第5話

 翌朝、いつもより一時間も早く起きた由未はメールを、孫子と茂木へ送ってから、台所に立った。すでに、母親がいた。

「おはよう、由未。早いのね」

「おはよう。友達にお礼がしたいの。お弁当、三人分つくるわ。材料、いいかしら? あ、変な誤解しないでよ、二人とも女の子だから」

 畳みかけるように母親へ断りを入れてから、ソーセージに細工を始める。半分に切って、先端を縦に5ミリほど放射状に切り目を入れ、フライパンで炒めると、開いた切り目にホールコーンを1粒ずつ飾って、花に見たてた。もう一種類、ミニソーセージに三分の一あたりで斜めに切り目を入れ、さっと炒めて、反ったところを少し切って耳にして、黒煎りゴマで目をつけてウサギにした。さらにカマボコを厚さ8ミリに切って、上側の厚みの真ん中に切り目を入れ、そこへ形を整えた椎茸の佃煮をはさみ、クマの耳に見たてる。昆布の佃煮をストローで抜いて丸をつくって目に、細く切って口にする。

「……」

 背中に母親の視線を感じた。

「本当に、女の子と食べるのよ。そんなに娘の言葉が信じられないなら、いっそ授業参観にでもくれば?」

「別に何も言ってないでしょう。でも、訊いていいなら、茂木さんと、誰の分なの?」

「転校生よ。弓道部に入ってくれるの」

「それは、よかったわね」

 どうやら得心してくれたらしく、朝食の準備を続けてくれた。由未は冷蔵庫からハムを取り出すと、正方形に切って、その角から中心へ向けて二分の一まで切り込み、色つきのプラスティック楊枝で二つに切った角の片方を中心へ曲げて刺し、風車をつくった。さらに林檎サラダとブロッコリーのケチャップ炒めを仕上げて弁当箱に入れる。

「できた」

 満足そうに頷くと、朝食を摂って家を出る。玄関にある鏡で制服と髪型を整えると、ブラウスのボタンを二つ開けた。昨日、孫子からもらった弓と矢を模ったネックレスが見えるようになる。

「……趣味がいいわ」

 とても気に入っている。ただ、ブラウスの形状からして、あまり目立たない。もう一つボタンを外そうかと迷って、誰も守っていないとはいえ、アクセサリーが校則違反であることと、茂木が電車で痴漢に遭ったばかりだということを思い出して、やめた。

「いってきます」

 いつもより重い弁当箱を持って、駅に着くとホームで先週までとは違う乗車位置へ並んだ。ケンと同じ車両にならないように、あえて場所を変えたのに、ケンも同じことを意図したようで、すぐ近くに乗り込むことになってしまった。

 目が合ってしまう。

「「……」」

 ケンは申し訳なさそうに目をそらし、由未は表情を変えないまま、背中を向けて立った。目で茂木を探すと、いつもの車両へ乗っていた。由未とケンの失敗に気づいて、苦笑いしてくれている。由未も軽く肩をすくめて自分の失策を茶化した。三人とも同じ駅で降りて、由未と茂木は足早に、ケンは遅く歩く。すぐに、お互いは見えなくなった。学校に一番近いコンビニの前で孫子に出会った。

「ぁ…」

 由未が立ち止まった。

「あ、由未。モッチー。おはよう」

「おはようさん。って、あんた弁当、なんで買うたん?」

 茂木も気づいた。孫子はコンビニで弁当を買ったらしく、袋を持っている。

「ユミリンからのメール見てないん?」

「メール?」

 孫子はポケットからケータイを出すと、サーバーへ問い合わせしている。

「あ、……お弁当、由未が……。ごめんなさい。じゃあ、これは…」

 買ったばかりの弁当をゴミ箱に入れようとしているのを由未と茂木が止める。

「もったいないわ」

「喰いもんを粗末にしな!」

「でも、太るのもイヤです」

 少し考え込むと、遅れてきたケンが視界に入った。

「あ、ケンさ……は、無視の方向で」

 声をかけて男子の胃袋に納めようとして思い止まる。三人の横を通るケンは右手を少しだけあげた。孫子への挨拶の代わりなのか、単なる歩行動作なのか、とても曖昧な仕草だったけれど、孫子は空を見上げて無視した。

「これは小林くんに食べてもらいます。席を替わってもらった、お礼を忘れてました」

「誤解されてもしらんで。あんた見た目だけは可愛いんやから」

「手作りならともかく、コンビニのお弁当を送ったくらいで求愛行動だと思うでしょうか?」

「朝っぱらから求愛行動とか、言いな」

「セックスアピールと言い直しましょうか」

「せんでええ!」

「食べ物を送ることで求愛にかえる動物は多いですよ。とくに鳥類は吐き戻した獲物を送りますね」

「汚い話やなぁ…」

「人間はお弁当箱やレストランを発明しましたね。でも、汚い汚くないは個々の主観ですよ。ネコはネズミを食べるし、蛇はカエルを呑みます。牛は何度も吐いては噛み、吐いては噛みして草を消化します。とてもマネできませんけど、汚い行為というのは失礼です」

「動物と人間を同一視する、あんたの主観が問題や」

「箸やフォークを使う文化圏の人々は、手でカレーを食べるインド人を汚いと思いますが、彼らは両手でオニギリを食べる日本人を不浄なる左手を使うと言って、抵抗感を覚えるでしょうね」

「文化の違いやん」

「あえて黙っていますけど、モッチーが使用する言語、ときどき汚いと思います。とくに女の子として可愛くないことがあります。ね、由未?」

「……。ええ」

「同意するんかい?! 裏切りもん!」

「ほら、可愛くない。あ、でも、こっちは可愛い」

 孫子は喋りながら、由未の胸元に気づいた。

「よく似合ってますよ。由未」

「ありがとう」

「お弁当も楽しみです」

「一応、自信はあるのよ」

「タコさんウインナーとか、そういうネタちゃうやろね?」

「違うわ。ウサギと花よ」

「……めっちゃネタやん」

「モッチーの言うネタの意味がわからないわ。そろそろ門をくぐらないと、また遅刻するわよ」

 由未に促されて登校した。昼休みは三人で由未の手作り弁当を楽しみ、放課後は弓道部の活動をして、孫子は校門で別れる。駅へ向かう由未と茂木を見送って、マンションの前へと歩くが、その足が止まった。

