう……ほな、ケンがバイトしとるファミレスに行こ」
「あそこに…」
「あっこのパフェが美味いねん。ケンのバイトが終わる時間くらいに行くで」
「……」
「約束やで。破ったら針千本や」
約束を取り付けておいて、それでも茂木は治まらない怒りを下駄箱にぶつけた。
「にしても、ムカつくわ」
まだ怒っている茂木を由未と孫子は人気のない弓道場まで誘導してから、発散してもらう。
「ああッ!! 腹立つッ!!」
「さんざん暴れて、関係ない人たちまで巻き込んだでしょう」
「暴れたんですか?」
「暴れたんやない。逮捕にともなう制圧行為や」
「何をしたんですか?」
興奮していて要領をえない茂木に変わって由未が説明してくれる。
「モッチーが車内で弓が邪魔になるからって荷物棚に載せようとしたのよ。その瞬間を狙って痴漢が触ってきたらしいの。けれど、すぐに手を引かれたから誰が犯人か特定できなくて…」
「怪しいヤツみんな、とっ捕まえたってん!!」
「モッチーから半径1メートル以内にいた男性全員を弦で数珠繋ぎにしたのよ。大捕物だったわ」
「あの五人のうちに絶対犯人がおるはずやってん!!」
「ええ、いたでしょうね。でも、他にあわれな四人の冤罪者もいたわ」
「容疑者やっ! 容疑が晴れるまで容疑者は容疑者や!!」
「ふぅ…」
「それで、どうしたんですか?」
「次の駅で五人とも降ろして駅員に警察を呼んでもらったの」
「警察もホンマ役に立たん!」
「モッチーは五人とも逮捕して何日でも取り調べしたら、自白するって言うけど、さすがに四人も冤罪者がいるのに、無理でしょう?」
「犯人は、わからなかったんですか?」
「ええ、全員が自分じゃないって言い張ってね」
「それは悔しいでしょうけど………難しいですね。ちなみに、どんな五人だったんですか? 年齢や職業は?」
「食品会社の課長さん、私立学校の先生、病院の理学療法士さん、証券会社の主任さん、個人の一級建築士さんの五人よ。年齢は三十代前後くらいかしら」
「みなさん社会的地位のある人ですね」
「そんなん関係ないッ!!」
「みんな真っ青な顔をしていたわ。気の毒なくらい…」
「全員、ビクビクしとんねん!」
「当然でしょう。モッチーが犯人って決めたら彼らの一生が終わるかもしれないのよ」
「すごく…冤罪だった四人が可哀想です…」
「かわいそうなんはウチや!」
「モッチーも黙っていれば、可愛いですもんね」
「なんで黙ってなあかんねん?!」
「もう、いいでしょう。結局は全員怪しいからって全員一発ずつ、ひっぱたいて示談にかえたのよ」
「叩いたんですか……」
「一人1万円って話も、彼らから提案されたけど…」
「ウチが金目的やと言うヤツまでおったんや!! ひどい侮辱やで!!」
「それで五人とも叩いたと……四人は、いい迷惑ですね。明日から両手で吊革を持つと思いますよ」
「私も付き合わされて遅刻したのよ。この頃、まともに授業を受けてない気がするわ」
「一日の始まりにしてはハードですね。にしても、痴漢も痴漢で、よくやりますね」
「本当に。よりにもよってモッチーを選ぶなんて…」
「ほな、ユミリンが代わりにされるん?」
「お断りよ」
「あたしが言ったのは、そういう意味じゃなくて、痴漢だって、それぞれに仕事とか、家庭とかあるのに、よく、それだけのリスクを背負って、やれるなって思いません?」
「変態に理屈なんかあるかいッ!!」
「う~ん……痴漢って変態かなァ?」
「変態に決まってるやん! まともな人間のするこっちゃないで!」
「でも、変態というには対象は変態的じゃないですよね。一応は黙ってれば可愛い17歳の女の子を選んでる。生物学的には、モッチーは十分に繁殖期ですよ」
「やかましいわい! 人をモルモットみたいに言いなっ! だいたい何で黙ってなあかんねん?!」
「いっそ変態なら変態らしく幼稚園児とか、少年とかを選んでこそ変態って思いませんか?」
「それはロリーターやん! あとBL!」
「痴漢と小児性愛者は、どちらが変態度が高いでしょうか?」
「……どっちも最悪や」
「より最悪な方は?」
「みんな地獄逝きや」
「痴漢は犯罪ですけど、変態ではないって思いませんか? 欲望の対象は間違ってないって意味で、変質者というよりは性欲過多ってことで量的異常ですから、変量者とでも」