「……」

 マンションの影に、見知らぬ男が立っている。由未と茂木には船井芳実と自己紹介した男性だったけれど、孫子にとっては知らない男だった。

「……」

「……」

 目が合い、お互いを観察するように見つめる。ゆっくりと孫子はスカートのポケットへ両手を入れた。

「……」

「なるほど」

 船井は形のいい男らしい眉を引き上げ、微笑をつくって、敵意がないことを示すように両手をひろげた。孫子は警戒を解かずに後退る。緊張して対峙する小柄な女子高生と大柄な男性、客観的な善悪の天秤は後者へ悪を配分しがちだったが、さらに強固な主観をもつ男子が孫子の前へ守るように立った。

「なんだよ、お前はッ! 怪しいヤツだなッ!」

「……ケンさんこそ、どうして、ここに?」

「ぅっ……」

 由未と茂木が帰り、孫子が一人になるのを待っていたケンは返答に窮した。

「た……たまたま通りがかったんだよ」

「では、オレも、たまたま通りがかった、と、しよう。だから、このまま通り過ぎる」

 船井が歩いて孫子とケンの横を通り過ぎる。ケンは油断しなかったし、孫子もケンの背中で相手が見えなくなる状態をさけて、立ち位置を変えながら、ポケットの中で握ったグロックの銃口を二丁とも、船井へ向けている。おかげで裾が持ちあがって下着が見えそうで見えない状態にまでなっているが、誰も見ていないし、本人も、それどころでない。

「……」

「……。行ったみたいだよ。マコちゃ…ん……。な、何して…」

 船井が離れていき、先に警戒を解いたケンが振り返ると、孫子のスカートが不自然にもちあがっている。手だけとは思えない突起物が左右に一本ずつ、スカートを押し上げて起立していた。

「……」

 まだ、孫子は警戒している。ケンは眼中に無い。小さくなっていく船井の背中が見えなくなるまで警戒を解かなかった。

「あ……あのさ、……マコちゃん、スカートが……」

「……」

 孫子がポケットから手を抜くと、スカートは元に戻った。

「……」

「……」

「それで、どうして、ケンさんは、ここに?」

「ぁ……う……えっと、……その……マコちゃんに話があって。待ってたんだ」

「たまたま通りがかったんじゃないんですか?」

「ぅ……あれは、その……別に、あの男に説明することじゃないし…」

「それで、話って?」

 孫子は問答しながらも、まだ船井が消えていった方向へ注意を向けている。

「それは……その……」

「……。ここでは、落ちつきませんね」

 孫子も立ち話はさけたい気分だった。緊張感と蒸し暑さで汗が流れている。

「喉も乾きましたし」

「な、何か買ってこようか?」

「いえ、部屋にありますから。……あがりますか?」

「あ、うん」

「……」

 誘ったことを後悔したけれど、遅い。でも、話をつけておく方が今後のために面倒が少ないかもしれないと考え直してケンを部屋に入れた。孫子は冷蔵庫を開けて、アイスコーヒーを二つのグラスに注いだ。

「どうぞ」

「あ、ありがとう」

 部屋はタイマーでの冷房が効いていて涼しい。すぐに二人の汗は引いた。

「……。さっきの男、…、ぃ、いったい何だったんだろう」

「さあ。通りがかりの変質者か、ただ単に、あたしと目が合っただけのおしゃべりな社会人じゃないですか」

「それなら、いいんだけど……ぁ、あれ? よくない、のか…」

「それでケンさんの話って?」

 促しておいて孫子は背中を向けた。話を聞く気がないというのを全身で表現しつつ、二杯目のコーヒーを流し台に置いた自分のグラスだけに注いでいる。

「……」

「……。ボ……ボクは…」

「……おかわり、飲みます?」

 背中を向けたまま、振り返りもせず相手の話に水を差したが、ケンは大きく息を吸い込んで叫んだ。

「ボクはマコちゃんが好きだっ!!」

「……」

 孫子は冷めたピザに蜂蜜と味噌を塗ったものを口に入れられたような表情になった。注いでいたグラスからコーヒーが溢れている。

「……ケンさん、何の冗談ですか?」

「冗談じゃないんだ!」

「そうですか。ところで、世界の84%の社会で一夫多妻制が許されていますが、実際に複数の女性を惹きつけられる男性は、全体の数%か、せいぜい多くて20%程度です」

 孫子はケンのグラスを持ち、コーヒーを注いで、さらに砂糖の代わりにスプーン山盛り3杯の塩を入れておく。ケンの目前でやったけれど、相手は興奮していて気づいていない。テーブルの思わず手にとって飲んでしまいそうな位置へ、塩入りコーヒーをおいた。

「そして何より、この国は一夫一婦制ですよ。あたしが三浦って名前をモッチーから聞いてないとでも思うんですか?」

「彼女とは何でもないんだ!!」

「何でもない人とキスするわけですね」

「違うよ! 誤解だ! モッチーが何を言ったのか知らないけど! ボクが好きなのはマコちゃんだけだ!!」

「……」

「本当なんだ! たしかに、望ちゃんには告白されて、その勢いでキスもされたけど、ボクには、そんな気はないんだ! だから、はっきり彼女には断ったんだ。そこを、たまたま…真藤さんとモッチーにも…見られて、いろいろ誤解されたかもしれないけど、本当にボクは望ちゃんのことをバイト仲間以上には思ってない!!」

「バイト仲間以下だったんですね。由未のことは」

「っ……真藤さんには、いくら謝っても足りないと思うよ…」

「なら、せめて百万回くらい謝ったら、どうです? どうせ、百回も謝ってないですよね」

 孫子は可能な限り冷たい目でケンを見すえる。

「ごめんなさい一回を2秒として200万秒」

 ポケットから計算機を出した。

「およそ3万3333分、時間では555時間ですから、一日8時間、謝ったとして69日間。うん、このくらいの反省は最低限文化的な日本男児として必要ですよね。百万枚護摩行って知ってます? 真言密教の」

「どう言われたってボクはマコちゃんが好きなんだっ! 大好きだっ!!」

「っ…」

 会話にも理屈にもなってない、なのに孫子の心臓が大きく拍動した。

「好きだっ!! マコちゃんが大好きだっ!! 君のことしか考えられないっ!!」

「……」

 あっさりと受け流すつもりだったのに、どっしりと心臓に響いてくる。ケンの顔は真っ赤で、それが伝染してくるように、孫子の顔まで熱くなってくる。引いていた汗が肌に滲んできた。

「こんなメチャクチャに女の子を好きになったのは初めてなんだっ!! 本当にマコちゃんのことしか頭にないんだっ!! 好きだっ、大好きだっ、美田孫子がボクの全てだっ!!」

「…っ」

 顔が完全に赤くなる前に孫子は背中を向けた。理屈と理論を知っていても、実際の実戦は経験がない。真っ向から告白してくる男に圧倒されてしまいそうだった。それに、転校してから、さんざんケンの気を引くような行動をとったことも忘れていない。この男が、こうまで想いつめたことの原因と責任について、まったく覚えがないとは思っていない。

「……」

「マコちゃん、ボクは本気で君が大好きだ。わかってほしい」

 背後から近づいてくる気配がして、孫子は逃げる。

「待ってください」

「待てない」

「待ってください!」

「ごめん、待てないよ」

 肩に手をかけられて、孫子が叫ぶ。

「待ってくださいっ!! 嫌いになりますよッ!! 待ってって言ったら、待って!!」

「っ…」

「…ハァ…ハァ…」

「マコちゃん……」

「今日は帰ってください」

「でも、ボクは…」

「今日は帰ってください!! 今日のところは、ここでお終いです!! もう一回言わせたら二度と話しませんよッ!!」

「……。わかったよ。……急すぎて、……悪かった。ごめん」

「……」

 ケンが離れていく。玄関から出ていった。

「……ハァ……」

 イスへ倒れるように座った。

「……」

 まだ、心臓が鳴っている。顔が熱い。

「……どうとも、想ってないはずなのに……」

 喉がカラカラだったから、テーブルにあったコーヒーを飲んだ。

「……ぶっ!」

 塩辛いコーヒーを吹き出してしまった。

「けほっ…けほっ……自爆しちゃったよ。……ケンのバカ……。…あたし超バカ……」

 夕食を摂る気には、なれなかった。

 

 翌日の昼休み、屋上にシートを敷いて由未と孫子、茂木は昼食を摂っていた。コンビニで買ったチーズサンドを手にしている孫子の食が進んでいないのを、由未が見咎めた。

「それだけで足りるの? あまり食べていないみたいね」

「夜と朝も食べてないから、お腹は空いてるんですけど……なんだか……」

「ダイエットでもしとんの?」

「いっそ、そういうことにしちゃってもいいですね。一人だと面倒なんですよね、食べるの」

 孫子は自分のウエストへ手をあて、ぴったりとブラウスの生地を押しつけてみる。とくに無駄な肉はなかった。それを見ていた由未が海老フライを箸で運ぶ。

「必要ないみたいよ。夕食と朝食まで抜いてるなんて身体に悪いわ。ほら、食べて」

「じゃあ、いただきます」

 海老フライを囓ると、ご飯も運んでくれる。結局、由未の弁当を半分までもらってしまったので、デザートに買っておいたプリンも半分にした。

「あたしは身体が小さい分、燃費がいいんですよ」

「おっぱいが燃料タンクやろ?」

「フタコブラクダですか、あたしは」

「カロリーは蓄えられても、ビタミンやミネラルは毎日補給した方がいいのよ」

 三人ともケンのことは一言も触れずに、昼休みを過ごして、部活を終えて帰宅する。校門前のマンションに住んでいる孫子は二人へ手を振ると、共通玄関を通ってエレベーターに乗り、部屋の前でドアノブへ手を伸ばす。何も持っていなかったはずの右手に、いつのまにか鍵が握られていて、それを鍵穴に差し込こもうとしたとき、声をかけられて飛び上がった。