「変量って何やねん」
「フロイト曰く、あらゆるセックスは正常で、セックスをしないことが、異常だそうです。食欲におきかえるとわかりやすいです。過食症や拒食症が病気であるように、性欲過多と欠如も異常だってことです」
「わけがわからん」
「モッチーは痴漢から見て異性だし、未熟でもないし、それなりにモチモチしてるじゃないですか」
「誰がモチモチしてるって!」
「ぅぐ…」
孫子がヘッドロックされ、首を絞められて呻いた。茂木と孫子の身長差だと、ヘッドロックに最適なようで、すぐに解放してくれない。
「あんた、えらい痴漢の肩もつやん」
「ぅきゅ…。そうですね。あえて彼らの弁護をしてみましょうか」
「証拠がないとかゆー話やったら、いらんで。ウチは確かに触られたんや」
「違いますよ。そもそも彼らが投入された環境が痴漢行為を誘発して当然という意味での弁護です。想像してみてください。繁殖期に入ったラットやネコのオスとメスを数十匹、満員電車なみの過密状態でゲージに閉じこめたら、どうなるでしょう?」
「そら、えらい騒ぎになるやろけど、人間には理性っちゅーもんがあるやん」
「では、比較的理性らしきものがあると思われるイヌやサルのオスに、みだりにメスへ接触すると電撃されると条件調教したうえで、やはり繁殖期に狭い空間へ大量のメスと閉じこめたら、彼らはガマンできるでしょうか?」
「……ガマンできるヤツは盲導犬になれるんちゃう?」
「ですよね。希有な存在でしょう。ちなみに、モッチーの身長だと、電車の棚へ荷物をあげるとき、ちょっと爪先立ちになりますか?」
「うん、まあ、せやけど?」
「つまり、痴漢される直前に両腕をあげて、爪先立ちになって、棚の方へ身体を傾けたために、お尻を痴漢へ突き出すようなポーズになったわけですね?」
「……ごっついイヤな言い方やな」
「このポーズはオスを誘う性的シグナルに近いですから、本能的に誤認されたとしても仕方ないですね」
「シバくで?」
「待ってください。モッチーだけの話じゃないですよ。同じようなシグナルはオランウータンやゴリラのメスも使っています」
「ホンマにシバかれたい?」
「あたしもモッチーも彼女たちとは、遠い親戚じゃないですか」
「親戚やけど! 何万年も前に分家して! 一切付き合いは無いんや! ゴリラの法事に出たこともないし! オランウータンの結婚式に招待されたこともない!」
「少なくとも600万年前には断絶しましたね。でも、見返り美人って言いますよ。あれは振り返った顔が魅力的なわけではなくて、お尻を向けているポーズになることが男性を強く刺激するんです。ゴリラのメスも、お尻を向けたまま振り返ってオスを流し目で見るそうです。ヒトのメスと同じシグナルを使いますね」
「それをケツ見せ美人ていうたら身も蓋もないさかい! 人間らしゅー見返り美人って言葉を発明したんや。文化と文明や!」
「ポルノ文化で、グラビア写真の女性たちは、爪先立ちになったり、腰をひねったりして、お尻を頻繁に強調しますよね。もちろん、需要があるから供給されるんですよ」
「やかましいわ」
「両腕をあげるのは、同性に対しては自分の身体を大きく見せて威嚇するシグナル、異性に対しては自分への注目を集めるための誘いのシグナル、これは普段の生活を観察していても読み取れます」
「……せやったら、何やねん」
「つまり、爪先立ちになって、お尻を向けちゃった上、両腕を高くあげたモッチーは強烈なシグナルを放ったというわけです。たとえ、本人が意識していなくても、周囲のオスたちの無意識に強い誘いのメッセージを送ってしまった、と」
「……で?」
「では、今度はモッチーや由未が実験台です。それぞれ好きな食べ物を言ってください」
「お好み焼き! シーフードミックスの具2倍!」
「……チョコレートよ」
「二人は、とてもお腹が空いています」
「「……」」
「そこに誰かが、二人の鼻先5センチのところに、焼きたてのお好み焼きと、今年度ベスト・チョコ・オブ・ザ・イヤーを獲得したベルギー製のチョコを置きました。でも、食べていいとは言われてません。とても、いい香りがします。でも、食べていいとは言われてません」