「マコちゃん」

「っ?!」

 化けるところを見られたキツネか、反物を織っていた鶴のように驚いているけれど、ケンは何にも気づいていない。

「び、びっくりさせないでください!」

「ごめん。…声をかけるタイミングが遅れて…」

 ケンは非常階段のあたりで待ち伏せしていたらしい。孫子は表情を硬くした。

「何か用ですか?」

「…昨日の話……それに、昨日の怪しいヤツがいたりしないかと…」

「いたんですか?」

「いや。今日は見かけてない」

「ということは今日は不審者は1名ですね。昨日より半減した分、治安は改善したみたいです。どうぞ、帰ってください。それでゼロです。明日は誰もいないと幸いです」

「…そんな……、昨日、待ってくれっていうから……ボクは…」

「じゃあ、また待ってください」

「……どのくらい待てば、いい?」

「大日如来が世界を救うまで」

「……だいにちにょらい?」

「ケンさんの家、仏教だったのに、知らないんですか? えらい仏さまのことです」

「……それって、どのくらい待てってこと?」

「56億7000万年」

「っ…」

「じゃあ、大サービスで100年。出血大サービスですよね、なんと5670万分の一にまで縮まりました」

「……いじわる……言わないでくれ。……ボクは本気なんだ…っ…っ…」

 絞り出すように言ったケンが両目から涙を零した。

「……」

 孫子の胸がズキリと痛んだ。細いナイフを刺されたように痛かった。すぐにケンは涙を腕で拭いてしまったけれど、孫子は強い罪悪感を覚えてしまった。

「ほら、あたしみたいな意地悪な子に、かまうから傷つくんですよ」

「好きなんだっ!! どうしょうもなく君がっ!」

「……」

「真藤さんのことで、君が怒ってるのは、よくわかってるよ。でも、…でも、…でもっ、好きなんだっ!」

「まるで…子供……幼稚園児」

 嫌悪感ではなく、諦めたような声でつぶやいた。それから、鍵をポケットに入れる。やはり、部屋にあげるつもりはない。けれど、このまま追い返すこともできそうにない。

「少し、歩きましょうか」

「……」

 ケンは黙って頷いた。なるべく人がいない方が二人とも都合がいい。必然的に部活も終わって人が少ない学校へ戻ってしまった。校門のそばにあるベンチに座る。

「ジャンケンで負けた方が、コーラを買ってくるってことで、どうです?」

「ボクが買ってくるよ」

 ケンが立ち上がって、自販機でコーラを買ってくれた。冷たい飲物で少し気分を落ちつける。

「100年は言い過ぎでしたね」

「……」

「でも、昨日の今日は早すぎですよね?」

「…ごめん……でも、…どうしても、……。自分でも待ち伏せなんて悪いと思ってる…」

「あたしの答えがノーだったら、ケンさんはストーカーになるつもりですか?」

「まさかっ! マコちゃんが嫌がるようなことはしない! 絶対っ!」

「ということは、素直に諦めてくれるんですね?」

「っ……そう……努力する……。でも! でも、マコちゃんはボクが嫌いなのか?!」

「……」

 少し考えてしまった。

「……。嫌いではないですよ。きっと、嫌いだったら今頃は110番してます」

「…自宅前に二度目……だもんな。でも、ケータイにメールもしたし、電話もかけたんだ。……ずっと、つながらなかったけど…」

「あたしのケータイ、調子が悪くて。でも、故意に無視してたのは確かです」

「……。そんなことを、あっさり言ってしまう君が……ボクは……君が大好きで……なのに、ときどき憎くなるよ…」

「あたしの可愛さは余ってますから」

「?」

「100倍です」

「??」

「可愛さ余って憎さ100倍」

「……ボクは翻弄されてばっかりだ……。でも、そんなところも好きだ」

「あたしは魅力的ですか?」

「最高に」

「……」

 問うたことを後悔するくらい、心臓が慌てた。ウソや世辞でなく、ここまでストレートに誉められると、恥ずかしくなってくる。

「……。あたしは、ケンさんの想っているような子じゃ、ないですよ。自分を作ってますから」

「だとしたら、ありのままのマコちゃんを見たい、知りたい」

「……」

「……」

 長い沈黙があって、孫子は考え込み、ケンは待った。どのくらい待たされた後だったか、孫子が立ち上がった。

「……」

「……」

 孫子が歩き出し、ケンが後を追う。まだ、孫子の表情は結論の出ていない顔だったけれど、それはケンにとって希望が消えていない証拠だった。だから、黙ったままマンションへ戻ろうとしている孫子を背後から抱いた。

「好きだ」

「っ…。……」

「好きだ」

「……」

 孫子は抵抗しない。

「……。…バカケン…」

 抱いてくれている腕を、人差し指で、ゆっくり撫でた。そのまま振り返ろうとして、由未の存在に気づいた。いつのまにか、由未が二人から5メートルばかりの歩道に立っていた。由未は制服から私服に着替えて、夏野菜のシチューが入ったタッパーとフランスパンをバックに入れて持っている。

「……由未…」

「…し、…真藤…さん…」

 ケンが腕の力を抜き、孫子も離れるけれど、見られていた。

「由未…、…どうして、ここに?」

「わ……私は、……あなたが一人だと……食べないって……いうから……今夜、私の家はシチューで……よかったら、と思って…」

 実直に来訪の理由を説明していく由未の目に涙が浮かんだ。

「なのに……、……なのに、どうして……」

「……」

「真藤さん、ごめん。ボクが悪いんだ」

「あなたは誰?」

「ぇ……? ボクは……中嶋…」

「あなたは誰なのっ?!」

 突然、由未は叫んで孫子の肩をつかんだ。

「あなたは誰っ?!」

「由未……」

「あなたと私は会ったことがあるわっ! なのに、想い出せないのっ! そうよっ! 想い出せない私を、あなたは責めてるっ! 意地悪してっ! 責めてるっ!」

「由未、ちょっと待って」

「ちゃんと、ちゃんと覚えてるわっ! お別れするとき、ぜったい忘れないって! 約束して、約束の指切りもして、別れたのっ! 覚えてる! でも、あと少し! 喉元まで出てくるのに! わからないっ! 想い出せないのよ!! この記憶は何?! あなたは、どこで会った誰っ?! これは前世の記憶なのっ?!」

「前世って……よく、そういう発想に…」

「想い出せない私を、いつまで責めるのっ?! この男まで使って! どこまで意地悪して私を苦しめて! 私を傷つければ気が済むのっ?! 針を飲むまで許してくれないのっ?!」

「…由未……」

「落ちついてくれよ、真藤さん! 乱暴はやめてくれ!」

 ケンが孫子から由未を引き離した。

「私は……っ……もう…っ…っ……イヤっ!」

 言い募ろうとして耐えられなくなったのか、バックを投げ出した由未は踵を返して走っていく。

「由未っ! 待って!」

「マコちゃん!」

 孫子が追い、ケンも続こうとしたが、孫子に制止される。

「ややこしくなるから来るな! 家に帰ってって!」

「っ……わかったよ……」

 ケンが引き下がり、孫子は後を追うけれど、由未とは歩幅が違う。かなり苦労して、それでも見失わずに、街外れの河川敷で追いつくことができた。

「ハァハァ、だから! 待ってって!」

「離して!」

 由未は握られた手首を振り払った。それが運悪く、孫子の顔に当たる。

 がっ!