「地獄や」
「嫌がらせの一種ね」
「何分間ガマンできますか?」
「5分が限度や。お好み焼きは冷めたら、あかんねん」
「私の物でないなら、許可もなく食べないわ」
「誰かが、お好み焼きを一口分、チョコを一欠片、そっと持ちあげて口元2センチのところまで運んでくれました。でも、食べていいとは言われてません。食べますか?」
「喰う!」
「……食べないわ」
「食べたモッチーに罰金5万円と言われました。どう思います?」
「そいつを、どつく!」
「ある朝、満員電車に揺られていると、すぐ近くに可愛い女の子がいました。でも、触っていいとは言われてません。でも、いい匂いがします。その子が無防備に両手をあげて、爪先立ちになり、お尻を自分に向けてきました。つい、欲望のままに触ってしまうと、可愛かった女の子は鬼となって暴れ、警察へ連行されました。女の子は荷物棚に邪魔になる弓をあげようとしただけで、たまたま性的なシグナルと誤認されやすいポーズを取っただけだったのです。さあ、大変、逮捕されそうです。会社もクビになるかも、一家離散かも。グレゴール・ザムザより気の毒だと思いませんか?」
「誰やねん。ガーゴイル・ビクザムって」
「グレゴール・ザムザよ。カフカが書いた短編小説で、ある朝主人公が毒虫になっていたの。最後は非業の死を遂げるわ。面白くもない話よ」
「そうでしょうか」
「あなたの感想は違うの?」
「あの話の毒虫は精神病者の隠喩だと思います。主人公は家族から迷惑がられ、世間から隠され、そして死んでしまうと、家族には新しい展望が見えてくる。つまり、ある朝、発病してしまい邪魔者になった家族の一員が、どう消えていくかという胸の悪くなる話だと、あたしは読んでます。時代的な理由で精神病者だとは、はっきり書けなかった、もしくは、あえて書かなかった、と」
「……。感想は個人の自由よ。作品は発表された時点で読者のものなのだから」
「そうですね」
「あんたらの話、わけがわからん」
「ちょっと逸れちゃいましたね。痴漢の話から」
「せや、痴漢を弁護するようなヤツは、こうや!」
「うぎゅ!」
まだヘッドロックが続いていて、普段より茂木の力の入れ方が強いので、さりげなく由未が助けてくれる。
「満員電車での痴漢行為に同情すべき点があるって言いたいのは、わからなくもないけれど、……。でも、たとえば女性に下半身を見せたりする変質者は、どうなるの?」
「一種の求愛行動ですよ。ゾウやチンパンジーも繁殖期になるとメスの前で身体を誇張します」
「……」
「クジャクみたいなもんやな? ばっと広げよるもんな」
「そうです。モッチーも冴えてますね」
「一応、あんたらと同じ高校やねんで」
「進化論を構想していた初期のダーウィンは、クジャクの尾羽を見ていると気分が悪くなる、と言ったそうです」
「……なんでやねん? 人間の変質者が露出しとるより、よっぽどキレイやん」
「猛獣の牙、猛禽類の爪、ゾウの鼻とかに比べて、どう役に立っているか、すぐに理解できなかったからですよ。ダーウィンは有用な特質を持つ個体が生き残り、次第に進化していくと仮説していたのに、どう見ても邪魔にしかならず、早く飛べるわけでもなく、おまけに目立ってしょうがない尾羽が、メスへのアピールだと気づくまで時間がかかったそうです。自分の説に合わない尾羽を見て苛立つなんて、ダーウィンも可愛いですね」
「つまり、露出行為も変態ではない、という見解なの?」
「原始的な求愛行為である点では変態とは言えないですけど、社会的適応性がないという点では異常の概念に分類されますよね。いわゆる露出症なんですから」
「マコのことやね」
「はい」
「肯定するんかいっ?!」
「でも、あたしは社会的節度を守ってますよ。パンチラはしても屋外で裸になったりしません。あたしが転ぶとケンさん必ず見てくれます。自己顕示欲とナルチシズムを満たせて、軽く興奮してることは否定しません。彼を知り、おのれを知れば、百戦して危うからずです」
「あんまり調子に乗ってると、あんたも変なオッサンに触られるで」
「痴漢にとって、よっぽど抑えがたい衝動なんでしょうね。いい学校に入って、いい会社に入って、課長とか先生って呼ばれる人になって、そこまでの計算ができた人が、モッチーのお尻くらいのものを触るのをガマンできないなんて。リスクと報酬が見合ってないと思いませんか?」
孫子が軽く茂木のお尻を叩いた。
「ってコラ! なにしとんねん!」
「こんなものを、ちょっと触って地位も名誉も、未来の給料も無くすかもしれないなんて、変態というよりバカって気がしませんか?」
「こんなものとか言いなっ!」
「日本だと、そういう店にいけば、いくらでも触れるのに。あえて危険を冒すなんてバカです」
「それは短絡的なスリルを求めているのでしょう。お金に困っていない人がする万引きと同じ心理ではないの?」
「クレプトラグニアですか」
「なにそれ?」
「窃盗嗜好のことです。それも、窃盗行為によって性的満足を生じる人、むしろ女性に多いそうです。あと、女性に多い変態としては放火魔、ピロラグニアがありますね」
「江戸時代から付け火は女が多いっていうけれど……性癖なの、それって?」
「火災保険とか、火災にみせかけた殺人が目的じゃなくて、火をつけること、炎が燃え上がること、人々が大騒ぎして逃げまどう様を見ること、これらに快感や興奮を覚えるとなると性癖としか言いようがないですね」
「よぉするにや。痴漢に対して、エッチ、スケベ、変態、ちゅー罵りのうち、痴漢は確かにエッチでスケベやけど、変態やないかもしれん。ウチみたいな美人を選ぶあたり、確かな目をもった健全な男子やと言いたいわけや。その健全さが、ちょっと元気すぎて暴走してもうたと。むしろ魅力的すぎるウチが罪なんやと?」
「はい」
「…いや、ウチのボケにツッコミを入れたりせんの? あっさり大ボケを肯定させると、えらい恥ずかしいんやけど…」
「モッチーは学年で3番目に可愛いですよ」
「ほ~ほぉ。ほんで一番は?」
「あたしです」
「……。二番は?」
「由未です」
「「……」」
茂木と由未が顔を見合わせて、それから茂木が手を伸ばして、孫子のお尻を触った。
「きゃっ?!」
小さな悲鳴をあげて孫子が逃げる。
「な、なにするんですかっ?!」
「仕返しや」
「やりすぎです!」
孫子は大きく茂木から距離をとり、小動物のように由未の背中に隠れる。
「モッチー、その気があるんじゃないですか。今、思いっきりスカートの中にまで手を入れて! ひどいです! 冗談じゃないレベルでした! セクハラです!」
「あんたも黙ってれば、最高に可愛いさかいな。ちょっと触りとうなってん」
「……」
孫子は不審の目で茂木を見ると、しっかりと由未の背中に隠れ込む。それを茂木が追いかけようとする。見かねて由未が茂木の頭を叩いた。
「やめなさい。モッチー」
「冗談やって。ちょっと、ウチがされた気持ち悪さを理解してほしかったさかい、痴漢と同じ触り方したっただけやがな」
「ひどいです!! ひどいです!! 許せません!! 撃ち殺しますよっ!!」
「そんな本気で怒らんでええやん。同性なんやし」
「そんな問題じゃありません! 大切なところを、いきなり触るなんて最低ですっ!!」
「せやから、痴漢は変態なんや。論より証拠、レズの方がマシやで」
「「……」」
「なんや? ホンマに冗談やって。ウチにその気はないよ」
「大ざっぱなのは、あなたの長所でもあり短所でもあるけれど、同性愛指向は変態ではないはずよ。同性愛は指向であって嗜好ではない、やや国語的だけれど」
由未は指で空中に字を書いて説明した。
「嗜好品とか、趣味嗜好というでしょう。嗜好は変わることもあるけれど、指向は指の向きと書くの。方向性を意味づけているわ」
「せやから、なんやねん。また意味の分からんことを言う」
「でも、由未。やっぱり同性愛は、変、であることをコモンセンスは伝えてきますよ」
「せやで、ある意味で一番変態っぽいで」
「……」
「一番ではないと思います。ネクロフィリアやフォーミコフィリアに比べれば、数の上でも社会的認知の上でも」
「ネクロフィリアって、たしか死体が好きちゅーヤツやろ。フォーミコって何やねん?」
「虫愛ずる姫君ですよ」
「堤中納言物語の按察使の姫のこと?」
「はい」
「たしかに彼女は毛虫を見つめるのが好きで、言い寄ってくる男性に興味を持たなかったというけれど……」