 由未の肘に柔らかい感触があった。

「あぎゅぅぅ…」

 孫子が鼻を押さえて座り込んだ。

「ぅぅ……ぅぅ…」

「ご、ごめんなさい! 大丈夫?!」

「ごえが…大丈…ぶに、びえる?」

 涙を滲ませて両手で鼻を押さえている。その指の隙間から血が流れてきた。

「血……、どこか切れたの?!」

「鼻…、折れたかも…」

「そんな……どうしたら……」

 泣きながら怒っていたことも忘れて、由未はスカートのポケットからハンカチを出した。

「これを使って」

「ぅぅ…ぅ~…」

 孫子は受け取って鼻にあてる。由未はポケットティッシュで孫子の手や顎に着いた血を拭いていく。

「ぅ~……マジ痛いぃ……」

「ごめんなさい。……血は止まった?」

「まだ。……振り払うにしても、身長差を考えてよ。…う~うっ…」

 責める孫子の目に涙が浮かんでいる。かなり痛そうだった。ようやく血が止まり、顔を拭いて、会話ができるようになった。

「あたしの鼻、歪んでない?」

「大丈夫よ。外から見る限り……ごめんなさい。痛かったでしょう」

「……」

「そんなに睨まないで。……わざとしたわけではないわ」

「まあ、あたしの今までの意地悪と、おあいこにしてあげてもいいけど」

「……」

「不服?」

「……私の疑問に答えてくれてないわ。……あなたは誰なの?」

「そうね、少なくとも由未の記憶に、美田孫子なんて名前はないよね。もしも、由未ちゃんが覚えてくれているとしたら、古河彩乃。この名前に覚えはない?」

「ふるかわ……あやの…? ふるかわ……」

「……」

 孫子が黙って待ち、そして由未の脳裏で記憶が結実した。

「彩ちゃん!」

「うん、正解」

「保育園で、ずっと、いっしょだった! 彩ちゃんなの?!」

「そうよ」

「……。どうして、名前が違うの?! 最初から古河彩乃って名のってくれたら、私だって想い出したかもしれないわ」

「今は美田孫子が本当の名前。戸籍上の」

「……どうして?」

「親がね、お爺さんの遺産をもらった後で改姓したの。もともと古河家は小さな財閥の分家だったけど、お母さんは遺産をもらったとき、皮肉な姓に変えて、親戚との縁も切って、ひっそり暮らすことにしたの。それで、美しい田んぼ、びでん、語呂が悪いから、ミタって決めて改姓。あたしは、お母さんが子孫に美田を残すなって諺にかけて改姓したのに気づいたから、いっそ皮肉を重ねて自分の意志で子孫を逆にして、孫子、もちろん、ソンシじゃなくてマコって読み仮名の名前にしたの。だから、戸籍上は古河彩乃は存在しない。美田孫子が実名ってこと」

「……複雑なこと……するのね…。姓も名も違うなんて……わかるはず……ないわ……。面影だって……あの頃と、……ずいぶん…」

「あたしだって、初日に由未を見たとき、こんなに大きくなってるなんて思わなかった。昔は、あたしと同じだったのに今は頭一つ上」

「……成長くらい、するわ」

「おまけに泣き虫だった由未ちゃんが、怖いくらいクールでツンツンした子になってるから、本当に本人か疑ったよ?」

「……こういう性格なのよ。あなたこそ、二重人格みたいにコロコロと態度が変わるわ」

「二重性格なの」

「ウソよ。どちらも同じ人格が口調を変えて喋っているだけ」

「ふ~ん、どうして、わかるの?」

「だって、どっちも私に意地悪するもの」

「いい観察眼ね。他に気づいていたことは?」

「あなた最初に父が弓道家であることを当てたわ。それも私の名前の由来まで、ぴったりと。あれは事情を知っている人間にしか、無理よ」

「なるほど、ワトソンくん。君は前世を信じるかね?」

「……」

「ぷっクククっ…前世って…」

「笑うなんて、ひどいわ。私は真剣だったのよ」

「ごめん、ごめん。そのへんの可愛いところは、変わってないからホッとするよ」

「……。あなたこそ、どうしてコロコロ態度を変えていたの?」

「それは由未のせい。あたしが、こうやって地で接したら、馴れ馴れしくされる覚えはないわ、私のことを由未ちゃんと呼ぶのはやめてちょうだい、ってカチンカチンの冷凍ダイヤモンド壁を作ったの誰だっけ?」

「……」

「はじめは処女の如く、そして脱兎の如し。難攻不落の鉄壁には、からめ手で攻める。それに、あたしが本気で意地悪しちゃうと由未ちゃん、すぐ泣いたから。初対面だと思ってる由未には、ちょっと柔らかく下手に接してみました」

「……だんだん……思い出してきたわ……」

「どんなこと?」

「私のカバンに青虫を、いっぱい入れたこと。びっくりして家に帰るまで泣いていたわ」

「あれは、サプライズプレゼントだったの」

「どこがプレゼントよ」

「由未のカバンの中で青虫がモンシロチョウになって、開ける頃にはパッと蝶々が飛び出して由未を喜ばせる予定だったの。あたしも計画が幼稚だったよ」

「……。お気に入りのワンピースを着ていたのに、頭から水をかけたわ。ホースで」

「あの日は暑かったから、呼んでも返事しない由未が熱射病になったのかなって。応急処置」

「……。隠れんぼしていたのに、勝手に帰ったわ」

「家に隠れたの」

「……。保育園の花壇を荒らしたのは、あなただったのに、私まで怒られたわ」

「あれもプレゼント。保母さんも、ひどいよね。花をもってたから由未が犯人なんて」

「あの花……、一昨日の……」

「そう。覚えてた?」

「だから……なつかしい……においが……」

 由未は目を閉じた。そして、見つめる。

「おかえり、彩ちゃん」

「………。けっこう……いい…ね。……ちゃんと、本当の名前で、呼んでくれるの。ちょっと感動した」

 彩乃も微笑んで、応える。

「ただいま、由未ちゃん。約束通り、覚えていてくれて、ありがとう」

「想い出すのに、時間がかかっちゃったけど……でも、はっきり覚えてるわ。彩ちゃん、大好きっ」

「っ……」

 抱きつかれて彩乃は一瞬だけ硬直したけれど、すぐに抱き返した。なつかしい匂いがする。

「彩ちゃん……」

「由未」

 呼び合って見つめた。その二人に近づいてくる気配がある。二人ともケンだと思っていたけれど、違った。

「ちょっと、いいかな」

「「……」」

 彩乃と由未が顔を硬くする。声をかけてきたのは同じ高校生で男子、学生服を見たことがあるので、この付近のどこかの高校だとは思うが、声をかけられる覚えはない。由未と同じくらいの身長で、優しそうな顔立ちをしている。ただ、その手に血の染み込んだティッシュを持っている。少年は彩乃の血で汚れたティッシュを、薔薇の花でも持つように愛でている。