「フォーミコフィリアは昆虫とかが、這う様子に興奮する性癖をいいます」
「うげっ、虫が這うの見て興奮するて、それ覚醒剤とか、やっとんちゃう?」
「ノルアドレナリンとテストステロンの分泌を促進させるスピードやアッパーズなんかのアンフェタミン中毒になると、性欲を喚起されるそうですが、その他の覚醒剤は脳内のホルモンバランスを崩して、たいていは性欲減退、不感症につながるそうですよ。フォーミコフィリアと覚醒剤に関係があるという話は聞きませんね」
「……。ウチとしては、あんたが、なんで、そんなこと知ってるのか、それが知りたい。ユミリンは本ばっかり読んどるから理解できるとしてもや。あんたの知識は、どっから来るねん?」
「知は力なり、フランシス・ベーコンの言葉です」
「そんなヤツもおったかも…」
「知識は知っていれば、善用したり悪用したりできて楽しいじゃないですか」
「あんたはエデンの園で知恵の実やのうて、きっと、痴への実を喰うたんやね」
「そうですね。ノーマルな交尾で繁殖している他のほ乳類を見ていると、こうまで多様な変態がいるヒトは本当に、痴への実を食べたのかもしれませんね。それに創世記でも少なくとも、恥への実ではあったわけですから。知恵の実というわりに、アダムもイブも賢くなった感じがしませんし、羞恥心しか身についてないですよね。まさに、恥へのみ! 恥は知から成り!」
「恥へのみ……恥を知れってか……にしても、痴への実は、ひどいで…」
「そんなの日本語なら成立するけれど、英語では無理よ。知が病にかかって、やまいだれで痴になって、え、を助詞の、へ、としてエと発音できるけれど、そもそも聖書は日本のものじゃないわ。恥の文化である日本に比べて、欧米は罪の文化よ」
「ほな、英語で知恵って?」
「wisdomですよ」
「けれど、ラテン語ではsapientiaよ。ホモ・サピエンスも、ここから来るわ」
「ふ~ん……、英語とラテン語で、痴漢って、なんちゅーの?」
「えっと♪ ……英語はmolesterで、女性にみだらなことをする人、sexual pervertで、変質者ですね」
「んで、ラテン語は?」
「……。知らないわよ。そんなこと」
「あたしの勝ちですね」
「負けでもいいわ。お好きなように。だいたいポケットから出した電子辞書で答えた人に勝者を気取られたくないわね」
「うふふ。外部記憶装置も能力のうちですよ。蟻塚や蜂の巣が、そのDNAの発露であるように、あたしが道具をつかえるのも獲得した能力ですから」
「……。そもそも変態という言葉が一種の誤用なのよ。本来の意味は、昆虫の変態よ。いつから変質者をさすようになったのかは知らないけれど、昆虫に失礼な話ね」
「ファーブルも昆虫で興奮したのでしょうか」
「……知的興奮はしたでしょうね」
「痴的興奮もしたかもしれんで」
「……」
「シートンはズーフィリアだったのでしょうか」
「あなたの言い様だと動物学者は全てソドミーになってしまうわね」
「知は力なり、痴も力なり」
「……真性のアホやで、こいつ…」
「偉大な先人を変態にしたり、格言を歪めたりしないの」
「健全な肉体に健全な魂よ、宿れかし、ですね」
「なんやの、それ? 健全なる精神は健全なる肉体に宿る、やないの?」
「ローマの詩人ユウェナリスの言葉よ。本来の詩とは違う意味で伝わってしまった言葉の代表格ね。本来は、健康な身体に宿る健康な精神を願う、といったものだったらしいわ」
「ふ~ん……なんのこっちゃ…」
「逆を真とするなら、病人の魂は不健全、虚弱な人の魂は曲がっているという取り方もできてしまうのよ。とても差別的でしょう?」
「なるほど……」
「きっと、ユウェナリスは健康な人にこそ病人を思いやる優しい魂をもってほしいと願ったはずなの」
「……あんたの、少女的な決めつけは、ときどき惚れ惚れするわ。なんで、そんなロマンチストなんや?」
「っ……私は、別に……」
赤面した由未を二人してからかおうとしたとき、チャイムがなって三人とも昼食を摂り忘れたことに気づいて昼休みが終わった。
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