「これ、君の血? そっちの小さい君のじゃない?」

「……だったら、なに?」

「やっぱり、そっか。そんな気がしたんだ」

 大切そうに自分の血で汚れたティッシュに口づけされると、彩乃は寒気がした。その悪寒は由未にも走る。この少年は異常だ。由未が前に立って、少年を睨む。

「用がないのなら、向こうへ行ってちょうだい。人を呼ぶわよ」

「用はあるよ」

 少年の手からティッシュが消えて、刃物に変わった。鋭く細い柳刃の包丁だった。嫌悪感が危機感に変わる。由未は足元に身を守れそうなものは無いかと目を走らせたけれど、河川敷には朽ちた木片くらいしか、ない。包丁を相手にするには頼りなさすぎる。おまけに退路もなかった。ちょうど、護岸工事のためにコンクリート壁になっているところで、少年の横を通らないと土手へあがれない。

「……。私がなんとかするから、彩ちゃんは人を呼び…」

「僕の話を聞けよッ!」

 少年が怒鳴った。

「そっちの大きいヤツ! ウザいこと考えてると殺すからなッ!」

「っ……」

「まずは人の話を聞けよ! 殺されたくないだろッ!!」

「……話って何かしら?」

「用があるのは、こっちの可愛い君なんだ。君、名前は?」

「小林彩花」

 堂々と名のった彩乃を、不覚にも由未は振り返ってしまった。でも、よく考えれば、本名を名のってやる義理などない。むしろ、後難を考えると、偽名という選択を瞬時にした彩乃の知略に由未は深く感心した。そして、まんまと少年は真に受けている。

「彩花ちゃんさ。僕に殺されたくないだろ?」

「ない」

「じゃあ、僕の言うことを聞いてよ」

「言ってみて」

「君の血が見たい。君が血を流して苦しむところが見たいんだ」

「却下」

「ふざけないでッ!! なに勝手なことばっかりッ!! 警察を呼ぶわよッ!!」

「次に大きな声を出したら、お前は殺す。いいね?」

「っ…」

「お前には用がないんだ。僕はお前みたいなツンとした女は嫌いだな。でも、わかってるよ。お前の言いたいことも。そうだね、僕の要求が間違ってるね。でもさ、考えてみてよ。ここで二人は僕に殺されるか、僕の言うことを聞くか、二つに一つなんだ」

「…なにを……勝手な…こと…」

「勝手さ。僕の方が勝つからね。お前だって強がっていても足が震えてるじゃないか。怖いんだろ、僕が」

「……」

 言われなくても、さっきから膝の力が抜けそうなのを自覚している。体格は同じでも、包丁と素手、男と女で勝てる気はしない。少年と二人の距離は2メートルあまりで、退路はない。せめて、弓と矢があって5メートル以上の距離なら……。

「あたしは名のったよ。僕の名前は?」

「……。ブラッディー・ウィザード。そう名のっておくよ」

「じゃあ、チマでいいね」

「はぁ? どうして、そうなるんだよ?」

「血塗られた魔法使いでしょ? だから、略してチマ」

「……」

「気に入らない?」

「……。話を続ける」

「どうぞ」

「彩花ちゃんを殺したりしない。ただ、ちょっと血を流して、苦しむところを見せてほしい。それだけで僕は満足なんだ。頼むよ。そっちのお前には乱暴しない。おとなしくしてればね。でも、抵抗するなら二人とも殺す。イヤだよね? 無駄な抵抗をして犠牲を出すなんてさ」

「うん、イヤ」

「あなた狂ってるわ。どうせ、すぐに警察に捕まるわよ」

「捕まらないさ。僕は特別だからね。ほら」

 少年は何も持っていなかった左手に、いつのまにか長い蛍光灯を持っている。それをコンクリート壁に叩きつけて割った。

「僕は魔法使いなんだ。特別な力があるんだ。でも、約束は守る。彩花ちゃんを少し刺すだけで、ちゃんと救急車も呼ばせてあげるし、ほら」

 少年は救急箱を何もなかった空中から取り出して足元に置いた。

「包帯もする。だから、できたら僕のことは警察に言わないでほしい。どうせ、凶器は見つからないけど面倒だからさ。頼むよ、ここで殺されるより、マシだろ? それにさ、転んでガラスで切ったと思えば諦めもつくしさ」

「あたしが、その蛍光灯で刺されて、しばらく苦しむのをチマに見せればいいってこと?」

「そう、そうだよ」

「どこを刺すの?」

「お腹がいいな。顔はイヤだろ? おヘソの下なら、傷痕が残っても見えないしさ」

「お腹なんて刺したら死ぬよ?」

「死なないくらい浅くする。ほんの2センチくらいで、いっぱい血はでるけど、大丈夫さ。ごめんよ。ムチャクチャな頼みだけど頼むよ。運が悪かったと思ってさ。僕も、悪いとは思ってるんだけど、どうしても見たいんだ。大丈夫、他には何もしない。エッチなことしたりしないから、うまく刺せるように服を脱いで」

「サディスト……ううん、ヘマトフィリアね」

 諦めたように彩乃は由未の前に出る。

「由未、少し離れて。目を閉じて耳を塞いでいて」

「彩ちゃん?! そんなっ! それなら私が!」

「ご指名は、あたしみたいよ。ね?」

「そうだよ。彩花ちゃんじゃなきゃダメだ」

「大丈夫、心配しないで。目を閉じて耳を塞いでいて」

 彩乃は少年を見上げると、さらに土手の上を見て安堵の顔になる。

「あ、パトカー! お巡りさん♪」

「くッ!!」

 少年が振り返った瞬間、彩乃の両手にグロックが握られる。

 そして、銃声が連続して響く。両手の二丁で14発撃って命中弾が5発、胸、右腕、頭、胸、腹の順番で撃たれた少年はエキセントリックなダンスを踊ってから倒れる。彩乃は連射の反動で右手首を痛めてグロックを落とした。

「痛ぅっ…」

 痛む手で急いでグロックを拾って、ポケットに片付ける。土手には誰もいなかったが、銃声は響いたはずで、誰がいつ見に来るともわからない。

「由未っ! 逃げるよっ!!」

 座り込んでいた由未を立たせて走る。土手へあがり、さらに現場を離れる。15分くらい走って公園に入った。

「ハァ…ハァ…ハァ…」

「…ハァ…ハァ……」

「ハァ…ふーっ…ハァ…なんとか、…ふぅ…」

「……ハァ……、私……なにが……なんだか……」

「ケガはない?」

「…ハァ……ハァ……私、…パニックに……なりそう……」

 蒼白な顔をした由未が汗を流しながら震えている。

「由未……」

 彩乃は由未の胸へ手をあてる。鼓動が激しくて数え切れない。

「由未、あたしの言うことを、よく聞いて。いい? よく聞くの」

「……ハァ……ハァ……彩……ちゃん…」

「まずは落ちつこうね。気持ちを、落ちつけよう」

「……」

 由未は胸にあてられた手へ両手を重ねた。

「そう。じゃあ、落ちつくために簡単な質問」

「…訊きたいことは、…私の方が…」

「ううん、まず落ちつこう」

 由未の胸へあてた二人の手に、由未の涙と汗が滴ってくる。火薬のせいで少し焦げたような匂いがする。花火や炭火、焼却炉の匂いとは違う、硝煙の残り香は、しいて似た匂いといえば、かんしゃく玉を思い出させる鼻の奥が石臭くなるような刺激臭だった。

「とても、簡単な質問。由未、今日は何曜日?」

「…ハァ……ハァ……火曜日……それが、関係あるの?」

「落ちつくための関係のない質問。今日の日付は?」

「……六月……二十四日…」

「うん。そう、その調子。今年は何年?」

「200……8年」

「じゃあ、2008から7を引くと?」

「……2001」

「さらに、7を引くと?」

「…199……4」

「もう一度、7を引くと?」

「198……7」

「次は?」

「1980」

「次は?」

「…1973」

「次は?」

「……19…66」

「冷たいお茶でも、飲もう。どうぞ♪」

 彩乃がペットボトルに入ったウーロン茶を持たせてくれる。由未は一息に半分まで飲み干した。意味のない計算をさせられた由未の脳が少し理性的になり、感情が薄れて心臓が拍動を鎮めはじめた。

「ハァ……ハァ……」

「はい」

 彩乃がキレイなハンカチを渡してくれる。お茶と涙で濡れた口元と、額の汗を拭いた。

「ありがとう。……、このお茶……どこから?」

「1966から7を引くと?」

「……19…59」

「次は?」

 問いかけた後、彩乃はグラスに入ったトロピカルジュースを複雑な形をしたストローから吸った。

「ジュ、ジュースまで?!」

「手品よ、手品。気分転換になるでしょ?」

「でも、…でも、そんなジュース、……氷まで入ってる、いったい、どうやって? どこから? そうよ、さっきの男だって! 何もないところから蛍光灯だとか、包丁だとか!」

「あいつは悪い魔法使い、あたしは、いい魔法使い。って説明は、どう?」

「魔法なの?! 手品じゃないの?!」

「魔法でも、手品でもないよ。でも、こうやって、ほら♪」

 彩乃の手に花が現れる。

 さくら、たんぽぽ、コスモス、紅葉、銀杏、月下美人、朝顔。

 右手から現れ、左手に渡ると消える。最後に、大きな向日葵を持ったとき、右手首の痛みのために顔をしかめた。

「痛っ…」

「手…大丈夫?」

「平気。ちょっと捻っただけ」

「……花……銀杏とかも……全部、季節を無視してるわ」

「朝顔は今からが盛り」

「でも、この時間に、あんなにキレイには……」

 もう周囲は暗い。公園の電灯で、お互いの顔がわかるけれど、すっかり夜だった。

「いったい、何なの? どうなってるの?」

「ゆっくり説明するね。だから、落ちついて聞いて」

「……うん…」

「あたしは世界の外にポケットを持てるの」

「……世界の……外に?」

「そう。そして、さっきのチマも同じ能力があったみたい。でも、チマはそれを悪用してた。だから、退治された」

「……あの鉄砲、あれは魔法の銃なの?」

「ううん、これは普通の銃♪」

 彩乃の左手がグロックを握っている。強烈な火薬の匂いがして、しかも熱が伝わってくる。撃ったばかりの熱さに思えた。

「どこから、こんな物……」

「ベルギーだったかな……オーストリア製だったかな……グロックっていうらしいよ。あたしの仲間……仲間かなぁ…。……う~ん、まあ、仲間みたいな知り合いから買ったの。身を守るために」

「……過剰防衛よ」

「でも、さっきみたいなヤツにスタンガンじゃ心もとないでしょ?」

「……。魔法でやっつけられないの?」

「たぶん、無理。魔法じゃないし、そろそろ魔法は忘れて。少なくとも、あたしのはポケットみたいに入れて出すだけ。それも、あらかじめ入れてたものしか、出せない。これは当然かな?」

 彩乃の手からグロックが消えた。

「……もう一度、ゆっくり見せてちょうだい」

「は~い♪」

 今度は手さばきの速度を落としてくれる。低速になると、まるで引き出しから拳銃を取り出すように、銃の全体が一瞬で現れるのではなく、一端から全体へ、そして最後に銃口というタイムラグがあって実体化していく。

「いったい、どういう仕組みなの?」

「よくわからないけど、リリィは、…あ、リリィっていうのは、この銃を売ってくれた人ね。で、このポケット能力は宇宙の外に手を伸ばせる、そんな感じなんだって」

「……どうやって、そんなこと。……穴でも見えるの?」

「見えるんじゃなくて、照らすって感じらしいけど、どう違うのか、あたしには実感がないよ。空を照らすから、照空。意味わかんないねぇ。ただ、世界と自分の違和感が拡大したとき、できるらしいよ。あたしも、そうだったから」

「……世界と自分の……違和感…?」

「世界と自分って、しっくり合ってる? ぴったりしてる? まとも? なんだか世界と自分に隙間がある気がする。しっくりこない、合わない、なんか隙間を感じる。その隙間に手を入れられる。そこに何かを入れることも、取り出すこともできる、みたいな」

「説明になってるの?」

「なってないかも。……う~ん……由未はさ。あたしって、どうして、あたしなの? あたしって、どうして、こうなのかな、って考えると手がピリピリしたことない?」

「……痛くなるの?」

「痛いっていうか、違和感。しっくりしない。自分の手を見てみて」

「……」

 言われたとおりに由未は手を見つめる。まだ少し指が震えていた。

「手ってね。どうして自分の意志で動かせるの?」

「……脳から神経伝達があって、電気刺激で筋肉が動くからよ」

「そう。でも、なんか、不思議だよね。思うだけで、ちゃんと動くなんてさ。でも逆に、なんだか自分とは別のものなんじゃないかって違和感があるとき、ない? とくに頭痛とか、風邪なんかのとき」

「それは単なる体調不良でしょう?」

「でも、自分の手が、自分の手じゃない気がしたこと、まったくない? 一度も?」

「……なくも……ないかもしれないけれど……真剣に考えたことなんてないわ」

「あたしも真剣に考えたわけじゃなくて、ある日、とくに何もなく急に、世界の外へ手を入れられるようになったの」

「……」

「他に質問は?」

「……。さっきの男……どうなったの?」

「あんまり気にしない方がいいよ。死んで当然のヤツだし、……たぶん、死んでると思うよ。10発は当たったと思うから」

「あんなに……撃たなくても……。脚を撃つとか……。殺したことを責めてるわけじゃないのよ。でも……」

「あたしノーコンだから、もしかしたら、5発くらいしか当たってないかも、しれないくらい」

「そう……そういえば、半分も当たっていなかったかも……」

「ま、下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、ってね」

「……彩ちゃんの手、腫れてきてる。湿布した方がいいわ」

「あいにくと湿布の持ち合わせはないの。そろそろ帰ろ。駅まで送るね」

「……」

 促されて由未は不安な顔になり、彩乃の袖を握った。

「……まだ、怖い?」

「……」

 否定も肯定もせず、目を伏せた。

「じゃあ、あたしの部屋に来る? さっきのシチューとパン、ちゃんとポケットに入ってるし♪ いっしょに食べよ」

「うんっ」

 いい返事だった。

 部屋に戻って、二人で夕食を摂ると、気持ちが落ちついた。

「こんな時でも、お腹は空くのね……」

「あ、一つ。由未に言っておきたいんだけど」

「なにかしら?」

「さっき、バカケンのこと。この男まで使って意地悪してって言ったでしょ?」

「……ええ」

 興奮して叫んだことを体裁が悪そうに思い出した。

「あれは誤解だから」

「そう……なの?」

「勝手にバカケンが来て、勝手に食い下がられてね。ちょっと困ってたところだったから、ある意味で助かったよ」

「そう、それなら、よかったわ」

 由未のケータイがポケットの中で震動している。これで3度目だったが、由未は無視しようとしている。雑音の少ない室内なので、彩乃もバイブレーションの音に気づいている。

「由未。お家の人からじゃないの?」

「そうかもしれないわね。……最近、なにかと、うるさいのよ」

「出ないの?」

「……。ええ」

「……泊まっていく? ここに」

「いいの?」

「いいよ。でも、お家の人には連絡しないとね。さっきからパトカーも走り回ってるし、心配してるんだよ。きっと」

「でも、何て言えばいいか…」

「通り魔とおぼしき少年を銃殺した何者かが、拳銃を持ったまま逃走してるって聞いて、このまま友達の家に泊まる方が安全って思うから、ってのは、どう?」

「……。それ、あなたのことよ」

「まあねン♪」

 一瞬だけ彩乃は拳銃をチラリと見せた。

「で、どうする?」

「そうするわ」

 由未が母親と通話している間に、彩乃は風呂の用意をした。

「お先にどうぞ。寝るところは、由未がベッドで、あたしはソファでいいよ」

「悪いわ」

「由未の身長だとソファから足がでる」

「……。でも、……このベッド、ダブルベッドでしょう?」

「うん、狭いのイヤだから」

「二人でも使えそうよ」

「狭いのイヤ」

「ソファより広いわ」

「強引ねぇ……ま、いいけど。とりあえず、お風呂、入っちゃって」

 バスタオルを渡して由未を脱衣所へ案内した後、彩乃はダンボール箱から冷湿布を探して右手首に貼った。熱と痛みがスーッと軽減していく。

「今度から応急セットも無限ポケットに入れとこ」

 開封した湿布袋が消えた。

「ふ~っ……」

 ベッドに寝転がる。

「……」

 目を閉じると、初めて人間を殺した光景が浮かんできた。お腹が重苦しくなって、背中に生温かい汗が湧いてくる。

「考えない、考えない。2008、2001、1994…」

 強く意図してイヤな感情を忘れると、今度は眠気が襲ってきた。

「…ぅ~……19……なんだっけ……6? 6でいいや。今日は色々ありすぎて……。あ、由未に着替えを……」

 起きなければと思ったのに、睡魔に負けてしまった。彩乃の眠りが深くなってしまった頃に由未がバスタオルを身体に巻いた姿で脱衣所から出てきた。

「着替えを貸してもらえると……、寝ちゃったの」

 心地よさそうな寝息を立てている。起こして着替えを用意してもらう気にはなれない。

「どこかに……」

 いまだ荷物は整理されず、ダンボール箱がタンスや棚の代わりをしている。一つ一つ開けて衣服を探すという作業をしてもいいものか、迷ってしまい。はじめて、この部屋に来たとき、勝手に封筒を見ていて怒られたことを思い出した。

「……」

 冷房を弱めれば、このまま眠っても風邪を引く季節でもない。着替えを探すのは諦めてベッドに座った。

「……寝顔は天使みたい……ときどき…悪魔になるのに……」

 人を困らせたり、意味もなくウソをついて楽しむ癖が憎い。

「……古河……彩乃……彩ちゃん…」

 平気でウソを紡ぐ唇へ、引きよせられるようにキスをしようとした。

「……」

 やっぱり、眠っている相手の唇を奪うことに抵抗を覚えて、頬へ口づけした。

「今日は守ってくれて、ありがとう」

 礼を言って、起こさないように、そっと彩乃のスカートのフォックを外し、チャックをおろして、ブラウスのボタンも外した。背中に手を回して、静かにブラジャーの止め金も外して楽に眠れるようにすると、となりに寝転がる。

「……」

 もう一度、寝顔を見つめた。

「……」

「……」

「……やっぱり、寝顔は天使ね」

「……」

 彩乃が寝返りを打って背中を向けた。その背中を見つめているうちに、由未も睡魔に囚われて眠った。

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